短編小説
あの雨の下で(前編)
―序―
黒光りする小さな凶器が、私の手の中で輝いていた。
コルトパイソン。コンパクトな大きさの割にはバランスの取れた銃である。
女性にとって扱いやすく、銃社会のアメリカでも人気商品。グリップの部分にカラフルな装飾を施し、ファッション感覚で持つこともできる。たった6発しか吐き出せない頼りない相棒。だけど、初めて手に持った瞬間、吸い付くように手になじんだ。まるで、運命の相手にであったかのように胸が高鳴った。サブレッサーをつけ、カスタマイズをした私だけの相棒。目的にとって、欠かせないもの。
最初の頃は少しだけ重く感じたが、それも、もう慣れた。
ショルダーバックからタバコを取り出し、火をつけた。胸の奥まで吸い込むと、肺の中に心地よい感覚が広がる。昔はこの匂いさえ苦手だった。今では信じられない。
近くにあった椅子に腰掛け、ゆらゆらと立ち昇る紫煙をなんとなく眺めていた。部屋の中はカーテンを締め切っているため、暗く淀んでいる。そこにタバコの明かりが明滅しているのが自己主張のように感じられた。妙に滑稽だった。
「ふう……、おいしい。あなたも吸う?」
私は目の前で揺れている男にそっと語りかけた。親しみの笑みも同時に込めて。もちろん返事なんてない。そんなことは始めからわかっている。
「そろそろ、行くわ……」
テーブルの上に置いていたジャケットを羽織る。そして、拳銃を専用ホルダーに入れバックに収める。
男は何も語らない。ただ揺れているだけ。
「ごめんなさいね。今夜は指一本触らせてあげられなくて」
私も悪趣味だ。苦笑がもれる。
言葉遊びはもうおしまい。
私は立ち上がると玄関に向かった。靴の上に靴下を重ねてはいているため足音もしない。普通は逆と思うかもしれないが、侵入者として、それは当然の技術。
手袋をした手でドアを開け、隙間から外を覗く。闇夜に沈む閑静な住宅街。こんな時間に部外者がうろついていれば嫌でも目立ってしまう。人目につかないように細心の注意を払わなければならない。
最後にもう一度だけ振り返る。男は少しずつ揺れをやめていた。床には血が滴り落ちている。
――私が殺した男。
手足を撃ち身動きできなくした上で、性器を破壊した。後は首に縄をかけ、テコの原理で持ち上げるだけ。これを見て誰が自殺だなんて思うだろうか。だから、メッセージは伝わるはず。
「あと、一人……」
そう、私はもう後戻りができない。
ドアを開け、わずかな隙間から外の世界に滑り落ちた。
―1―
私の上で蠢く奇怪な物体。
蛆虫のように這いずり回る舌。
おもちゃのようにぞんざいに扱う汚い手。
――それが私の自由を奪っているものの全てだった。
手は紐のようなもので後ろ手に縛られ、動かす事ができない。自由な足の方は貧相な男どもに片方ずつ押さえつけられている。悲鳴を上げようにも口に何かを詰められ声を出す事すらできない。お気に入りだったブルーのワンピースはぼろぼろに引き裂かれ、片方の袖が残っているだけ。誕生日にお父さんに買ってもらったミュールはどこかへ行ってしまった。
私は――無力だ
上に乗っている男を、侮蔑を込めて睨みつける。男はそれに気づくと下卑た顔をして笑った。そして、笑ったまま殴りつけてきた。口の中に錆びた鉄の味が広がる。涙はもう出ない。乾いてしまった。
どうしてこんな事になったのだろう。
思い出そうとしても頭が上手く回らない。気が付けば三人の男に組み敷かれていた。そして、この状況がもう何十分か何時間か続いている。
辺りは暗かった。どこかの倉庫なのだろうか。がらんとして広い空間に男達の荒い息と何かが擦れるような音が木霊する。断続的に加わる重みに腰が痺れを通りこし、麻痺していた。
屈辱や恐怖で目の前が真っ暗になる。それでも私は耐える事ができた。
復讐――その言葉だけを思い浮かべる。それは私の魔法の呪文。現実を手放さないための唯一の砦。
三人の顔をよく見つめる。目隠しをされなかった事は幸いだ。もし、そんな事をされたら顔を覚える事ができなかった。そう考えると、私は本当にだめになってしまっただろう。
――覚えた。
自分を守ってくれない法になんか頼らない。それに、誰かに譲るなんてもったいなくてできない。
コレハワタシノエモノ
他の誰でもない、私自身がゆっくりけりをつけてあげる。一人、一人に与えられた屈辱と痛みを何十倍にもして返してやるわ。
だから、今は目を閉じよう。終わりの時が来るまで。そして、私にとってはその時が始まりの時になるのだから。
◇◇◇◇
「…………………ッ!」
目が引きつったように大きく開いた。眼球の筋肉が限界まで広げたせいか、強張り痛みがはしる。頭の中に原色の絵の具をごちゃ混ぜにしたような感情がこみ上げ、嘔吐感が喉元までせり上がる。
私は大丈夫、もう大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせる。それでも、じわりと瞳が潤むのを止められなかった。
ぼやけた視界の向こうに淡いクリーム色の天井が映った。見慣れた光景。上半身を起こし部屋の中を見回す。必要最低限な家具しかないが、小奇麗にまとまった部屋。鏡台の上にはふたが取れたままの化粧水が、昨日のままの姿をさらしていた。
よかった、ここは私の部屋だ。
現実の実感が私に安堵のため息をもたらす。
また、あの夢を見てしまった。軽く頭を振り、夢の残滓を振り払う。
夢を見た後はいつも現実との区別が曖昧になる。その夢の中では確かに感触があり、現実となんら変わりはない。だから、私は相変わらず檻の中に囚われている。
