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ススメ☆ラッシー(完結)

1章

犬になった俺

 ぽかぽかとしたお日様が優しく降り注いでいた。お風呂につかっているみたいに、身体の芯まで温まる。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、いくらでも寝られそうな気がした。
風は優しく吹き、鳥達はチュンチュンとうれしそうに出会いの季節を喜んでいる。生きている物の全てが、この季節の到来を喜んでいるようであった。
(もう春だなぁ)
木漏れ日に目を細めながらそう思った。今年はどんな出会いが俺を待っているんだろうか。去年はあまりいいこともなく、普通に一年が過ぎていった。だから今年こそは何かいいことが有って欲しいものだ。できるなら素敵な女性と巡り会えたらいいなぁ。そろそろ、一人身も寂しいし。若人なるものやはり彼女の一人や二人や三人は欲しいものだ。
(……三人はまずいか)
それにしても、なんて気持ちいい陽射しなのだろう。このまま、溶けていきたくなる。あぁ、きもちいぃぃぃ……。
(……………Zzzzz……………Zzzzzzzzzzzzzz)
 いかぁぁぁぁぁん! いかんぞ、俺!!
現実逃避したい気持ちはよくわかる。しかぁし、見つめなくてはならないと思うぞ! 目そらしても何も解決しない。自分をしっかり持つんだ。そして、考えろ。
その……なんだ……。
……………………犬としての生き方を。
(シクシクシクシク……)
 そこまで考えて涙がこぼれてきた。ぽろぽろと言う可愛らしいものじゃなくて、ぼろぼろとだ。何故にこんな理不尽な目に遭わなければならないのだ。俺が一体何をしたというのだ。誰に恥じることなく健やかに生きてきたこの十九年間。中高とエスカレート式の男子校だったため女の子と手をつないだ事もなく、今年こそはと気合を入れていたのに。この仕打ちは一体なんなのだ。というか、いったい何故こんな事になってしまったのか。
たくましい大型犬の体躯が日の光を浴びて艶やかに輝いていた。そう、この毛並みには見覚えがある。シベリアンハスキーのラッシ―君だ! どうだい精悍な顔をしているだろう? 自慢の愛犬なんだ……
(シクシクシクシク……)
 ああぁぁっ! どうしても現実逃避をしてしまう。確かに、俺はラッシ―が好きだ。だからといって何もそのものになるなんて! 俺はがっくりとうなだれた。そして、しゃがみこんだ。すると隣を歩いているアリさんが目に入った。一列になってがんばっている。邪魔されても、苦しくても、がんばって働いている。
けなげだ。
俺もそんな頃はあったなぁ。しみじみとそう思った。希望に満ちて世の中にできないものはない。そう信じた頃があった。でも……、でも……、俺は…………犬になってしまったんだぁぁぁぁ!
「ワォォォォォォォン」
 俺の鳴き声が辺りに木霊した。
 その時、こちらに近づいてくる音を感じた。一歩一歩がやけに大きく聞こえる。どうも犬の体になってから、やたら音がでかく聞こえるのだ。たぶん、こんな状態になったせいだとは思うのだが、感覚が鋭敏になり、ささいな事までわかってしまうのだ。もっとも、視界はその分、ぼんやりと定まらないのだが、鼻と耳があれば問題なしだ。
今だってそうだ。わざと足音をたてているみたいに、ジャリッ、ジャリッと音がする。音が近づいて来るにつれて匂いが強くなる。薄い金木犀の香りがした。それからシャンプーの匂いと後は……サンマの匂いがする。
(なじぇ……?)
「ラッシー。ご飯ですよ」
 妹の唯だった。唯は無造作にドックフードをエサ入れに注ぐとこちらに差し出した。その上にはサンマが添えてある。なあんだどうりで匂いがするわけだ。まったく誰かの食べ残しか? かじったあとがあるぞ。
唯はじっと俺を見ている。目で何かを促している。とてーもいやな予感がした。もしかして、もしかして……?
これを食えと言うと……? 
目の前に山盛りに詰まれた物体を見つめる。昔、バツゲームで食べたことはあるが……お世辞にもうまいとは言えなかった。むしろ、やばい。口の中に入れた途端、パサついた肉の風味と共にこりこりとした感触が広がるのだ。それをこんなにも……食えと言うのか……。
恨みがましく唯を見つめる。しかし、妹は微笑をたたえたまま、俺を見ている。食べるまで一歩も動かない構えだ。
いやまさかねぇ……。どっかいったら捨てよ。
ジーーーーー。
冗談だよな……。
ジーーーーー。
はあ……わかったよ。食えばいいんだろ。……とりあえず、なんとか食えそうなサンマからいくか……。
俺は決心すると目の前の物体を見つめた。覚悟を決めて目を閉じる。見なければサンマの他に違う物体が入ろうと無視できるはずだ。そして、俺はそれに噛み付いた。悲壮な決意を込めて。

