ススメ☆ラッシー(完結)
3章
解放の時
(ふふふふふふふ。ふはははははははは)
深夜――月夜に照らされて、俺は会心の笑みを浮かべていた。何でこんな簡単な事に気づかなかったんだろうか。俺の目の前には鎖がダラリとぶら下がっていた。むろん、俺の体は拘束されていない。ビバ! やったよ、俺。達成感が俺の中を駆け巡っていた。
(要は発想の転換なんだ)
そう俺は今まで人であったころの習慣のまま過ごそうとしていたから気づかなかったのだ。人が手を使えるように、犬は何が使える? そう、口だ。なにより器用なこれがあるじゃないか。思えば、なんでこんな簡単な事に気づかなかったのだろう。
さて、勝ち誇るのは後でもできる。これからどうしようかなぁ。そこまで考えて、ここ三日間の日常がふっと思い出された。
ふふふふふふふふふふ
そういえば好き勝手やってくれた奴が一人いたな……。ここは、兄の意地を見せなくては!
さあ、後は行動するのみ。俺はゆっくりと玄関に近づいていく。しかし、ここで新たな難関が俺を襲った。
(今度はドアノブか……)
球状のノブは本来犬には、到底開けることはできない。
しかし、今の俺は無敵だ。
犬の口は様々なことが行えるようにできている。前歯は切り裂く事ができると同時に細かいものを傷つけないこともできる。俺は最小限の力でノブを咥えた。そして、ぶら下がる要領で反動をつける。
――カチャリ――
ゆっくりとドアが開いていく。ビンゴ! 俺は犬の体をほぼ完全にコントロールしていた。
一応念のためマットで足を拭う。廊下に足跡でも残ったら犯人がばれてしまう。ゆっくりと音をたてないように階段を上っていく。唯の部屋の前に立った。プレートが貼ってあり『ノックをしてください』と書かれていた。
(ノックなんてするわけないだろ)
高まる鼓動を押さえる。まるで自分が変質者か何かになり、これから悪い事を犯そうとしているようだった。
いや、待て。これは当然の復讐だ!
俺は三日間、蹴られ、殴られ、どつかれて、何度意識を飛ばした事か。さあ俺、躊躇をするな。このドアを開けて仕返しをするんだ。
俺はドアノブをゆっくりまわした。カチャリと軽い金属音がしてドアが開いた。
いよいよだ。ゆっくり部屋に入る。部屋は犬の目にも暗かった。
「何の用ですか」
(うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?)
なっ、なんだ? 何事だ? あわてて首をめぐらせる。すると、ドアの横に妹が幽鬼のごとく立っていた。しかも、パジャマ姿でだ。
「夜中に、婦女子の部屋に侵入するとは命が惜しくないんですか、兄さん」
(ごめんなさい! ごめんなさい!)
「クゥゥゥン」
ああっ、目が据わっている。しかも、後ろ手に何か持っているぞ。そういえば、こいつ寝起きが最悪に悪かった。絶対、振り下ろす事に躊躇なんてしそうにないぞ。やばい、やばいぞ。
と、……待てよ。あいつ今、変なことを言わなかったか?
(唯、もしかして俺の言葉わかる?)
「ワォォォォォン?」
「はい、それが何か?」
ちょっとまてぇぇぇい! わかるんかい!?
(なんで……)
「ワン、ワン」
「だって、兄さんでしょ」
(だから俺、今犬だって)
「ワン、ワン、ワン」
「あっ……」
なにか、とてもいたーい沈黙が横たわった。半眼になって見つめる。先に目をそらしたのは唯だった。
「そういえば、そうでした。兄さんが犬なわけありませんよね。どうやら、寝ぼけていたようです。さあ、寝ましょう」
くるりと向きを変えベッドに戻ろうとする。珍しくセカセカした動きだ。
(待たんかい!)
俺は唯の足首をくわえた。へたな事を言うと噛むぞ。噛んだら痛いぞ。
唯の額から一滴、汗が零れ落ちた。
(んで、俺が犬化しているのいつからわかったんだ?)
「………………最初から……」
唯は観念したように答えた。でも口は不服そうに尖らしている。
(ほほぉ……じゃあ、あれだな俺に芸をさせたのもわかっててやったんだな)
低い唸り声をだし凄みをかける。返答次第じゃ本気で噛むぞ!
「しかたがなかったのです」
相変わらず焦点の合わない瞳をこちらに向けて、たんたんと言った。
(しかたがないって……おまえなぁ!)
「待ってください」
怒気もあらわに言い募る俺を唯の真剣な声が制した。
「兄さん、何故私があのような行動をとったのか……本当にわかりませんか」
珍しく少し悲しそうな顔をして俯いた。それだけで雰囲気が一変した。まるで、悪いのは俺だと言わんばかりに、居心地が悪い空気が部屋に満ちてくる。
いったい俺が何をしたというのだ。むしろ被害者だろ、俺って。心の中で毒づくが妹は一人の世界に入っている。
(悪いがまったくわからん)
憮然として言う俺を唯が悲しそうに見つめてくる。涙までためて一心にこちらを見ている。
(じゃあ、一体何のつもりでやったんだ?)
説明してくれよ。そうじゃなきゃわからないだろ、そんな顔をされても。
「それは……」
(それは……?)
