短編小説
-絆-
白く無機質な部屋に、香織は眠っていた。
病院特有のアルコール臭さが鼻腔の奥にこびりつき、憂鬱な気分を加速させる。昼頃から降り始めた雪は、窓の外を見渡す限りの白で覆っていた。俺は備え付けの椅子からそっと立ち上がると、乱れていた香織の布団を直した。その時、香織がほんのちょっとだけ笑っているように見えて、目頭が熱くなった。
眠っている彼女を見つめる。すでに日課となったこの習慣は、香織が入院するたびにおこなわれる偽者の儀式。胸を締め付けるような愛しさと、言葉に出来ないほどの不安。その両者を行き来しているうちに時の感覚は無くなり、ただ彼女の息遣いと規則正しい点滴の音だけが俺の感覚を支配する。
香織は幼いころから病弱だった。
いつも入退院を繰り返し、家族と一緒にいる時間はほとんどなかった。
そんな彼女の夢は、少しでも長く学校に通うこと。
そんな当たり前のことを、さも大それたことのように香織は語る。俺はそれを聞くたびにせり上がる塊を押さえることに苦労する。その残滓が肩を震わせたけれど俺は彼女の前では我慢しきることを選んだ。
夜の底が白くなっていき、街は黒と白のコントラストに覆われていた。両極端の色合いは決して交わることはないけれど、お互いに気遣うように調和している。
不意にそこから落ちる一粒の結晶が目にとまった。穏やかな風に吹かれ、仲間達と楽しげにダンスを踊っている。そして窓にたどりつくと名残惜しげに消えていった。
(雪……降ったよ……)
あんなに待ち望んだ雪がやっと降ったというのに、彼女は眠ったままだ。まるでそこだけ時間が止まっているように、ただ静かに過ぎていく。
俺は取り留めのないことを考えながら、寝ている彼女の髪をそっと撫でた。
香織はいつも家にいなかった。
幼いころの俺は、香織が妹という事すら認めていなかったように思う。その当時の俺にとって、彼女は突然あらわれては、両親をとってしまう邪魔な存在でしかなかった。彼女が来るまでは両親は俺だけのもので、小さな世界だったけれど思うように振舞えた。しかし、香織の出現で全てが変わった。両親は彼女にかかりきりになり、俺を見なくなった。休日は一人家に残されることが多くなり、そういう時には決まって両親は香織を抱いて出かけていたのだ。正直、大好きだった父さんや、優しい母さんを取られた気がした。幼かった俺にとって、それは許せない仕打ちだった。
だが、それには理由があったのだ。
香織は腎臓に先天的な疾患があり、生き長らえていくには定期的な通院が必要とされていたのだ。この疾患により血液を浄化する作用が常人に比べ極端に低いため、透析によって体に不要な老廃物や水分を取り除いてやる必要があった。一回の透析にだいたい5時間以上かかることがあり、小さいころの香織は家にいる時間より病院にいる方が長かった。そんな彼女に両親が注意を向けるのは当然かもしれなかった。
だけど、幼すぎた俺はそんな事情はどうでもよかった。香織は俺にとって両親を奪う敵であり、安住の地を脅かす邪魔なものでしかなかった。だから俺は香織と会うと必ずからかったり、いじめたりしていた。時には自分でもやりすぎたかも知れないと思うこともあった。それでも香織は俺が何をしても、つらそうな顔をせず俺の後をついてきた。どんなことをされようとも香織がいつも浮かべている笑顔は少しもかげることはなかった。
香織は病気のためいつも周りを大人に囲まれていたため、同年代の子供と接する機会は少なかった。だからなおさら子供同士の輪に入ろうとして必死だったのかもしれない。それなのに当時の俺は調子に乗りすぎていた。幼さが生んだ残酷なまでの仕打ち。俺の中では香織はいじめてもよい存在だと認識していた。
しかし、そんな俺にも転機は訪れる。
十数年前のある日。俺と香織の距離が変わった日。きっかけを与えてくれたのは親父だった。
その日はちょうど家には俺と香織しかいなかった。香織はいつものように人形遊びをしていて、その横で俺はテレビを見ていた。休日の昼間は退屈な番組しかやっておらず、当時俺が好きだったヒーローものも終わってしまった後だった。何をしようかと思い悩んでいるときに、ちょうど香織が目に入った。人形を相手におままごとをしている。暇だった俺はからかってやろうと立ち上がり香織の人形を奪い取った。香織はすぐに奪い返そうとしてきたが身長で俺に敵うはずはなく、香織の手はむなしく宙をきるだけであった。普通は怒っても当然な状況だった。だけど、それなのにもかかわらず香織は口元に笑みを浮かべていた。まるでかまってもらったのが嬉しいと言わんばかりに。俺はそのことにひどく苛立った。訳のわからない不快感がこみ上げてきて、香織を力任せに突き飛ばした。香織はびっくりしたような顔をしたけれど、俺の方を見つめると力が抜けたような悲しい笑みを浮かべた。俺はそれにさらに苛立ち、持っていた人形を香織に投げつけようとした。そんな時、俺の後ろでドアが開く音がした。
俺は恐る恐る後ろを向く。足元には黒い大きな影があった。だんだん視線を上げていくと親父の張り詰めた顔があった。
何か言い訳しようと考えた。でも、口を開き始める前に親父はそんな俺を思いっきり殴った。まだ小学生にあがるくらいの年だったため、簡単に俺の体は壁にたたきつけられた。最初は殴られたショックだけだった。だが、後から痛みが熱をおびて体に広まっていき、ぶるぶると体が震え悪寒が体を襲った。涙が溢れてきて止まらなかった。しかし、そんな俺を見下ろして、親父は言った。
「おまえが守ってやるんだ。だれでもないお前こそが、一番あの子を大切にしてやるんだ」
親父に諭された時、正直どうでもいいと思った。むしろ腹いせにもっといじめてやろうかと考えたりもした。だが、殴られる原因となった本人が泣きそうになりながら、近寄ってきた。俺はふてくされて香織の方を見ようとしなかった。痛みとショックのため自然と出てくる涙を、彼女に見られるのは気恥ずかしかった。しかし、香織はいつまでも動こうとせず俺のそばで立ち尽くしていた。いらだちげに振り返ると彼女は泣いていた。俺が何をしても泣かなかったのに、ぬれたタオルを手に持ち顔をくしゃくしゃにしながらただ泣いていた。
「ごめんなさい……」
泣きながら、それでもはれあがった頬を冷やそうとしてくる香織を見て、俺の中にあったしこりのようなものが溶けていった。かわりに何か暖かいものが生まれてくることがわかった。香織の初めての泣き顔を見ながら、俺の心はどこか澄んでいた。殴られた頬は焼けるほど痛かったが、それでもどこか心が沸き立つ気がした。
そのことがきっかけで俺たちの距離は少しずつだが縮まり始めた。俺は見知らぬ他人ではなく家族としての妹という存在を受け入れ、香織も兄として俺を受け入れた。