憂鬱な気分で顔をおおう。寝覚めは最悪だった。
あれから随分時間が経ったが、心に刻みつけられた傷跡は今もその姿を保ったままだった。こびりついた記憶が今のように不意によみがえり、塞がりかけたかさぶたをぺりぺりとめくっていく。
もう忘れたい。普通に生きたい。何度そう思ったことか。
でも、今は、そうするわけにはいかない。
私の怒りが風化していない事を何よりも教えてくれるから。
まだすべてが終わっていない。清算するのはその後でも遅くはない。
ベッドから起き上がる。嫌な夢をみたせいかシャツがベットリと肌に張り付いていた。気持ちが悪い。
「…………」
シャツを脱ぐなり投げつけた。狙いどおり洗濯カゴの中へ入っていく。面白くなった。ついでにブラも外す。丸めて、投げる。今度も入った。下着も脱ぐ。今度の比重は軽い。正確に狙いをつけなければならない。銃を撃つ要領で感覚を広げる。対象のみならず空間そのものを認識して、感覚を四方に広げる。そして、対象と腕が一直線になるようにして、姿勢を整える。気力を高め、自分を研ぎ澄ます。空気が張り詰めるその一瞬――投げる。
「……外れた」
やはり、感覚が違う。下着は空気抵抗を受けふわりと舞い上がり、カゴの少し手前で落ちた。
朝から馬鹿な事をしてしまった。そんな自分に苦笑が漏れる。そして、気付いた。大丈夫、まだ私は笑える。追い詰められた者は、苦笑さえ漏れないらしい。犯罪心理学に書いてあった一節を思い出す。
新聞に事件の事が載って、何日目だろうか。ちまた巷では私は有名人だ。といっても、悪質な犯罪者としてだが。連続殺人犯として、警察が躍起になって捜している。殺人を次々と犯しているのに、手がかりをつかませない。成人男性だけを特徴的に殺す犯人として、テレビでは語られていた。もちろん、本名、性別、その他、何もばれてはいない。もっともメディアという媒体に載ってないだけで本当はどうだか分からない。この国の警察は、凶悪犯罪が多発しているアメリカと違い、緊張感はないが捜査力自体は優秀だった。だから、そこまで楽観視するわけにはいかない。ただ、お笑い種なのは、『この犯罪者は社会的に抑圧され、その精神を患った一種の愉快犯だ』と偉ぶった評論家がもっともらしく言っていたことだ。彼らが私を見たらどう思うのだろう。
部屋の隅に置いてある姿見に自分を映す。最近、やっと自分の身体を見られるようになってきた。あの時の傷はもうどこにも無い。もっとも目に見えなくなっただけで、言い換えればより深く潜伏してしまっただけ。
不意に鏡の中の私に覆い被さる男が見えた。なめまわす舌。卑しい顔。まだ殺していない男。
「くっ!」
慌てて首を振り、映像を頭の中から追い出す。
いけない。大丈夫。ここにその男はいない。私は大丈夫、大丈夫。
まるで始めから居なかったかのように男の姿が掻き消えた。安堵の溜息が漏れる。
鏡の中の私は、親とはなれた子供のようにひどく頼りない顔をしていた。その反面、体は女性らしく整っているのが、ひどく悲しくなった。
膨らんだ乳房、くびれた腰。華奢な体格。昔、友達にうらやましいと言われたことがあった。褒められたこともあった。その頃は単純にうれしくて、少しばかり得意になった。その頃の私は、女性として魅力があることが、イコール幸せにつながると馬鹿みたいに信じていた。
でも今の私は違う。そんな幻想なんかには用はない。あの事件があった後から、私は変わってしまった。自分でも自覚している。だけど、それでいいとも思う。
裸の自分をまじまじと見つめる。
うすくとがったナイフみたいな身体。無駄のところを一切省き、鍛え上げた。それを女性の肌でカモフラージュしている。
この体型を保つのに苦労している。腕を太くしないで筋肉をつけるのは半端じゃなく難しい。力よりもスピードと柔軟性に重点を置き鍛えなければ、あっという間に太くなってしまう。
でも、その努力はいま確実に実を結んでいる。この姿は標的を油断させるのに随分役にたつ。
『……警察は殺害犯を未だ見当もつけることができないようです。不気味な犯人像が浮かび上がってくるばかりです。いったいこの犯人は何人殺めれば気が済むのでしょうか』
手持ち無沙汰でつけたテレビから事件のことが流れる。美人で有名な女キャスターは柳眉をしかめながら、ため息を漏らしていた。何も関係ない人がこのニュースを見れば気分がわるくなるだろうか。少し申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。もうすぐ終るから。私はテレビのキャスターに向かって目礼した。
「クシュッ」
くしゃみがでた。傍からみたら馬鹿みたい。いつまでもこんな格好でいてもしかたがない。もともと、そこまで体が強い方ではないのに。
慌ててバスルーム向かう。こんな事でせっかくのベストの状態でいる体調を崩してもしかたがない。
親に無理を言って借りてもらったワンルームは、誰に気を遣うことなく振舞えた。そのため、裸でうろつく事もさして気にならない。
飛び込むなり、シャワーのコックを捻った。しばらくして、温かいお湯が出てくる。それを確認した後、ゆっくり腕からかけてゆく。
「…………ふう」
シャワーを浴びた部分から温もりが広がっていき、冷えた体には心地よかった。
温かい雨が降り注ぐ。水の音は何故だか人を安心させる。単調なシャワーの音でさえ、どこか心が安らぐ気がする。
あの時もそうだった。孤独と絶望に打ちのめされていた私に、ただ雨の音だけ優しかった。シャワーの音を聞きながら、私は少しだけ昔のことを思い出した。
