短編小説
あの雨の下で(中編)
―3―
肌についた水滴を拭うと私はバスタオルを身体に巻きつけた。下着を用意するのを忘れていた。別にさっきみたいに裸で動いてもよかったけれど、風邪を引いてはたまらない。今夜は大事な用があるのだから、体調だけはきちんと整えておかなくてはならない。万に一つの可能性も考慮して行動しなくてはならなかった。
クローゼットから下着を取り出すと、バスタオルをはずし手早く身に付けた。そして、部屋の中に干してあった洗いざらしのシャツと、デニムのショートパンツに着替える。事件があった後、私は服装の好みまで変わってしまった。昔は機能性なんてどうでもよかった。でも、今はそれが最優先事項。
朝食を取ろうと思い冷蔵庫の中を開ける。パックの牛乳と卵、それにベーコンも発見する。ベーコンエッグにでもしようかと思い、昨日同じだったと気がついた。そろそろ、買出しにも行かなくてはいけないな。
不意に映像が浮かんだ。血まみれになってぶら下がっている男。私が殺した男。
「うっ!」
むかつきが胸の中に満ちる。優秀すぎる記憶能力。長所にもなるがこうして今のように短所になることのほうが多い。
なにか食べようとすると、急に生々しすぎる死体の映像が浮かび上がってくる。それをおして食べることもできるが結局は、戻してしまう。私は体力を維持しなければならなかった。断食は心を研ぎ澄ますのには良いが、肉体に多大なダメージを与える。最後の詰めの実行前にそれは避けなければならなかった。
どうやって食べようかと悩んでいると、不意に電話が鳴った。考えを中断して、受話器を取る。
「もしもし?」
「Hello, Miyako. This is melly. How are you?」
受話器を通して聞こえてきたのは、懐かしい英語だった。すぐさま私も言語を切り替える。
『メリー先生!? どうしたんですか急に?』
『いえ、久し振りに教え子の声が聞きたくなったのよ。あなたがいなくなって、とても寂しいわ』
メリー先生はどこかおどけた感じでいった。でも、この先生がこんな口調で言う時は大抵が気恥ずかしいだけで、本当は心から心配してくれていることを私は知っていた。
『私も寂しいですよ。メリー先生の怒鳴り声が聞けなくなったと思うと』
『……なんなら、今すぐ聞かせてあげようかしら』
少し怒気をはらんだ声。ポーズだって分かっている。こんなやり取りがとても懐かしい。
『あはは、冗談ですよ、冗談。でも、本当に懐かしく感じますね。まだ、私がアメリカから帰って一ヶ月しかたっていないのに』
『そうよ、ルームメイトのジェシーがいたでしょ。ミヤコが恋しいってずいぶん喚いていたわよ。あの子、あなたにとっても懐いていたから』
『ジェシーも相変わらずね。ふふふ、私も会いたいって伝えておいて下さい』
『あら、そんなこと言っていいのかしら。あの子、本当に日本まで会いに行くわよ』
『うーん、それはちょっと困るかも』
お互い笑いあう。久し振りに声を立てて笑った。心が幾分か軽くなったことに気付く。
『ありがとうございます。……それで、本題は?』
メリー先生は暇なだけで連絡を取る人ではない。一つの行動に幾通りの意味をつけ行動する人だ。
『言わなくても分かるとは思うけど、首尾は上々のようね』
『…………』
沈黙は肯定の証だった。なにより、私の行動を知っていながら言う人だ。その真意が読み取れない。
『警戒しなくてもいいわ。インターネットで日本のニュースを見たとき、ピンときた。これは、あなたの仕業だって』
メリー先生が電話口で笑うのが感じられた。
『………………ええ』
この人相手に隠し事をしてもしかたがない。私は正直にうなずいた。
『そう……。ついに行動を開始したのね。あなたは私の教え子の中でも優秀な生徒。このくらい造作も無いことでしょう』
そして、一息つくと声音を変えた。
『人を殺すのは、思ったより大変でしょ。特にあなたみたいな能力の持ち主にとっては』
――見抜かれている。そう思った。日常の出来事が全て記憶として残る私にとって、殺人行為とは、自らの首をしめているのに等しい。それは、つまり、何時でも隣に死があるということだ。
『……本当に……そうですね』
ご飯が上手く食べられなくなっていた。食欲が湧かないから、ありきたりの材料ですましてしまう。それも、限界で今は必要なカロリーを取る事さえ一苦労だった。
『何かしらの損害が出ることは事を始める前から分かっていました。それでも、私はやめようとは少しも思いませんでした。私の進む道に障壁となって立ちはだかる対象を――消去します』
どのような理由があろうとも人一人の命を奪うのだ。自分が少しも傷もつかずにいられるほど私は甘い考えを持っていない。
『相変わらずね、ミヤコ。意思を堅く持つことは良いことだけれど、堅いものには柔軟性がない。張り詰めすぎた弦が切れるように、限界を迎えたら弱いわ。ターゲットは後一人。相手も警戒しているはず。こういう時にこそ、時間を置くことの大切さも教えたはずよ』
私の師匠――古めかしい言い方だけど、メリー先生そんな言葉ピタリと当てはまる人だった。鬼ように厳しいかと思えば、母のように全てを包んでくれる。そんな彼女を好きだし、尊敬もしている。
『…………………』
私は無言だった。百万言を費やすより、この沈黙が私の主張を何より表してくれる。
『…………全くもう、困った子ね。技量は上がったけど、あなたの強情さは初めて会った時から全然かわっていないわ』
『メリー先生も変わっていませんよ』
『どこが?』
『……そうやって優しいところ』
『こら、照れるような事をいうんじゃない。ふふふ』
初めて会った時こんな風に話せるなんて、思ってもみなかった。あの頃の私は、弱い自分を守ろうと精一杯威嚇しているハリネズミみたいだった。そんな、私に戦う力と、武器をくれたメリー先生。本当に感謝している。
◇◇◇◇
病院から退院した後、私はアメリカに留学をすることを決意した。もちろん、あんな事件に遭った後だ、両親は止めた。娘がこれ以上危険な目にあうのを防ぎたいのは、親として当然の気持ちだろう。その、気持ちが痛いほどわかったし、このまま安穏と暮らせばよいことも分かっていた。それでも、私はもう決めていた。力が欲しかった。安穏と生きていくだけではなく、理不尽な運命に立ち向かう力を。
アメリカには各地にサバイバルスクールと呼ばれる訓練校がある。犯罪が多発するアメリカのような物騒なところで、生き抜く力と、切り抜ける技術を教えてくれるところだ。インターネット上でこの紹介記事を見た瞬間、私は唇が吊り上るのが止められなかった。このことは、裏を返せば、相手から生きる力を奪える事を意味する。私の目標にとって、もっとも都合がよかった。
必要な手続きを済まして、私は単身アメリカにわたった。両親には傷心を癒すためと、気分転換に技能学校に通うといって説得した。幸か不幸か私には、人とは違った能力がある。言語の違いはさして苦にならない。問題は資金面だったが、お父さんが黙って、出してくれた。明らかに不自然な娘の行動に、何も言わないお父さんの優しさをただ感謝した。