スカッ――

えっと思い目を開けた。口に何の感触も伝わってこない。立派な歯はむなしく宙を噛んだだけであった。きょろきょろとドックフードを探す。すると、それは妹の手の中にあったのだ。なんで? 俺はハテナマークを浮かべたまま妹を見る。あいかわらず笑顔のままこういった。
「おすわり」
 できるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!
 そんな人間の尊厳を失うような事をやってたまるか。俺にそこまで落ちろと言うのか。人にはなぁ……決して越えてはならない一線があるんだ。
 しかし、俺の意思に反して身体が動きだす。
(マイガッド!?)
何かに引っ張られるように後ろ足から座ろうとする。抵抗しようとしても硬直したように自由に動かない。ほんの数秒のはずが数十分のように長く感じる。それくらい余裕がない。長年仕込まれた習性のせいだ。悲しいサガだ。ラッシーごめんよ。俺がおすわりを仕込んだばっかりに……。やらされてみるとこんなにも屈辱とは知らなかったよ。
必死に抵抗しようとする俺。これだけは譲れない一線だ。それでも、落ちていく体。
(俺に……力を!)
「ワオォォォン」
 力の限り吼えた。それによって呪縛から解放される。地面につく寸前だった体は持ちこたえる。急制動をかけたように身体に強烈な負荷がかかった。だがそんなことにかまっている暇などない。四伎に力を込め――耐える。
(ふぅ……なんとか、おすわりをしなくて済んだようだ)
俺の体は地面から数センチ上でピタリと止まっていた。プルプルと足が震えているのはご愛嬌だ。
唯は少し驚いたような顔をした。それもそうだろう。我が家の賢いラッシー君は、一度教えたらほとんどの事はきちんとこなす。それなのに今はしない。妹が意外そうにしているのもわかる気がした。それと同時になにか得意げな気分になる。
(にゃはははは、兄の実力を思い知ったか!)
「ワオォォォォォン」
 とりあえず勝利の雄叫びを上げてみよう。
 その瞬間、唯の額にピキッと青筋が浮かんだ。ま、まずいっ!
 唯が俺を――正確にはラッシーを見つめる。映像が切り替わったように微笑がすっと消えて無表情になった。そのまま、息がかかるほど近くにずいっと寄り、その整った人形みたいな顔で見つめてくる。
(ギクッ…………)
 俺は妹のこの表情が嫌いだ。もともと妹は変な奴で自分の事を巫女だとか、現世とうつし世の境界人とか常々言っていた。普通そんな事言われれば、誰だって呆れるはずだ。ていうか、引く。例に漏れず俺も相当馬鹿にしたような気がする。しかし、その報いはかつて十分、いや十二分につぐなわされたのだ。
 あれは、今から一年近く前、こいつと出会った……正確には俺の妹になった初日の出来事だった気がする。


「今日からお前の母さんになる人だ」
 そうオヤジに紹介されたのは本当の母さんの、三回忌でのことだった。
親戚が帰り、ようやく一息ついたところだった俺に向けての言葉だ。年々規模が小さくなる法事に何となく寂しいものを覚えながら、俺は仏壇の前に座っていた。
写真の中にある母さんはきれいな人で、バカ親父なんかにはもったいない人だったと思う。もっとも、それは容姿だけっだったのだが。覚えている限りでも、母さんは破天荒という言葉がよく似合う人だった。オヤジが女遊びで遅くなるたびに、言い訳などさせずに強制的に黙らせ、青痣つけて、会社に出勤させていた。無言のメッセージを相手の女に伝えるためにだ。
おれは子供心に心底思ったものだ。この人だけは敵にまわすまいと。
しかし、その母さんも三年前の今日、あっけなく他界してしまった。買い物帰りに交通事故に遭ってしまったのだ。
俺は学校に行っていてのだが、その知らせを受けるなりすぐに病院に駆けつけた。親父もまた取るものも取らず駆けつけていた。いつも余裕たっぷりな親父が、髪を振り乱し、鬼気迫る形相をしていた。正直怖かった。親父の様子もそうだし、いつも一緒にいた人と永久に別れなくてはならないのかもしれないのだ。
俺と親父は手術室の外で待ちつづけた。一縷の望みにすがりながら。しかし、帰ってきたのは無情な結果だった。出て来た医者はゆっくり首を振った。泣き喚く俺。そして、それを他人事のように見つめているもう一人の俺。ふわふわと浮いているようで、現実感が奇妙になかった。親父はといえば何もない壁に向かって、暗い目を向けていた。手の平につめが食い込み、血が滴り落ちていた。しかし、それを誰も止めようとはしなかった。あまりに悲壮だったためか、それとも他の何かのせいか。今となっては何もわからない。
病院から帰った後はあっという間の出来事だった気がする。忙しすぎて寂しいという感情さえ何処かへ置いてしまったようだ。
葬式が終わった夜、俺と親父は二人きりになった。お互い話し掛けることはなかった。一睡もせずにただ座っていた。時間が過ぎ、ようやく次の朝が来る前に親父は口を開いた。
『母さんな、……最高の女だったよ』
 ポツリと呟き、後ろを向き横になった。その背中がいつもと違い、とても小さく見えたのを今でも覚えている。