―2―
行為が終わった後、男達は急に慌て始めた。ようやく自分達のしでかした事の重大性に気付いたようだ。
「どうするよ、こいつ」
「……どうするって、おまえ」
男達の困惑する姿はどこか滑稽だった。
……いえ、滑稽なのは私。こんな男どもに翻弄され無残に散らされてしまった私自身。
太腿をつたう白い液体。そこに赤い色が混ざっているのを見て、どうしようもなくやるせなくなった。
不意に目隠しをされた。体が強く拘束される。宙に浮く感じがした。
いやだ、身体をひねり抵抗する。
後ろ頭に鈍い衝撃がはしった。燃えるような痛みが一瞬生まれ、徐々に意識がぼやけていく。私は今まで何があろうと気だけはしっかり持っていた。それがささやかだけれども抵抗だと思っていたから。半ば意地になっていた。
でも、それさえも私はあっけなく奪われた。
――私は本当に無力だった。
そして、規則正しい雨の音で私は目を覚ました。頬を濡らすやわらかな水の感触が気持ちよかった。冷たいはずの雨は何故か心地よく、体の温もりを外に逃がしてくれる。熱を持った身体をいたわるように、雨はただ私を包んでくれた。
――痛い――
妙に身体が痛いと思ったら、いたるところに傷があった。それが熱を持ち、熱く腫れている。ここは暗く、冷たい道路の上。きっと、私はぼろ雑巾のように捨てられたのだ。使用済みの玩具には、この程度の扱いがお似合いだと言わんばかりに。
「ハ…ハハハ……はは…、アハハハははははははは」
声を出したのも久しぶりだった。あの暗い建物の中では、声を出そうにも出せなかった。でも、最初に漏れ出たのは、予想していた泣き声でも、悲鳴でもなく……、哄笑だった。自分でも抑えきれなかった。お腹の奥が震え、笑いが込み上げてくる。こんなに笑ったのは初めてかもしれない。喉が苦しくても、身体が痙攣しても病的な笑いは止まらない。てっきり最初にでるのは、泣き声だと思っていたのに。
山道なのか、街灯もポツリ、ポツリしかなく辺りは薄暗い。見渡す限り家という存在もなく、ただ道路が伸びているだけ。そんなところに裸の女が一人。寒かった。悔しかった。そして、惨めだった。
雨は降り続けていた。街灯に照らされて雨は一粒一粒がきらきらと輝いている。穢れを知らないかのように、光のシャワーと化していた。
それは、きれいな光景だった。闇の中、浮かび上がるように流れる光の滝。ひどく汚れてしまった私にとって、それはとてもまぶしい存在として目に映った。もう二度と得られないかのように、羨望さえ覚えた。
私はそこにふらつく足で歩み寄った。歩くはしから倒れそうになる。暗さに慣れた目には、弱い街灯の光もスポットライトのようにまぶしかった。落ちてきた雨を手で受けとめる。すぐに手の平にたまった。いっぱいになったら捨てて、次の雨を受け止める。その繰り返し。私は次第に、スポットライトを本当に浴びている気分になってきた。小さい頃、バレーの発表会で表彰された時みたいにふわふわとしていて現実感がなかった。私は踊り始めた。基本のステップからはじめ、覚えている限りの、踊りを踊った。
「…伴奏は規則正しい雨の音。少しば…かり単調ですが、これも風情と思いお許しください」
うん、きちんと言えた。ぺこりと虚空に一礼する。
踊る、踊る、ただ踊る。身体が痛かろうと、息が切れようとも私は踊り続けた。心臓が悲鳴をあげる。それでも私は踊る。何も考えたくはなかった。今は、ただ今だけは頭の中から全ての事を追い出したかった。
息が弾む。喉が苦しい。止まりたい、でも止まれない。止まったら、きっと私はだめになる。身体が悲鳴をあげる。それでも、踊りつづけなくてはならない。
「あっ…………」
疲労のあまり足がもつれてしまった。短い悲鳴が漏れ出る。一瞬の浮遊感。そして、私は雨に濡れた地面に叩きつけられた。強い衝撃が全身を貫く。胸を強く圧迫されたかのように呼吸ができなくなる。あまりの痛みのため声もでない。
私はそのまま、じっとしていた。雨はシトシトと降り注ぐ。顔に雨粒が当たる感触が心地よかった。傷口がまた増えてしまった。こんな風では、女性として失格なのかもしれない。
「ふふふふ……ふふふふふふふふ…………」
笑わなくてはならない。そうじゃないと気づいてしまう。傷が深く酷いものになってしまう。
「あははは…………はは……は……」
ダメだ。これじゃあ、ダメなんだ。私は笑わなくてはならないのに。それが逃避の手段なのに……。
「はは……は…は……っっっ……クっ……クッ」
喉が震える。胸が激しく上下する。心の悲鳴が身体に伝わる。痙攣したように身体が震えてゆく。
「ッッ……目に雨が入っただけ……。私は泣いてなんかいない……。泣いて……なんか……」
口を手で覆う。嗚咽が漏れ出てくるのを強制的に止める。
「っぅ…………泣いて……なん……か……やるものか……」
雨が降っているのはありがたかった。頬を流れる雫を、わからなくしてくれる。この誰もいない世界で、雨だけが、ただ私に優しかった。それ、に私より先に雨が泣いてくれた。だから私は泣いてなんかいない。
水の音が安らぎを与えてくれた。規則正しいリズムはまるで赤子をあやすようで、お母さんといる気がした。
――いまごろお母さんなにやってるんだろ。
意識を手放す前に考えた事は、そんな取り止めのない事だった。
最初に私の目に飛び込んできたのは、清潔な白い壁だった。あまりのギャップに、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。でも、急に騒ぎ出した人達をみて、ああ助かったのだと理解した。後で聞いた話なのだが、道路で倒れている私を病院まで連れて来てくれた人がいたということだ。