サバイバルスクールに入ってからは毎日訓練に明け暮れた。知識と技能を効率的に詰め込み、徐々に自分を変革していく。もっとも私の場合、知識の方は問題なく習得できるのだが、体のほうがついてこない。目下の課題は身体面の強化であった。
襲われたとき私はとても非力で、抵抗などほとんどできなかった。男に力でかなうとは思っていなかったが、少しぐらい抵抗できると思った。だけど、無駄だった。純粋な暴力の前では、私は嵐の中で迷う小船のように無力だった。
だから、死に物狂いで訓練した。他の誰も寄せつけず、スクールの誰よりも。倒れるまで、毎日ただ鍛え続けた。
『16番、待ちなさい』
そして、不意に呼びかけられた事がメリーと私の最初の出会いだった。スクールでは学籍番号で呼ばれる。その日の私は、一日のメニューとは別の個人トレーニングを終え、シャワーを浴びようとしていた。スクールには立派なシャワー施設があり、皆に重宝がられている。そして、上着を脱いだ瞬間、声をかけられた。
『なんですか?』
指導教官の一人、メリー・バーナム教官だ。数少ない女性教官の一人として知ってはいたが、話し掛けられたのは初めてだ。ここの教官になるためにはある程度の軍務知識が必要とされる。それを得るためにはやはり軍隊で学ぶのが一番早い。その為か、女性の教官は驚くほど少なかった。
『腕を見せなさい』
言いながら返事も待たず腕をとられた。いきなりなんて、失礼な人だ。
『何をするんですか!』
怒気もあらわに言い放つ。人に触れられたくなかった。同じ女性でも、他人に触られるのは嫌だった。乱暴に振り払おうとする。その瞬間、体を返され肘を決められる。
『痛いっ』
『見なさい。この腕を。あなたはどんな風に訓練しているの。完全にオーバーワークじゃない。筋肉の疲労回復がついてきていないわ。これでは自分をいじめているのと一緒よ』
確かに、私の腕はパンパンに膨れ上がっていた。でも、そんな事はどうでもよいのだ。今は、少しでも力をつけ、自分を強くしたい。
『放っておいてください!』
腕を取ろうとするが、上手く重心移動をされて力が入らない。
『放って置けないわよ。私はあなたの教官なのよ。この訓練校はある意味、軍隊の予備軍。そこにおいて教官とは上官に等しい。黙ってしたがいなさい』
ここにいたって私の怒りは爆発した。相手の肩を支点にくるりと回りこむ。背中に転がるように相手に密接する。そして、背後に降りたつと、服を掴んで相手を固定し、わき腹に膝うちを繰り出した。
『くぅっ!』
しかし、ダメージを受けたのは私のほうだった。あの一瞬で引き手を切られ、持ち上がった膝を掴んで投げられたのだ。
『……驚いた。すごい柔軟さね。なにか特別なトレーニングでもやっているの?』
『…………関係……ないでしょ』
受身を上手く取りかねたせいで、衝撃が突き抜けていた。頭から落ちなかったのは幸いというしかない。
『ほら、大丈夫?』
そう言って、しゃがみこみ私に手を差し伸べた。
『あなたが……やったんじゃないの……!』
『ふふふ、そうね。立てる?』
手を借りずに立ち上がった。これ以上転がっているのも屈辱だった。黙って歩き出す。もうシャワーを浴びる気にはならなかった。
『待ちなさい』
無視する。こんな相手と話す気なんてなかった。ドアを開け出て行こうとする。
『どうして、そんなに強くなりたいの?』
立ち止まる。どうして? そんなこと言えるわけないでしょ。
私は少しだけ、振り返って睨みつけた。そして、壊れるんじゃないかというほど強くドアを叩きつけた。
それ以来、何故かメリーは私の前に頻繁に出没した。しかも、いつのまにか担当教官の一人として名を連ね、私の訓練を指導する立場になった。トレーニングをする時にはいつも付き添われ、指導というより監視をされている気分になった。他にも一人で訓練をしようとすると、計ったように現れた。そして、トレーニングを強制的に中断される。そんな事が幾度も重なり、徐々に私は耐え切れなくなっていた。
『どういうつもりですか!』
そして、ついに爆発した。ストーカーのように私につきまとい、事あるごとに横槍を入れてくる。最初の頃は我慢できたが、もう限界だった。今回は時間外トレーニングしていたら、またメリーが現れたのだ。そして、無駄だの何だのまたいつものように難癖をつけてきたのだ。
『なにが?』
白々しいまでの笑顔で聞いてくる。いつもこうだった。見透かしているといわんばかりの顔が気に入らない。
『どうして、私にかまうのですか!? なにか気に障ることをしましたか!』
どうしてこんなに気になるのだろう。放っておけばいいのだ。私は私の目標を達成するために必要な力を手に入れなければならないのに。こんなところで他人にかまっている余裕などないのに。ひどく邪魔に思えた。
『ええ、気に障るわね』
メリーは平然と言った。それまでの作ったような表情を脱ぎ捨て、真剣な眼差しで私を見据えた。それと、同時に空気まで変わった。気のせいか体まで重く感じる。何かはわからない。ただ、身体が萎縮するのがわかった。
『自分だけ不幸のどん底にでもいると思い、酔っているあなたを見ていると反吐がでるわ』
『なんですってっ!?』
その言葉は許せなかった。確かに私より不幸な人は世界中にたくさんいるだろう。でも、この痛みは私だけのものだ。他の誰にも理解できない。理解されたくもない。酔っているなどと言われる筋合いはない。
『だって、そうでしょ。ぼろぼろになるまで訓練するのは、誰かが同情してくれるのを待っていたからなのでしょ。大丈夫、そんなに無理しなくてもいいよ。とか優しい言葉をかけて貰いたかったんでしょ? お嬢さまは、かわいいわねぇ』
『……………』
頭の中が真っ白になった。こんなに侮辱された事はなかった。メリーから発せられるプレッシャーなど関係なかった。ただ、怒りが強く激しく私を満たした。
『……あなたに何がわかるというの』
『さあ、私に分かるのは、あなたがとんでもなく勘違い女って言う事だけよ』
私は今日のトレーニングはもうやめる事にした。いくら、教官と言っても許せるものではなかった。
私が腰を落としたのを見ても、教官の態度は変わらなかった。だから、その馬鹿にしたような見下したような表情を変えてやることにした。
するどく踏み込む。そして、左手で軽くフェイントをかける。見抜いたように相手にしないメリー。引っかからないのは初めからわかっている。だから、わざとワンテンポ遅らせて狙い済ましたような一撃を繰り出す。呆れたように、メリーは軽く払う。体が右に流れる。しかし、それも計算道理。流れる力を利用して裏拳を繰り出す。さすがに虚をつかれたのかメリーはガードしようとした。引っかかった。全ては次の攻撃の為の伏線。私の本命は足払い!