学校に通い始めるようになると、俺たちの生活はしだいに落ち着いていった。退屈な日常生活。しかし、それは俺だけのこと。香織は腎臓の透析のために、いやでも定期的に病院に通わなくてはならなかった。そのため一年の半分近くも学校に通うことができなかった。だから学校に行くたびに目立ってしまい、いじめの標的になってしまった。他にも原因がある。香織は腎臓をわずらっているため肌に黄疸ができるのだ。黄疸とは腎臓の機能障害のために起こる症状のひとつで、浄化されなかった老廃物が肌の表面に現れ、まるで黄色いシミのように見える。それをクラスの子に見つけられ、気持ち悪がられてはいじめられていた。香織はそのことを酷く気にして、黄疸が出ると学校に行かなくなった。俺はそのことを知るとすぐにいじめていた奴らの所に行き、二度とそんな気が起きないよう体に教えてやった。後で、その子供の親から苦情がきたそうだけど、そんなことはどうでもよかった。それに親父も、俺のことを叱らず、ただ「よくやったな…」と大きな手で頭をなでてくれた。そのときのくすぐったいような誇らしいような気持ちを今も覚えている。
それからというもの俺は香織を守り続けた。彼女を傷つけたり困らせたりするものから。しかし、そうした年月が俺に香織を女性として、強く意識させてしまうきっかけにもなってしまった。気がつけば彼女の後ろ姿を目で追っている自分がいる。いつも守ってきた人。抱きしめたいと思う人。自分以外の誰かに渡すなんて考えられない。俺の気持ちは日増しに強まっていった。なまじ血がつながっているだけに俺はこの思いを持て余してしまっていた。しかし、俺がこんな気持ちを抱いていることを知ったら香織はどう思うだろうか。悲しむだろうか、それともうれしいのだろうか。もしかしたら口もきいてくれなくなるかもしれない。頭の中をいつも同じ考えがぐるぐるとまわってしまい、どうしようもなく意識してしまう。そのため高校にあがるころには彼女の部屋には入れなくなった。
そして俺は、この気持ちを紛らわすために一人の女性と付き合うことにしてみた。特に知らない人だったけど、急に告白された。正直、チャンスだと思った。相手なんかどうでもいい。自分のこの気持ちを何とかしてけりをつけられるならそれだけでよかった。その時の俺にとって、それが理由の全てだった。
付き合うことに決めた後、俺は自分に対するけじめのつもりで彼女に報告した。香織は初め何をいっているのか理解できないようだったが、俺は最後まで言いきった。そして意味を飲み込むと泣きそうな表情になって、それを我慢するかのようにせつなげに笑った。まるで人形を取られたあの時のように。その笑顔から痛いほどわかった。俺達が同じ気持ちだということを。でも立ち止まることはできない。俺たちの間には血縁というこえられない壁がある。だからこそ俺は自分の気持ちに整理をつけることにした。それは、変えることのできない決定だった。
だけど、それは結局実現しなかった。
香織が倒れたのだ。俺の話の最中に、何の前ぶりもなく。
よく覚えてはいないが、そのとき俺はショックのあまり血相を変え何かを叫んでいたそうだ。それを仕事帰りの両親が発見して救急車を呼んだ。両親の素早い行動のおかげで大事には至らなかった。今も思い出す。俺の目の前で電池が切れたかのように倒れていく彼女。まるで悪夢が現実の世界に浸食して来たかのようだった。
それからというもの俺は毎日のように彼女の下へ通うことになる。
香織の命の灯火は後三ヶ月ものこっていないことが判明したからだ。
「なんで……なんだよ、どうしてっ!」
俺は苦しそうに言う医者にすがり付くのを我慢しきれなかった。もう見栄も何も無い。ただ、香織に助かってほしい。彼女の笑顔をこれからも見つづけていきたい。いなくなるなんて考えられない。世界が足元から崩壊していくようで何も考えられなくなかった。ただ涙が後から後から溢れてくる。
「香織さんの場合には、先天的に悪かった腎臓を透析することによって循環を良くしていました。しかし年々低下する腎臓の機能が尿毒症をひきおこしてしまい、そのことがきっかけでさまざまな合併症が発生して現在の症状に陥って……」
長々と続く医者の説明なんて頭に入ってこなかった。ついさっきまで手が届くところにあった命が消える。そんなことに耐えられるはずがない。俺は残酷な現実がそろりそろりと忍び足で近寄ってくるのを感じた。
「……申し訳ないですが最悪の事態だけは考えておいてください。私たちも手を尽くしますが……」
「なんとかならないんですか……。まだ……、何かできることがあるはずなんだ!!」
ひとり必死になる俺を囲んで、医者と両親は沈黙した。重苦しい空気が部屋に満ちようとした時、俺の頭に天啓にも似た考えがひらめいた。
「そうだ! 移植とかはどうなんです? たしか、腎臓は二つあるんですよね。俺のを、どうか移植してください」
両親は共にAB型だが、香織は俺と同じA型。だから問題なく移植できるはずだ。なにより兄弟だ。拒否反応も少ないはず。この考えは事態を根本的に解決するとても良い考えのように思われた。
しかし病室を相変わらずいやな雰囲気が支配する。両親は悲しそうな目をして、俺を見つめていた。
「ご両親とも相談した結果、死体腎移植を待っているというのが現在の状態なのです。ドナー登録してからかなりの時間がたつのですが、まだ順番が回ってこないんですよ」
「だから、俺のを使ってくれといってるだろうが!」
正気を失いそうなほど気持ちが昂ぶる。目の前が真っ赤になり、全てを破壊してやりたくなった。しかし、そんな俺に親父は渋い顔をしながら口を開いた。
「無理なんだ……」
俺は一瞬親父が何を言っているのかわからなかった。目の前にいる人物が、まるで知らない人のように思えた。
「な……何を言ってるんだ、親父? あんたが……あんたが、守ってやれって…そう言ったよな!! 俺にあんたが……! それを今になってどういうことなんだよ! 家族じゃなかったのかよ、俺達は! どんなことになろうが、そんなことかまいやしない。なんでもくれてやる。片手を差し出せと言われても、喜んで差し出すさ! 失う痛みを味わうぐらいなら自分自身を切りきざんだっていい! まだ助かる可能性があるなら、それに賭けたいんだ!」
おふくろが隣で絶句しているのがわかる。俺が親父にこんな口を利いたのは初めてだった。しかし親父はわずかに目をそらし
「無理なんだ…」
と同じことを繰り返すだけだった。
「なあこっち向けよ。自分で言ったじゃないか。守ってやれって。それなのに肝心な時に自分は逃げるのかよ。親父……答えてくれ! 親父!!」