軽く首を巡らすと肌が引きつるように痛んだ。
「都子っ、あなた、都子が目を覚ましたわよ!」
お母さんの声が聞こえる。声の方を向くと両親の姿が見えた。
「あはっ…。お父さ……ん、変な格好……」
お父さんはスーツにジーパンというヘンテコな格好。お母さんは外に出る時は、必ずといっていいほど完璧に化粧をするのに、今日は素顔だった。母さんは化粧が長い。そう、嬉しそうにぼやくお父さんの姿が私は好きだった。
お母さんは顔色は紙のように白く、今にも倒れそうだった。お父さんは、きつく唇を噛みしめ、顔を歪ませていた。
「大丈…夫だから……、私、だいじょうぶ……」
私は二人を心配させまいと笑おうとした。クチビルの端を持ち上げるだけなのに、傷ついた肌はひどく痛んだ。でも、ずいぶん、ゆっくりとだが私は笑顔を浮かべる事ができた。
その瞬間、お母さんは泣き崩れた。お父さんも目の淵を真っ赤にして、憎らしげに呪詛の言葉をもらした。
私は二人に何もしてあげることはできなかった。こうして悲しませる原因となってしまったのは私自身なのだから。だから、私には言葉を紡ぐ事しかできない。
ワタシハダイジョウブダカラ……ワタシハダイジョウブダカラ……。
壊れたオモチャのように繰り返す。
こんなことで私は負けない。負けたくなかった。だから、自分にも言い聞かす。問題ない。ささいな事だ。こんな事で私の価値はちっとも損なわれてなんかいない。
私は二人が悲しみにうちひしがれている間も、笑顔を浮かべつづけた。つつけば壊れてしまいそうな仮面も、壊れなければ仮面として機能する。私の笑顔は欠陥だらけで、みっともないけれども、こうして笑うのは私の意思。
こんな事で悲しんでなんかやるものか……。
お父さんはそんな私を見て、抱きしめてくれた。慰めや、同情の言葉など一切かけず、ただ抱きしめてくれた。懐かしい匂いと共に温かい気持ちが流れ込んでくる。鼻の奥がツーンとした。目の淵があつくなった。泣き顔は見られたくなかった。それなのに後から後から熱いものがこみ上げてくる。強く顔を押しつけて、ごまかした。肩が震えるのは押さえることができなかったけれど。
そして、お父さんは『おかえり』と言ってくれた。その口調は震えて、擦れてもいたけれど、気持ちは十分伝わってきた。その心遣いがただうれしかった。
その後、警察が事情聴取にきた。若い女性が行方不明になったと思ったら、山道に裸で発見された。事件性は十分にあった。しかし、事情聴取にきた中年の警官は沈痛そうに口を開いた。「告訴しますか」と。
普通は考えるまでもなく訴えることが当たり前。しかし、今回のようなケースは例外だった。性犯罪の被害者は例外なく心に深い傷を負う。それなのに、いざ事件として立件するとなると調書を取られ、遭ったことを何度も話さなければならない。そう、何度も何度も。被害を受けた者にとっては思い出したくもない事。それを始めから全部語らなくてはならない事は耐え難い。だから、被害にあった女性の中には、告訴しない人もかなりいるということだ。
その話を聞き、私はとりあえず保留にしてもらった。まだ、私の中でさえ結論が出ていなかった。
病院には傷を治す間はいることにした。こんな姿のまま、家に帰るのは嫌だったし、もう少し落ち着いて考える時間が欲しかった。幸い私の病室は個室のため、人にわずらわされることもない。時間だけは腐るほどあった。まだ、何もやる気が起きなかったし、だれも私になにかさせようとしなかった。
一月も経つ頃には、体の傷はほとんど治っていた。幸いにもほとんど傷跡はのこらなかった。殴られたところは腫れて痛かったが、しばらくしたら何ともなくなった。
でも、心の傷は、目に見えてはっきり残った。
夜を迎える度に夢を見るのだ。あの時の夢を何度も何度も繰り返し。夜中に悲鳴を上げて飛び起き、錯乱する。それが、毎晩のように起こった。夢の中で私は毎晩のように無理やり犯され、凌辱される。抵抗しようにも、もうすでに起こった事。だから、変えようがなかった。ただ、私に痛みと屈辱と黒い感情を植え付け続けた。
夢の中の私は、自分を犯した男達に繰り返し呪詛の言葉を投げかける。
フクシュウ、エモノ、ユルセナイ、――
今まで、誰かを本気で憎いと思った事はなかった。本当はこんな事早く忘れて、元の私に戻りたかった。でも、それを私の心がそれを許さなかった。
消えないのだ。あの男どもの顔が。
日常のふとした瞬間に浮かんできては、私を苛む。起きていても、寝ていても、私は捕らわれの身だった。私の悪夢は決して終わろうとしなかった。
夢は暗く淀んだ感情を私に蓄積していった。そして、そのことは私の中に徐々にある感情を形作っていった。
それは――殺意。
入り乱れた負の想いは、私にその選択を容易に選ばせた。人を殺そうと思うとき、なんら特別な覚悟などいらない。これから自分がやることを、ただ、決めるだけ。
私をこのような目にあわせた連中をこの世から抹殺する。
そう決めた時、胸の中がスーと軽くなった。たまった感情が方向をつけられ動き出したのだ。早くこうすればよかった。そう思ったほどだ。
両親や私を心配してくれる人には、正直、申し訳ないと思った。私がそんな道を選ぶことを誰も喜びはしないだろう。でも、私は喜ぶのだ。身体が、ココロが、歓喜の悲鳴をあげる。
喜びと憎しみ、そして決意を持って、私は動き出した。
黒光りする小さな凶器が、私の手の中で輝いていた。
コルトパイソン。コンパクトな大きさの割にはバランスの取れた銃である。