すばやく腰を下ろし、膝頭に蹴りこむ。
しかし、私の足は宙を蹴っていた。メリーの体が消えていたのだ。そして当然のように体勢を崩した所をメリーの蹴りが来た。両手をクロスして防ぐがしびれるほど痛かった。そして、ガードが崩れたところを、もう一発蹴られた。今度はみぞおちに入った。横隔膜が奮え、息ができなくなる。何か熱いものがこみ上げてきて、目がちかちかした。体に力が入らず私は倒れこんだ。
力が入らなかった。敗北感が私に重くのしかかった。また、負けた。私はなんて無力なんだろう。目が潤んでくる。涙が出るのを止められなかった。
こんなに悔しいのに、こんなに強くなりたいのに、私のやっている事は無意味だというのだろうか。
『今、なぜ当たらなかったのかわかるかしら?』
『…………っ、っク』
『泣いていないで答えなさい!』
容赦なく頬を叩かれた。口の中が軽くきれたのか、血の味がした。
『……わからないわよ!』
なぜ? そう思ったのは私のほうだ。毎日倒れるまで訓練しているのに、まだ足りないというの。それとも、軍務経験があるかないかが、そんなにも実力に左右してくるの? わからない。私にはわからない。
『遅いのよ、全てが。肥大しすぎた筋肉が、全体の動きを鈍らせているのよ。はっきり言ってあなたがやっていることは無駄以外何でもないわ』
『……………うるさい……』
『聞きなさい。私ならあなたを強くする事ができる。すくなくとも私よりはね』
顔を上げた。この女より私が強く? 今こんなにもあっさりと負けた私が、そんな風になれるのだろうか。
メリーは怪訝な顔をしている私を放っておいて、懐からナイフを取り出した。そして、目の前でかざして見せた。
『今ここにナイフがある。こんなものを扱うのにたいした力はいらない。だって、急所に当てればそれで終わりなんだから。より早く、いかに正確に移動させるかということだけ。それだけを念頭におけばいいのよ。ここに多大な力が入る余地なんて少しもないわ』
気が付けばメリーの話に聞き入っていた。
『女が男と同じことをしてはダメ。彼らには先天的に優れた筋力があるわ。それに女性が対抗しようとして、いいとこ四分が精一杯。しかも、そんな事をしようものならせっかくの長所が殺されて、結果的に何も得られない』
『………………』
『道を歩くとき、どんなにがんばっても道を間違えばゴールにたどり着けないわ。自分にあった道を選び取る事が、本当に大事な事なのよ。十六番、いえミヤコ。あなたは間違っている。それでは、自分を壊し、他人を壊し、それで終わるだけ。自らが望む力を得る事なんて決してできないわ』
メリーはそこで言葉を切った。こちらの反応を探るように窺い見る。しかし、私はそんな事にかまっている暇はなかった。メリーの言葉がぐるぐると頭の中で回る。私がやっていた事は無駄だというの。じゃあ……どうすれば……、どうすればよかったというのよ!
私は……、わたしは……、ワタシハ……。
『………じゃあ、私はどうすればよかったのよ! 思うまま男どもに凌辱され、玩具のように扱われた私は! 力が……欲しい……。欲しいのよ! あんな事されるのは二度とイヤ! だめなの、立ち止まると感情が溢れ出すの。怖い、憎い、苦しい、気持ち悪い。私は強くないから、抵抗もできなかった。そんな私を男達は暴力で支配したのよ。心は負けてなくても身体は確実に支配されていた。初めてだったのに……とても惨めだった。……犯される前に戻りたい。普通に生きたいの。誰かを憎んだり人を傷つけたり、そんなの全然好きじゃない。でも……、やらないと私は生きていけないの。苦しくて辛いから、殺さなければならないの、私自身の過去とその元凶を。なかった事にはできないのなら、全部消してやる。私が前に向かって歩いていくにはこれしかないのよ!』
感情が溢れ出し何を言っているのかわからなくなってきた。ああ、でもダメ。気を抜いては。気持ち悪い、吐きそう。あっ……ダメ……イヤ…………思い出す!
その瞬間、夢の中の光景がフラッシュバックした。生々しい映像が浮かび上がる。快楽に歪んだ、男どもの顔。嗜虐性を剥き出しにして、私が傷ついていくのを楽しんでいる。
怖い、怖いよぉ。助けて。誰か……助けてよ!
「イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァっ!!」
ああっ、また犯される。苦しいよぉ。お願いだから酷いことしないで。私謝るから、ごめんなさい。ごめんなさい。やめてください、お願いです。
『ミ、ミヤコ?』
私がこんな身体でいるから悪いの? だったらいらない。
こんな身体なんてイ・ラ・ナ・イ!
パンッ――
頬を熱い感触が襲った。
『しっかりなさい!』
マリーの声が聞こえた。視界が徐々に戻る。
『……私は……、いったい……?』
『身体を見なさい』
硬い声に従い、自分を見る。爪が腕に食い込み血が滴り落ちていた。
――また、やってしまった。
憂鬱な気分になる。自傷行為自体はもう随分の間なかったのに、……制御できなかった。まだ、私の傷は少しも癒えてはいないのだ。痛いほど実感する。
『……わかったでしょ。私はこういう女。殺したい奴が……いるの。だから力がいる。殺人者となる覚悟はできている。軽蔑されてもいい。嘲笑われてもいい。邪魔さえしなければ。でも、もし邪魔をしたらあなたを……絶対許さない』
『別に問題ないわ』
『えっ!?』
信じられない思いで聞きなおす。
『私は軍務経験者よ。人を殺す事にそれほど罪の意識を感じないわ。それに、世の中死んだ方がいい奴は、結構いるものよ。私が興味あるのは、ただ一つだけ。原石を宝石にすること。指導者にとって素質があるものに巡り会う事ほど、嬉しいものはない。私があなたに力をあげるわ。どう使うかは、あなたの自由』
私はメリーを見つめる。嘘偽りを言っているようには聞こえなかった。もし、それが本当ならこんなにありがたいものはない。
『でも、たった一つだけ条件があるわ』
『なに……?』
幾分警戒しながら聞く。これだけの条件を提示するのだ。何を要求されるかわからない。緊張のあまり喉が震えるのがわかった。
『それは……』
『……………………』
『私の事をこれからメリー先生と呼びなさい』
とメリー先生は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
それ以来、私はメリー先生に師事した。ナイフ、銃、戦術。彼女は独自の理論を持っていて、それはどれも参考になった。要求される事はいつもとても高度だったし、できない時は鬼を思わせる厳しさで何度もやらされた。でも訓練を始めて一ヶ月も経つ頃には、私はいままで随分回り道をしていたと気付いていた。彼女の目標は女性という美しさを保ったまま、いかに強くすることができるかを見極める事だった。私はそれに十分以上応えて見せた。
訓練が進むにつれ、私は徐々に変わっていった。周りが少しずつ見えるようになってきたし、ルームメイトとも仲良くなった。メリー先生は力だけではなく心も育ててくれた。悪夢を見ても、以前みたいに叫ばなくなったし、なんとか耐える事が出来るようになっていた。
そして、全ての過程が終了したあと、卒業祝いに銃をくれた。私と銃は相性がいい。メリー先生はそういった。
◇◇◇◇
メリー先生からの電話を切った後、私は日課にしている銃の手入れをする事にした。手早く解体し、一つ一つの部品を点検する。手馴れたもので最初はかなり手間取っていたものが、今では目をつむっていてもできる。
照準が0.2ミリくるっていた。慎重に専用の器具で直す。よし大丈夫だ。すべてを確認し終わると元のように手早く組み立てた。当然のように全てのパーツがピタリと納まる。銃というものは、その暴力的な破壊力とは違い、手順さえ踏んでやれば大人しく忠実なペットみたいなものだ。そして、私の大切な相棒。人間でもそうだけど、放っておくとふてくされるでしょ。だから、愛情を込めて大事にしている。