俺は親父の襟を揺さぶりつづけた。唇を噛み切らんばかりにして堪えているのを見ても手加減できなかった。そして、俺の中の熱い塊が、出口を見つけようともがき、知らず右手を振り上げさせていた。
しかし、その手は結局、振り下ろされることはなかった。
「あの子はわたし達とは血がつながっていない……」
耐えかねたような苦しげな声が俺の耳に入ってきた。
ほんの一瞬、俺の中に空白が生まれる。
「だから、移植は無理だ。たとえお前と血液型が同じだろうとも、肉親以外では拒否反応がでる可能性が多くなる……」
「お……親父? いったい何を……?」
初めて聞く話だった。正直、信じられない話だった。香織と俺が兄弟じゃないって。そんなバカなことがあるはずがない。
「本当のことだ。あの子はわたしの親友の子でな。香織の……本当の母親は出産と同時に亡くなっている……。父親の方は香織と同じ症状で苦しんでいた。いや、当時は今ほど医学が発達してなかったから、状況はもっと悪かったかもしれない」
「・・・・・・・・・・・・」
「父親の方も合併症が発生して、どうしようもならないところまでいってしまった。そのさいに私は香織のことを託されたのだ。下手な施設に預けるより、信頼できる私に育ててほしいと言っていた……」
俺は驚愕に顔をゆがませた。そんなバカな。じゃあ、俺たちが過ごした時間はうそだって言うのか。
「どうして、今まで…」
当然の疑問だった。二十年以上生きてきて一度も聞いたことがなかった。
「私たちは家族だ。たとえ血がつながっていなくても、心の絆があることには変わらない。だが……いくら絆と言葉にしてもどうしようもない現実というものあるんだ。だから、お前に危険なことをさせることはできない。二人とも失う可能性があるのなら一人だけでもいいから生きていてほしい……。これは私のエゴだ。必ず失敗すると分かっていることをお前にやらせる訳にはいかない」
切々と語る親父を見て、そのことが紛れもない事実だとわかる。
でも……それでも俺は……。
「生体腎移植をすれば確かに、香織さんは持ち直すこともできるかもしれません。それどころか根本的な解決となり、今までのように透析をしなくても大丈夫になります。しかし、それは手術に成功して、なおかつ術後に免疫不全が起きないようならば、の話です。現在の状況からは体力的にも成功率が低いとしか言えません」
黙り込む俺に医者が説明してくれた。香織は移植しようしまいが助かる可能性が低いということか。
「一つしかない腎臓では、健康な人ほど長く生きることはできない。それに、やはり体にかかる負担も大きいと聞く。我が子を思う私たちの気持ちもわかってくれ……」
苦しそうに言う親父を見て知らず涙がこぼれてきた。このことを言うために親父がどんなにつらい思いをしているか、それがわかるからだ。親父とおふくろは何度も話し合ったのだろう。二人の頬は心労のあまり落ち窪んでいるように見えた。
両親の気持ちが痛いほどわかるし、涙が出るほどありがたかった。
それでも――、
それでも俺は、
その話にうなずくことはできなかった。たとえ成功率が低いとしても零じゃない。少しでも可能性があるならば、俺はそれにかけてみたい。香織がいない世の中に、俺は何の意味を見出して生きていけるのだろう。守ると誓った人、愛している人。香織がいるからこそ俺は笑えるんだ。
「ありがとう、親父、おふくろ。でも……、俺は助けたいんだ。自分の命が危なくなると言われてもこれだけは譲れない。俺は香織がいなきゃだめなんだ。どうしようもないほど俺はあいつが大切で、あいつも俺を大切に思ってくれていて……。だけどあきらめたわけじゃないんだ。ほんの少しでも可能性があるなら、それにかける。賭けに勝ってみせる! 俺は生き抜く。……香織と共にな」
俺の決意がゆるがないのを見ておふくろは泣き崩れた。親父はそんなおふくろを支えながらも、目に深い光をたたえていた。本当は自分の腎臓を移植したかったのだろう。いくら他人の子供といっても、ずっと暮らしていた家族だ。助けたいに決まっている。でもそれが無理なことはわかっていた。だからといって俺に移植させることを強要させることは出来ない。その葛藤でずいぶん苦しんだのだろう。
「そうか……、お前が決めたのなら、私が言うことは何も無い」
少しほろにがげに笑った後、
「……強くなったな、本当に」
と親父はそっと俺の頭をなでてくれた。昔ほど大きな手とは感じなかった。だけど子供の頃と同じように誇らしさとくすぐったさで涙が溢れてきた。
手術の前日、俺は香織の病室に来ていた。香織の顔色は悪く、痛みがあるせいか蒼白になっていた。生気があまり感じられない顔は、見ていると痛々しさが込みあげてくる。
「お兄ちゃん、明日雪が降るのかな……」
眠っていると思っていたがどうやら起きていたようだ。体を起こしたそうにしているので枕を背中にひいて、そっと起こす。
「ああ、天気予報では明日から降ると言っていたよ」
俺は精一杯優しい顔をして微笑む。しばらく外を名残惜しげに見ていた香織は残念そうにため息をついた。
「手術が終わった後、見ればいいだろ」
俺はいかにも簡単なことだという風に装う。自分でも白々しく聞こえたが、それでも俺は言いたかった。
「うん、そうだね……」
俺の気持ちを汲んでくれたのか、香織はかすかに微笑んだ。
それからしばらく何も話さなかった。香織はうつむいていた。何かに迷っているようだった。病室には沈黙が落ち、規則正しく時を刻む時計の音がやけに大きく響いていた。俺は待った。香織が何か言ってくれるのを。しばらくして、何かを決心したように香織は顔を上げた。
「お兄ちゃん……、最後になるかもしれないから言っておきたいことがあるの」
少し潤んだ瞳で俺を見つめてきた。瞳の奥に光があった。
「何言ってんだよ。俺のを移植するんだぜ。元気になるに決まってるだろ」
軽口をたたいてごまかそうとするが、香織の真剣な顔にいやでも黙らざるを得なかった。香織は軽くせきをした後、ゆっくりと口を開いた。
「わたし、本当はいろんなことがしたかった。部活もやりたかったし、友達もいっぱい作りたかった……」
「香織……」
香織がこうして自分のやりたいことを語るのは初めてだった。いつも周りに迷惑をかけていると自分自身で思い込み、何に対しても遠慮がちであった。その香織の初めて告白。俺は知らぬ間に真剣になっていた。
「勉強もしたかったし、みんなで勉強会なんかもしたかった。普通にいろいろ悩んだり、バカなことで盛り上がったり……」
香織は今までやりたくてもできなかったことなどを次々と上げていった。まるで溜め込んだ想いを言葉に乗せて空に返すように。
