楽天市場
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

犬島(完結)


1章

 近藤勇也の眼下には海が広がっていた。瀬戸内海。本州南西岸と四国、九州に囲まれた内海。気候は温暖で、波静かな多島海として知られていた。この海には大小合わせて三千の島が存在し、その内、有人島は一五〇あった。
 今回勇也達剣道部が合宿に向かったのは、人口数百人から成る、小さな島だった。
 その名は犬島。
 観光島としては有名ではないが、稽古に必要な体育館、宿泊するための施設。その全てが格安で使用する事ができた。そのため、この地で合宿が行う事になった。
 船は白い泡を船尾に残しながら進んでいく。海を力強く切り裂き、己が進路を見出すように。
 過ぎ行く島が次第に形を変え、小さくなった。
 潮の匂いがした。ゆっくりと変わっていく光景。単調でのどかな光景。それは、次第に勇也を思考の渦に引きずり込んでいった。
 ――昨日の夢の男。
 彼の夢を見始めたのは、いつ頃からだっただろうか。ただ、物心が付くか付かない頃には、男は勇也の夢の中に存在していた。繰り返しの呪詛。変わらぬ恐怖。そして狂おしいまで悲哀。その全てが勇也自身に向けられているようで、恐ろしかった。幼い頃は、夢を見る度に、うなされ、発熱した。身体が心に反応し、存在することを拒否するかのように、幼い身体を苦しめた。唯一の救いは、悪夢を見ることが毎晩ではなかった事だ。もし常の状態であったなら、今も生きていられたか分からない。それくらい深刻だった。
 両親は幼い息子の病気を治すために奔走した。大学病院に駆け込み、高額の治療費を払って、検査を何度も繰り返した。しかし、結果は全ておいて正常値を指し示した。なんら異常を発見することなどできなかったのだ。医者は肉体的なものよりも、むしろ心因性に起因するのではないかと述べた。気休めだった。徒労感のみが強く残った。
 それでも、藁にも縋る思いで、精神科に通った。両親も勇也も期待はしていなかった。もう疲れ果てていたのだ。
しかし、ここで大きな転機が訪れる。
 勇也の病気は精神学的に説明できるものだと判明した。著名な精神障害の一つだということがわかったのだ。繰り返し見る夢、それは、心理学の世界では良くある事例だった。これは主に外的要因に起因し、生活習慣を変えることで改善する事ができる。そう医者は説明した。スポーツなどを始めるのが良いという事だった。
 両親は狂喜した。ようやく息子に治療のメドがたったのだ。
 その後、治療の一環として、勇也は剣道を選んだ。幼い頃より、健康な身体を渇望していたからだと思う。強くなりたかった。
 この方法は当たり、勇也の身体は徐々に健康を取り戻していった。世間一般の人と比べても、遜色ないどころか、身体能力という意味では大きく上回るようになった。
 ただ、一つだけ障害は残った。それは相変わらず勇也と共にあった。
――悪夢
 倒れる事はなくなった。熱を出すこともなくなった。しかし、夢は見る。凍てついた殺意と、狂おしい呪詛。否応にもそれに耐えなくてはならなかった。
 今となってはほぼ平気になったが、夢を見た直後は震えが走る。
 難儀な身体だと思う。

