犬島(完結)
序章
『炎があった。
見渡す限りの火の海。
屋根の軋む音。舞い上がる火の粉。
まるで黄泉の国のような光景が目前に広がっていた。
逃げ場などどこにもない。
いや、逃げる気力などもう残っていない。
全て……の死と共に使い果たした。
隣には女がいた。
美しい顔をしている。が今は煤と血で汚れていた。
いつもの優しげな微笑は、もうその顔にはない。
ただ、物言わぬ死体としてそこに転がっていた。
無数の刀傷で身を包み、赤黒い血で染め上げた衣を着ていた。
女の裾は乱れていた。
純白の肌には無数の乱暴の後があった。
こみ上げてくる吐き気。怒り。絶望。
唇を噛み締める。鈍い音がして切れた。血の味が広がった。
女とは約束をしていた。
必ず戻ってくると。どんな事があろうと必ず
しかし、間に合わなかった。致命的に遅すぎた。
……の裏切りが、全てを狂わした。
友だと信頼していた。裏切られるとは思わなかった。
許さない……許さない!
何度生まれ変わろうと、お前を決して許しはしない。
その身を、その魂を煉獄の炎で焼いてくれよう。
お前を許さない!!』
「…………――っ」
言葉にならない悲鳴と共に近藤勇也は目を覚ました。血液の鼓動を闇の中で痛いほど感じ、冷たく嫌な汗が頬を伝う。寝間着用のシャツが、嫌になるくらい肌に張り付いていた。
「はぁはぁはぁっ!」
青年の口からは荒い息が漏れでていた。
体は小刻みに震え、眼は充血し血走っていた。自らの身体を両腕でかき抱き、無理やり押さえ込む。その両腕には鳥肌が立っていた。
心の奥から恐怖という名の漆黒の異生物が生まれ、体を蝕んでいるかのようであった。
《ピッ》
静寂の世界を時計のアラームが打ち破る。
物音に反応してびくりと勇也の体が震えた。
電光掲示板は八月三日、午前一時を指していた。
『お前を許さない!!』
夢の中での最後の言葉。
まるで勇也自身に向けられた言葉。あの男は、切り刻まれ、満身創痍の体ながらも、凍てついた殺意をあたりに撒き散らしていた。その殺意の源は、一人の人物への怨念。
言霊の一つ一つに呪詛を乗せ、不甲斐ない自分と理不尽な世界、そしてこのような事態の原因を作った誰かを呪っていた。そうする事によって、かろうじて自分の意識と世界を繋いでいる様だった。
勇也の身体の震えは徐々に収まっていった。彼はゆっくりと体を起こすと、ベッドに腰掛けた。長く止めていた息を深々と吐き出した。
「つっ!?」
異常な感じがして飛び起きる。慌てて室内を確認する。不自然に奇妙な気配が部屋の中に存在していた。
――何かが潜んでいる。
それを勇也の直感が教えていた。
立ち上がりすぐさま電灯をつける。室内を蛍光灯の光が照らした。
闇に慣れた目には苦痛だが、目を細めてやり過ごす。
気配の発生点を注視する。これから起こる事物に対処しようと、油断せずに構えた。
しかし、そこには一枚の姿見があるだけだった。その鏡の中には一人の青年が存在していた――勇也だった。
苦笑が漏れる。ひどく滑稽だった。
勇也は鏡中の姿を見つめた。骨ばった鋭角な輪郭。目付きのきつい切れ長な瞳は、恐怖に彩られ、ひどく血走っていた。目は落ち窪み、まるで咎に怯える罪人のよう。
……自分の姿とは思えなかった。
明かりは部屋の中に満ちていた。そこには闇が入り込む隙間など一片も残ってはいない。怯えていること事体が不自然だった。
飾り気のない部屋は、昨日となんら変わってはいなかった。玄関には、ボストンバックにまとめられた衣類と、剣道の防具、それから竹刀だけが転がっていた。明日からの、いや正確に表現するなら、今日からの合宿の為に纏められた物だ。
……また、あの夢を見た。男の夢。
慌てて頭を振る。
いつもの事だ。こんな事で、憂鬱な気分になど、なりたくはない。
蒸し暑かった。八月の気温は深夜といえども容赦はない。ただ、立っているだけで汗が噴き出してきた。寝間着用のシャツは、ぐっしょりと濡れそぼり、ほとんどその用を為していない。脱ぎ捨てて、引出しから変わりを出して着替えた。清潔な布の感触に、少しは気分が良くなった。
夢のせいで中途半端な時間に目を覚ましてしまった。合宿の集合時間は午前六時。若干時間はあるが寝直すには十分とはいえない。それに意識が奇妙に冴えてしまい、眠ろうという気にはなれなかった。
勇也は窓を開けてベランダへ出た。心地よい夜風がその身を包む。五階建てのマンションの三階。眼下には閑静な住宅街が広がっていた。かすかな虫の音だけが夜の町に鳴り響く。大学までの距離は遠いが、この静けさを勇也は気に入っていた。
心がささくれ立っているような時は、誰の慰めも、気遣いもいらない。ただ、やさしい静寂のみがそれを癒してくれる。
夢を見た後は夜風に当たる事が特に多かった。これは感傷なのか、とも考えることはある。しかし、その心地よさの前ではどうでも良かった。
虫も眠る真夏の夜の夢。その穏やかさとは裏腹に、考えもしなかった夏が始まろうとしていた。そのことを、まだ、勇也は知らない。
見渡す限りの火の海。
屋根の軋む音。舞い上がる火の粉。
まるで黄泉の国のような光景が目前に広がっていた。
逃げ場などどこにもない。
いや、逃げる気力などもう残っていない。
全て……の死と共に使い果たした。
隣には女がいた。
美しい顔をしている。が今は煤と血で汚れていた。
いつもの優しげな微笑は、もうその顔にはない。
ただ、物言わぬ死体としてそこに転がっていた。
無数の刀傷で身を包み、赤黒い血で染め上げた衣を着ていた。
女の裾は乱れていた。
純白の肌には無数の乱暴の後があった。
こみ上げてくる吐き気。怒り。絶望。
唇を噛み締める。鈍い音がして切れた。血の味が広がった。
女とは約束をしていた。
必ず戻ってくると。どんな事があろうと必ず
しかし、間に合わなかった。致命的に遅すぎた。
……の裏切りが、全てを狂わした。
友だと信頼していた。裏切られるとは思わなかった。
許さない……許さない!