「はあぁ!?」
 いきなりの言葉だった。はっきり言って寝耳に水だ。そりゃあ、親父もまだ若いし、再婚とかは仕方がないと思っているけど、こんなにいきなりだなんて。仏壇の前で手を合わせたまま俺は固まってしまった。でも、いったいどんな人なんだ。母さんを亡くしてから、親父は女遊びをピタリと止めてしまっていた。逆に俺が女の傷は女でいやせと進めたほどであった。
 胸をどきどきさせながら待つ。目の前の襖がゆっくりと開いていく。
 入ってきたのは俺より年下の女の子だったのだ。艶やかな黒髪を肩のところで切り揃え、肌は雪のように白かった。目は二重で愛らしいのだが、柔和というよりは鋭さを感じさせる凛とした雰囲気を持っていた。
「…………………」
 なんでこんな少女が入ってくるんだ。もしかして……もしかして、親父……。
「どうも、はじめまして」
 少女が口を開いたその瞬間、空気が動きだした。
「こっ…………こっ、こっ、この、クサレ外道がぁっ!」
 俺の右フックが唸りをあげた。
「グフッ!」
 ふっとぶオヤジ。なにやらうめいている。もちろん、そんな事は気にしない。
「前々から鬼畜な野郎とは思っていたが、まさか自分の息子より年下に手を出そうとはな。俺は……オレは情けないぞ! 鬼畜!」
「ま……待て……、まちが――」
 強制的に返す左アッパーで動きを止めさせる。ピクピクと痙攣しているのは、むしろ人類のためにもいい事だ。
「問答無用! だれが許そうと俺が許さん! 人が寂しい高校生活を送っているのを尻目にこんなかわいい子、もとい若い子に手を出すとは……その性根叩きなおしてやる! この犯罪者! ……君、もう安心だからな」
 最後の言葉は女の子に向けて言う。安心させるために笑顔を添えるのもポイントだ。ついでに歯も光らせる。
「はあ……」
 その女の子は気が抜けたように言葉を搾り出した。
 よっぽど辛かったのだろう。俺はそう解釈した。こんなかわいい子が中年オヤジと結婚だなんて、何か弱みを握られていたに違いない。
「きゃあ、正彦さんっ!」
 襖から入ってくるなり、女の人が倒れているオヤジを抱きとめた。ちなみに正彦とは親父の名前だ。
 その女性は喪服に身を包んでいた。今日の法事に参加してくれた人だろうか。バッグの中からハンカチを出し、親父の口元をぬぐった。
「麻里さん……私はもうダメだ。グフっ……、最後にその胸でねむらせておくれ……」
「ああっ、正彦さん。しっかりして!」
 オヤジはそう戯言をほざくと、手をワキワキと動かした。あかん、こいつの女好きは既に病気だ。俺は人類のためにもここで息の根を止める事を決断した。再び拳を振り上げる。
しかし、その手をがしっと何者かにつかまれた。
「その位にしたらどうですか、兄さん」
 俺の手をつかんでいたのは先程の女の子だった。
「兄さん……?」
 勢いがのった手を止められたことよりも、その少女から飛び出した単語のほうが気になった。
「だれが、だれの?」
「あなたが私の」
「兄さん?」
「そうです」
………………………………。
そうか俺には生き別れの妹が居たんだな。女好きの鬼畜大魔人である親父が無理やり手篭めにして、そして捨てた女性から生まれた子供なのだ。くぅっ、苦労したんだろうな。
「いままで、大変だったな……」
 俺は半分涙目になった。許せ、これからはこの兄が幸せになるように力を尽くしてやる。
「はあ……。まあ、ある意味では。……なにかひどい誤解があるように思えますが違いますよ。正彦おじさんと母が再婚したから、妹になっただけのことです。自己紹介がまだでしたね。旧姓は柏木、今日からは大森唯です。よろしくお願いします」
少女は呆れたように嘆息した後、てきぱきと解説を始めた。その口調は説明的で、俺の頭の中には何故か、お天気お姉さんが浮かんだ。うむ、明日の天気はなんだろう。
「聞いていますか?」
「あっ、ああ」
 唯が息がかかるほど近くによってきた。間近で見ると本当に整っていて、あまり生きているように感じられない。それでも、俺だって思春期の男の子だ。女の子にこんな近くに寄られたら、いろんな意味でドキドキして仕方がない。
「えーと、あの……、じゃあ、俺のほうも自己紹介を――」
「知っています。大森秀行さん。現在、県立巽高校の三年B組。所属クラブは特になし。彼女いない歴、生まれてからずっと―――」
「まてーい! なんでそのことまで知っているんだ?」
 最後に変な情報が飛び出した。明らかに知っていてはおかしい事だ。
「他にもこんな事がありますね。実は小学六年生までオネショしていたとか、毛が生えてきたからといって、母親に陰毛を見せたとか。……変態ですね」
「うがぁぁぁぁぁぁぁ」
 なんなんだ、こいつは!? その二つは俺のトップシークレットに位置するものだ。恥ずかしい、それ故に封印した過去。心の引き出しに入れて俺自身忘れていたのに、どうしてそんなことまで知っているんだ。