「あんまり……、あんまりにも兄さんの……」
(………)
悲痛な顔で何かをこらえるようにぶるぶる震えている。よっぽど話したくない事情があるんだろう。そうだよな、人には言えないようなこと……誰だっていくつかはあるよな。俺だって何個かはあるさ。そうだろ、秀行。こんな超常現象の世界だ。あいつだって色々苦労しているんだろな。
俺はそう思い妹を慰めるために近寄った。話も聞かずに疑って悪かった。こんなんじゃ、兄として失格だな。
「反応が面白かったから」
そして急に素に戻り、妹はにやりと笑った。
(こいつ殺す、いつか絶対殺す)
心の中で固く決意をする俺であった。
(んでなんでわかったんだ?)
腹が立つが、いつまでも掛け合い漫才をやるわけにはいかない。どうして俺がラッシーだとわかったのか、それがまるでわからないのだ。
「魂の色です」
(いろ?)
「ええ、人の顔に個性があるように魂にも個性があります。兄さんがラッシーの中に入っている事は、だから一目でわかりました。外見は違っても間違いようがありません」
(へえ、すごいもんだなぁ)
正直感心した。変なやつだと思ってはいたが、本当に霊能力をもっていたんだ。
(じゃあ、俺の言葉がわかるのも霊能力のおかげなのか?)
「違います。犬は霊的に高度なので、意志の交換がたやすいのです。わかりやすく言えば心が読みやすいのです」
(えっ、読めんの?)
血の気が引いていった。ということは俺が今まで考えていた事は全部筒抜けということなのか。それは、さすがにまずい。
「もちろん、全部はわかるわけがありません。今みたいに兄さんが強く思ったことじゃないと、こちらも受け取る事が困難です」
(そ、そうなのか)
ふう、なら安心か。
「でも、しっかり『相変わらず危ないやつだ――』というくだりは聞こえていますから。これで私の態度も納得できましたか?」
(はい……)
ここは頷くしかない。それしか俺にできることはない。
「ところで、根本問題として兄さん。なんでラッシーの中に入っているんですか?」
向こうから話題を変えてくれた。この機会を逃すわけにはいかないぞ。
(まったくわからん。……唯、何故だかわかるか?)
そして、なにより理由が知りたかった。こんな超常現象がいきなり我の身に振りかかるなんて普通、ありえない。だいたい俺と不思議な世界の接点だなんて、こいつぐらいなものだ。
期待を込めて妹を見る。先程、唯の霊能力の凄さは痛いほど理解した。だからこそ、こいつなら何か打開策を見出してくれるのではないか。
「さあ……。しかし、そうだとすると……どういうことなのでしょうか」
(なにがだ……?)
「いえ……今兄さんの身体に入っているモノの事です」
そうだ、俺の身体だ! 俺がラッシ―の体の中に入っているのなら、もしかしてラッシ―が俺の体に入っているのかもしれない。
(唯! もしやラッシーが俺の中に?)
「いえ、違います。あれはもっと違うものです。禍禍しいものでもなく、清いものでもない。もっと虚ろでふわふわとした彷徨えるものです」
唯がその表情まで言葉と同調するように消した。
(つまり……俺の中には何が入っているんだ?)
「今は言えません。しかし、まあ害がないから放っておいても大丈夫でしょう」
(放っておくんかい!)
黙って聞いておけばこの娘。俺の体はどうなっても言いというのか。
「それよりも、今考えなければならない事は一つです」
(なんだ……)
相変わらず人の話を聞かんな、こいつ。
「ぶつぶつと訳のわからない事をのたまう兄を持ってしまった、可哀想な私をどうするかということです」
(……ちなみに唯さん、俺の体は一体どうなっているんですか?)
なにかとても不吉な予感が俺に問いを口走らせた。唯の口ぶりからも何かとんでもない事が起こっているような気がするのだ。
唯はそんな俺をじらすように黙り込んだ。その間にちらりと俺を見るまなざしにははっきりと憐れみの念が浮かんでいた。本当に言ってもよいのかと瞳が聞いてくる。俺は頷く。覚悟はできている。さあ、言ってくれ。
「日中は部屋にこもり、ぶつぶつ言っています。何を言っているのか聞き取れない上にやたら声がでかいです。夜は夜で町を徘徊しています。しかも、裸で。おかげでご近所に大評判。大森さんちの秀行君といったらストリートキングで有名です」
(なんでしゅとぉぉぉぉお!?)
唯の言葉は俺の想像を越えていた。元気で明るい好青年が売りだった俺が、これではまるで気○がいではないか。
「その上、やたら奇妙な笑い声を上げます。こう、なんというか……地獄の底を這いずり回るような声とでも言うのでしょうか。とにかくとてつもないです。」
ガァァァァン
心の中で鐘が鳴った。ああっ、いつのまにか人間として落ちるところまで落ちてしまったようだ。こんなんで、俺はやっていけるんだろうか。
しかし……嘆くのはまだ早い。俺は気を取り直さなければならなかった。今できる事を考えて、最善の手を打ち行動する。落ち込むのはそれからでも遅くないはずだ。俺は顔を上げた。腹に力を込める。
(それで、俺はいまどこにいるんだ?)
