犬島(完結)
4章
「それで、これからどうするんだ?」
宿舎の201号室。勇也は田中と彼の部屋で向かい合っていた。結論として、勇也は帰ることができなかったからである。
あれから、宿舎に帰り、荷物をまとめて船に乗ろうとしたのだが、既に定期船の運行時間は終了していたのだった。それ故、顧問の仙石も勇也の一泊を渋々ながらも許可し、彼は現在、まだ犬島にいるのである。
当然、勇也が部を辞めさせられるという事は騒動になった。ある部員は反発し、またある部員は同情し、本来予定されていた稽古は、部員の集中力のなさを反映して、その過程の八分程度で終了してしまった。田中はこの事態を憂慮し、稽古後、すぐに勇也を呼んだのである。
室内には勇也と田中以外だれもいなかった。他にも同室の者はいたのだが、田中が気を利かせて、席を外してもらっていた。
「どうすると言われても、明日の朝の便で帰ろうと思います」
勇也としては既に決めていた。先程の陽子とのやり取りで随分気が楽になったせいもあるだろうが、もう辞める事に抵抗はなかった。
「そうか……、それにしても仙石先生、思い切ったことするなぁ」
田中は勇也の心が既に剣道部にないことを察してか、苦笑いを浮かべた。
「まあ、悪い事をしたのは俺ですし。他の部員への示しがあったのでしょう。納得はできませんが、既に決まった事です。だから、もういいです。しょうがありません」
「うん、お前が辞めるのは、戦力的に痛いが……、と、もう言ってもせん無い事だな。ほんとに残念だよ」
田中は言葉を重ねる。
「しかし、橋本が言うには、境内を荒らしたとき、お前は一種の心神喪失状態にあったっていうじゃないか」
「……ええ。自分でもちょっと分かりませんが、まともな状態だったら、あんな事しませんよ」
「そうだよな。お前、そんな事しそうにないもんな」
田中は眼鏡を外すと神経質そうに、曇った部分を拭いた。
「お前が、辞めさせられる事に関して、反発が凄くてな。俺としてもなんとかしたかったんだが……」
「ありがとうございます。でも……いいです。主将や他の人に迷惑かけてしまうのも嫌ですしね」
「…………そうか、では正式に退部を受理する。それでいいな?」
「はい」
田中はくるりと後ろを向いた。立てかけておいた竹刀を取る。
「これ、餞別だ。鉛を入れて重くしてある。修練代わりに振っとけ」
「俺、剣道部辞めるんですよ」
勇也は苦笑を浮かべた。
「だからこそだ。辞めるということは次に始めるための準備を始める事だ。何をするにしても、身体を鍛えておく事にこしたことはない。その竹刀は真剣とほぼ同じ重さに設定してある。いいトレーニングになるはずだ」
勇也は受け取る。ずしりとした重みがその両腕にかかった。
「ありがとうございます。……なんかすいません」
「……別にいい。気をつけて帰れよ」
田中は照れたように俯いた。そんな不器用な仕草をたまらなくうれしく勇也は感じた。
「失礼しました」
それから、一礼をして、勇也は部屋を出た。彼は今夜、橋本たちと同室の205号室で過ごすつもりでいた。
窓の外は既に夜の帳が下りていた。先刻から若干天気が悪くなり、夜空を雲が覆っていた。同時に強い風も吹いており、木々を揺らすざわざわとした音が不快に鳴り響いた。
(明日は雨かもな……)
勇也はぼんやりとそう思った。
――神社で会った女。
思考は徐々に今日の夕刻の事件について傾いていく。
一瞬の邂逅。不思議な感情を呼び起こした美しい女。まるで、約束を守ったかのように、彼女は誇らしげな顔をしていた。勇也を見つめるその目は愛しい者を見るかのようだった。確かに勇也も、あの女に深い愛情を感じた。心の奥底から込み上げてくる想いがあった。