「それに……」
不意に言葉が途切れた。気がつけば香織が俺のことを見つめていた。俺は吸い寄せられたかのように香織の瞳から目が離せなくなる。まるで残っている生命を全て集めたかのように瞳は輝いていた。
永遠のように感じられる一瞬。
香織は口を開いた。
「それにね……、私……、好きな人がいるの。その人は優しくて、いつも私のことを見守ってくれている……。私……その人に手術前にどうしても想いを伝えたい。そうじゃないと私きっと後悔する……」
瞳に静かな炎が燃えていた。伝えたかった想い。禁じられた想い。今、香織はそれを口にしようとした。
「お兄ちゃん、わたしは……!」
「まってくれ!」
自ら閉じようとした想いだった。血がつながっていると思いこんでいた故にあきらめた気持ち。一生この想いは口にすることは無いと思っていた。だけど同時に、彼女を誰にも渡したくないという気持ちがある。矛盾している。それでも、俺は口を開いた。
「俺達が兄弟と言うことは変わらない事実なんだ。俺はお前のことを大切に思っているし、これからもその気持ちは変わらない」
これが精一杯だった。香織が一言でも口にしたら、俺はもう自分を抑えられる自信が無い。なにより、本当の兄弟ではないと知った今、歯止めが利かない。
「わたしたち……、本当の兄弟じゃないんだよ……?」
「つっ……!?」
香織の言葉で病室の時が止まる。俺は衝撃で動けなかった。
「お前……、なんで!?」
「むかし、お父さんたちが話しているのを聞いたの。そのとき、正直……信じられなかった。私とお兄ちゃんが、血が繋がってないなんて。だからアルバムとか手がかりになるものを全部探してみたの。そしたら三歳以下の写真がまったくなくて……。私だって、いろいろ悩んだりしたよ? つらくて……、悲しくて……」
香織の瞳の色がいっそう強くなった。
「でも、それでも私、うれしかった……。どうしようもないほど、お兄ちゃんと血がつながっていないとわかって、すごく……うれしかった……」
一言ひとこと、自分の魂を搾り出すようにいった。
ふいに香織が咳き込む。
「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
止めようとする俺を押しのけて香織は、さらに言葉をつむいだ。
「そのときからわたしの気持ちは決まっていたの。将来何があろうともこの人を好きでいつづけるって。お兄ちゃん…………私、あなたが……好きです」
もう気持ちを遮るものなんてなかった。想いが走り出す。俺を縛りつけていた鎖が音を立てて千切れた。俺はこらえきれず香織を抱きしめた。
「俺も、お前のことが好きだ!! 俺にはお前だけだ!! ずっと昔からお前しか見ていなかったんだ! 気持ちを偽ることなんてやっぱりできない。好きだ! 本当に好きなんだ!!」
抱きしめた肩に雫が落ちる。香織は目を閉じ、感極まったように泣いていた。愛しさが溢れる。それに突き動かされるように香織にキスをした。今までのすべての想いをこめて……。
その夜、俺は看護婦さんに頼んで簡易ベッドを用意してもらった。少しでもそばにいてやりたかったし、俺も香織から離れたくなかった。消灯になっても俺達は手を握り合い、時を過ごした。この時間が永遠に続けばいいと思った。
「ねえ…、起きてる?」
夜中になっても寝付けなかったのか香織がささやくような声が聞こえてきた。
「ああ……、早く寝なきゃダメだろ。明日は手術なんだから」
少しうとうとしながら俺は答える。香織はいたずらが見つかった子供のようにふとんに潜りなおした。
「……ねえ、お兄ちゃん」
そこから、ちょこんと可愛らしく顔を出し、香織は身体を寄せてきた。
「ん?」
「わたし……今、すごく幸せ」
香織はどこか熱に浮かされようにつぶやいた。
「好きな人と想いが通じ合えたし、その人がこんなにも傍にいてくれる。本当に幸せ……」
「ああ…俺もだ」
本格的に目がさめてしまった。香織の話に耳を傾ける。
「手術が終わって元気になったら、わたし、いろいろなところに行きたいな。お兄ちゃんと色々なところを回りたい。それにね、やりたいことがいっぱいあるの」
窓の外に広がる街の明かりを、香織はどこか浮世離れしているかのようにぼんやりと見ていた。ふわふわとしていてつかみどころがなく、まるで目を離した隙にいなくなってしまう。そんな危機感が俺の中に生まれてくる。
「冬はやっぱり雪が降る街の中を思いっきり歩き回りたいな。夏になったら海で思いっきり遊びたい。肌も焼きたいし、新しい水着もお兄ちゃんに見せたい。……今まで、できなかったことを思いっきりやりたい」
言いながら泣けてきたのか、香織の目には涙が浮かんでいた。
「本当にそうしたい……な。お兄ちゃんと一緒に……デートしたかったな。手をつないで街を歩いたらきっととても楽しかったんだろうな。いつも一緒にいて、お話して、きっと、楽しいんだろうな……」
悲しそうに涙を流す彼女を見て胸が痛んだ。
「香織……、そんなことはいつでもできる。お前のためだったら都合なんていつでもつけてやる。だから、過去形なんかで言うな」
「お兄ちゃん、わたし…生きたい……。本当に…生きて…いたいよ…。こんなにも生きたいと思っているのにどうして…、…生き…たいよぉ」
しゃくりあげる香織をただ抱きしめることしかできなかった。香織は知っているのだろう。自分の体が一刻の猶予もないということを。長年病気とつきあってきただけにどんな状況なのかわかるのだろう。香織の気持ちが痛いほどわかるから俺は万感の思いを込めて抱きしめ続けた。彼女の不安が少しでも消えるようにと願いを込めながら。
そして俺たちは運命の時を迎えた。
俺のほうが先に手術室に入り、腎臓を摘出した。そして間髪いれず香織のオペがおこなわれることになった。
次に目を覚ます時にはいったい俺たちはどうなっているんだろう。そう考えるだけで不安に胸が押しつぶされそうになる。でも、俺は賭けたのだ。コインが表か裏かあやふやに出るのなら、俺はイカサマしてでも運をこちらに手繰り寄せる。その気力こそが生きてる者の強さだし、これから未来を作っていく者の証だ。
だから、俺は香織と幸せになってみせる。
手術が終わって数日後、筋弛緩剤が抜けきると俺はすぐに香織の病室に来ていた。穏やかそうに眠る彼女には手術前に見せた不安な影など無い。あれから、愛を確かめ合った俺達は共に生きていくことを誓った。
白銀色の絨毯が広がるこの街に、俺は彼女の目覚めを待ち続ける。
街が月明かりに照らされて青白くなる時、香織のまぶたがそっと動いた気がした。
終