「お父さんがうるさいからと言って、総合病院に放り込みました。ちなみにそこの精神科です」
(あぁの、クソ親父ィ!)
あの親父とは一回どうしても決着をつけなければならないようだ。噛んでやる。決めた。
(親父は!?)
「今、サイパンです」
(はい……?)
なぜここでそんな国名が?
「有給をとって、ニ度目の新婚旅行らしいです」
(逃げやがったなぁぁぁ!)
――一方その頃、サイパン海岸沿いのホテルの一室で――
「あなた、よかったのかしら」
「秀行のことかい?」
「ええ、精神科へなんていれて大丈夫なの?」
「心配ない。私に考えがある。さて、そんなどうでもいい事は放っておいて、二人の夜を楽しもうじゃないか。子供もいないことだし」
「……そうね。なんだか結婚前に戻った気分よ。あなた、ありがとうね」
「なに、たいしたことはしていないさ。ふふっ、この辺りは比較的治安もいい。真夜中の散歩とでも洒落込もうか」
――そして、日本――
「兄さん、そんなに肩を落とさないで下さい。耳が垂れ下がっていますよ」
見かねたのか、唯が慰めの言葉をかけてくる。
(放っておいてくれ。俺は所詮、両親にほっとかれた上に精神科に回されるようなやつさ。こんな俺には所詮犬がお似合いさ)
自嘲の笑いが漏れてくる。犬は笑えないから、何か喉の奥で唸るような声が漏れてきただけであった。それがよけいに俺を悲しくさせた。ああ、本当に犬なんだな。俺って……。いったい、なんでこんな事になってしまったんだ。
「そう嘆く事はありません。まだ、救いがあります」
(救いとは……?)
こんな最低な状態なのに、何か良い事があるのか。怪訝な思いで妹を見る。それを察したのか唯はにっこりと笑った。
「よく考えてください。兄さんは今ラッシーなのですよ。ラッシーといえども所詮犬です。だから人の評判など気にする必要などありません。犬畜生の人生を生きれば良いじゃありませんか」
(おーまーえーはー!)
ぷちっ
俺の中で何かが音をたてて切れた。ふっ、唯よ。お前は人としての一線を超えてしまったようだ。兄はこれから鬼となる。お前は俺を怒らせた。詫び言はあの世で言うがよい。
俺は勢いをつけて飛び掛った。目の前の標的を仕留めるために全身のばねを総動員する。人でいた頃には考えられないような俊敏さだ。
とらえた!
俺は勝利を確信した。あれだけ好き放題言われたのだ。一回くらいは噛まなくては。
そして、唯と俺の影がまさに接しようとするその時、目標が掻き消えた。
(はい……?)
頭の中が一瞬空白になる。なにかとてもいやな予感が襲ってきた。本能に従い慌てて首をすくめる。そこへ風圧が通り過ぎた。その際、毛が何本も持っていかれる。
「…………」
そして、また目の前に唯が出現した。
「まだ、やりますか?」
(いいえ、滅相もございません)
兄としての立場はある。男としてのプライドだって有る。しかし、それは生きていればこそだ。この場合はこれが正しい。ナイス判断だ、俺。……というかこんなことしている場合じゃないだろ。
「兄さん、これからどうしたいですか?」
何事もなかったように唯が尋ねてくる。
(そんなの元に戻りたいに決まっているだろ)
聞かれるまでもない。俺の望みは一つだけ。これさえかなえば後はどうでも良い。
「わかりました。じゃあ、何とかしましょう」
(できるのか……?)
俺にはこいつしか頼る相手がいないが……、本当にもとの俺に戻れるのだろうか。
「任してください。これでも境界の巫女です。魂の整理をすればそんなの簡単です」
また何か訳のわからない単語が飛んできた。だが、そんな事は気にしない。喜びで俺の胸は打ち震えていた。
(それで、どうすればいいんだ?)
さあ、行動だ。後はいかに的確に動いて目標を達成させるかだ。
「まず、体を確保します」
(ふむふむ)
「それから、ラッシーと兄さんの体を並べます」
(それで?)
俺の質問に答えるように唯は引出しの中をごそごそと探し始めた。そして、何か細長いものを取り出した。
「そして……ここにある破魔の神剣で刺します」
(さすなぁぁぁぁぁぁ!)
とんでもないことを言うやつだ。刺したら痛いだろ。ていうか普通死ぬぞ。
「もう……、じゃあ、どうすればいいんですか? わがまま言わないでください」
(わがままって……。刺したら怪我するだろうが)
当然の反論をする。すると、唯の肩が急に震えだした。
(な、なんだ!?)
「フフフフフフフフフフフフ」
例の奇妙な笑いが部屋中に満ちる。相変わらず顔の筋肉は少しも動いていなかった。止めろよあなぁ、その笑い。
「兄さん。この神剣ロクちゃんはただの小刀ではありません」
カチッ。という音をたてて唯はおもむろに鞘から刀身を抜いた。それは薄暗い部屋の中にもかかわらず自ら発行するように淡く輝いていた。
「ウフフフ、キレイ……」
うっとりとした表情で唯は刀の背をなでる。その様子は何故か鬼気迫るものがあり、俺は口の中がカラカラに乾いていった。
(ゆ……唯、いい子だからしまおうね)
本気で危険を感じた。こいつにこれ以上刀を持たせていてはだめだ。
俺の怯えが伝わったのか唯はしぶしぶといった感じで刀をしまった。やれやれと胸をなでおろす。
(んで、どう違うんだ?)