しかし、何かを忘れている気がした。とても大事な事だ。それが思い出せなくて、勇也の心は千々に乱れていた。
廊下は、消灯時間を過ぎているせいか、薄暗く朧な明かりしか灯っていない。足元を見るには十分な光量だが、遠くまで見渡せるとかと言えばそうでもなかった。現に205号室の前まで来た時、人影に声をかけられるまで気づかなかった。
「……先輩。ちょっと、いいですか」
部屋の前にいた人物――千堂瑞穂は憂いの表情を浮かべそこに立っていた。彼女はキャミソール上に幅広のTシャツを着て、黒いスパッツを身に付けていた。見ていて気の毒になるほど、その顔には悲壮感が満ちていた。
「ああ、なんだ?」
瑞穂は風呂上りのようだった。髪は乾かした後なのだろうがわずかに水気を帯びていた。ほのかなシャンプーの香りが勇也の鼻腔を刺激した。
「ここじゃ、ちょっと……」
「じゃあ、ちょっと歩くか?」
話し辛い事のようだ。勇也はそう判断した。
部屋の中に人の気配があった。気を使って外へ誘う。
「……はい」
瑞穂は頷いた。常とは違うその様子に、勇也のほうが少し戸惑っていた。
二人は目的も決めずに歩き出した。歩き始めてすぐに、勇也は田中から貰った竹刀をそのまま持ってきてしまったことに気づいた。だが、今更、置いてくるという雰囲気でもなかったのでそのまま持ち運ぶ事にした。
雨こそ降ってはいなかったが、空気は湿り気を帯びていた。湿度が高く、じっとしていても汗が噴き出しそうだった。事実、風呂上りのはずの瑞穂の額にはうっすらと汗が浮いていた。
道路脇の草むらからは、虫の切なげな声が響いていた。夏は中盤に差し掛かろうとしていたが、気の早い秋虫達がその存在を主張するように鳴いていた。
「…………先輩、……辞めるって本当ですか?」
先程まで黙っていた瑞穂だったが、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「ああ、本当だよ」
勇也は答えながら、内心、またその話かと嘆息した。橋本がふれ回ったせいなのか、会う部員、皆に同じ事を聞かれる。いいかげん同じ答えを返すのにうんざりし始めていた。
「……そうなんですか」
瑞穂はまた口を閉ざした。今度は勇也が気まずさを感じた。
「正確には辞めさせられるんだけどな。俺が変なことをしたから」
勇也は夕刻の仙石の言葉を思い出した。今思っても、納得はいかないが彼の理屈には一理あった。
「でも、そんなのおかしいです! なんで勇也先輩が辞めなきゃいけないんですか!?」
瑞穂は、激情を言葉に乗せるように叫んだ。
しかし、その気持ちは勇也が一番持っているもので、今更、他の人に言われるまでもなかった。答える気がしなかったので、勇也は黙り込む。
気がつけばフェリー乗り場への道を歩いていた。知らず知らずの内に、知っている道を選択したようだった。
海が見えてきた。夜の海は、日中とは違い、深い闇にその身に落としていた。全てを飲み込む黒い海。なにか得体の知れないモノが潜んでいても、おかしくはない。そう思わせるものがそこにはあった。
「わたし、先輩と海行きたかったなぁ……」
瑞穂は足元の石をこつんと蹴飛ばした。
「いま、来てるじゃないか?」
勇也が怪訝そうに尋ねる。
「そういうんじゃ、ないんですけどね。……でも、その鈍感さが先輩らしいですよね」
「うん?」
「いいんです! あーあ、もう、せっかく水着買ったのになぁ」
瑞穂の横顔は何故か悲しそうに見えた。少し勇也の胸が痛んだ。
「……悪いなぁ。付きあってやれなくて。でも、この天気だし、明日からは雨かもしれないだろ。だから、どっちにしても無理だったのかもなしれないしな。また、帰ってから天気のいい日にでも、遊びに行けばいいじゃないか」