何度生まれ変わろうと、お前を決して許しはしない。
その身を、その魂を煉獄の炎で焼いてくれよう。
お前を許さない!!』
「…………――っ」
言葉にならない悲鳴と共に近藤勇也は目を覚ました。血液の鼓動を闇の中で痛いほど感じ、冷たく嫌な汗が頬を伝う。寝間着用のシャツが、嫌になるくらい肌に張り付いていた。
「はぁはぁはぁっ!」
青年の口からは荒い息が漏れでていた。
体は小刻みに震え、眼は充血し血走っていた。自らの身体を両腕でかき抱き、無理やり押さえ込む。その両腕には鳥肌が立っていた。
心の奥から恐怖という名の漆黒の異生物が生まれ、体を蝕んでいるかのようであった。
《ピッ》
静寂の世界を時計のアラームが打ち破る。
物音に反応してびくりと勇也の体が震えた。
電光掲示板は八月三日、午前一時を指していた。
『お前を許さない!!』
夢の中での最後の言葉。
まるで勇也自身に向けられた言葉。あの男は、切り刻まれ、満身創痍の体ながらも、凍てついた殺意をあたりに撒き散らしていた。その殺意の源は、一人の人物への怨念。
言霊の一つ一つに呪詛を乗せ、不甲斐ない自分と理不尽な世界、そしてこのような事態の原因を作った誰かを呪っていた。そうする事によって、かろうじて自分の意識と世界を繋いでいる様だった。
勇也の身体の震えは徐々に収まっていった。彼はゆっくりと体を起こすと、ベッドに腰掛けた。長く止めていた息を深々と吐き出した。
「つっ!?」
異常な感じがして飛び起きる。慌てて室内を確認する。不自然に奇妙な気配が部屋の中に存在していた。
――何かが潜んでいる。
それを勇也の直感が教えていた。
立ち上がりすぐさま電灯をつける。室内を蛍光灯の光が照らした。
闇に慣れた目には苦痛だが、目を細めてやり過ごす。
気配の発生点を注視する。これから起こる事物に対処しようと、油断せずに構えた。
しかし、そこには一枚の姿見があるだけだった。その鏡の中には一人の青年が存在していた――勇也だった。
苦笑が漏れる。ひどく滑稽だった。
勇也は鏡中の姿を見つめた。骨ばった鋭角な輪郭。目付きのきつい切れ長な瞳は、恐怖に彩られ、ひどく血走っていた。目は落ち窪み、まるで咎に怯える罪人のよう。
……自分の姿とは思えなかった。
明かりは部屋の中に満ちていた。そこには闇が入り込む隙間など一片も残ってはいない。怯えていること事体が不自然だった。
飾り気のない部屋は、昨日となんら変わってはいなかった。玄関には、ボストンバックにまとめられた衣類と、剣道の防具、それから竹刀だけが転がっていた。明日からの、いや正確に表現するなら、今日からの合宿の為に纏められた物だ。
……また、あの夢を見た。男の夢。
慌てて頭を振る。
いつもの事だ。こんな事で、憂鬱な気分になど、なりたくはない。
蒸し暑かった。八月の気温は深夜といえども容赦はない。ただ、立っているだけで汗が噴き出してきた。寝間着用のシャツは、ぐっしょりと濡れそぼり、ほとんどその用を為していない。脱ぎ捨てて、引出しから変わりを出して着替えた。清潔な布の感触に、少しは気分が良くなった。
夢のせいで中途半端な時間に目を覚ましてしまった。合宿の集合時間は午前六時。若干時間はあるが寝直すには十分とはいえない。それに意識が奇妙に冴えてしまい、眠ろうという気にはなれなかった。
勇也は窓を開けてベランダへ出た。心地よい夜風がその身を包む。五階建てのマンションの三階。眼下には閑静な住宅街が広がっていた。かすかな虫の音だけが夜の町に鳴り響く。大学までの距離は遠いが、この静けさを勇也は気に入っていた。
心がささくれ立っているような時は、誰の慰めも、気遣いもいらない。ただ、やさしい静寂のみがそれを癒してくれる。
夢を見た後は夜風に当たる事が特に多かった。これは感傷なのか、とも考えることはある。しかし、その心地よさの前ではどうでも良かった。
虫も眠る真夏の夜の夢。その穏やかさとは裏腹に、考えもしなかった夏が始まろうとしていた。そのことを、まだ、勇也は知らない。
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
カテゴリー
携帯用QRコード
- アクセス数

- ページビュー数