どうにか軌道修正に成功した俺は、先ほどの疑問を口にする。
「ええっ、キレイでしょう」
唯は相変わらずうっとりした顔で答えた。
(それだけ……?)
背中に絡みつくような汗が流れた。
「ええ、それだけです。とてもキレイ……」
半歩下がる。それを追うように妹の視線が纏わり付いてくる。
(じゃあ、そういうことで)
俺はくるりと身を翻し駆け出した。あんなもので刺された日には、人に戻る前に死んでしまう。開いていた扉から逃げようと全速力で駆け出す。
しかし、一向に視界が変わらない。懸命に足を動かす。それでも変わらない。なぜだ? どうして? ふっと後ろを振り向く。妹が尻尾を掴んでいた。いつのまにか刀身を抜き振りかぶっている。
(助けてー! 殺されるー!)
本気でびびった。だめだ、もうだめだ。本当にいいことがなかった人生だった。親父、お袋、先立つ親不幸者をお許しください。
俺はぎゅっと目をつぶった。そして、衝撃が来た。
(…………えっ!?)
刀は俺の毛の部分で止まっていた。確かに殴られたような重い衝撃が来たのに体は何ともない。
(唯、これはいったい?)
その不思議な現象を見つつ唯に尋ねた。
「今、兄さんの体には衝撃が来たはずです。しかし、体は何ともなかったですよね。これが示すようにロクちゃんの力とは、刀なのに肉体に一切の危害を加えることができないのです。しかし、それ故に肉体と魂の狭間に穴を開けることができます」
唯の説明は半分も理解できなかった。しかし、何も変化していないように思えるのだが。
(別に何も変わっていないが)
正直に言う。唯はわかっていると頷く。
「ええ、では論より証拠をお見せします」
そう言って、大きく呼吸を始めた。鳥が鳴くように高く鋭い呼吸音が部屋に満ちる。その音が歌のように耳にこびりつく。
(これは!?)
胸の奥に熱い塊が生まれた。それはどんどん増大していき、身体中を駆け巡る。膨れ上がった熱い塊は、出口を求めて奔流のようにせり上がっていく。
(だめだ、熱い。我慢できない!)
耐えかねて、俺はその熱い何かを吐き出した。それと同時に体の感覚全てが持っていかれるように喪失する。俺の意識は深い闇に落ちていった――。
「気がつきましたか?」
唯の声がやけに下から聞こえた。俺は唯をさがす。すると唯はずいぶん下にいた。先ほどまで見上げるようだったから、よけいそのギャップを感じる。
(俺は……いったい……)
「体を見てください」
言われた通りにする。手があった。足があった。これはまさに……。
(人に戻れたのか!?)
「違います」
俺の喜びに満ちた勘違いを、唯の冷たい声が遮った。
「よく見てください。どこか実態のないように感じられませんか。兄さんの目には半透明に透けて映っているはずです」
(ああ……)
事実、俺の体はどこか希薄な感じがした。つかみ所がなくふわふわとしていて、本当にそこにあるのか疑いたくなるほど、俺の存在は頼りなかった。同時に、なにか上に引っ張られているような不思議な感じがした。このせいで宙に浮いているのだろうか。
「それが、霊体です。魂に記憶された霊的構造を、一時的に再現するといった方が正しいかもしれません。ですが、一応こう言っておきます。まあ、一般の人には普通見えません」
俺は手を握り締めてみた。力を入れているのだが、なにか入れる端から抜けていっているように感じられる。
「兄さん、下を見てください」
ぼんやりとした意識のまま下を見る。そこにはラッシーの体があった。死んだように横たわっている。
「ラッシーの体から霊的接続端子、つまり生命線が伸びていません。それは本来の体ではないことを示しています。もし自分の体なら、そこから魂と体を結びつける線が伸びているはずなのです」
俺とラッシーの間には何もなかった。
(つまり何がいいたいんだ)
霊だの何だの訳のわからない事を言われて混乱していた。できれば日常の言葉を使って欲しいものだ。
「ようするに兄さんは、何がどうしたのか間違えて、ラッシーの体に入ってしまったと思うんです」
(ふーん、じゃあラッシーの魂はどうなったんだ)
「それが……私にも上手く感じ取る事はできません。拡散したように希薄な存在感しかないのです」
唯がどこか悲しそうにいう。ラッシーは一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「ところで、兄さん」
(なんだ?)
ふわふわと浮きながら答える。こんな体験めったにできないからとても新鮮な感覚だ。自力で空を飛ぶなんて体験した奴のほうが絶対少ない。俺はしばし、この感覚を楽しむ事にした。
「大丈夫ですか?」
(別になんともないが、どうして?)
いぶかしげに唯を見つめる。別にどこといっておかしな所はないが。しいて言えばさっきより、なんだが上に引っ張られているような気がするが……。
「いえ、それなら良いんですが……。訓練していない人間が幽体離脱した場合、数分も持たず成仏してしまうのですけど……。まあどうでも良いんですけどね」
(良くないわぁぁぁぁ!)