「ほんとですか!?」
急に瑞穂は目を輝かせた。
「な、なに?」
「さっきの言葉です!」
「海に遊びに行くって事?」
「はい!」
「うん、本当」
小悪魔は勇也の腕を抱き寄せて、
「うわぁ、うれしいなぁ! 先輩とデートだ!」
これには吃驚する勇也。
「デ、デート?」
「デートです」
その可愛らしい言葉にぼっと赤くなる。
「いやっ、あのっ、俺としてはは、皆も一緒にという意味で言ったんだが」
「えー、皆って誰ですか?」
「橋本さんや須藤や陽子とか」
瑞穂はぴたっとはしゃぐのを止めると勇也を見つめた。
「……前から思ってたんですけど、陽子先輩と勇也さんって付き合ってるんですか?」
「俺と陽子が? まさか」
勇也は苦笑して、
「例え、俺がどうこう思おうと、向こうが相手にしないさ。なんたって、須藤やその他大勢にモテてる陽子さんだからな」
「……そんなことは、ないと思うんですけど」
「うん?」
「いえ、なんでもないです!」
瑞穂は何故だかガッツポーズをしていた。
「という事は陽子さんのことなんとも思ってないんですね?」
「瑞穂もしつこいなぁ。ただの友達……だよ」
「そうなんだぁ」
瑞穂は喜色満面に微笑んだ。
「ところで結局、話ってなんだったんだ? 俺達世間話しかしていないような気がするんだが」
勇也が根本の疑問を投げかける。
「あ、いえ、もう済みました」
「へっ、もう?」
「はい、ありがとうございました」
勇也の腕からするっと離れると瑞穂は頭を下げた。顔を上げた後にも笑みが残っていた。
「でも、せっかくですから、もうちょっとお話しま――あれっ、なんだろう?」
瑞穂が海の方を指差す。波止場の先にある闇色の絨毯に、そこだけ染みをたらしたように青白い光点があった。舞い上がる光達。幻想的な光景がそこにはあった。
――勇也と瑞穂が宿舎を出た同時刻。
205号室。そこには二人の男女が緊張した面持ちで向かいあっていた。一人は陽子、もう一人は須藤である。勇也達が立ち去ったちょうどその頃、室内では修羅場が繰り広げられようとしていた。須藤がドアの前で立ちはだかり、陽子を阻んでいたのだ。
「……陽子さん、……どうして、逃げるんですか?」
「……別にそんな訳じゃないけど」
須藤は陽子の目を見つめる。しかし、陽子は須藤と目を合わそうとしなかった。
「わかりません。それじゃあ、わかりませんよ。どんな訳って言うんですか!」
須藤の瞳には追い詰められたものが持つ、異様な光が浮かんでいた。女性と見まがうばかりの美貌も、今は醜く強張っていた。
陽子にはそれが怖かった。
今まで、須藤のことを怖いと思うことはなかった。懐いてくれる可愛い後輩だと思っていた。
――それがいつの頃だろう。
彼の好意がただの先輩、後輩の関係を逸脱するものだと気づいたのは。男が女へ向ける気持ちだと気づいたのは。
戸惑いはあった。女として評価してくれて嬉しい気持ちもあった。けれど、受け入れられないと思った。既に想う人がいた。
その後、陽子は少しづつだが距離を広げていった。これで気づいてくれるといいと思いながら、話し掛けないようにしていた。
しかし須藤はめげなかった。陽子が距離を取る度に、彼女との距離が空くのを拒むように懸命に話し掛けてきた。陽子が重荷と思うその時まで。
陽子がこの部屋に来たのは勇也に話しがあったためだ。そこに運悪く須藤が一人でいた。陽子はすぐに自分の部屋に帰ろうとしたが、須藤に捕まってしまい。それでも帰ろうとすると、今までの不満を爆発させるように須藤が暴走したのだった。彼としても限界だったのだ。
(もうっ、早く帰ってきなさいよ!)