弾の方は問題なかった。正規のルートではなかったが、大量に入手していた。一番初めの男を殺す時、昂ぶりのあまり撃ち過ぎてしまった。それ故、以後こういうことが無いよう気をつけている。弾の種類は大きく分けて、二種類ある。フルメタルジャケット、いわゆる貫通弾と、平頭弾。後者の方がより凶悪だった。平頭弾は、貫通弾と違い体を通り抜けるのではなく、中で炸裂する。人を確実に殺そうと思ったら、当然平頭弾を選択する。アメリカの警察も同じ弾を使っているし。
さて、今夜の準備をしなければならない。私にとって、最後の試練だ。過去を消し去ってみせる。
人を殺すという事はひどく簡単なことだ。急所にナイフなり、弾丸なり打ち込んでやれば、それだけで事足りる。みんな、知らないのだ。だから、そんなにも平和でいられる。昔の私もそうだった。平気で夢も語れたし、明日の到来は確定する未来だと信じて疑う事はなかった。でも、今は違う。自分の手がこうも簡単に人を殺せる事を知ってしまったから。生と死がこんなにも紙一重だということを知ってしまったから。だから、私はもう無垢のままではいられない。この手を血で汚しても、勝ち取りたかったものがある。取り戻したいものがある。
私は今夜、またこの手を血で汚す。
その事に躊躇いはない。恐れたりもしない。自分であの時、決めた事だ。力を持っていても使わなければないのと同じだから。私はこの力を使い自分を勝ち取る。逃げつづけるなんて性に合わない。私は勝つ。勝って生き残ってみせる。
◇◇◇◇
スクールを卒業し日本に戻った私は、行動をするのをためらっていた。あの、男達を殺すために手に入れた力だ。でも、それを振るうのには躊躇があった。犯された直後の私なら、なんの迷いもなく振るっていただろう。でも、私は強くなっていた。メリー先生やスクールの仲間達のおかげで心も身体も。確かにあの男達は憎いし、許せない。だけど探せない以上仕方がなかった。いや、そうやって自分に言い訳を作っていたのかもしれない。そんな私に、あの時が訪れた。決断するか否かの分かれ道。ああいうのを運命というのだろうか。考えてみれば神様からのプレゼントかもしれなかった。
その日、私は家の用事で買い物に出かけていた。日本に帰ってから、お父さんもお母さんも私にちょっとオーバーじゃないかと思えるほど気を使ってくれた。だけど、それが少し重荷になっていた。腫れ物を扱うように接しられると、嫌でも自分が被害者だということを思い知らされる。強さを手に入れた今となっては、その態度が昔を思い出させて、少しばかり憂鬱になる。だから、気分転換もかねて買い物に出かけた。
久しぶりに出かけた街は、何も変わっていなく、私一人が置いていかれているような気がした。人々は活気に満ち、楽しげに笑っている。私と同年代の子が幸せそうに笑っているのを見て、正直うらやましくなった。自分にもそんな頃があったということが、まるで別の人生のように感じられる。悩みはあってもそれは特に深刻でもなく、日常の些細な事を喜び、笑い、そして時には泣いたりしながら過ごしていた。あの頃、私は何も知らなくて、何の力も無かったけど、それでも幸せだった。自分の事を幸せと意識しないくらい幸せだった。
昼前から遊びに行った街は、今は夕闇に落ちようとしていた。茜色に照らされた街はとてもキレイで何か遠い世界に居る気がした。私が歩むのを止めてしまった世界がそこにあった。
少しのどが渇いたので、自販機で昔好きだったジュースを買った。ゴクリと飲む。そして、すぐにあまりの甘さに顔をしかめた。よく昔はこんなの好きだったな、そう思えるほど口に合わなかった。でもそれは、時が確実に流れていることの証拠。心の時間は止まっていても体の時間は流れていく。時は待ってくれない。人が着いていくだけ。
――そろそろ歩き出そうかな
暮れなずむ夕暮れ、雑踏を歩きながらそう思った。
男達を探そうという気は起こらなかった。考えてみたら、虚しい事だ。仕返しをして、相手を傷つけて、いったい私に何が残るというのだろう。何を得られるというのだろう。失った時間? 傷つけられる前の記憶? いえ、もう決して得られない。それは、私が一番知っている。
ふと足を止めたショーウインドウ。光の加減で鏡のように反射している。街へ出るからと少しばかり着飾った私がそこに映った。外見は街を彩る若者達とそう大差ない。でも表情がない。魂が抜け落ちたみたいにうつろな表情をしていた。
唇の端を持ち上げてみる。ぎこちないけれど笑顔になった。
――うん、笑えた。
少しも自然な笑顔じゃないけれど、私は確かに笑った。もう少し笑ってみる。表情があった。
――歩き出そう。
決めた。もう一人の哀れな女の物語はおしまい。辛いし苦しいけど、それは時が経つと解決してくれるだろう。時間が経ってあの事を振り返ることがあるかもしれない。その度にたぶん胸が痛くなるだろうとは思う。
それでも、私は歩いていく。
不意にショーウインドウに男の姿が浮かんだ。無表情で面白みの無い顔つきをしている。
この忌まわしい記憶能力は、たぶんこれからも私を苦しませ続けるだろう。でも、いつか乗り切ってみせる。今度こそ私は負けない。メリー先生がくれた力。心の強さ。それは確実に私の内と外を育ててくれた。だから私はもう負けない!
目を閉じ頭を振る。男達の顔を頭の中から追い出す。次に目を開けたら、私はもう振り返らない。今をがんばって生きてみせる。
さあ、1、2の3で目を開けよう。
「いち、にぃ、さん!」
目を開ける。しかし、ショーウインドウの中の男は消えていなかった。
少しばかり失望のため息が漏れる。
やはり、そううまくはいかないな。でもこれからじっくり直していけばいい。たしか、お父さんが良いカウンセラーを知っているといっていた。今度、そこを尋ねてみよう。
そうこうする内に、鏡の中の男が動いた。徐々に遠ざかっていく。
「え!?」
わが目を疑った。動いた? そんなまさか!?
慌てて振り返る。
そこに――男はいた。
一人でぶらぶらと街を散策しているようだった。
頭の中が真っ白になった。体が硬直する。一瞬白昼夢でも見ているのではないかと思った。でも、これは、現実。ではこの男はナンナノダ。
男は私に気付いていない。意識しないまま私は憑かれたように男の後を追っていた。
男はしばらく街をぶらぶらした後、電車に乗り込んだ。その間、私は一定の間隔を保って後をつける。尾行とは本来、相手の動きに注視して冷静な心持であたらなくてはならない。それなのに、私の思考は千々に乱れていた。どうして、今であったのだろう。忘れて歩き出そうとしていた今この時に。そして、歩き出そうと決めたはずなのにどうして私は後をつけているのか。放っておけばいい。私は私の人生を歩んでいけばいいのだ。過去とは決別して未来だけ見つめればいい。
しかし、どんなに自分に言い聞かせても私の目は男を追い、足は確実に後をついていく。
男は電車を乗り継ぎ、とある駅で降りた。そして、駅前のコンビニでしばらく立ち読みし、男の家と思われるマンションに入っていった。
私はそれをずっと見ていた。無愛想な顔が下卑た表情を浮かべる事を私は知っている。抵抗できないものをいたぶったのはその手。下品な笑い声を上げたその口。私の中の幻が実体を持った。
見つけなければよかったと思う。今日この日に出かけなかったら良かったのかもしれない。そうしたら私は行動を起こさずにすんだ。
でも――出会ったからには仕方がなかった。
憎しみが。
殺意が。
溢れ出す。
私は男が入っていったドアを睨みつけた。心の中にエモノを見つけた歓喜が沸き起こる。さあ、狂おう。対象は三人。復讐の始まりだ!
