小説
竹芝道場
(三)
道場には四つほどの窓があり、そこから灯り、といっても電力制限で今は百匁蝋燭の灯りが漏れている。
藤野と奇蘇太郎が入り口の引き戸を開けると、吉田忠志が、ついさっきの武勇伝を、内弟子である石川に向かって話していた。話す顔がやや紅潮している。
藤野と奇蘇太郎は道場の入り口で靴を脱ぐと顔を見合わせた。
(困った奴だ。反省も何もない)
藤野は奇蘇太郎に向かって肩をすくめた。
奇蘇太郎も少し困った顔をして小さく首を振ったが、その口元は微笑んでいる。
もとより吉田に初めて稽古をつけたのは奇蘇太郎なのである。今から五年前、東京の若松町にあった、公武館という合気柔術の総本部道場に、吉田はやってきた。
年下のくせに妙に負けん気ばかり強い、そして、思ったことはすぐにでも出してしまわねば収まらない吉田の性格が、奇蘇太郎には自分にないものを持っているようで、何とも羨ましく、憎めないのである。
(しかし、そうも言ってられないか)
奇蘇太郎は威儀を正し、よく通る声で、
「吉田君、ちょっと──」
「あ、若先生、お帰りなさい」
先に石川が気づいて、慌てて正座になり、頭を下げた。吉田も二人に気づくと、正座した。
「いや、石川君はそのままに居てください。吉田君、話がしたいんだが」
「何ですか、改まって……あ、藤野先輩もご一緒ですか。参ったな。若先生は今日の話を聞いて、僕に説教をしに来られたんですか」
「はい。説教というほどではありませんが、坂上さんを懲らしめたという、藤野さんから聞いた話は本当なんですか?」
「ええ、まあ藤野先輩が何を話したかわかりませんが、今日という今日は、坂上三蔵を嫌というほど、懲らしめてやりましたよ」
大きく息を鼻から吐くと、吉田は胸をそらした。自分こそ竹芝道場の汚名を雪いだ英雄だとでも言いたげな様子である。
「だって、先輩方を始め、誰も坂上に逆らえないようですからね」
ちらと、藤野を見ながら、
「普段、合気柔術が最高の武道だと、大先生は私におっしゃっています。私もそう思います。思うからこそ、大先生や道場に対する悪口雑言は、断じて許しておけません」
「まま、膝を崩して話しましょう。さあ、藤野さんも座ってください。どれ、私も」
と言って、奇蘇太郎は、その場に座り、あぐらをかいた。
五人は自然と円座になっていた。
「吉田君の気持ちは、よくわかりました」
「合気柔術の面目は吉田君、まさしくあなたによって保たれましたね。重畳です」
(えっ)
藤野は驚いたように奇蘇太郎の顔を見た。
てっきり、吉田にきついお叱りがある、と思っていた藤野は、腰を半分浮かして、何か言おうとした。
「吉田君、藤野さん、そして、みなさん、よく聞いてください」
その場にいた、古参の門人二人、藤野幸一、吉田忠志の四人は思わず坐りなおして奇蘇太郎を凝視した。
初冬の夜風が窓から入り込み、道場をのったりと冷やしていく。藤野は、ぶるっと体を振るわせた。
「私も、竹芝道場に対して、農民たちが根拠ない噂をしているのを知っています。私も、父の名誉に関する噂を、耳にしました。皆さんもきっと聞いたことはあるでしょう」
「……はい」
「しかし、林田さんと藤野さんは、すでに知っていると思います。坂上三蔵という方は、父がかつて満州へ行ったとき、ハルピンの会津小鉄さんのご紹介で、義兄弟の約束までした人なんです」
吉田の顔が、見る見るうちに青ざめてきた。
(こ、こりゃあ、大変な事をしてしまったようだぞ)
どうやら、先ほど石川から聞いた話は本当らしい。
藤野と奇蘇太郎が入り口の引き戸を開けると、吉田忠志が、ついさっきの武勇伝を、内弟子である石川に向かって話していた。話す顔がやや紅潮している。
藤野と奇蘇太郎は道場の入り口で靴を脱ぐと顔を見合わせた。
(困った奴だ。反省も何もない)
藤野は奇蘇太郎に向かって肩をすくめた。
奇蘇太郎も少し困った顔をして小さく首を振ったが、その口元は微笑んでいる。
もとより吉田に初めて稽古をつけたのは奇蘇太郎なのである。今から五年前、東京の若松町にあった、公武館という合気柔術の総本部道場に、吉田はやってきた。
年下のくせに妙に負けん気ばかり強い、そして、思ったことはすぐにでも出してしまわねば収まらない吉田の性格が、奇蘇太郎には自分にないものを持っているようで、何とも羨ましく、憎めないのである。
(しかし、そうも言ってられないか)
奇蘇太郎は威儀を正し、よく通る声で、
「吉田君、ちょっと──」
「あ、若先生、お帰りなさい」
先に石川が気づいて、慌てて正座になり、頭を下げた。吉田も二人に気づくと、正座した。
「いや、石川君はそのままに居てください。吉田君、話がしたいんだが」
「何ですか、改まって……あ、藤野先輩もご一緒ですか。参ったな。若先生は今日の話を聞いて、僕に説教をしに来られたんですか」
「はい。説教というほどではありませんが、坂上さんを懲らしめたという、藤野さんから聞いた話は本当なんですか?」
「ええ、まあ藤野先輩が何を話したかわかりませんが、今日という今日は、坂上三蔵を嫌というほど、懲らしめてやりましたよ」
大きく息を鼻から吐くと、吉田は胸をそらした。自分こそ竹芝道場の汚名を雪いだ英雄だとでも言いたげな様子である。
「だって、先輩方を始め、誰も坂上に逆らえないようですからね」
ちらと、藤野を見ながら、
「普段、合気柔術が最高の武道だと、大先生は私におっしゃっています。私もそう思います。思うからこそ、大先生や道場に対する悪口雑言は、断じて許しておけません」
「まま、膝を崩して話しましょう。さあ、藤野さんも座ってください。どれ、私も」
と言って、奇蘇太郎は、その場に座り、あぐらをかいた。
五人は自然と円座になっていた。
「吉田君の気持ちは、よくわかりました」
「合気柔術の面目は吉田君、まさしくあなたによって保たれましたね。重畳です」
(えっ)
藤野は驚いたように奇蘇太郎の顔を見た。
てっきり、吉田にきついお叱りがある、と思っていた藤野は、腰を半分浮かして、何か言おうとした。
「吉田君、藤野さん、そして、みなさん、よく聞いてください」
その場にいた、古参の門人二人、藤野幸一、吉田忠志の四人は思わず坐りなおして奇蘇太郎を凝視した。
初冬の夜風が窓から入り込み、道場をのったりと冷やしていく。藤野は、ぶるっと体を振るわせた。
「私も、竹芝道場に対して、農民たちが根拠ない噂をしているのを知っています。私も、父の名誉に関する噂を、耳にしました。皆さんもきっと聞いたことはあるでしょう」
「……はい」
「しかし、林田さんと藤野さんは、すでに知っていると思います。坂上三蔵という方は、父がかつて満州へ行ったとき、ハルピンの会津小鉄さんのご紹介で、義兄弟の約束までした人なんです」
吉田の顔が、見る見るうちに青ざめてきた。
(こ、こりゃあ、大変な事をしてしまったようだぞ)
どうやら、先ほど石川から聞いた話は本当らしい。