「どうして…………?」
 そこはかとなく、無力感にさいなまれながら聞いた。唯はゆっくりと手を上げ、ある方向を指した。そこには、俺の義理の母親になるであろう女性に膝枕され、幸せそうに目を閉じている親父がいた。
「おまえかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 駆け寄って、問答無用に蹴り倒した。ごろごろと転がっていく親父。頼むから、そのまま何処かに行ってくれ。
 親父は玄関まで転がっていく。そこで、ピタリと止まった。そこには大きな犬がいた。見ようによっては銀にも見える、灰色のつややかな毛並みを持った大型犬だ。
「パトラッ○ュ、ワシはもう疲れたよ……」
 親父はどこぞのアニメのセリフを自己流に変えて言った。そして毛並みに抱きつくように顔を擦り付ける。たしかあっちはセントバーナードだった気がするが、この犬はどう見てもシベリアンハスキーだ。
「それはラッシーですよ」
 唯が冷静につっこむ。気のせいかラッシーも嫌がっているように見える。とりあえず話が進まないからバカ親父は放って置こう。
「話を戻そうぜ。つまり、俺の親父とあんたの母親が再婚したってことなんだろ」
「はい、そうです」
「んで、俺のことは親父から聞いていると。俺のことを兄さんと呼ぶくらいだから、やっぱ年下?」
「高一になります。二年離れている事になりますね」
 たんたんとした口調で答える。それでも緊張しているのか、先程から表情が硬い。やはり初対面の男を、兄と呼ばなくてはならないのは大変なのだろう。
 俺は安心させるために笑顔を浮かべた。対女の子用の極上の笑みだ。
 唯は恥ずかしそうに目をそらした。
 純粋にその姿は可憐に思えたし、こんな子が俺の妹になると思うと正直うれしくなった。
「あの……」
 唯が躊躇いがちに口をひらく。先程までより、さらにぎこちない。
「なんだい」
 ここは兄から踏み込んでやらねばなるまい。
「言っていいものかどうかわかりませんが……。特に兄さんになったとはいえ初対面の人に……」
「なんでも、言ってみなよ。俺たちは今日から家族になったんだろ。遠慮する事はないさ」
 これから生活を共にするのだ。遠慮なんかしていては始まらないぞ。
「……では、遠慮なく。思いっきりチャックが開いていますよ。恥ずかしくないんですか。そんなことして。やっぱり……もしかしてわざとですか? 情報通り変態サンなんですね」
俺は慌てて背を向け、チャックを上げた。
 前言撤回。そんな可愛げのある奴ではない。わかりすぎるほどわかった。
「悪かったな」
 ぶっきらぼうに言う。こんな奴に対して一瞬でもかわいい妹ができてラッキーと思ってしまった自分が恥ずかしい。
「ところで兄さん」
「……なんだ」
 一瞬誰のことかわからなかったため、反応が遅れる。
「ニ、三日前に、野良猫の死体を見ませんでしたか」
「ん……?」
 唯の言葉で思い出さされた。たしか、三日ほど前に学校から帰っている途中で、ネコが車に轢かれるところ一部始終見てしまったのだ。かなりグロイ光景だった。あまりにひどかったため、その晩はひどい悪夢を見てしまった。ネコの集団に襲われる夢だ。あのプニプニとした肉球に踏まれ続けるのだ。気持ちいいやらうっとうしいやらで、最後はわけがわからなくなっていた。
「たしかに見たが……もしかして飼い猫?」
 首輪もしていなかったから、たぶん野良だと思ったのだが。
「いいえ。違いますよ」
「じゃあ、なんで?」
「いえ、憑いてきていますから」
 すいっと唯は俺の後ろを指差した。慌てて振り向く。そこには何もなかった。
「かわいいネコちゃんですね」
 表情を少しも変えることなく言う。まるで周知の事実だというように。唯の瞳は開いているのだが、焦点があっておらず、どこも見ているようには見えない。一種独特の顔つきをした。
 一瞬、寒気がした。何か見てはいけないものを見たような気がしたからだ。
「……ちっ、何バカなこと言ってんだ」
 しかし、俺の口から出たのは皮肉だった。認める事を拒否したかったのかもしれない。ただ単に怖かったのかもしれない。だから否定とも取れる言葉を吐いたのだろう。
「バカ……」
 俺の言葉をかみ締めるように呟いた瞬間、ピキっとまるで音をたてたように唯の額に青筋が浮き上がった。そして、なにやら得体の知れないオーラ満ちてくる。
「フフフフフフフフフフフフ、バカという字は馬に鹿と書きます」
 俺は今、猛烈に汗をかいていた。もちろん冷たい方だ。何故そんなものをかくのかわからない。しかし、俺の本能の深いところが警告を発していた。この女はやばいと。
「そうなんだ……」
 カラカラに乾いた喉からどうにか言葉を搾り出す。
「つまり――」
「つまり……?」
 唯の口がにんまりと吊り上った。