心の中で毒づくが勇也は一向に帰ってこない。
(……しょうがないか)
彼の気持ちに返事をせず、ずるずるここまできたのは、自分の責任だった。言いづらかったという理由もあるが、それは自分勝手な理由。彼の為にも今ここで言わなければならなかった。これ以上引き伸ばすのは彼にとっても酷な話だった。
「……理由を話したら分かって貰えるの?」
「………」
「一体、私から何が聞きたいの?」
「……陽子さんの気持ちです」
ここで初めて、陽子は須藤の瞳をひたりと見据えた。
「……須藤君、残念だけど私はあなたの事、恋愛対象として見えない。もう心に決めた人がいるから」
「――つっ!」
須藤は傷ついたように顔を歪める。
「だから、こういうことされるのは、はっきり言って迷惑としか思えない。もう、止めて欲しい」
「……勇也さん、ですか?」
疑問と言うより確認を取る口調だった。しばらくためらった後、彼女は頷いた。
「……うん。勇也はどうだか知れないけど、私は好き。出会ったその時から彼の事好きでたまらない。だから、他の人の事考えられない」
陽子は言い切った。彼女自身初めて、人前でその気持ちを明かした。自分へ好意を寄せてくれた者への、精一杯の礼儀だと思ったからだ。
「本気……なんですね……」
「ええ」
須藤は憑き物が落ちたように無表情になった。同時にドアの前から退く。陽子からほっと溜息がもれでた。
しかし、陽子が部屋から出ようとした瞬間、腕を掴まれた。
「……陽子さん、それでも、……それでもボクは!」
須藤の瞳には熱に浮かされたような情熱があった。
「離して」
「陽子さん……!」
「離しなさい!」
びくりと須藤の体が震える。陽子の瞳に浮かんでいたもの。それは軽蔑。
「あの……ボクは……そんなつもりじゃ」
動揺する須藤。急に自分がしていることが、どれほど愚かな事か気づいたかのように、彼の顔に、さっと朱が差した。
「……違う、違うんです!」
しかし、陽子は答えない。ただ、瞳に映る感情は少しも変わらずに須藤を見据えていた。
「そんなつもりじゃ、なかったんだ!」
須藤は陽子の腕を放し、部屋から飛び出した。その反動で陽子は倒れこむ。後には、彼女だけが残されていた。
不意に涙が込み上げてきそうになった。緊張の糸がプツリと切れたみたいだった。しかし、ぐっと堪えた。唇を噛み締め、目頭を抑える。その場にへたり込み膝を抱えた。
「……ゆうやぁ、早く帰ってきてよぉ」
彼女の切なげな声が無人の部屋に木霊した。
(ちくしょう!)
須藤は陽子を突き飛ばしたままの勢いで一階へ駆け下りた。玄関で慌しく靴を履き替え、ドアを打ち壊すように開く。そのまま、外に走りだした。
闇雲に走る。道なんかどうでも良かった。ただ、今自分の中に存在する、荒れ狂った感情をどうにかしたかった。
景色が真横に流れる。曇った空も須藤の足元を照らす月明かりだけは届けてくれた。爆発する感情に身を任せ走りつづける。
息が弾む。心臓が悲鳴を上げる。足が鉛のように重かった。
「はぁ……、ぁはぁはぁぁ」
体力の限界まで走ったその瞬間、須藤は倒れこんだ。道の真中に大の字になって寝転がり、大きく喘いだ。心臓が破裂しそうだった。血液全てが、音をたてて体中を巡っていく。
同時に、須藤の頬に涙が伝った。後から後から、あふれ出て彼のシャツを濡らした。
(どうして、ボクじゃダメなんだろう)
近藤勇也――彼の事を考える。
確かに、勇也は世間一般でいう男前の基準を大きく満たしていた。ナイフで削り取ったみたいな、鋭角な輪郭に、知性と強さを兼ね備えた瞳が印象的だった。須藤とは違い180cm以上の長身、姿もよく、筋肉質である。剣の腕も橋本には及ばないものの、最近メキメキと腕を伸ばし、三回生の先輩達の間では、彼を来年の主将に推す声が多かった。ただし、今日のことがなかったなら。
(それでも……)