俺の文字どおり魂の絶叫は深く響いたのであった。
深夜――月夜に照らされて、俺は会心の笑みを浮かべていた。何でこんな簡単な事に気づかなかったんだろうか。俺の目の前には鎖がダラリとぶら下がっていた。むろん、俺の体は拘束されていない。ビバ! やったよ、俺。達成感が俺の中を駆け巡っていた。
(要は発想の転換なんだ)
そう俺は今まで人であったころの習慣のまま過ごそうとしていたから気づかなかったのだ。人が手を使えるように、犬は何が使える? そう、口だ。なにより器用なこれがあるじゃないか。思えば、なんでこんな簡単な事に気づかなかったのだろう。
さて、勝ち誇るのは後でもできる。これからどうしようかなぁ。そこまで考えて、ここ三日間の日常がふっと思い出された。
ふふふふふふふふふふ
そういえば好き勝手やってくれた奴が一人いたな……。ここは、兄の意地を見せなくては!
さあ、後は行動するのみ。俺はゆっくりと玄関に近づいていく。しかし、ここで新たな難関が俺を襲った。
(今度はドアノブか……)
球状のノブは本来犬には、到底開けることはできない。
しかし、今の俺は無敵だ。
犬の口は様々なことが行えるようにできている。前歯は切り裂く事ができると同時に細かいものを傷つけないこともできる。俺は最小限の力でノブを咥えた。そして、ぶら下がる要領で反動をつける。
――カチャリ――
ゆっくりとドアが開いていく。ビンゴ! 俺は犬の体をほぼ完全にコントロールしていた。
一応念のためマットで足を拭う。廊下に足跡でも残ったら犯人がばれてしまう。ゆっくりと音をたてないように階段を上っていく。唯の部屋の前に立った。プレートが貼ってあり『ノックをしてください』と書かれていた。
(ノックなんてするわけないだろ)
高まる鼓動を押さえる。まるで自分が変質者か何かになり、これから悪い事を犯そうとしているようだった。
いや、待て。これは当然の復讐だ!
俺は三日間、蹴られ、殴られ、どつかれて、何度意識を飛ばした事か。さあ俺、躊躇をするな。このドアを開けて仕返しをするんだ。
俺はドアノブをゆっくりまわした。カチャリと軽い金属音がしてドアが開いた。
いよいよだ。ゆっくり部屋に入る。部屋は犬の目にも暗かった。
「何の用ですか」
(うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?)
なっ、なんだ? 何事だ? あわてて首をめぐらせる。すると、ドアの横に妹が幽鬼のごとく立っていた。しかも、パジャマ姿でだ。
「夜中に、婦女子の部屋に侵入するとは命が惜しくないんですか、兄さん」
(ごめんなさい! ごめんなさい!)
「クゥゥゥン」
ああっ、目が据わっている。しかも、後ろ手に何か持っているぞ。そういえば、こいつ寝起きが最悪に悪かった。絶対、振り下ろす事に躊躇なんてしそうにないぞ。やばい、やばいぞ。
と、……待てよ。あいつ今、変なことを言わなかったか?
(唯、もしかして俺の言葉わかる?)
「ワォォォォォン?」
「はい、それが何か?」
ちょっとまてぇぇぇい! わかるんかい!?
(なんで……)
「ワン、ワン」
「だって、兄さんでしょ」
(だから俺、今犬だって)
「ワン、ワン、ワン」
「あっ……」
なにか、とてもいたーい沈黙が横たわった。半眼になって見つめる。先に目をそらしたのは唯だった。
「そういえば、そうでした。兄さんが犬なわけありませんよね。どうやら、寝ぼけていたようです。さあ、寝ましょう」
くるりと向きを変えベッドに戻ろうとする。珍しくセカセカした動きだ。
(待たんかい!)
俺は唯の足首をくわえた。へたな事を言うと噛むぞ。噛んだら痛いぞ。
唯の額から一滴、汗が零れ落ちた。
(んで、俺が犬化しているのいつからわかったんだ?)
「………………最初から……」
唯は観念したように答えた。でも口は不服そうに尖らしている。
(ほほぉ……じゃあ、あれだな俺に芸をさせたのもわかっててやったんだな)
低い唸り声をだし凄みをかける。返答次第じゃ本気で噛むぞ!
「しかたがなかったのです」
相変わらず焦点の合わない瞳をこちらに向けて、たんたんと言った。
(しかたがないって……おまえなぁ!)
「待ってください」
怒気もあらわに言い募る俺を唯の真剣な声が制した。
「兄さん、何故私があのような行動をとったのか……本当にわかりませんか」
珍しく少し悲しそうな顔をして俯いた。それだけで雰囲気が一変した。まるで、悪いのは俺だと言わんばかりに、居心地が悪い空気が部屋に満ちてくる。
いったい俺が何をしたというのだ。むしろ被害者だろ、俺って。心の中で毒づくが妹は一人の世界に入っている。
(悪いがまったくわからん)
憮然として言う俺を唯が悲しそうに見つめてくる。涙までためて一心にこちらを見ている。
(じゃあ、一体何のつもりでやったんだ?)
説明してくれよ。そうじゃなきゃわからないだろ、そんな顔をされても。
「それは……」
(それは……?)