 そこから先は記憶がない。気が付けば、まるで時間が切り替わったように、次の日の朝になっていた。いつのまにか、俺は布団の中で寝ていたのだ。いぶかしがりながらも、洗面台に向かう。
「うぎゃあぁぁぁぁ!?」
 朝からとんでもないものを見せられてしまった。
顔のいたるところに変な足跡が一杯あるのだ。なぜだか二種類のヒヅメの跡。そして額に明らかにマジックで書かれたものとして『馬鹿』とあった。
 忘れよう……。人間知らない方がいい事もあるものだ。――そう思った。
 それからのことだ。俺にとって唯の独特の笑みがタブーになったのは。


 その妹が例の表情を浮かべている。冷や汗が全身から噴き出す。ふいっと目をそらそうとした。その瞬間、がしっと顔を捕まれた。そして、俺は意志に反して唯の顔を見つづけねばならなくなった。
「フフフフフフフフフフフフ」
 唇の端から笑いが漏れてきた。顔の筋肉が少しも動いていない。すんげぇ怖い。
「ラッシー、それは私への挑戦ですか……」
 はっきりと青筋が浮かんだ。思わず従いそうになる。しかし、ここだけは譲れないのだ。わかってくれ妹よ。
 心の声が聞こえたのか唯はつかんでいた手をはなした。そして踵を返すと家の中に戻っていった。思わず胸をなでおろす。
(やれやれ、相変わらず危ないやつだ。あんなんじゃ、彼氏ができないだろうな)
 好き勝手言っている俺に復讐するかのように唯は戻ってきた。しかも手には親父のゴルフクラブを持ってきている。そして俺の前まで来るとそれを大きく振りかぶった。
「ラッシー、おすわり」
 それでも表情だけは変えず、淡々と言った。
 人としてゆずれないプライドだってある。逆境に立ち向かおうとする勇気だってあるんだ。でも……、でもな……。
たまには負けるのもありだよね。
俺は瞬時に従った。ついでに尻尾も振るおまけ付きだ。経験上この状態で抵抗しても何もいいことがない。
 妹はそんな俺を見て、ようやくほんの少しばかり笑みを浮かべた。そして、ドックフード差し出した。
(一難去って、また一難か……)
 じっと俺を見ている。食べるまで動かない構えだ。しょうがないと決意を固めて噛み付こうとする。

 スカッ

 また妹の手の中にあった。今度はなんだ?
「お手」
 できるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
 そんなやり取りはそれからしばらく続いた。


プロフィール

ニックネーム
ケイロン
性別
血液型
A型
生年月日
19○○年5月23日
現住所
岡山のどこか
所在地
岡山のどこか
職業
教師っぽいこと
自己紹介
小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。

ブログ

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