それから一週間後、私は初めて人を殺した。
肌についた水滴を拭うと私はバスタオルを身体に巻きつけた。下着を用意するのを忘れていた。別にさっきみたいに裸で動いてもよかったけれど、風邪を引いてはたまらない。今夜は大事な用があるのだから、体調だけはきちんと整えておかなくてはならない。万に一つの可能性も考慮して行動しなくてはならなかった。
クローゼットから下着を取り出すと、バスタオルをはずし手早く身に付けた。そして、部屋の中に干してあった洗いざらしのシャツと、デニムのショートパンツに着替える。事件があった後、私は服装の好みまで変わってしまった。昔は機能性なんてどうでもよかった。でも、今はそれが最優先事項。
朝食を取ろうと思い冷蔵庫の中を開ける。パックの牛乳と卵、それにベーコンも発見する。ベーコンエッグにでもしようかと思い、昨日同じだったと気がついた。そろそろ、買出しにも行かなくてはいけないな。
不意に映像が浮かんだ。血まみれになってぶら下がっている男。私が殺した男。
「うっ!」
むかつきが胸の中に満ちる。優秀すぎる記憶能力。長所にもなるがこうして今のように短所になることのほうが多い。
なにか食べようとすると、急に生々しすぎる死体の映像が浮かび上がってくる。それをおして食べることもできるが結局は、戻してしまう。私は体力を維持しなければならなかった。断食は心を研ぎ澄ますのには良いが、肉体に多大なダメージを与える。最後の詰めの実行前にそれは避けなければならなかった。
どうやって食べようかと悩んでいると、不意に電話が鳴った。考えを中断して、受話器を取る。
「もしもし?」
「Hello, Miyako. This is melly. How are you?」
受話器を通して聞こえてきたのは、懐かしい英語だった。すぐさま私も言語を切り替える。
『メリー先生!? どうしたんですか急に?』
『いえ、久し振りに教え子の声が聞きたくなったのよ。あなたがいなくなって、とても寂しいわ』
メリー先生はどこかおどけた感じでいった。でも、この先生がこんな口調で言う時は大抵が気恥ずかしいだけで、本当は心から心配してくれていることを私は知っていた。
『私も寂しいですよ。メリー先生の怒鳴り声が聞けなくなったと思うと』
『……なんなら、今すぐ聞かせてあげようかしら』
少し怒気をはらんだ声。ポーズだって分かっている。こんなやり取りがとても懐かしい。
『あはは、冗談ですよ、冗談。でも、本当に懐かしく感じますね。まだ、私がアメリカから帰って一ヶ月しかたっていないのに』
『そうよ、ルームメイトのジェシーがいたでしょ。ミヤコが恋しいってずいぶん喚いていたわよ。あの子、あなたにとっても懐いていたから』
『ジェシーも相変わらずね。ふふふ、私も会いたいって伝えておいて下さい』
『あら、そんなこと言っていいのかしら。あの子、本当に日本まで会いに行くわよ』
『うーん、それはちょっと困るかも』
お互い笑いあう。久し振りに声を立てて笑った。心が幾分か軽くなったことに気付く。
『ありがとうございます。……それで、本題は?』
メリー先生は暇なだけで連絡を取る人ではない。一つの行動に幾通りの意味をつけ行動する人だ。
『言わなくても分かるとは思うけど、首尾は上々のようね』
『…………』
沈黙は肯定の証だった。なにより、私の行動を知っていながら言う人だ。その真意が読み取れない。
『警戒しなくてもいいわ。インターネットで日本のニュースを見たとき、ピンときた。これは、あなたの仕業だって』
メリー先生が電話口で笑うのが感じられた。
『………………ええ』
この人相手に隠し事をしてもしかたがない。私は正直にうなずいた。
『そう……。ついに行動を開始したのね。あなたは私の教え子の中でも優秀な生徒。このくらい造作も無いことでしょう』
そして、一息つくと声音を変えた。
『人を殺すのは、思ったより大変でしょ。特にあなたみたいな能力の持ち主にとっては』
――見抜かれている。そう思った。日常の出来事が全て記憶として残る私にとって、殺人行為とは、自らの首をしめているのに等しい。それは、つまり、何時でも隣に死があるということだ。
『……本当に……そうですね』
ご飯が上手く食べられなくなっていた。食欲が湧かないから、ありきたりの材料ですましてしまう。それも、限界で今は必要なカロリーを取る事さえ一苦労だった。
『何かしらの損害が出ることは事を始める前から分かっていました。それでも、私はやめようとは少しも思いませんでした。私の進む道に障壁となって立ちはだかる対象を――消去します』
どのような理由があろうとも人一人の命を奪うのだ。自分が少しも傷もつかずにいられるほど私は甘い考えを持っていない。
『相変わらずね、ミヤコ。意思を堅く持つことは良いことだけれど、堅いものには柔軟性がない。張り詰めすぎた弦が切れるように、限界を迎えたら弱いわ。ターゲットは後一人。相手も警戒しているはず。こういう時にこそ、時間を置くことの大切さも教えたはずよ』
私の師匠――古めかしい言い方だけど、メリー先生そんな言葉ピタリと当てはまる人だった。鬼ように厳しいかと思えば、母のように全てを包んでくれる。そんな彼女を好きだし、尊敬もしている。
『…………………』
私は無言だった。百万言を費やすより、この沈黙が私の主張を何より表してくれる。
『…………全くもう、困った子ね。技量は上がったけど、あなたの強情さは初めて会った時から全然かわっていないわ』
『メリー先生も変わっていませんよ』
『どこが?』
『……そうやって優しいところ』
『こら、照れるような事をいうんじゃない。ふふふ』
初めて会った時こんな風に話せるなんて、思ってもみなかった。あの頃の私は、弱い自分を守ろうと精一杯威嚇しているハリネズミみたいだった。そんな、私に戦う力と、武器をくれたメリー先生。本当に感謝している。
◇◇◇◇
病院から退院した後、私はアメリカに留学をすることを決意した。もちろん、あんな事件に遭った後だ、両親は止めた。娘がこれ以上危険な目にあうのを防ぎたいのは、親として当然の気持ちだろう。その、気持ちが痛いほどわかったし、このまま安穏と暮らせばよいことも分かっていた。それでも、私はもう決めていた。力が欲しかった。安穏と生きていくだけではなく、理不尽な運命に立ち向かう力を。
アメリカには各地にサバイバルスクールと呼ばれる訓練校がある。犯罪が多発するアメリカのような物騒なところで、生き抜く力と、切り抜ける技術を教えてくれるところだ。インターネット上でこの紹介記事を見た瞬間、私は唇が吊り上るのが止められなかった。このことは、裏を返せば、相手から生きる力を奪える事を意味する。私の目標にとって、もっとも都合がよかった。
必要な手続きを済まして、私は単身アメリカにわたった。両親には傷心を癒すためと、気分転換に技能学校に通うといって説得した。幸か不幸か私には、人とは違った能力がある。言語の違いはさして苦にならない。問題は資金面だったが、お父さんが黙って、出してくれた。明らかに不自然な娘の行動に、何も言わないお父さんの優しさをただ感謝した。