病院特有のアルコール臭さが鼻腔の奥にこびりつき、憂鬱な気分を加速させる。昼頃から降り始めた雪は、窓の外を見渡す限りの白で覆っていた。俺は備え付けの椅子からそっと立ち上がると、乱れていた香織の布団を直した。その時、香織がほんのちょっとだけ笑っているように見えて、目頭が熱くなった。
眠っている彼女を見つめる。すでに日課となったこの習慣は、香織が入院するたびにおこなわれる偽者の儀式。胸を締め付けるような愛しさと、言葉に出来ないほどの不安。その両者を行き来しているうちに時の感覚は無くなり、ただ彼女の息遣いと規則正しい点滴の音だけが俺の感覚を支配する。
香織は幼いころから病弱だった。
いつも入退院を繰り返し、家族と一緒にいる時間はほとんどなかった。
そんな彼女の夢は、少しでも長く学校に通うこと。
そんな当たり前のことを、さも大それたことのように香織は語る。俺はそれを聞くたびにせり上がる塊を押さえることに苦労する。その残滓が肩を震わせたけれど俺は彼女の前では我慢しきることを選んだ。
夜の底が白くなっていき、街は黒と白のコントラストに覆われていた。両極端の色合いは決して交わることはないけれど、お互いに気遣うように調和している。
不意にそこから落ちる一粒の結晶が目にとまった。穏やかな風に吹かれ、仲間達と楽しげにダンスを踊っている。そして窓にたどりつくと名残惜しげに消えていった。
(雪……降ったよ……)
あんなに待ち望んだ雪がやっと降ったというのに、彼女は眠ったままだ。まるでそこだけ時間が止まっているように、ただ静かに過ぎていく。
俺は取り留めのないことを考えながら、寝ている彼女の髪をそっと撫でた。
香織はいつも家にいなかった。
幼いころの俺は、香織が妹という事すら認めていなかったように思う。その当時の俺にとって、彼女は突然あらわれては、両親をとってしまう邪魔な存在でしかなかった。彼女が来るまでは両親は俺だけのもので、小さな世界だったけれど思うように振舞えた。しかし、香織の出現で全てが変わった。両親は彼女にかかりきりになり、俺を見なくなった。休日は一人家に残されることが多くなり、そういう時には決まって両親は香織を抱いて出かけていたのだ。正直、大好きだった父さんや、優しい母さんを取られた気がした。幼かった俺にとって、それは許せない仕打ちだった。
だが、それには理由があったのだ。
香織は腎臓に先天的な疾患があり、生き長らえていくには定期的な通院が必要とされていたのだ。この疾患により血液を浄化する作用が常人に比べ極端に低いため、透析によって体に不要な老廃物や水分を取り除いてやる必要があった。一回の透析にだいたい5時間以上かかることがあり、小さいころの香織は家にいる時間より病院にいる方が長かった。そんな彼女に両親が注意を向けるのは当然かもしれなかった。
だけど、幼すぎた俺はそんな事情はどうでもよかった。香織は俺にとって両親を奪う敵であり、安住の地を脅かす邪魔なものでしかなかった。だから俺は香織と会うと必ずからかったり、いじめたりしていた。時には自分でもやりすぎたかも知れないと思うこともあった。それでも香織は俺が何をしても、つらそうな顔をせず俺の後をついてきた。どんなことをされようとも香織がいつも浮かべている笑顔は少しもかげることはなかった。
香織は病気のためいつも周りを大人に囲まれていたため、同年代の子供と接する機会は少なかった。だからなおさら子供同士の輪に入ろうとして必死だったのかもしれない。それなのに当時の俺は調子に乗りすぎていた。幼さが生んだ残酷なまでの仕打ち。俺の中では香織はいじめてもよい存在だと認識していた。
しかし、そんな俺にも転機は訪れる。
十数年前のある日。俺と香織の距離が変わった日。きっかけを与えてくれたのは親父だった。
その日はちょうど家には俺と香織しかいなかった。香織はいつものように人形遊びをしていて、その横で俺はテレビを見ていた。休日の昼間は退屈な番組しかやっておらず、当時俺が好きだったヒーローものも終わってしまった後だった。何をしようかと思い悩んでいるときに、ちょうど香織が目に入った。人形を相手におままごとをしている。暇だった俺はからかってやろうと立ち上がり香織の人形を奪い取った。香織はすぐに奪い返そうとしてきたが身長で俺に敵うはずはなく、香織の手はむなしく宙をきるだけであった。普通は怒っても当然な状況だった。だけど、それなのにもかかわらず香織は口元に笑みを浮かべていた。まるでかまってもらったのが嬉しいと言わんばかりに。俺はそのことにひどく苛立った。訳のわからない不快感がこみ上げてきて、香織を力任せに突き飛ばした。香織はびっくりしたような顔をしたけれど、俺の方を見つめると力が抜けたような悲しい笑みを浮かべた。俺はそれにさらに苛立ち、持っていた人形を香織に投げつけようとした。そんな時、俺の後ろでドアが開く音がした。
俺は恐る恐る後ろを向く。足元には黒い大きな影があった。だんだん視線を上げていくと親父の張り詰めた顔があった。
何か言い訳しようと考えた。でも、口を開き始める前に親父はそんな俺を思いっきり殴った。まだ小学生にあがるくらいの年だったため、簡単に俺の体は壁にたたきつけられた。最初は殴られたショックだけだった。だが、後から痛みが熱をおびて体に広まっていき、ぶるぶると体が震え悪寒が体を襲った。涙が溢れてきて止まらなかった。しかし、そんな俺を見下ろして、親父は言った。
「おまえが守ってやるんだ。だれでもないお前こそが、一番あの子を大切にしてやるんだ」
親父に諭された時、正直どうでもいいと思った。むしろ腹いせにもっといじめてやろうかと考えたりもした。だが、殴られる原因となった本人が泣きそうになりながら、近寄ってきた。俺はふてくされて香織の方を見ようとしなかった。痛みとショックのため自然と出てくる涙を、彼女に見られるのは気恥ずかしかった。しかし、香織はいつまでも動こうとせず俺のそばで立ち尽くしていた。いらだちげに振り返ると彼女は泣いていた。俺が何をしても泣かなかったのに、ぬれたタオルを手に持ち顔をくしゃくしゃにしながらただ泣いていた。
「ごめんなさい……」
泣きながら、それでもはれあがった頬を冷やそうとしてくる香織を見て、俺の中にあったしこりのようなものが溶けていった。かわりに何か暖かいものが生まれてくることがわかった。香織の初めての泣き顔を見ながら、俺の心はどこか澄んでいた。殴られた頬は焼けるほど痛かったが、それでもどこか心が沸き立つ気がした。
そのことがきっかけで俺たちの距離は少しずつだが縮まり始めた。俺は見知らぬ他人ではなく家族としての妹という存在を受け入れ、香織も兄として俺を受け入れた。