「あんまり……、あんまりにも兄さんの……」
(………)
悲痛な顔で何かをこらえるようにぶるぶる震えている。よっぽど話したくない事情があるんだろう。そうだよな、人には言えないようなこと……誰だっていくつかはあるよな。俺だって何個かはあるさ。そうだろ、秀行。こんな超常現象の世界だ。あいつだって色々苦労しているんだろな。
俺はそう思い妹を慰めるために近寄った。話も聞かずに疑って悪かった。こんなんじゃ、兄として失格だな。
「反応が面白かったから」
そして急に素に戻り、妹はにやりと笑った。
(こいつ殺す、いつか絶対殺す)
心の中で固く決意をする俺であった。
(んでなんでわかったんだ?)
腹が立つが、いつまでも掛け合い漫才をやるわけにはいかない。どうして俺がラッシーだとわかったのか、それがまるでわからないのだ。
「魂の色です」
(いろ?)
「ええ、人の顔に個性があるように魂にも個性があります。兄さんがラッシーの中に入っている事は、だから一目でわかりました。外見は違っても間違いようがありません」
(へえ、すごいもんだなぁ)
正直感心した。変なやつだと思ってはいたが、本当に霊能力をもっていたんだ。
(じゃあ、俺の言葉がわかるのも霊能力のおかげなのか?)
「違います。犬は霊的に高度なので、意志の交換がたやすいのです。わかりやすく言えば心が読みやすいのです」
(えっ、読めんの?)
血の気が引いていった。ということは俺が今まで考えていた事は全部筒抜けということなのか。それは、さすがにまずい。
「もちろん、全部はわかるわけがありません。今みたいに兄さんが強く思ったことじゃないと、こちらも受け取る事が困難です」
(そ、そうなのか)
ふう、なら安心か。
「でも、しっかり『相変わらず危ないやつだ――』というくだりは聞こえていますから。これで私の態度も納得できましたか?」
(はい……)
ここは頷くしかない。それしか俺にできることはない。
「ところで、根本問題として兄さん。なんでラッシーの中に入っているんですか?」
向こうから話題を変えてくれた。この機会を逃すわけにはいかないぞ。
(まったくわからん。……唯、何故だかわかるか?)
そして、なにより理由が知りたかった。こんな超常現象がいきなり我の身に振りかかるなんて普通、ありえない。だいたい俺と不思議な世界の接点だなんて、こいつぐらいなものだ。
期待を込めて妹を見る。先程、唯の霊能力の凄さは痛いほど理解した。だからこそ、こいつなら何か打開策を見出してくれるのではないか。
「さあ……。しかし、そうだとすると……どういうことなのでしょうか」
(なにがだ……?)
「いえ……今兄さんの身体に入っているモノの事です」
そうだ、俺の身体だ! 俺がラッシ―の体の中に入っているのなら、もしかしてラッシ―が俺の体に入っているのかもしれない。
(唯! もしやラッシーが俺の中に?)
「いえ、違います。あれはもっと違うものです。禍禍しいものでもなく、清いものでもない。もっと虚ろでふわふわとした彷徨えるものです」
唯がその表情まで言葉と同調するように消した。
(つまり……俺の中には何が入っているんだ?)
「今は言えません。しかし、まあ害がないから放っておいても大丈夫でしょう」
(放っておくんかい!)
黙って聞いておけばこの娘。俺の体はどうなっても言いというのか。
「それよりも、今考えなければならない事は一つです」
(なんだ……)
相変わらず人の話を聞かんな、こいつ。
「ぶつぶつと訳のわからない事をのたまう兄を持ってしまった、可哀想な私をどうするかということです」
(……ちなみに唯さん、俺の体は一体どうなっているんですか?)
なにかとても不吉な予感が俺に問いを口走らせた。唯の口ぶりからも何かとんでもない事が起こっているような気がするのだ。
唯はそんな俺をじらすように黙り込んだ。その間にちらりと俺を見るまなざしにははっきりと憐れみの念が浮かんでいた。本当に言ってもよいのかと瞳が聞いてくる。俺は頷く。覚悟はできている。さあ、言ってくれ。
「日中は部屋にこもり、ぶつぶつ言っています。何を言っているのか聞き取れない上にやたら声がでかいです。夜は夜で町を徘徊しています。しかも、裸で。おかげでご近所に大評判。大森さんちの秀行君といったらストリートキングで有名です」
(なんでしゅとぉぉぉぉお!?)
唯の言葉は俺の想像を越えていた。元気で明るい好青年が売りだった俺が、これではまるで気○がいではないか。
「その上、やたら奇妙な笑い声を上げます。こう、なんというか……地獄の底を這いずり回るような声とでも言うのでしょうか。とにかくとてつもないです。」
ガァァァァン
心の中で鐘が鳴った。ああっ、いつのまにか人間として落ちるところまで落ちてしまったようだ。こんなんで、俺はやっていけるんだろうか。
しかし……嘆くのはまだ早い。俺は気を取り直さなければならなかった。今できる事を考えて、最善の手を打ち行動する。落ち込むのはそれからでも遅くないはずだ。俺は顔を上げた。腹に力を込める。
(それで、俺はいまどこにいるんだ?)
「お父さんがうるさいからと言って、総合病院に放り込みました。ちなみにそこの精神科です」
(あぁの、クソ親父ィ!)
