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小説

坂上組
(一)

(昨日はひどい雨だった)
 藤野は朝やんだ雨が作ったぬかるみを下駄で走っていた。早くいかないと、奇蘇太郎と吉田が先に坂上組へ行ってしまう。
 もとより、彼には坂上組に特にこれといった遺恨もないのだ。
 坂上組が竹芝宗平のかつて世話になった人の娘にちょっかいを出している、という近在の噂は、もちろん知っていた。多少の忸怩たる思いも、あるにはあった。
 しかし、それが何の根拠もないものだということも、昨日、竹芝宗平の次男奇蘇太郎から聞いて得心がいっている。
 確かに彼は坂上組へ行かねばならない訳があった。
 しかしその理由というのも、自分と同じ竹芝門下である吉田忠志が、坂上組の組長である坂上三蔵に乱暴を働いた現場にたまたま居合わせたから、というにすぎない。
 これから乗り込んでいくにしては、今ひとつ心が奮えない。
 しかも相手は、竹芝道場が大挙して殴り込みにやってくるということで、近隣のやくざに声をかけているらしい。
(いざとなれば、ひと暴れも、ふた暴れもしないといけないかもしれん)
 しかし藤野の心は何とはなしに重い。
 もちろん、怖いわけではない。藤野の腕前は道場でも群を抜いていたし、合気柔術の技をもってすれば、やくざが何人いても─たとえ武器を持っていようとも─それで怯むものではない。
 加えて、戦争の時味わった不思議な体験から、彼独自の勝負に対する考えもあった。
 それは突撃の時に上官が言う、
「腹に力をいれろ」
 という本当の意味を知ったことである。
 単に腹に力をいれても怖いものは怖い。しかし、肩の力を抜いて、腹に重みがあると考えた途端に、逆に体が軽くなったのである。
 藤野はこの体験から、力を抜いて下腹に重みがあると思いさえすれば、生死の境となるような時も不思議に恐怖を感じなくなっていたのである。

─しかし
(やはり気が進まぬ)
 走りながら呟くうちに、竹芝道場に着いた。すでに古参の門弟と並んで奇蘇太郎と吉田が立っていた。
「さあ、行きましょう」
 藤野を見つけると、奇蘇太郎がいつものように冷静な、少し甲高い声で言った。

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