「どうやら到着のようだな」
 誰かの声がした。勇也は思考の海から引き上げると、声の主を見つめた。見知った人影――橋本宗次の姿があった。
夢のことを考えていて、また、ぼんやりしていたようだ。橋本の声に導かれるように前を見ると、白く泡立つ波間に、島影がうっすらと見えた。
「ずいぶんと早いですね」
 連絡用フェリーに乗ってから、まだ数十分。予想していた到着時間より随分早かった。心もち拍子抜けな気もした。
 勇也はこの年になるまで船というものに、乗ったことはなかった。しかも、初めて乗るのが、小さな島と本土をつなぐには大きすぎるフェリーボート。正直、胸が沸き立つ思いがした。船が進む度に生まれる白い泡。磯の香り。それらは飽くことなく勇也を魅了した。郷愁という言葉。人間が海に持っている感覚だろうか、ひどく懐かしい気がした。
「そりゃぁ、そうさ。本土から犬島までそんなに距離もないしな。だいたいそうじゃないとこんなに安くはないだろ」
 橋本は豪快に笑った。いたずらが得意な腕白小僧みたいな笑みだった。
 橋本宗次――彼は、勇也の一つ年上にあたる三回生である。同時に剣道部の副主将を勤めていた。剣の腕という意味に置いては、彼の右に出るものは、部内に止まらず、県内にも存在しなかった。全国を探せば匹敵するような者もいるかもしれないが、現在まで橋本が試合で負けたという話は聞いたことがない。当初は主将にという話もあったのだが、責任という言葉は、彼曰く『納豆の匂いの次に嫌い』との事だった。関西出身の橋本からしてみれば、最大限の嫌悪を表したのだろう。しかし結局、それらも考慮にいれても、彼のような人材は得難く、折衷案で副主将に任命された。それが決まった時、本人は嫌いな物ばかりが並んだ食卓に付いたような顔をしていた。
 橋本の肌は真っ黒に日焼けしていて、少年がそのまま大きくなったような印象を人に与える。彼は180cmある勇也が見上げるほど背も高く、均整も取れていた。やわらかくしなやかな筋肉を、タンクトップの隙間から惜しげも無くさらし、潮風を短髪で受けていた。
 光を反射して輝く、黒目がちの瞳は、次にどんないたずらをしてやろうかと企む腕白小僧のようでもあった。
 事実、彼は人をからかうのが、三度のメシと同じくらい大好きという、困った性癖を持っていた。
 その目に光が宿るたびに、部内の皆はいたずらの被害にあっていた。だが、悪意のない悪戯なので、皆のムードメイカー的役割を担っていた。
「まあ、そうですよね」
 島の形が徐々にはっきりしてきた。それを見つめながら勇也は答えた。
「ところで、お前なにやってんだ? 船を下りる準備を皆始めてるぞ」
「ああ、そうなんですか」
 島は既に、はっきりとその形を見せていた。
 緑の多い島。勇也が最初に抱いた感想はそれだった。