学校に通い始めるようになると、俺たちの生活はしだいに落ち着いていった。退屈な日常生活。しかし、それは俺だけのこと。香織は腎臓の透析のために、いやでも定期的に病院に通わなくてはならなかった。そのため一年の半分近くも学校に通うことができなかった。だから学校に行くたびに目立ってしまい、いじめの標的になってしまった。他にも原因がある。香織は腎臓をわずらっているため肌に黄疸ができるのだ。黄疸とは腎臓の機能障害のために起こる症状のひとつで、浄化されなかった老廃物が肌の表面に現れ、まるで黄色いシミのように見える。それをクラスの子に見つけられ、気持ち悪がられてはいじめられていた。香織はそのことを酷く気にして、黄疸が出ると学校に行かなくなった。俺はそのことを知るとすぐにいじめていた奴らの所に行き、二度とそんな気が起きないよう体に教えてやった。後で、その子供の親から苦情がきたそうだけど、そんなことはどうでもよかった。それに親父も、俺のことを叱らず、ただ「よくやったな…」と大きな手で頭をなでてくれた。そのときのくすぐったいような誇らしいような気持ちを今も覚えている。
それからというもの俺は香織を守り続けた。彼女を傷つけたり困らせたりするものから。しかし、そうした年月が俺に香織を女性として、強く意識させてしまうきっかけにもなってしまった。気がつけば彼女の後ろ姿を目で追っている自分がいる。いつも守ってきた人。抱きしめたいと思う人。自分以外の誰かに渡すなんて考えられない。俺の気持ちは日増しに強まっていった。なまじ血がつながっているだけに俺はこの思いを持て余してしまっていた。しかし、俺がこんな気持ちを抱いていることを知ったら香織はどう思うだろうか。悲しむだろうか、それともうれしいのだろうか。もしかしたら口もきいてくれなくなるかもしれない。頭の中をいつも同じ考えがぐるぐるとまわってしまい、どうしようもなく意識してしまう。そのため高校にあがるころには彼女の部屋には入れなくなった。
そして俺は、この気持ちを紛らわすために一人の女性と付き合うことにしてみた。特に知らない人だったけど、急に告白された。正直、チャンスだと思った。相手なんかどうでもいい。自分のこの気持ちを何とかしてけりをつけられるならそれだけでよかった。その時の俺にとって、それが理由の全てだった。
付き合うことに決めた後、俺は自分に対するけじめのつもりで彼女に報告した。香織は初め何をいっているのか理解できないようだったが、俺は最後まで言いきった。そして意味を飲み込むと泣きそうな表情になって、それを我慢するかのようにせつなげに笑った。まるで人形を取られたあの時のように。その笑顔から痛いほどわかった。俺達が同じ気持ちだということを。でも立ち止まることはできない。俺たちの間には血縁というこえられない壁がある。だからこそ俺は自分の気持ちに整理をつけることにした。それは、変えることのできない決定だった。
だけど、それは結局実現しなかった。
香織が倒れたのだ。俺の話の最中に、何の前ぶりもなく。
よく覚えてはいないが、そのとき俺はショックのあまり血相を変え何かを叫んでいたそうだ。それを仕事帰りの両親が発見して救急車を呼んだ。両親の素早い行動のおかげで大事には至らなかった。今も思い出す。俺の目の前で電池が切れたかのように倒れていく彼女。まるで悪夢が現実の世界に浸食して来たかのようだった。
それからというもの俺は毎日のように彼女の下へ通うことになる。
香織の命の灯火は後三ヶ月ものこっていないことが判明したからだ。
「なんで……なんだよ、どうしてっ!」
俺は苦しそうに言う医者にすがり付くのを我慢しきれなかった。もう見栄も何も無い。ただ、香織に助かってほしい。彼女の笑顔をこれからも見つづけていきたい。いなくなるなんて考えられない。世界が足元から崩壊していくようで何も考えられなくなかった。ただ涙が後から後から溢れてくる。
「香織さんの場合には、先天的に悪かった腎臓を透析することによって循環を良くしていました。しかし年々低下する腎臓の機能が尿毒症をひきおこしてしまい、そのことがきっかけでさまざまな合併症が発生して現在の症状に陥って……」
長々と続く医者の説明なんて頭に入ってこなかった。ついさっきまで手が届くところにあった命が消える。そんなことに耐えられるはずがない。俺は残酷な現実がそろりそろりと忍び足で近寄ってくるのを感じた。
「……申し訳ないですが最悪の事態だけは考えておいてください。私たちも手を尽くしますが……」
「なんとかならないんですか……。まだ……、何かできることがあるはずなんだ!!」
ひとり必死になる俺を囲んで、医者と両親は沈黙した。重苦しい空気が部屋に満ちようとした時、俺の頭に天啓にも似た考えがひらめいた。
「そうだ! 移植とかはどうなんです? たしか、腎臓は二つあるんですよね。俺のを、どうか移植してください」
両親は共にAB型だが、香織は俺と同じA型。だから問題なく移植できるはずだ。なにより兄弟だ。拒否反応も少ないはず。この考えは事態を根本的に解決するとても良い考えのように思われた。
しかし病室を相変わらずいやな雰囲気が支配する。両親は悲しそうな目をして、俺を見つめていた。
「ご両親とも相談した結果、死体腎移植を待っているというのが現在の状態なのです。ドナー登録してからかなりの時間がたつのですが、まだ順番が回ってこないんですよ」
「だから、俺のを使ってくれといってるだろうが!」
正気を失いそうなほど気持ちが昂ぶる。目の前が真っ赤になり、全てを破壊してやりたくなった。しかし、そんな俺に親父は渋い顔をしながら口を開いた。
「無理なんだ……」
俺は一瞬親父が何を言っているのかわからなかった。目の前にいる人物が、まるで知らない人のように思えた。
「な……何を言ってるんだ、親父? あんたが……あんたが、守ってやれって…そう言ったよな!! 俺にあんたが……! それを今になってどういうことなんだよ! 家族じゃなかったのかよ、俺達は! どんなことになろうが、そんなことかまいやしない。なんでもくれてやる。片手を差し出せと言われても、喜んで差し出すさ! 失う痛みを味わうぐらいなら自分自身を切りきざんだっていい! まだ助かる可能性があるなら、それに賭けたいんだ!」
おふくろが隣で絶句しているのがわかる。俺が親父にこんな口を利いたのは初めてだった。しかし親父はわずかに目をそらし
「無理なんだ…」
と同じことを繰り返すだけだった。
「なあこっち向けよ。自分で言ったじゃないか。守ってやれって。それなのに肝心な時に自分は逃げるのかよ。親父……答えてくれ! 親父!!」