女性にとって扱いやすく、銃社会のアメリカでも人気商品。グリップの部分にカラフルな装飾を施し、ファッション感覚で持つこともできる。たった6発しか吐き出せない頼りない相棒。だけど、初めて手に持った瞬間、吸い付くように手になじんだ。まるで、運命の相手にであったかのように胸が高鳴った。サブレッサーをつけ、カスタマイズをした私だけの相棒。目的にとって、欠かせないもの。
最初の頃は少しだけ重く感じたが、それも、もう慣れた。
ショルダーバックからタバコを取り出し、火をつけた。胸の奥まで吸い込むと、肺の中に心地よい感覚が広がる。昔はこの匂いさえ苦手だった。今では信じられない。
近くにあった椅子に腰掛け、ゆらゆらと立ち昇る紫煙をなんとなく眺めていた。部屋の中はカーテンを締め切っているため、暗く淀んでいる。そこにタバコの明かりが明滅しているのが自己主張のように感じられた。妙に滑稽だった。
「ふう……、おいしい。あなたも吸う?」
私は目の前で揺れている男にそっと語りかけた。親しみの笑みも同時に込めて。もちろん返事なんてない。そんなことは始めからわかっている。
「そろそろ、行くわ……」
テーブルの上に置いていたジャケットを羽織る。そして、拳銃を専用ホルダーに入れバックに収める。
男は何も語らない。ただ揺れているだけ。
「ごめんなさいね。今夜は指一本触らせてあげられなくて」
私も悪趣味だ。苦笑がもれる。
言葉遊びはもうおしまい。
私は立ち上がると玄関に向かった。靴の上に靴下を重ねてはいているため足音もしない。普通は逆と思うかもしれないが、侵入者として、それは当然の技術。
手袋をした手でドアを開け、隙間から外を覗く。闇夜に沈む閑静な住宅街。こんな時間に部外者がうろついていれば嫌でも目立ってしまう。人目につかないように細心の注意を払わなければならない。
最後にもう一度だけ振り返る。男は少しずつ揺れをやめていた。床には血が滴り落ちている。
――私が殺した男。
手足を撃ち身動きできなくした上で、性器を破壊した。後は首に縄をかけ、テコの原理で持ち上げるだけ。これを見て誰が自殺だなんて思うだろうか。だから、メッセージは伝わるはず。
「あと、一人……」
そう、私はもう後戻りができない。
ドアを開け、わずかな隙間から外の世界に滑り落ちた。
―1―
私の上で蠢く奇怪な物体。
蛆虫のように這いずり回る舌。
おもちゃのようにぞんざいに扱う汚い手。
――それが私の自由を奪っているものの全てだった。
手は紐のようなもので後ろ手に縛られ、動かす事ができない。自由な足の方は貧相な男どもに片方ずつ押さえつけられている。悲鳴を上げようにも口に何かを詰められ声を出す事すらできない。お気に入りだったブルーのワンピースはぼろぼろに引き裂かれ、片方の袖が残っているだけ。誕生日にお父さんに買ってもらったミュールはどこかへ行ってしまった。
私は――無力だ
上に乗っている男を、侮蔑を込めて睨みつける。男はそれに気づくと下卑た顔をして笑った。そして、笑ったまま殴りつけてきた。口の中に錆びた鉄の味が広がる。涙はもう出ない。乾いてしまった。
どうしてこんな事になったのだろう。
思い出そうとしても頭が上手く回らない。気が付けば三人の男に組み敷かれていた。そして、この状況がもう何十分か何時間か続いている。
辺りは暗かった。どこかの倉庫なのだろうか。がらんとして広い空間に男達の荒い息と何かが擦れるような音が木霊する。断続的に加わる重みに腰が痺れを通りこし、麻痺していた。
屈辱や恐怖で目の前が真っ暗になる。それでも私は耐える事ができた。
復讐――その言葉だけを思い浮かべる。それは私の魔法の呪文。現実を手放さないための唯一の砦。
三人の顔をよく見つめる。目隠しをされなかった事は幸いだ。もし、そんな事をされたら顔を覚える事ができなかった。そう考えると、私は本当にだめになってしまっただろう。
――覚えた。
自分を守ってくれない法になんか頼らない。それに、誰かに譲るなんてもったいなくてできない。
コレハワタシノエモノ
他の誰でもない、私自身がゆっくりけりをつけてあげる。一人、一人に与えられた屈辱と痛みを何十倍にもして返してやるわ。
だから、今は目を閉じよう。終わりの時が来るまで。そして、私にとってはその時が始まりの時になるのだから。
◇◇◇◇
「…………………ッ!」
目が引きつったように大きく開いた。眼球の筋肉が限界まで広げたせいか、強張り痛みがはしる。頭の中に原色の絵の具をごちゃ混ぜにしたような感情がこみ上げ、嘔吐感が喉元までせり上がる。
私は大丈夫、もう大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせる。それでも、じわりと瞳が潤むのを止められなかった。
ぼやけた視界の向こうに淡いクリーム色の天井が映った。見慣れた光景。上半身を起こし部屋の中を見回す。必要最低限な家具しかないが、小奇麗にまとまった部屋。鏡台の上にはふたが取れたままの化粧水が、昨日のままの姿をさらしていた。
よかった、ここは私の部屋だ。
現実の実感が私に安堵のため息をもたらす。
また、あの夢を見てしまった。軽く頭を振り、夢の残滓を振り払う。
夢を見た後はいつも現実との区別が曖昧になる。その夢の中では確かに感触があり、現実となんら変わりはない。だから、私は相変わらず檻の中に囚われている。
憂鬱な気分で顔をおおう。寝覚めは最悪だった。