『――見つけた』

 不意に声が聞こえた。ゾクゾクとした寒気が悪寒と共に込み上げてくる。まるで、あの夢を見た後のような、奇妙な違和感があった。
 なんだ!?
 慌てて勇也は辺りを見回す。橋本の他に姿はない。だが、明らかに彼の声とは違っていた。
 魂の奥底を鷲掴みされたように、一瞬で心を捉えられた。
 悲哀、郷愁、歓喜。様々な感情を湧き出してくる。目の前が暗転し、感覚が消失する。勇也の身体から制御権が離れた。
「おいっ、どうしたんだ!?」
 身体が揺れる。視界が急速に開ける。
「・………………えっ」
 橋本の顔が目の前にあった。精悍な顔には焦りの表情が張り付いていた。
「お前……、泣いてるぞ」
 勇也の両の目から涙が零れ落ちていた。
「なんで……、どうして……?」
 訳もわからず勇也は呆然と呟いた。気が付いたら泣いていた――奇妙なようだが事実だった。
「……まあ、理由なんていいから、とりあえず拭けよ」
 橋本が自分の首にかけていたタオルを渡してくれた。
「……すいません」
 それを大人しく受け取り、
「恥ずかしいとこ見られてしまいましたね」
「ばーか、んなもん気にすんな。ところで、どっか痛いのか? いきなり泣き出すなんて尋常じゃないぞ」
「いや、別にこれといっては」
 勇也自身、どうして自分が泣いたのか訳がわからなかった。ただ、狂おしいまでの悲哀が、心の中に残滓のように今だ残っている。
「まあ、……夏だしな。そんなこともあるだろう」
「……なんですか、それ?」
 考えこんだ勇也を勘違いしたのか、橋本は慰めかけてきた。慣れないことをしたため、彼の耳は赤くなっていた。
 勇也はそれがおかしくて吹きだす。彼の気遣いがうれしかった。
「あ、てめぇっ、なに笑ってんだよ。人がせっかく慰めてやったのに」
「いえ、あんまり似合わなかったもので」
 正直に答える勇也。それが橋本の怒りに火を点けた。顔が真っ赤になる。たぶんに恥ずかしさが含まれていたせいもあるのだろう。それを指摘しようものなら彼の怒りが倍増する事は明白だった。
「ほほう、そういうことを言うわけか」
 橋本の口元には笑みがあった。
「ところで、勇也」
「はい……?」
「これがなんだか分かるか?」
 橋本が携帯電話を差し出した。ディスプレイには携帯のカメラで取られたと思しき映像があった。そこに映っているのは先程の勇也の泣き顔。
「つっ、これは!?」
 驚愕に勇也の顔が引きつる。
「ふっ、これを見てまだそんなことが言えるのかな」
「い、いつのまに?」
 橋本は印籠を見せつける黄門様のように胸をはった。
「さっき、お前が泣いている時だ」
 威張って言うことではなかった。
「あんた、人が前後不覚に陥って、苦しんでいた時に何してんですか!?」
「甘い、甘いぞ。勇也。世間の風は世知辛いのだ」
 理解不能なことを、橋本は言い出した。
「何訳のわからない事言ってるんですか! とにかくこれは消去させて貰いますからね」
 勇也が奪い取ろうと手を伸ばす。しかし、勇也の手は宙をつかんでいた。
「……先輩、何のつもりですか?」
「んー、なんのことかなぁ」
 橋本の目は輝いていた。
――やばい、勇也は本能的にそう悟った。彼の悪戯心に火をつけてしまった。橋本がこの目の光を浮かべるときは、必ずといっていいほど悪戯の被害者がでる。ここには勇也と橋本しかいない。自分がターゲットになったことを勇也は痛いほど実感した。
二人の間に緊張感が漂う。
「先輩方、なにやってるんですか? もうすぐ着きますよ」
 その時、後ろから少年のような甲高い声が聞こえてきた。
 二人を包んでいた空気が消失する。その隙に携帯を奪うと、データーを消去する。橋本の悲鳴が聞こえた。
 声をかけた少年はまるで少女のように美形だった。一回生の須藤健一。橋本や勇也が所属する剣道部の後輩だった。
亜麻色のやわらかそうな髪が潮風になびき、踊っていた。彼がそこにいることで、何気ない日常の風景が、まるで絵画の一場面のように見えた。
しかし、そんな彼の魅力は橋本にはまったく通じていなかった。
「ちっ」
 橋本は獲物を逃した悔しさに舌打ちをすると、腹いせをするように須藤を睨みつけた。
その瞬間、彼の目に消えかけていた光がまたもや宿った。橋本の視線の先には剣道部の女子の集団があった。どうやら船から降りる準備をしているようだ。その中に二回生の佐藤陽子の姿を発見した。勇也にはこれからの展開が読めた。彼女は重そうな荷物を抱えていた。
(あわれな)
 勇也は、自分の代わりに犠牲になってくれた、狼の前の子羊に向けて合掌した。
「え? え? え?」
 何が起きているのか、全くわからずうろたえる須藤。そんな彼の様子には一切頓着せず、橋本は須藤の首根っこを掴んだ。視界を固定し、ある一定方向のみを注視させる。
「何するんですか!」
 須藤が当然のように抗議の声をあげた。
「馬鹿者!!」
 しかし、それを橋本の真剣な声が打ち消した。こういう時の彼には有無を言わせない迫力がある。いや、言っても無駄という雰囲気かもしれない。案の定、須藤はおとなしくなった。
「一体、なんなんですか?」
 須藤は弱り果てたかのように口を開いた。
「あれを見よ」
 橋本の示す先には、相変わらず女子の集団があった。荷物の整理をしている。
「なんですか……」