自分だって負けないと須藤は思っていた。容姿は男らしさこそないが、人並み以下ではない。身長こそ低いが自分の顔にはこれくらいがチョウド良いと思っていた。手先は器用だし、大抵の事はこなせる。勇也にないものを須藤は持っていると自負していた。
「……でも、陽子さんは……ボクを……選んでくれ…なかった」
鼻水がたれる。嗚咽を止まらず喉が震えた。悲しかった。心が見えない糸できりきり締め付けられ、絶えず痛みを与えられているようだった。寝転んでいる地面の感覚がなく、世界がぐるぐるとまわっている気がした。
「……ボクは……ほんとに、……ほんとに…あな…たの事が!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら須藤は夜空に向かって叫んだ。この願いよ天まで届けとばかりに。彼女が笑ってくれるなら他に何もいらなかった。自分はその笑顔を見るだけで幸せになれた。
「……それな…のに」
別れ際、陽子の顔にあったのは軽蔑の色。親しみも何もこもっていない、他人を見る目だった。彼女と幸せになりたかったのに、彼女を幸せにしたかったのに。
「……ボクはっ…彼女をっ……傷つけた……」
自分に対する嫌悪で一杯だった。あんな事するつもりなかった。でも、確かに感じた。彼女の腕の柔らかさを。鼻腔をくすぐる甘い匂いを。劣情を抱いた。彼女をめちゃくちゃにしたいと思った。手に入らないなら奪ってしまえ。頭の中のどこかが須藤にそう命じていた。そして、自分はそれに従いそうになっていた。陽子の目に射抜かれるその時まで。
「……陽子さん…………」
愛しい人の名前を呼ぶ。空に溶けていくように言葉の余韻は宙に吸い込まれていった。拒絶された。それでも好きな事に変わりはない。彼女の愛らしい姿やその仕草が須藤の頭の中に浮かんだ。
「……陽子さん、本当に好きです」
鼻水は変わらず出続けていたが、涙は徐々に引こうとしていた。昂ぶっていた感情が、少しづつだが落ち着こうとしていた。
須藤は目を開けた。涙の残滓が目元に残っているのを感じた。不意に空が明るい事に気づく。空は雲に覆われていたが、その合間から月が顔を出していた。青々と光り、怪しいまでに美しい月だった。
それは、素直に須藤の心をうった。残っていた悲しみを癒してくれるようだった。徐々に冷静になっていくのが須藤自身感じていた。
辺りを見回す。見覚えのある場所だった。夕刻に神社に行く時に通った道だった。
――神社での出来事。
そもそもあれが、須藤が陽子に気持ちを伝える事を焦らせた原因だった。勇也が辞める事になった時の陽子の表情。まるで、陽子自身が苦しみを受けているみたいに顔を歪め、仙石に詰め寄っていた。それは嫉妬という感情を須藤の中に芽生えさせた。一度芽生えたモノは急速に大きくなり肥大した。妬みは憎しみに変わった。仙石が勇也を追い詰めているのを、むしろ爽快な気分で須藤は眺めていた。暗い感情に身を浸していると自覚していた。
(……行ってみよう)
不意に思った。引き金を引いた、あの神社へ。
須藤は身を起こすと歩き出した。道は満足な舗装もされておらず、粗末な石畳だったが、道路脇の街灯と夜空に浮かぶ月のおかげで困る事はなかった。
すぐに鳥居が見えてきた。どうやら、かなり近くまで来ていたようだ。鳥居の前に立つ。
昼間はそうは思わなかったが、鳥居はひどく不気味な感じがした。闇の中にそびえ立つその存在は、現世と異界をつなぐ、門のように感じられた。辺りもひっそりとしていて、何が出てきてもおかしくないように思われた。
急に須藤は怖くなった。自分の気持ちを整理するためにここまで来たが、この鳥居の向こう側に行くのが恐ろしかった。
神社の中で見た奇妙な女を思い出す。勇也に微笑みかけていたこの世ならざる存在。
――あれを見かけたのはどこだったのだ。
鳥居の向こうではなかったのか
回れ右をした。もうこれ以上ここに居たくなかった。帰ろうと一歩足を踏み出した。
その瞬間、異変が起こった。