あれから随分時間が経ったが、心に刻みつけられた傷跡は今もその姿を保ったままだった。こびりついた記憶が今のように不意によみがえり、塞がりかけたかさぶたをぺりぺりとめくっていく。
もう忘れたい。普通に生きたい。何度そう思ったことか。
でも、今は、そうするわけにはいかない。
私の怒りが風化していない事を何よりも教えてくれるから。
まだすべてが終わっていない。清算するのはその後でも遅くはない。
ベッドから起き上がる。嫌な夢をみたせいかシャツがベットリと肌に張り付いていた。気持ちが悪い。
「…………」
シャツを脱ぐなり投げつけた。狙いどおり洗濯カゴの中へ入っていく。面白くなった。ついでにブラも外す。丸めて、投げる。今度も入った。下着も脱ぐ。今度の比重は軽い。正確に狙いをつけなければならない。銃を撃つ要領で感覚を広げる。対象のみならず空間そのものを認識して、感覚を四方に広げる。そして、対象と腕が一直線になるようにして、姿勢を整える。気力を高め、自分を研ぎ澄ます。空気が張り詰めるその一瞬――投げる。
「……外れた」
やはり、感覚が違う。下着は空気抵抗を受けふわりと舞い上がり、カゴの少し手前で落ちた。
朝から馬鹿な事をしてしまった。そんな自分に苦笑が漏れる。そして、気付いた。大丈夫、まだ私は笑える。追い詰められた者は、苦笑さえ漏れないらしい。犯罪心理学に書いてあった一節を思い出す。
新聞に事件の事が載って、何日目だろうか。ちまた巷では私は有名人だ。といっても、悪質な犯罪者としてだが。連続殺人犯として、警察が躍起になって捜している。殺人を次々と犯しているのに、手がかりをつかませない。成人男性だけを特徴的に殺す犯人として、テレビでは語られていた。もちろん、本名、性別、その他、何もばれてはいない。もっともメディアという媒体に載ってないだけで本当はどうだか分からない。この国の警察は、凶悪犯罪が多発しているアメリカと違い、緊張感はないが捜査力自体は優秀だった。だから、そこまで楽観視するわけにはいかない。ただ、お笑い種なのは、『この犯罪者は社会的に抑圧され、その精神を患った一種の愉快犯だ』と偉ぶった評論家がもっともらしく言っていたことだ。彼らが私を見たらどう思うのだろう。
部屋の隅に置いてある姿見に自分を映す。最近、やっと自分の身体を見られるようになってきた。あの時の傷はもうどこにも無い。もっとも目に見えなくなっただけで、言い換えればより深く潜伏してしまっただけ。
不意に鏡の中の私に覆い被さる男が見えた。なめまわす舌。卑しい顔。まだ殺していない男。
「くっ!」
慌てて首を振り、映像を頭の中から追い出す。
いけない。大丈夫。ここにその男はいない。私は大丈夫、大丈夫。
まるで始めから居なかったかのように男の姿が掻き消えた。安堵の溜息が漏れる。
鏡の中の私は、親とはなれた子供のようにひどく頼りない顔をしていた。その反面、体は女性らしく整っているのが、ひどく悲しくなった。
膨らんだ乳房、くびれた腰。華奢な体格。昔、友達にうらやましいと言われたことがあった。褒められたこともあった。その頃は単純にうれしくて、少しばかり得意になった。その頃の私は、女性として魅力があることが、イコール幸せにつながると馬鹿みたいに信じていた。
でも今の私は違う。そんな幻想なんかには用はない。あの事件があった後から、私は変わってしまった。自分でも自覚している。だけど、それでいいとも思う。
裸の自分をまじまじと見つめる。
うすくとがったナイフみたいな身体。無駄のところを一切省き、鍛え上げた。それを女性の肌でカモフラージュしている。
この体型を保つのに苦労している。腕を太くしないで筋肉をつけるのは半端じゃなく難しい。力よりもスピードと柔軟性に重点を置き鍛えなければ、あっという間に太くなってしまう。
でも、その努力はいま確実に実を結んでいる。この姿は標的を油断させるのに随分役にたつ。
『……警察は殺害犯を未だ見当もつけることができないようです。不気味な犯人像が浮かび上がってくるばかりです。いったいこの犯人は何人殺めれば気が済むのでしょうか』
手持ち無沙汰でつけたテレビから事件のことが流れる。美人で有名な女キャスターは柳眉をしかめながら、ため息を漏らしていた。何も関係ない人がこのニュースを見れば気分がわるくなるだろうか。少し申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。もうすぐ終るから。私はテレビのキャスターに向かって目礼した。
「クシュッ」
くしゃみがでた。傍からみたら馬鹿みたい。いつまでもこんな格好でいてもしかたがない。もともと、そこまで体が強い方ではないのに。
慌ててバスルーム向かう。こんな事でせっかくのベストの状態でいる体調を崩してもしかたがない。
親に無理を言って借りてもらったワンルームは、誰に気を遣うことなく振舞えた。そのため、裸でうろつく事もさして気にならない。
飛び込むなり、シャワーのコックを捻った。しばらくして、温かいお湯が出てくる。それを確認した後、ゆっくり腕からかけてゆく。
「…………ふう」
シャワーを浴びた部分から温もりが広がっていき、冷えた体には心地よかった。
温かい雨が降り注ぐ。水の音は何故だか人を安心させる。単調なシャワーの音でさえ、どこか心が安らぐ気がする。
あの時もそうだった。孤独と絶望に打ちのめされていた私に、ただ雨の音だけ優しかった。シャワーの音を聞きながら、私は少しだけ昔のことを思い出した。
―2―
行為が終わった後、男達は急に慌て始めた。ようやく自分達のしでかした事の重大性に気付いたようだ。
「どうするよ、こいつ」
