小説
竹芝道場
(一)
合気柔術竹芝道場は茨城県岩間村のはずれにあった。もともと竹芝家は東京にあったが、戦時の疎開により、この地に移ったのである。
そこには臨時で建てられた、平屋で二十畳足らずの畳敷きの道場と、大先生である合気柔術開祖の竹芝宗平夫妻と、内弟子たちの起居する部屋があった。
L字型の平屋の奥には小さな田畑があって、大根や葱などの野菜が植わっていた。今は大根の葉の独特の芳香が田畑から辺りにあふれ、他にもいくつかの野菜の匂いが辺りに漂っている。この畑を宗平は「合気苑」と呼んで、常々から、
(人を相手にするのも、土地を相手にするのも同じ呼吸じゃ。呼吸が一番大切なんじゃ)
と言っていた。
宗平にとっては、畑を耕すことも、合気柔術の修行も同じと見える。
藤野は、夕暮れで烏が鳴き始めるころ、合気苑についた。農園にはすでに誰もいないだろう、と思って周囲を見渡すと、一人の背の高い男が鍬を振るっていた。
(ああ、若先生が来てらしたのか)
ほっとため息をつくと、藤野はやや足をゆるめて男に近づいていった。
──竹芝奇蘇太郎
奇蘇太郎は竹芝宗平の次男である。細身で背が高く、丸眼鏡をかけている。耳が大きくて頭の鉢もやや開き気味である。要するに、どこから見ても強そうには見えない。ただ、見た目こそ少し貧相だが、手を合わせて稽古した者は、極限まで鍛え抜かれて鋼のような奇蘇太郎の身体を知っている。
奇蘇太郎は東京に居を構えているが、週末に東京から電車でやってきて、父母とともに合気苑を耕していた。宗平の長男は、南方で戦死していたので、たった一人の跡取りであった。
彼は早稲田大学を出て、今は就職浪人であった。
(なまじ就職などしたら、合気柔術の稽古が満足にできない)
どうやら二代目は、誰よりも合気柔術が好きらしい。
奇蘇太郎は汗を拭うと、近づいてくる藤野に言った。
「どうしました、藤野さん」
「いや、どうもこうもありませんよ。ついさっき、吉田の奴が、坂上組長にさんざんからんだ挙句、近くの肥溜めに突き落としてしまったんですよ」
「な、なんですって」
驚きのあまり、奇蘇太郎は鍬を落としそうになった。
「坂上さんは、父が特に頼んで、山辺中将の娘さんの面倒を見てもらっているというのに……吉田君は知らなかったんでしょうか」
「多分、知らないでしょう。あいつが戦地から戻ったのは先月のことですし、この道場に来たのもまだ三回ほどですから」
「うーん、困りましたね」
藤野は川での坂上三蔵の様子などを話し、
「あの様子では、組長は何か報復でもしようと考えているんじゃないでしょうか。大先生にご報告した方がよろしいのでは?」
しばらく考えていた奇蘇太郎は、
「いえ、とりあえず吉田君から、事情を聞いてみましょう。父に話すのはその後、ということで」
といいながら、丸い眼鏡をはずして軽いため息をついた。
そこには臨時で建てられた、平屋で二十畳足らずの畳敷きの道場と、大先生である合気柔術開祖の竹芝宗平夫妻と、内弟子たちの起居する部屋があった。
L字型の平屋の奥には小さな田畑があって、大根や葱などの野菜が植わっていた。今は大根の葉の独特の芳香が田畑から辺りにあふれ、他にもいくつかの野菜の匂いが辺りに漂っている。この畑を宗平は「合気苑」と呼んで、常々から、
(人を相手にするのも、土地を相手にするのも同じ呼吸じゃ。呼吸が一番大切なんじゃ)
と言っていた。
宗平にとっては、畑を耕すことも、合気柔術の修行も同じと見える。
藤野は、夕暮れで烏が鳴き始めるころ、合気苑についた。農園にはすでに誰もいないだろう、と思って周囲を見渡すと、一人の背の高い男が鍬を振るっていた。
(ああ、若先生が来てらしたのか)
ほっとため息をつくと、藤野はやや足をゆるめて男に近づいていった。
──竹芝奇蘇太郎
奇蘇太郎は竹芝宗平の次男である。細身で背が高く、丸眼鏡をかけている。耳が大きくて頭の鉢もやや開き気味である。要するに、どこから見ても強そうには見えない。ただ、見た目こそ少し貧相だが、手を合わせて稽古した者は、極限まで鍛え抜かれて鋼のような奇蘇太郎の身体を知っている。
奇蘇太郎は東京に居を構えているが、週末に東京から電車でやってきて、父母とともに合気苑を耕していた。宗平の長男は、南方で戦死していたので、たった一人の跡取りであった。
彼は早稲田大学を出て、今は就職浪人であった。
(なまじ就職などしたら、合気柔術の稽古が満足にできない)
どうやら二代目は、誰よりも合気柔術が好きらしい。
奇蘇太郎は汗を拭うと、近づいてくる藤野に言った。
「どうしました、藤野さん」
「いや、どうもこうもありませんよ。ついさっき、吉田の奴が、坂上組長にさんざんからんだ挙句、近くの肥溜めに突き落としてしまったんですよ」
「な、なんですって」
驚きのあまり、奇蘇太郎は鍬を落としそうになった。
「坂上さんは、父が特に頼んで、山辺中将の娘さんの面倒を見てもらっているというのに……吉田君は知らなかったんでしょうか」
「多分、知らないでしょう。あいつが戦地から戻ったのは先月のことですし、この道場に来たのもまだ三回ほどですから」
「うーん、困りましたね」
藤野は川での坂上三蔵の様子などを話し、
「あの様子では、組長は何か報復でもしようと考えているんじゃないでしょうか。大先生にご報告した方がよろしいのでは?」
しばらく考えていた奇蘇太郎は、
「いえ、とりあえず吉田君から、事情を聞いてみましょう。父に話すのはその後、ということで」
といいながら、丸い眼鏡をはずして軽いため息をついた。