あの親父とは一回どうしても決着をつけなければならないようだ。噛んでやる。決めた。
(親父は!?)
「今、サイパンです」
(はい……?)
なぜここでそんな国名が?
「有給をとって、ニ度目の新婚旅行らしいです」
(逃げやがったなぁぁぁ!)
――一方その頃、サイパン海岸沿いのホテルの一室で――
「あなた、よかったのかしら」
「秀行のことかい?」
「ええ、精神科へなんていれて大丈夫なの?」
「心配ない。私に考えがある。さて、そんなどうでもいい事は放っておいて、二人の夜を楽しもうじゃないか。子供もいないことだし」
「……そうね。なんだか結婚前に戻った気分よ。あなた、ありがとうね」
「なに、たいしたことはしていないさ。ふふっ、この辺りは比較的治安もいい。真夜中の散歩とでも洒落込もうか」
――そして、日本――
「兄さん、そんなに肩を落とさないで下さい。耳が垂れ下がっていますよ」
見かねたのか、唯が慰めの言葉をかけてくる。
(放っておいてくれ。俺は所詮、両親にほっとかれた上に精神科に回されるようなやつさ。こんな俺には所詮犬がお似合いさ)
自嘲の笑いが漏れてくる。犬は笑えないから、何か喉の奥で唸るような声が漏れてきただけであった。それがよけいに俺を悲しくさせた。ああ、本当に犬なんだな。俺って……。いったい、なんでこんな事になってしまったんだ。
「そう嘆く事はありません。まだ、救いがあります」
(救いとは……?)
こんな最低な状態なのに、何か良い事があるのか。怪訝な思いで妹を見る。それを察したのか唯はにっこりと笑った。
「よく考えてください。兄さんは今ラッシーなのですよ。ラッシーといえども所詮犬です。だから人の評判など気にする必要などありません。犬畜生の人生を生きれば良いじゃありませんか」
(おーまーえーはー!)
ぷちっ
俺の中で何かが音をたてて切れた。ふっ、唯よ。お前は人としての一線を超えてしまったようだ。兄はこれから鬼となる。お前は俺を怒らせた。詫び言はあの世で言うがよい。
俺は勢いをつけて飛び掛った。目の前の標的を仕留めるために全身のばねを総動員する。人でいた頃には考えられないような俊敏さだ。
とらえた!
俺は勝利を確信した。あれだけ好き放題言われたのだ。一回くらいは噛まなくては。
そして、唯と俺の影がまさに接しようとするその時、目標が掻き消えた。
(はい……?)
頭の中が一瞬空白になる。なにかとてもいやな予感が襲ってきた。本能に従い慌てて首をすくめる。そこへ風圧が通り過ぎた。その際、毛が何本も持っていかれる。
「…………」
そして、また目の前に唯が出現した。
「まだ、やりますか?」
(いいえ、滅相もございません)
兄としての立場はある。男としてのプライドだって有る。しかし、それは生きていればこそだ。この場合はこれが正しい。ナイス判断だ、俺。……というかこんなことしている場合じゃないだろ。
「兄さん、これからどうしたいですか?」
何事もなかったように唯が尋ねてくる。
(そんなの元に戻りたいに決まっているだろ)
聞かれるまでもない。俺の望みは一つだけ。これさえかなえば後はどうでも良い。
「わかりました。じゃあ、何とかしましょう」
(できるのか……?)
俺にはこいつしか頼る相手がいないが……、本当にもとの俺に戻れるのだろうか。
「任してください。これでも境界の巫女です。魂の整理をすればそんなの簡単です」
また何か訳のわからない単語が飛んできた。だが、そんな事は気にしない。喜びで俺の胸は打ち震えていた。
(それで、どうすればいいんだ?)
さあ、行動だ。後はいかに的確に動いて目標を達成させるかだ。
「まず、体を確保します」
(ふむふむ)
「それから、ラッシーと兄さんの体を並べます」
(それで?)
俺の質問に答えるように唯は引出しの中をごそごそと探し始めた。そして、何か細長いものを取り出した。
「そして……ここにある破魔の神剣で刺します」
(さすなぁぁぁぁぁぁ!)
とんでもないことを言うやつだ。刺したら痛いだろ。ていうか普通死ぬぞ。
「もう……、じゃあ、どうすればいいんですか? わがまま言わないでください」
(わがままって……。刺したら怪我するだろうが)
当然の反論をする。すると、唯の肩が急に震えだした。
(な、なんだ!?)
「フフフフフフフフフフフフ」
例の奇妙な笑いが部屋中に満ちる。相変わらず顔の筋肉は少しも動いていなかった。止めろよあなぁ、その笑い。
「兄さん。この神剣ロクちゃんはただの小刀ではありません」
カチッ。という音をたてて唯はおもむろに鞘から刀身を抜いた。それは薄暗い部屋の中にもかかわらず自ら発行するように淡く輝いていた。
「ウフフフ、キレイ……」
うっとりとした表情で唯は刀の背をなでる。その様子は何故か鬼気迫るものがあり、俺は口の中がカラカラに乾いていった。
(ゆ……唯、いい子だからしまおうね)
本気で危険を感じた。こいつにこれ以上刀を持たせていてはだめだ。
俺の怯えが伝わったのか唯はしぶしぶといった感じで刀をしまった。やれやれと胸をなでおろす。
(んで、どう違うんだ?)