「……どうするって、おまえ」
男達の困惑する姿はどこか滑稽だった。
……いえ、滑稽なのは私。こんな男どもに翻弄され無残に散らされてしまった私自身。
太腿をつたう白い液体。そこに赤い色が混ざっているのを見て、どうしようもなくやるせなくなった。
不意に目隠しをされた。体が強く拘束される。宙に浮く感じがした。
いやだ、身体をひねり抵抗する。
後ろ頭に鈍い衝撃がはしった。燃えるような痛みが一瞬生まれ、徐々に意識がぼやけていく。私は今まで何があろうと気だけはしっかり持っていた。それがささやかだけれども抵抗だと思っていたから。半ば意地になっていた。
でも、それさえも私はあっけなく奪われた。
――私は本当に無力だった。
そして、規則正しい雨の音で私は目を覚ました。頬を濡らすやわらかな水の感触が気持ちよかった。冷たいはずの雨は何故か心地よく、体の温もりを外に逃がしてくれる。熱を持った身体をいたわるように、雨はただ私を包んでくれた。
――痛い――
妙に身体が痛いと思ったら、いたるところに傷があった。それが熱を持ち、熱く腫れている。ここは暗く、冷たい道路の上。きっと、私はぼろ雑巾のように捨てられたのだ。使用済みの玩具には、この程度の扱いがお似合いだと言わんばかりに。
「ハ…ハハハ……はは…、アハハハははははははは」
声を出したのも久しぶりだった。あの暗い建物の中では、声を出そうにも出せなかった。でも、最初に漏れ出たのは、予想していた泣き声でも、悲鳴でもなく……、哄笑だった。自分でも抑えきれなかった。お腹の奥が震え、笑いが込み上げてくる。こんなに笑ったのは初めてかもしれない。喉が苦しくても、身体が痙攣しても病的な笑いは止まらない。てっきり最初にでるのは、泣き声だと思っていたのに。
山道なのか、街灯もポツリ、ポツリしかなく辺りは薄暗い。見渡す限り家という存在もなく、ただ道路が伸びているだけ。そんなところに裸の女が一人。寒かった。悔しかった。そして、惨めだった。
雨は降り続けていた。街灯に照らされて雨は一粒一粒がきらきらと輝いている。穢れを知らないかのように、光のシャワーと化していた。
それは、きれいな光景だった。闇の中、浮かび上がるように流れる光の滝。ひどく汚れてしまった私にとって、それはとてもまぶしい存在として目に映った。もう二度と得られないかのように、羨望さえ覚えた。
私はそこにふらつく足で歩み寄った。歩くはしから倒れそうになる。暗さに慣れた目には、弱い街灯の光もスポットライトのようにまぶしかった。落ちてきた雨を手で受けとめる。すぐに手の平にたまった。いっぱいになったら捨てて、次の雨を受け止める。その繰り返し。私は次第に、スポットライトを本当に浴びている気分になってきた。小さい頃、バレーの発表会で表彰された時みたいにふわふわとしていて現実感がなかった。私は踊り始めた。基本のステップからはじめ、覚えている限りの、踊りを踊った。
「…伴奏は規則正しい雨の音。少しば…かり単調ですが、これも風情と思いお許しください」
うん、きちんと言えた。ぺこりと虚空に一礼する。
踊る、踊る、ただ踊る。身体が痛かろうと、息が切れようとも私は踊り続けた。心臓が悲鳴をあげる。それでも私は踊る。何も考えたくはなかった。今は、ただ今だけは頭の中から全ての事を追い出したかった。
息が弾む。喉が苦しい。止まりたい、でも止まれない。止まったら、きっと私はだめになる。身体が悲鳴をあげる。それでも、踊りつづけなくてはならない。
「あっ…………」
疲労のあまり足がもつれてしまった。短い悲鳴が漏れ出る。一瞬の浮遊感。そして、私は雨に濡れた地面に叩きつけられた。強い衝撃が全身を貫く。胸を強く圧迫されたかのように呼吸ができなくなる。あまりの痛みのため声もでない。
私はそのまま、じっとしていた。雨はシトシトと降り注ぐ。顔に雨粒が当たる感触が心地よかった。傷口がまた増えてしまった。こんな風では、女性として失格なのかもしれない。
「ふふふふ……ふふふふふふふふ…………」
笑わなくてはならない。そうじゃないと気づいてしまう。傷が深く酷いものになってしまう。
「あははは…………はは……は……」
ダメだ。これじゃあ、ダメなんだ。私は笑わなくてはならないのに。それが逃避の手段なのに……。
「はは……は…は……っっっ……クっ……クッ」
喉が震える。胸が激しく上下する。心の悲鳴が身体に伝わる。痙攣したように身体が震えてゆく。
「ッッ……目に雨が入っただけ……。私は泣いてなんかいない……。泣いて……なんか……」
口を手で覆う。嗚咽が漏れ出てくるのを強制的に止める。
「っぅ…………泣いて……なん……か……やるものか……」
雨が降っているのはありがたかった。頬を流れる雫を、わからなくしてくれる。この誰もいない世界で、雨だけが、ただ私に優しかった。それ、に私より先に雨が泣いてくれた。だから私は泣いてなんかいない。
水の音が安らぎを与えてくれた。規則正しいリズムはまるで赤子をあやすようで、お母さんといる気がした。
――いまごろお母さんなにやってるんだろ。
意識を手放す前に考えた事は、そんな取り止めのない事だった。
最初に私の目に飛び込んできたのは、清潔な白い壁だった。あまりのギャップに、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。でも、急に騒ぎ出した人達をみて、ああ助かったのだと理解した。後で聞いた話なのだが、道路で倒れている私を病院まで連れて来てくれた人がいたということだ。
軽く首を巡らすと肌が引きつるように痛んだ。