サバイバルスクールに入ってからは毎日訓練に明け暮れた。知識と技能を効率的に詰め込み、徐々に自分を変革していく。もっとも私の場合、知識の方は問題なく習得できるのだが、体のほうがついてこない。目下の課題は身体面の強化であった。
襲われたとき私はとても非力で、抵抗などほとんどできなかった。男に力でかなうとは思っていなかったが、少しぐらい抵抗できると思った。だけど、無駄だった。純粋な暴力の前では、私は嵐の中で迷う小船のように無力だった。
だから、死に物狂いで訓練した。他の誰も寄せつけず、スクールの誰よりも。倒れるまで、毎日ただ鍛え続けた。
『16番、待ちなさい』
そして、不意に呼びかけられた事がメリーと私の最初の出会いだった。スクールでは学籍番号で呼ばれる。その日の私は、一日のメニューとは別の個人トレーニングを終え、シャワーを浴びようとしていた。スクールには立派なシャワー施設があり、皆に重宝がられている。そして、上着を脱いだ瞬間、声をかけられた。
『なんですか?』
指導教官の一人、メリー・バーナム教官だ。数少ない女性教官の一人として知ってはいたが、話し掛けられたのは初めてだ。ここの教官になるためにはある程度の軍務知識が必要とされる。それを得るためにはやはり軍隊で学ぶのが一番早い。その為か、女性の教官は驚くほど少なかった。
『腕を見せなさい』
言いながら返事も待たず腕をとられた。いきなりなんて、失礼な人だ。
『何をするんですか!』
怒気もあらわに言い放つ。人に触れられたくなかった。同じ女性でも、他人に触られるのは嫌だった。乱暴に振り払おうとする。その瞬間、体を返され肘を決められる。
『痛いっ』
『見なさい。この腕を。あなたはどんな風に訓練しているの。完全にオーバーワークじゃない。筋肉の疲労回復がついてきていないわ。これでは自分をいじめているのと一緒よ』
確かに、私の腕はパンパンに膨れ上がっていた。でも、そんな事はどうでもよいのだ。今は、少しでも力をつけ、自分を強くしたい。
『放っておいてください!』
腕を取ろうとするが、上手く重心移動をされて力が入らない。
『放って置けないわよ。私はあなたの教官なのよ。この訓練校はある意味、軍隊の予備軍。そこにおいて教官とは上官に等しい。黙ってしたがいなさい』
ここにいたって私の怒りは爆発した。相手の肩を支点にくるりと回りこむ。背中に転がるように相手に密接する。そして、背後に降りたつと、服を掴んで相手を固定し、わき腹に膝うちを繰り出した。
『くぅっ!』
しかし、ダメージを受けたのは私のほうだった。あの一瞬で引き手を切られ、持ち上がった膝を掴んで投げられたのだ。
『……驚いた。すごい柔軟さね。なにか特別なトレーニングでもやっているの?』
『…………関係……ないでしょ』
受身を上手く取りかねたせいで、衝撃が突き抜けていた。頭から落ちなかったのは幸いというしかない。
『ほら、大丈夫?』
そう言って、しゃがみこみ私に手を差し伸べた。
『あなたが……やったんじゃないの……!』
『ふふふ、そうね。立てる?』
手を借りずに立ち上がった。これ以上転がっているのも屈辱だった。黙って歩き出す。もうシャワーを浴びる気にはならなかった。
『待ちなさい』
無視する。こんな相手と話す気なんてなかった。ドアを開け出て行こうとする。
『どうして、そんなに強くなりたいの?』
立ち止まる。どうして? そんなこと言えるわけないでしょ。
私は少しだけ、振り返って睨みつけた。そして、壊れるんじゃないかというほど強くドアを叩きつけた。
それ以来、何故かメリーは私の前に頻繁に出没した。しかも、いつのまにか担当教官の一人として名を連ね、私の訓練を指導する立場になった。トレーニングをする時にはいつも付き添われ、指導というより監視をされている気分になった。他にも一人で訓練をしようとすると、計ったように現れた。そして、トレーニングを強制的に中断される。そんな事が幾度も重なり、徐々に私は耐え切れなくなっていた。
『どういうつもりですか!』
そして、ついに爆発した。ストーカーのように私につきまとい、事あるごとに横槍を入れてくる。最初の頃は我慢できたが、もう限界だった。今回は時間外トレーニングしていたら、またメリーが現れたのだ。そして、無駄だの何だのまたいつものように難癖をつけてきたのだ。
『なにが?』
白々しいまでの笑顔で聞いてくる。いつもこうだった。見透かしているといわんばかりの顔が気に入らない。
『どうして、私にかまうのですか!? なにか気に障ることをしましたか!』
どうしてこんなに気になるのだろう。放っておけばいいのだ。私は私の目標を達成するために必要な力を手に入れなければならないのに。こんなところで他人にかまっている余裕などないのに。ひどく邪魔に思えた。
『ええ、気に障るわね』
メリーは平然と言った。それまでの作ったような表情を脱ぎ捨て、真剣な眼差しで私を見据えた。それと、同時に空気まで変わった。気のせいか体まで重く感じる。何かはわからない。ただ、身体が萎縮するのがわかった。
『自分だけ不幸のどん底にでもいると思い、酔っているあなたを見ていると反吐がでるわ』
『なんですってっ!?』
その言葉は許せなかった。確かに私より不幸な人は世界中にたくさんいるだろう。でも、この痛みは私だけのものだ。他の誰にも理解できない。理解されたくもない。酔っているなどと言われる筋合いはない。
『だって、そうでしょ。ぼろぼろになるまで訓練するのは、誰かが同情してくれるのを待っていたからなのでしょ。大丈夫、そんなに無理しなくてもいいよ。とか優しい言葉をかけて貰いたかったんでしょ? お嬢さまは、かわいいわねぇ』
『……………』
頭の中が真っ白になった。こんなに侮辱された事はなかった。メリーから発せられるプレッシャーなど関係なかった。ただ、怒りが強く激しく私を満たした。
『……あなたに何がわかるというの』
『さあ、私に分かるのは、あなたがとんでもなく勘違い女って言う事だけよ』
私は今日のトレーニングはもうやめる事にした。いくら、教官と言っても許せるものではなかった。
私が腰を落としたのを見ても、教官の態度は変わらなかった。だから、その馬鹿にしたような見下したような表情を変えてやることにした。
するどく踏み込む。そして、左手で軽くフェイントをかける。見抜いたように相手にしないメリー。引っかからないのは初めからわかっている。だから、わざとワンテンポ遅らせて狙い済ましたような一撃を繰り出す。呆れたように、メリーは軽く払う。体が右に流れる。しかし、それも計算道理。流れる力を利用して裏拳を繰り出す。さすがに虚をつかれたのかメリーはガードしようとした。引っかかった。全ては次の攻撃の為の伏線。私の本命は足払い!