 嫌な予感がしているのか須藤の口調は弱弱しい。それでも精一杯の抵抗の意を込めているのは伝わってきた。
「あれを見てお前は何も感じないのか?」
「……はあ、別に」
 須藤の返事を聞くと橋本は大げさに顔をしかめた。しかし、隠し切れない笑みが、口元に残っていることを勇也は見逃さなかった。
「嘆かわしい、なげかわしいぞ。オ・レ・は! これだから近頃の若いもんは」
「二歳しか違わな――」
「シャーラップ! お前は一体何をしているんだ!?」
「は?」
 いきなりの話題転換に須藤はついていけなかったようだ。間の抜けた声を出した。
「何をしているんだ!?」
 橋本は同じ表情のまま問い続ける。しかし、口元のにやにや笑いがさらに大きくなっていた。
「えっと……、自分が運ぶ荷物を放り出して、さぼっている先輩方を探しに来たんですけど。確か勇也さんを呼びに行くっていったきり、帰ってこなかった人がいたもので」
「ゴホンっ」 
須藤の返事に一瞬気まずそうに咳払いをする。そう言えば、元々橋本は勇也を呼びに来たはずだった。しかし、そんなことで負ける橋本ではなかった。
「そんなことはどうでもいい! 俺が言いたいのはな、つまり、なんであの光景を見て、手伝おうという気にならないのだ、と言いたいんだ」
橋本の耳が微妙に赤くなっていた。
(押し切ったな)
標的から逃れて気分が楽になった勇也は、幾分冷静に観察していた。
「あ、いや、だって。自分の分担は終わったし。やはり、ここは自主自立の精神ということで」
 須藤はこれ以上仕事を押し付けられてはたまらないとばかりに逃げを打つ。しかし、そうは問屋が卸さない。
「そうだ、確かにお前は自分の分担は終わらせた。これ以上荷物の整理なんていうめんどくさい事に関わりたくない事もわかる。しかし、しかしだ! お前は何か忘れてはいないか?」
 橋本はネコがネズミをいたぶる時に浮かべる笑み、つまり強者が弱者をいたぶる時の笑みを作り、須藤に微笑んだ。言うまでもなく強者が橋本、弱者が須藤である。
「はぁ、なんですか?」
 部内では一番のターゲットになっている須藤だ。本能的に危険を察知したのか若干体を引き気味である。
「答えは目の前にある」
 橋本の視線の先には相変わらず女子の集団がいた。各自で分担し効率よく作業しているようだった。しかし、全体の荷物の中には重い物もあり、剣道の防具と同時にそのようなものを運ぶのは難しかった。必然的にマネージャーである佐藤陽子に仕事が回ってくる。彼女には、酒類が入ったクーラーボックスや、応急手当用の救急箱などが分担されていた。さらにはダンボールに入った各種飲料。陽子はそれを両手に抱え歩いていた。しかし、やはりかなり重いのだろう。時折、体が左右に流れていた。
「どうだ、まだヒントが必要か?」
 それは、勝利者の笑みだった。橋本はにんまり笑いを隠そうともしないで、須藤の戒めを解いた。
「陽子くんは助けを待っていると思うぞぉ」
 最後の一押しだった。
「そうですね、ボク、ちょっと手伝いに行ってきます!」
 須藤は早口で言い駆け出した。須藤の頬はほんのり赤みを帯びていた。
「ふっ、手間のかかる奴だぜ」
 橋本はすがすがしい顔で額を拭う真似をした。一仕事を終えた男の顔だった。しかし、彼はこの炎天下にも関わらず少しも汗をかいていなかった。
(結局、そこに持っていきたかったて、わけか)
 勇也はあまりに橋本らしいいたずらに苦笑が漏れた。
須藤が佐藤陽子に好意を持っている事は、部内で暗黙の了解となっていた。彼自身が口に出した事はないが、常日頃の態度があまりに素直すぎた。須藤の行為そのものが、何よりも雄弁にその事を証明していた。他の部員は、そこは大人の態度で知らぬ振りをしているのだが、橋本にそれを求めるのは土台無理な話で、このことは事あるごとに、からかいのネタと化していたのだ。
「おいそこ、何笑ってるんだ。お前も手伝ってこい」
 目ざとく見つけた橋本が今度は矛先を勇也に向けてくる。
「は? 俺ですか? いや、ちょっと遠慮したいんですが」
 勇也には、他人の恋路を邪魔する趣味はなかった。
「バーカ、冗談じゃなく、ちょっと酒の量が多いからな。二人でも手が余るだろ。お前の防具は俺が運んどいてやるから、手伝って来い」
「まあ、いいですけど、だれがそんなに買ったんですか」
「俺だ!」
「……はあ、そうですか」
 橋本は無意味に元気だった。
 勇也は陽子達がいるほうを見た。
須藤が真っ赤になりながらも、手伝いを申し出ている最中だった。陽子は遠慮しているようだったが、須藤が荷物を無理やり持ったのでぎこちなく微笑んでいた。
(ほんと、お邪魔虫だよなぁ)
 勇也は自覚しながらも歩き出した。背後で橋本が目と口を三日月にして、不思議の国に登場するシャシャ猫みたいな笑みを浮かべていた。

プロフィール

ニックネーム
ケイロン
性別
血液型
A型
生年月日
19○○年5月23日
現住所
岡山のどこか
所在地
岡山のどこか
職業
教師っぽいこと
自己紹介
小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。

ブログ

123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930

カテゴリー

QRコード
携帯用QRコード
アクセス数
ページビュー数