「都子っ、あなた、都子が目を覚ましたわよ!」
お母さんの声が聞こえる。声の方を向くと両親の姿が見えた。
「あはっ…。お父さ……ん、変な格好……」
お父さんはスーツにジーパンというヘンテコな格好。お母さんは外に出る時は、必ずといっていいほど完璧に化粧をするのに、今日は素顔だった。母さんは化粧が長い。そう、嬉しそうにぼやくお父さんの姿が私は好きだった。
お母さんは顔色は紙のように白く、今にも倒れそうだった。お父さんは、きつく唇を噛みしめ、顔を歪ませていた。
「大丈…夫だから……、私、だいじょうぶ……」
私は二人を心配させまいと笑おうとした。クチビルの端を持ち上げるだけなのに、傷ついた肌はひどく痛んだ。でも、ずいぶん、ゆっくりとだが私は笑顔を浮かべる事ができた。
その瞬間、お母さんは泣き崩れた。お父さんも目の淵を真っ赤にして、憎らしげに呪詛の言葉をもらした。
私は二人に何もしてあげることはできなかった。こうして悲しませる原因となってしまったのは私自身なのだから。だから、私には言葉を紡ぐ事しかできない。
ワタシハダイジョウブダカラ……ワタシハダイジョウブダカラ……。
壊れたオモチャのように繰り返す。
こんなことで私は負けない。負けたくなかった。だから、自分にも言い聞かす。問題ない。ささいな事だ。こんな事で私の価値はちっとも損なわれてなんかいない。
私は二人が悲しみにうちひしがれている間も、笑顔を浮かべつづけた。つつけば壊れてしまいそうな仮面も、壊れなければ仮面として機能する。私の笑顔は欠陥だらけで、みっともないけれども、こうして笑うのは私の意思。
こんな事で悲しんでなんかやるものか……。
お父さんはそんな私を見て、抱きしめてくれた。慰めや、同情の言葉など一切かけず、ただ抱きしめてくれた。懐かしい匂いと共に温かい気持ちが流れ込んでくる。鼻の奥がツーンとした。目の淵があつくなった。泣き顔は見られたくなかった。それなのに後から後から熱いものがこみ上げてくる。強く顔を押しつけて、ごまかした。肩が震えるのは押さえることができなかったけれど。
そして、お父さんは『おかえり』と言ってくれた。その口調は震えて、擦れてもいたけれど、気持ちは十分伝わってきた。その心遣いがただうれしかった。
その後、警察が事情聴取にきた。若い女性が行方不明になったと思ったら、山道に裸で発見された。事件性は十分にあった。しかし、事情聴取にきた中年の警官は沈痛そうに口を開いた。「告訴しますか」と。
普通は考えるまでもなく訴えることが当たり前。しかし、今回のようなケースは例外だった。性犯罪の被害者は例外なく心に深い傷を負う。それなのに、いざ事件として立件するとなると調書を取られ、遭ったことを何度も話さなければならない。そう、何度も何度も。被害を受けた者にとっては思い出したくもない事。それを始めから全部語らなくてはならない事は耐え難い。だから、被害にあった女性の中には、告訴しない人もかなりいるということだ。
その話を聞き、私はとりあえず保留にしてもらった。まだ、私の中でさえ結論が出ていなかった。
病院には傷を治す間はいることにした。こんな姿のまま、家に帰るのは嫌だったし、もう少し落ち着いて考える時間が欲しかった。幸い私の病室は個室のため、人にわずらわされることもない。時間だけは腐るほどあった。まだ、何もやる気が起きなかったし、だれも私になにかさせようとしなかった。
一月も経つ頃には、体の傷はほとんど治っていた。幸いにもほとんど傷跡はのこらなかった。殴られたところは腫れて痛かったが、しばらくしたら何ともなくなった。
でも、心の傷は、目に見えてはっきり残った。
夜を迎える度に夢を見るのだ。あの時の夢を何度も何度も繰り返し。夜中に悲鳴を上げて飛び起き、錯乱する。それが、毎晩のように起こった。夢の中で私は毎晩のように無理やり犯され、凌辱される。抵抗しようにも、もうすでに起こった事。だから、変えようがなかった。ただ、私に痛みと屈辱と黒い感情を植え付け続けた。
夢の中の私は、自分を犯した男達に繰り返し呪詛の言葉を投げかける。
フクシュウ、エモノ、ユルセナイ、――
今まで、誰かを本気で憎いと思った事はなかった。本当はこんな事早く忘れて、元の私に戻りたかった。でも、それを私の心がそれを許さなかった。
消えないのだ。あの男どもの顔が。
日常のふとした瞬間に浮かんできては、私を苛む。起きていても、寝ていても、私は捕らわれの身だった。私の悪夢は決して終わろうとしなかった。
夢は暗く淀んだ感情を私に蓄積していった。そして、そのことは私の中に徐々にある感情を形作っていった。
それは――殺意。
入り乱れた負の想いは、私にその選択を容易に選ばせた。人を殺そうと思うとき、なんら特別な覚悟などいらない。これから自分がやることを、ただ、決めるだけ。
私をこのような目にあわせた連中をこの世から抹殺する。
そう決めた時、胸の中がスーと軽くなった。たまった感情が方向をつけられ動き出したのだ。早くこうすればよかった。そう思ったほどだ。
両親や私を心配してくれる人には、正直、申し訳ないと思った。私がそんな道を選ぶことを誰も喜びはしないだろう。でも、私は喜ぶのだ。身体が、ココロが、歓喜の悲鳴をあげる。
喜びと憎しみ、そして決意を持って、私は動き出した。
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
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