俺は親父の襟を揺さぶりつづけた。唇を噛み切らんばかりにして堪えているのを見ても手加減できなかった。そして、俺の中の熱い塊が、出口を見つけようともがき、知らず右手を振り上げさせていた。
しかし、その手は結局、振り下ろされることはなかった。
「あの子はわたし達とは血がつながっていない……」
耐えかねたような苦しげな声が俺の耳に入ってきた。
ほんの一瞬、俺の中に空白が生まれる。
「だから、移植は無理だ。たとえお前と血液型が同じだろうとも、肉親以外では拒否反応がでる可能性が多くなる……」
「お……親父? いったい何を……?」
初めて聞く話だった。正直、信じられない話だった。香織と俺が兄弟じゃないって。そんなバカなことがあるはずがない。
「本当のことだ。あの子はわたしの親友の子でな。香織の……本当の母親は出産と同時に亡くなっている……。父親の方は香織と同じ症状で苦しんでいた。いや、当時は今ほど医学が発達してなかったから、状況はもっと悪かったかもしれない」
「・・・・・・・・・・・・」
「父親の方も合併症が発生して、どうしようもならないところまでいってしまった。そのさいに私は香織のことを託されたのだ。下手な施設に預けるより、信頼できる私に育ててほしいと言っていた……」
俺は驚愕に顔をゆがませた。そんなバカな。じゃあ、俺たちが過ごした時間はうそだって言うのか。
「どうして、今まで…」
当然の疑問だった。二十年以上生きてきて一度も聞いたことがなかった。
「私たちは家族だ。たとえ血がつながっていなくても、心の絆があることには変わらない。だが……いくら絆と言葉にしてもどうしようもない現実というものあるんだ。だから、お前に危険なことをさせることはできない。二人とも失う可能性があるのなら一人だけでもいいから生きていてほしい……。これは私のエゴだ。必ず失敗すると分かっていることをお前にやらせる訳にはいかない」
切々と語る親父を見て、そのことが紛れもない事実だとわかる。
でも……それでも俺は……。
「生体腎移植をすれば確かに、香織さんは持ち直すこともできるかもしれません。それどころか根本的な解決となり、今までのように透析をしなくても大丈夫になります。しかし、それは手術に成功して、なおかつ術後に免疫不全が起きないようならば、の話です。現在の状況からは体力的にも成功率が低いとしか言えません」
黙り込む俺に医者が説明してくれた。香織は移植しようしまいが助かる可能性が低いということか。
「一つしかない腎臓では、健康な人ほど長く生きることはできない。それに、やはり体にかかる負担も大きいと聞く。我が子を思う私たちの気持ちもわかってくれ……」
苦しそうに言う親父を見て知らず涙がこぼれてきた。このことを言うために親父がどんなにつらい思いをしているか、それがわかるからだ。親父とおふくろは何度も話し合ったのだろう。二人の頬は心労のあまり落ち窪んでいるように見えた。
両親の気持ちが痛いほどわかるし、涙が出るほどありがたかった。
それでも――、
それでも俺は、
その話にうなずくことはできなかった。たとえ成功率が低いとしても零じゃない。少しでも可能性があるならば、俺はそれにかけてみたい。香織がいない世の中に、俺は何の意味を見出して生きていけるのだろう。守ると誓った人、愛している人。香織がいるからこそ俺は笑えるんだ。
「ありがとう、親父、おふくろ。でも……、俺は助けたいんだ。自分の命が危なくなると言われてもこれだけは譲れない。俺は香織がいなきゃだめなんだ。どうしようもないほど俺はあいつが大切で、あいつも俺を大切に思ってくれていて……。だけどあきらめたわけじゃないんだ。ほんの少しでも可能性があるなら、それにかける。賭けに勝ってみせる! 俺は生き抜く。……香織と共にな」
俺の決意がゆるがないのを見ておふくろは泣き崩れた。親父はそんなおふくろを支えながらも、目に深い光をたたえていた。本当は自分の腎臓を移植したかったのだろう。いくら他人の子供といっても、ずっと暮らしていた家族だ。助けたいに決まっている。でもそれが無理なことはわかっていた。だからといって俺に移植させることを強要させることは出来ない。その葛藤でずいぶん苦しんだのだろう。
「そうか……、お前が決めたのなら、私が言うことは何も無い」
少しほろにがげに笑った後、
「……強くなったな、本当に」
と親父はそっと俺の頭をなでてくれた。昔ほど大きな手とは感じなかった。だけど子供の頃と同じように誇らしさとくすぐったさで涙が溢れてきた。
手術の前日、俺は香織の病室に来ていた。香織の顔色は悪く、痛みがあるせいか蒼白になっていた。生気があまり感じられない顔は、見ていると痛々しさが込みあげてくる。
「お兄ちゃん、明日雪が降るのかな……」
眠っていると思っていたがどうやら起きていたようだ。体を起こしたそうにしているので枕を背中にひいて、そっと起こす。
「ああ、天気予報では明日から降ると言っていたよ」
俺は精一杯優しい顔をして微笑む。しばらく外を名残惜しげに見ていた香織は残念そうにため息をついた。
「手術が終わった後、見ればいいだろ」
俺はいかにも簡単なことだという風に装う。自分でも白々しく聞こえたが、それでも俺は言いたかった。
「うん、そうだね……」
俺の気持ちを汲んでくれたのか、香織はかすかに微笑んだ。
それからしばらく何も話さなかった。香織はうつむいていた。何かに迷っているようだった。病室には沈黙が落ち、規則正しく時を刻む時計の音がやけに大きく響いていた。俺は待った。香織が何か言ってくれるのを。しばらくして、何かを決心したように香織は顔を上げた。
「お兄ちゃん……、最後になるかもしれないから言っておきたいことがあるの」
少し潤んだ瞳で俺を見つめてきた。瞳の奥に光があった。
「何言ってんだよ。俺のを移植するんだぜ。元気になるに決まってるだろ」
軽口をたたいてごまかそうとするが、香織の真剣な顔にいやでも黙らざるを得なかった。香織は軽くせきをした後、ゆっくりと口を開いた。
「わたし、本当はいろんなことがしたかった。部活もやりたかったし、友達もいっぱい作りたかった……」
「香織……」
香織がこうして自分のやりたいことを語るのは初めてだった。いつも周りに迷惑をかけていると自分自身で思い込み、何に対しても遠慮がちであった。その香織の初めて告白。俺は知らぬ間に真剣になっていた。
「勉強もしたかったし、みんなで勉強会なんかもしたかった。普通にいろいろ悩んだり、バカなことで盛り上がったり……」
香織は今までやりたくてもできなかったことなどを次々と上げていった。まるで溜め込んだ想いを言葉に乗せて空に返すように。
「それに……」