すばやく腰を下ろし、膝頭に蹴りこむ。
しかし、私の足は宙を蹴っていた。メリーの体が消えていたのだ。そして当然のように体勢を崩した所をメリーの蹴りが来た。両手をクロスして防ぐがしびれるほど痛かった。そして、ガードが崩れたところを、もう一発蹴られた。今度はみぞおちに入った。横隔膜が奮え、息ができなくなる。何か熱いものがこみ上げてきて、目がちかちかした。体に力が入らず私は倒れこんだ。
力が入らなかった。敗北感が私に重くのしかかった。また、負けた。私はなんて無力なんだろう。目が潤んでくる。涙が出るのを止められなかった。
こんなに悔しいのに、こんなに強くなりたいのに、私のやっている事は無意味だというのだろうか。
『今、なぜ当たらなかったのかわかるかしら?』
『…………っ、っク』
『泣いていないで答えなさい!』
容赦なく頬を叩かれた。口の中が軽くきれたのか、血の味がした。
『……わからないわよ!』
なぜ? そう思ったのは私のほうだ。毎日倒れるまで訓練しているのに、まだ足りないというの。それとも、軍務経験があるかないかが、そんなにも実力に左右してくるの? わからない。私にはわからない。
『遅いのよ、全てが。肥大しすぎた筋肉が、全体の動きを鈍らせているのよ。はっきり言ってあなたがやっていることは無駄以外何でもないわ』
『……………うるさい……』
『聞きなさい。私ならあなたを強くする事ができる。すくなくとも私よりはね』
顔を上げた。この女より私が強く? 今こんなにもあっさりと負けた私が、そんな風になれるのだろうか。
メリーは怪訝な顔をしている私を放っておいて、懐からナイフを取り出した。そして、目の前でかざして見せた。
『今ここにナイフがある。こんなものを扱うのにたいした力はいらない。だって、急所に当てればそれで終わりなんだから。より早く、いかに正確に移動させるかということだけ。それだけを念頭におけばいいのよ。ここに多大な力が入る余地なんて少しもないわ』
気が付けばメリーの話に聞き入っていた。
『女が男と同じことをしてはダメ。彼らには先天的に優れた筋力があるわ。それに女性が対抗しようとして、いいとこ四分が精一杯。しかも、そんな事をしようものならせっかくの長所が殺されて、結果的に何も得られない』
『………………』
『道を歩くとき、どんなにがんばっても道を間違えばゴールにたどり着けないわ。自分にあった道を選び取る事が、本当に大事な事なのよ。十六番、いえミヤコ。あなたは間違っている。それでは、自分を壊し、他人を壊し、それで終わるだけ。自らが望む力を得る事なんて決してできないわ』
メリーはそこで言葉を切った。こちらの反応を探るように窺い見る。しかし、私はそんな事にかまっている暇はなかった。メリーの言葉がぐるぐると頭の中で回る。私がやっていた事は無駄だというの。じゃあ……どうすれば……、どうすればよかったというのよ!
私は……、わたしは……、ワタシハ……。
『………じゃあ、私はどうすればよかったのよ! 思うまま男どもに凌辱され、玩具のように扱われた私は! 力が……欲しい……。欲しいのよ! あんな事されるのは二度とイヤ! だめなの、立ち止まると感情が溢れ出すの。怖い、憎い、苦しい、気持ち悪い。私は強くないから、抵抗もできなかった。そんな私を男達は暴力で支配したのよ。心は負けてなくても身体は確実に支配されていた。初めてだったのに……とても惨めだった。……犯される前に戻りたい。普通に生きたいの。誰かを憎んだり人を傷つけたり、そんなの全然好きじゃない。でも……、やらないと私は生きていけないの。苦しくて辛いから、殺さなければならないの、私自身の過去とその元凶を。なかった事にはできないのなら、全部消してやる。私が前に向かって歩いていくにはこれしかないのよ!』
感情が溢れ出し何を言っているのかわからなくなってきた。ああ、でもダメ。気を抜いては。気持ち悪い、吐きそう。あっ……ダメ……イヤ…………思い出す!
その瞬間、夢の中の光景がフラッシュバックした。生々しい映像が浮かび上がる。快楽に歪んだ、男どもの顔。嗜虐性を剥き出しにして、私が傷ついていくのを楽しんでいる。
怖い、怖いよぉ。助けて。誰か……助けてよ!
「イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァっ!!」
ああっ、また犯される。苦しいよぉ。お願いだから酷いことしないで。私謝るから、ごめんなさい。ごめんなさい。やめてください、お願いです。
『ミ、ミヤコ?』
私がこんな身体でいるから悪いの? だったらいらない。
こんな身体なんてイ・ラ・ナ・イ!
パンッ――
頬を熱い感触が襲った。
『しっかりなさい!』
マリーの声が聞こえた。視界が徐々に戻る。
『……私は……、いったい……?』
『身体を見なさい』
硬い声に従い、自分を見る。爪が腕に食い込み血が滴り落ちていた。
――また、やってしまった。
憂鬱な気分になる。自傷行為自体はもう随分の間なかったのに、……制御できなかった。まだ、私の傷は少しも癒えてはいないのだ。痛いほど実感する。
『……わかったでしょ。私はこういう女。殺したい奴が……いるの。だから力がいる。殺人者となる覚悟はできている。軽蔑されてもいい。嘲笑われてもいい。邪魔さえしなければ。でも、もし邪魔をしたらあなたを……絶対許さない』
『別に問題ないわ』
『えっ!?』
信じられない思いで聞きなおす。
『私は軍務経験者よ。人を殺す事にそれほど罪の意識を感じないわ。それに、世の中死んだ方がいい奴は、結構いるものよ。私が興味あるのは、ただ一つだけ。原石を宝石にすること。指導者にとって素質があるものに巡り会う事ほど、嬉しいものはない。私があなたに力をあげるわ。どう使うかは、あなたの自由』
私はメリーを見つめる。嘘偽りを言っているようには聞こえなかった。もし、それが本当ならこんなにありがたいものはない。
『でも、たった一つだけ条件があるわ』
『なに……?』
幾分警戒しながら聞く。これだけの条件を提示するのだ。何を要求されるかわからない。緊張のあまり喉が震えるのがわかった。
『それは……』
『……………………』
『私の事をこれからメリー先生と呼びなさい』
とメリー先生は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
それ以来、私はメリー先生に師事した。ナイフ、銃、戦術。彼女は独自の理論を持っていて、それはどれも参考になった。要求される事はいつもとても高度だったし、できない時は鬼を思わせる厳しさで何度もやらされた。でも訓練を始めて一ヶ月も経つ頃には、私はいままで随分回り道をしていたと気付いていた。彼女の目標は女性という美しさを保ったまま、いかに強くすることができるかを見極める事だった。私はそれに十分以上応えて見せた。
訓練が進むにつれ、私は徐々に変わっていった。周りが少しずつ見えるようになってきたし、ルームメイトとも仲良くなった。メリー先生は力だけではなく心も育ててくれた。悪夢を見ても、以前みたいに叫ばなくなったし、なんとか耐える事が出来るようになっていた。
そして、全ての過程が終了したあと、卒業祝いに銃をくれた。私と銃は相性がいい。メリー先生はそういった。
◇◇◇◇
メリー先生からの電話を切った後、私は日課にしている銃の手入れをする事にした。手早く解体し、一つ一つの部品を点検する。手馴れたもので最初はかなり手間取っていたものが、今では目をつむっていてもできる。
照準が0.2ミリくるっていた。慎重に専用の器具で直す。よし大丈夫だ。すべてを確認し終わると元のように手早く組み立てた。当然のように全てのパーツがピタリと納まる。銃というものは、その暴力的な破壊力とは違い、手順さえ踏んでやれば大人しく忠実なペットみたいなものだ。そして、私の大切な相棒。人間でもそうだけど、放っておくとふてくされるでしょ。だから、愛情を込めて大事にしている。