どうにか軌道修正に成功した俺は、先ほどの疑問を口にする。
「ええっ、キレイでしょう」
唯は相変わらずうっとりした顔で答えた。
(それだけ……?)
背中に絡みつくような汗が流れた。
「ええ、それだけです。とてもキレイ……」
半歩下がる。それを追うように妹の視線が纏わり付いてくる。
(じゃあ、そういうことで)
俺はくるりと身を翻し駆け出した。あんなもので刺された日には、人に戻る前に死んでしまう。開いていた扉から逃げようと全速力で駆け出す。
しかし、一向に視界が変わらない。懸命に足を動かす。それでも変わらない。なぜだ? どうして? ふっと後ろを振り向く。妹が尻尾を掴んでいた。いつのまにか刀身を抜き振りかぶっている。
(助けてー! 殺されるー!)
本気でびびった。だめだ、もうだめだ。本当にいいことがなかった人生だった。親父、お袋、先立つ親不幸者をお許しください。
俺はぎゅっと目をつぶった。そして、衝撃が来た。
(…………えっ!?)
刀は俺の毛の部分で止まっていた。確かに殴られたような重い衝撃が来たのに体は何ともない。
(唯、これはいったい?)
その不思議な現象を見つつ唯に尋ねた。
「今、兄さんの体には衝撃が来たはずです。しかし、体は何ともなかったですよね。これが示すようにロクちゃんの力とは、刀なのに肉体に一切の危害を加えることができないのです。しかし、それ故に肉体と魂の狭間に穴を開けることができます」
唯の説明は半分も理解できなかった。しかし、何も変化していないように思えるのだが。
(別に何も変わっていないが)
正直に言う。唯はわかっていると頷く。
「ええ、では論より証拠をお見せします」
そう言って、大きく呼吸を始めた。鳥が鳴くように高く鋭い呼吸音が部屋に満ちる。その音が歌のように耳にこびりつく。
(これは!?)
胸の奥に熱い塊が生まれた。それはどんどん増大していき、身体中を駆け巡る。膨れ上がった熱い塊は、出口を求めて奔流のようにせり上がっていく。
(だめだ、熱い。我慢できない!)
耐えかねて、俺はその熱い何かを吐き出した。それと同時に体の感覚全てが持っていかれるように喪失する。俺の意識は深い闇に落ちていった――。
「気がつきましたか?」
唯の声がやけに下から聞こえた。俺は唯をさがす。すると唯はずいぶん下にいた。先ほどまで見上げるようだったから、よけいそのギャップを感じる。
(俺は……いったい……)
「体を見てください」
言われた通りにする。手があった。足があった。これはまさに……。
(人に戻れたのか!?)
「違います」
俺の喜びに満ちた勘違いを、唯の冷たい声が遮った。
「よく見てください。どこか実態のないように感じられませんか。兄さんの目には半透明に透けて映っているはずです」
(ああ……)
事実、俺の体はどこか希薄な感じがした。つかみ所がなくふわふわとしていて、本当にそこにあるのか疑いたくなるほど、俺の存在は頼りなかった。同時に、なにか上に引っ張られているような不思議な感じがした。このせいで宙に浮いているのだろうか。
「それが、霊体です。魂に記憶された霊的構造を、一時的に再現するといった方が正しいかもしれません。ですが、一応こう言っておきます。まあ、一般の人には普通見えません」
俺は手を握り締めてみた。力を入れているのだが、なにか入れる端から抜けていっているように感じられる。
「兄さん、下を見てください」
ぼんやりとした意識のまま下を見る。そこにはラッシーの体があった。死んだように横たわっている。
「ラッシーの体から霊的接続端子、つまり生命線が伸びていません。それは本来の体ではないことを示しています。もし自分の体なら、そこから魂と体を結びつける線が伸びているはずなのです」
俺とラッシーの間には何もなかった。
(つまり何がいいたいんだ)
霊だの何だの訳のわからない事を言われて混乱していた。できれば日常の言葉を使って欲しいものだ。
「ようするに兄さんは、何がどうしたのか間違えて、ラッシーの体に入ってしまったと思うんです」
(ふーん、じゃあラッシーの魂はどうなったんだ)
「それが……私にも上手く感じ取る事はできません。拡散したように希薄な存在感しかないのです」
唯がどこか悲しそうにいう。ラッシーは一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「ところで、兄さん」
(なんだ?)
ふわふわと浮きながら答える。こんな体験めったにできないからとても新鮮な感覚だ。自力で空を飛ぶなんて体験した奴のほうが絶対少ない。俺はしばし、この感覚を楽しむ事にした。
「大丈夫ですか?」
(別になんともないが、どうして?)
いぶかしげに唯を見つめる。別にどこといっておかしな所はないが。しいて言えばさっきより、なんだが上に引っ張られているような気がするが……。
「いえ、それなら良いんですが……。訓練していない人間が幽体離脱した場合、数分も持たず成仏してしまうのですけど……。まあどうでも良いんですけどね」
(良くないわぁぁぁぁ!)
俺の文字どおり魂の絶叫は深く響いたのであった。
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
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