不意に言葉が途切れた。気がつけば香織が俺のことを見つめていた。俺は吸い寄せられたかのように香織の瞳から目が離せなくなる。まるで残っている生命を全て集めたかのように瞳は輝いていた。
永遠のように感じられる一瞬。
香織は口を開いた。
「それにね……、私……、好きな人がいるの。その人は優しくて、いつも私のことを見守ってくれている……。私……その人に手術前にどうしても想いを伝えたい。そうじゃないと私きっと後悔する……」
瞳に静かな炎が燃えていた。伝えたかった想い。禁じられた想い。今、香織はそれを口にしようとした。
「お兄ちゃん、わたしは……!」
「まってくれ!」
自ら閉じようとした想いだった。血がつながっていると思いこんでいた故にあきらめた気持ち。一生この想いは口にすることは無いと思っていた。だけど同時に、彼女を誰にも渡したくないという気持ちがある。矛盾している。それでも、俺は口を開いた。
「俺達が兄弟と言うことは変わらない事実なんだ。俺はお前のことを大切に思っているし、これからもその気持ちは変わらない」
これが精一杯だった。香織が一言でも口にしたら、俺はもう自分を抑えられる自信が無い。なにより、本当の兄弟ではないと知った今、歯止めが利かない。
「わたしたち……、本当の兄弟じゃないんだよ……?」
「つっ……!?」
香織の言葉で病室の時が止まる。俺は衝撃で動けなかった。
「お前……、なんで!?」
「むかし、お父さんたちが話しているのを聞いたの。そのとき、正直……信じられなかった。私とお兄ちゃんが、血が繋がってないなんて。だからアルバムとか手がかりになるものを全部探してみたの。そしたら三歳以下の写真がまったくなくて……。私だって、いろいろ悩んだりしたよ? つらくて……、悲しくて……」
香織の瞳の色がいっそう強くなった。
「でも、それでも私、うれしかった……。どうしようもないほど、お兄ちゃんと血がつながっていないとわかって、すごく……うれしかった……」
一言ひとこと、自分の魂を搾り出すようにいった。
ふいに香織が咳き込む。
「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
止めようとする俺を押しのけて香織は、さらに言葉をつむいだ。
「そのときからわたしの気持ちは決まっていたの。将来何があろうともこの人を好きでいつづけるって。お兄ちゃん…………私、あなたが……好きです」
もう気持ちを遮るものなんてなかった。想いが走り出す。俺を縛りつけていた鎖が音を立てて千切れた。俺はこらえきれず香織を抱きしめた。
「俺も、お前のことが好きだ!! 俺にはお前だけだ!! ずっと昔からお前しか見ていなかったんだ! 気持ちを偽ることなんてやっぱりできない。好きだ! 本当に好きなんだ!!」
抱きしめた肩に雫が落ちる。香織は目を閉じ、感極まったように泣いていた。愛しさが溢れる。それに突き動かされるように香織にキスをした。今までのすべての想いをこめて……。
その夜、俺は看護婦さんに頼んで簡易ベッドを用意してもらった。少しでもそばにいてやりたかったし、俺も香織から離れたくなかった。消灯になっても俺達は手を握り合い、時を過ごした。この時間が永遠に続けばいいと思った。
「ねえ…、起きてる?」
夜中になっても寝付けなかったのか香織がささやくような声が聞こえてきた。
「ああ……、早く寝なきゃダメだろ。明日は手術なんだから」
少しうとうとしながら俺は答える。香織はいたずらが見つかった子供のようにふとんに潜りなおした。
「……ねえ、お兄ちゃん」
そこから、ちょこんと可愛らしく顔を出し、香織は身体を寄せてきた。
「ん?」
「わたし……今、すごく幸せ」
香織はどこか熱に浮かされようにつぶやいた。
「好きな人と想いが通じ合えたし、その人がこんなにも傍にいてくれる。本当に幸せ……」
「ああ…俺もだ」
本格的に目がさめてしまった。香織の話に耳を傾ける。
「手術が終わって元気になったら、わたし、いろいろなところに行きたいな。お兄ちゃんと色々なところを回りたい。それにね、やりたいことがいっぱいあるの」
窓の外に広がる街の明かりを、香織はどこか浮世離れしているかのようにぼんやりと見ていた。ふわふわとしていてつかみどころがなく、まるで目を離した隙にいなくなってしまう。そんな危機感が俺の中に生まれてくる。
「冬はやっぱり雪が降る街の中を思いっきり歩き回りたいな。夏になったら海で思いっきり遊びたい。肌も焼きたいし、新しい水着もお兄ちゃんに見せたい。……今まで、できなかったことを思いっきりやりたい」
言いながら泣けてきたのか、香織の目には涙が浮かんでいた。
「本当にそうしたい……な。お兄ちゃんと一緒に……デートしたかったな。手をつないで街を歩いたらきっととても楽しかったんだろうな。いつも一緒にいて、お話して、きっと、楽しいんだろうな……」
悲しそうに涙を流す彼女を見て胸が痛んだ。
「香織……、そんなことはいつでもできる。お前のためだったら都合なんていつでもつけてやる。だから、過去形なんかで言うな」
「お兄ちゃん、わたし…生きたい……。本当に…生きて…いたいよ…。こんなにも生きたいと思っているのにどうして…、…生き…たいよぉ」
しゃくりあげる香織をただ抱きしめることしかできなかった。香織は知っているのだろう。自分の体が一刻の猶予もないということを。長年病気とつきあってきただけにどんな状況なのかわかるのだろう。香織の気持ちが痛いほどわかるから俺は万感の思いを込めて抱きしめ続けた。彼女の不安が少しでも消えるようにと願いを込めながら。
そして俺たちは運命の時を迎えた。
俺のほうが先に手術室に入り、腎臓を摘出した。そして間髪いれず香織のオペがおこなわれることになった。
次に目を覚ます時にはいったい俺たちはどうなっているんだろう。そう考えるだけで不安に胸が押しつぶされそうになる。でも、俺は賭けたのだ。コインが表か裏かあやふやに出るのなら、俺はイカサマしてでも運をこちらに手繰り寄せる。その気力こそが生きてる者の強さだし、これから未来を作っていく者の証だ。
だから、俺は香織と幸せになってみせる。
手術が終わって数日後、筋弛緩剤が抜けきると俺はすぐに香織の病室に来ていた。穏やかそうに眠る彼女には手術前に見せた不安な影など無い。あれから、愛を確かめ合った俺達は共に生きていくことを誓った。
白銀色の絨毯が広がるこの街に、俺は彼女の目覚めを待ち続ける。
街が月明かりに照らされて青白くなる時、香織のまぶたがそっと動いた気がした。
終
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
カテゴリー
携帯用QRコード
- アクセス数

- ページビュー数