弾の方は問題なかった。正規のルートではなかったが、大量に入手していた。一番初めの男を殺す時、昂ぶりのあまり撃ち過ぎてしまった。それ故、以後こういうことが無いよう気をつけている。弾の種類は大きく分けて、二種類ある。フルメタルジャケット、いわゆる貫通弾と、平頭弾。後者の方がより凶悪だった。平頭弾は、貫通弾と違い体を通り抜けるのではなく、中で炸裂する。人を確実に殺そうと思ったら、当然平頭弾を選択する。アメリカの警察も同じ弾を使っているし。
さて、今夜の準備をしなければならない。私にとって、最後の試練だ。過去を消し去ってみせる。
人を殺すという事はひどく簡単なことだ。急所にナイフなり、弾丸なり打ち込んでやれば、それだけで事足りる。みんな、知らないのだ。だから、そんなにも平和でいられる。昔の私もそうだった。平気で夢も語れたし、明日の到来は確定する未来だと信じて疑う事はなかった。でも、今は違う。自分の手がこうも簡単に人を殺せる事を知ってしまったから。生と死がこんなにも紙一重だということを知ってしまったから。だから、私はもう無垢のままではいられない。この手を血で汚しても、勝ち取りたかったものがある。取り戻したいものがある。
私は今夜、またこの手を血で汚す。
その事に躊躇いはない。恐れたりもしない。自分であの時、決めた事だ。力を持っていても使わなければないのと同じだから。私はこの力を使い自分を勝ち取る。逃げつづけるなんて性に合わない。私は勝つ。勝って生き残ってみせる。
◇◇◇◇
スクールを卒業し日本に戻った私は、行動をするのをためらっていた。あの、男達を殺すために手に入れた力だ。でも、それを振るうのには躊躇があった。犯された直後の私なら、なんの迷いもなく振るっていただろう。でも、私は強くなっていた。メリー先生やスクールの仲間達のおかげで心も身体も。確かにあの男達は憎いし、許せない。だけど探せない以上仕方がなかった。いや、そうやって自分に言い訳を作っていたのかもしれない。そんな私に、あの時が訪れた。決断するか否かの分かれ道。ああいうのを運命というのだろうか。考えてみれば神様からのプレゼントかもしれなかった。
その日、私は家の用事で買い物に出かけていた。日本に帰ってから、お父さんもお母さんも私にちょっとオーバーじゃないかと思えるほど気を使ってくれた。だけど、それが少し重荷になっていた。腫れ物を扱うように接しられると、嫌でも自分が被害者だということを思い知らされる。強さを手に入れた今となっては、その態度が昔を思い出させて、少しばかり憂鬱になる。だから、気分転換もかねて買い物に出かけた。
久しぶりに出かけた街は、何も変わっていなく、私一人が置いていかれているような気がした。人々は活気に満ち、楽しげに笑っている。私と同年代の子が幸せそうに笑っているのを見て、正直うらやましくなった。自分にもそんな頃があったということが、まるで別の人生のように感じられる。悩みはあってもそれは特に深刻でもなく、日常の些細な事を喜び、笑い、そして時には泣いたりしながら過ごしていた。あの頃、私は何も知らなくて、何の力も無かったけど、それでも幸せだった。自分の事を幸せと意識しないくらい幸せだった。
昼前から遊びに行った街は、今は夕闇に落ちようとしていた。茜色に照らされた街はとてもキレイで何か遠い世界に居る気がした。私が歩むのを止めてしまった世界がそこにあった。
少しのどが渇いたので、自販機で昔好きだったジュースを買った。ゴクリと飲む。そして、すぐにあまりの甘さに顔をしかめた。よく昔はこんなの好きだったな、そう思えるほど口に合わなかった。でもそれは、時が確実に流れていることの証拠。心の時間は止まっていても体の時間は流れていく。時は待ってくれない。人が着いていくだけ。
――そろそろ歩き出そうかな
暮れなずむ夕暮れ、雑踏を歩きながらそう思った。
男達を探そうという気は起こらなかった。考えてみたら、虚しい事だ。仕返しをして、相手を傷つけて、いったい私に何が残るというのだろう。何を得られるというのだろう。失った時間? 傷つけられる前の記憶? いえ、もう決して得られない。それは、私が一番知っている。
ふと足を止めたショーウインドウ。光の加減で鏡のように反射している。街へ出るからと少しばかり着飾った私がそこに映った。外見は街を彩る若者達とそう大差ない。でも表情がない。魂が抜け落ちたみたいにうつろな表情をしていた。
唇の端を持ち上げてみる。ぎこちないけれど笑顔になった。
――うん、笑えた。
少しも自然な笑顔じゃないけれど、私は確かに笑った。もう少し笑ってみる。表情があった。
――歩き出そう。
決めた。もう一人の哀れな女の物語はおしまい。辛いし苦しいけど、それは時が経つと解決してくれるだろう。時間が経ってあの事を振り返ることがあるかもしれない。その度にたぶん胸が痛くなるだろうとは思う。
それでも、私は歩いていく。
不意にショーウインドウに男の姿が浮かんだ。無表情で面白みの無い顔つきをしている。
この忌まわしい記憶能力は、たぶんこれからも私を苦しませ続けるだろう。でも、いつか乗り切ってみせる。今度こそ私は負けない。メリー先生がくれた力。心の強さ。それは確実に私の内と外を育ててくれた。だから私はもう負けない!
目を閉じ頭を振る。男達の顔を頭の中から追い出す。次に目を開けたら、私はもう振り返らない。今をがんばって生きてみせる。
さあ、1、2の3で目を開けよう。
「いち、にぃ、さん!」
目を開ける。しかし、ショーウインドウの中の男は消えていなかった。
少しばかり失望のため息が漏れる。
やはり、そううまくはいかないな。でもこれからじっくり直していけばいい。たしか、お父さんが良いカウンセラーを知っているといっていた。今度、そこを尋ねてみよう。
そうこうする内に、鏡の中の男が動いた。徐々に遠ざかっていく。
「え!?」
わが目を疑った。動いた? そんなまさか!?
慌てて振り返る。
そこに――男はいた。
一人でぶらぶらと街を散策しているようだった。
頭の中が真っ白になった。体が硬直する。一瞬白昼夢でも見ているのではないかと思った。でも、これは、現実。ではこの男はナンナノダ。
男は私に気付いていない。意識しないまま私は憑かれたように男の後を追っていた。
男はしばらく街をぶらぶらした後、電車に乗り込んだ。その間、私は一定の間隔を保って後をつける。尾行とは本来、相手の動きに注視して冷静な心持であたらなくてはならない。それなのに、私の思考は千々に乱れていた。どうして、今であったのだろう。忘れて歩き出そうとしていた今この時に。そして、歩き出そうと決めたはずなのにどうして私は後をつけているのか。放っておけばいい。私は私の人生を歩んでいけばいいのだ。過去とは決別して未来だけ見つめればいい。
しかし、どんなに自分に言い聞かせても私の目は男を追い、足は確実に後をついていく。
男は電車を乗り継ぎ、とある駅で降りた。そして、駅前のコンビニでしばらく立ち読みし、男の家と思われるマンションに入っていった。
私はそれをずっと見ていた。無愛想な顔が下卑た表情を浮かべる事を私は知っている。抵抗できないものをいたぶったのはその手。下品な笑い声を上げたその口。私の中の幻が実体を持った。
見つけなければよかったと思う。今日この日に出かけなかったら良かったのかもしれない。そうしたら私は行動を起こさずにすんだ。
でも――出会ったからには仕方がなかった。
憎しみが。
殺意が。
溢れ出す。
私は男が入っていったドアを睨みつけた。心の中にエモノを見つけた歓喜が沸き起こる。さあ、狂おう。対象は三人。復讐の始まりだ!
それから一週間後、私は初めて人を殺した。
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
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