道路脇の街灯が、その命を燃やし尽くしたかのように明滅して消えた。気温が急激に下がる。真夏であるのに、須藤の吐く息は白い形として彼の目に映った。
強烈な存在感を感じて振りむく。
――視界を埋め尽くす手
そこに須藤が見たものは、鳥居から飛び出す無数の青白い手だった。自らてらてらと発光し、蛇を思わせる動きで威嚇するように伸び上がる。そしてそれらは一斉に加速すると驚きに固まった須藤に掴みかかった。中に引きずり込もうと彼の身体に絡みついていく。
「なっ!?」
一瞬で引き倒された。足を引きずられていく。必死で抵抗する。地面に爪を突き立てる。一瞬の硬直。しかし、手の力は弱まらない。それどころか、さらに強く須藤を中に引き込もうとする。爪の間に土が食い込む。激しい痛みがはしる。そんなことにかまっていられない。渾身の力を込めて耐える。限界を超えて鈍い音をたてて爪が折れた。
「助けっ、助けて! いやっ、いやだ、いやだっ!」
最後の力を振り絞り、誰か助けに来てくれる事を願い叫んだ。しかし、その願いもむなしく、手の力には効し難く、引きずり込まれていく。
「いっ、いやだあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その声を境に辺りに静寂が戻る。
後にはただ、鳥居に向かって伸びる、十本の血が滲んだ指の跡が爪の欠片と共に地面に残されているだけだった。
それは彼らにとって一番長い夜の始まりを告げる合図のようだった。
宿舎の201号室。勇也は田中と彼の部屋で向かい合っていた。結論として、勇也は帰ることができなかったからである。
あれから、宿舎に帰り、荷物をまとめて船に乗ろうとしたのだが、既に定期船の運行時間は終了していたのだった。それ故、顧問の仙石も勇也の一泊を渋々ながらも許可し、彼は現在、まだ犬島にいるのである。
当然、勇也が部を辞めさせられるという事は騒動になった。ある部員は反発し、またある部員は同情し、本来予定されていた稽古は、部員の集中力のなさを反映して、その過程の八分程度で終了してしまった。田中はこの事態を憂慮し、稽古後、すぐに勇也を呼んだのである。
室内には勇也と田中以外だれもいなかった。他にも同室の者はいたのだが、田中が気を利かせて、席を外してもらっていた。
「どうすると言われても、明日の朝の便で帰ろうと思います」
勇也としては既に決めていた。先程の陽子とのやり取りで随分気が楽になったせいもあるだろうが、もう辞める事に抵抗はなかった。
「そうか……、それにしても仙石先生、思い切ったことするなぁ」
田中は勇也の心が既に剣道部にないことを察してか、苦笑いを浮かべた。
「まあ、悪い事をしたのは俺ですし。他の部員への示しがあったのでしょう。納得はできませんが、既に決まった事です。だから、もういいです。しょうがありません」
「うん、お前が辞めるのは、戦力的に痛いが……、と、もう言ってもせん無い事だな。ほんとに残念だよ」
田中は言葉を重ねる。
「しかし、橋本が言うには、境内を荒らしたとき、お前は一種の心神喪失状態にあったっていうじゃないか」
「……ええ。自分でもちょっと分かりませんが、まともな状態だったら、あんな事しませんよ」
「そうだよな。お前、そんな事しそうにないもんな」
田中は眼鏡を外すと神経質そうに、曇った部分を拭いた。
「お前が、辞めさせられる事に関して、反発が凄くてな。俺としてもなんとかしたかったんだが……」
「ありがとうございます。でも……いいです。主将や他の人に迷惑かけてしまうのも嫌ですしね」
「…………そうか、では正式に退部を受理する。それでいいな?」
「はい」
田中はくるりと後ろを向いた。立てかけておいた竹刀を取る。
「これ、餞別だ。鉛を入れて重くしてある。修練代わりに振っとけ」
「俺、剣道部辞めるんですよ」
勇也は苦笑を浮かべた。
「だからこそだ。辞めるということは次に始めるための準備を始める事だ。何をするにしても、身体を鍛えておく事にこしたことはない。その竹刀は真剣とほぼ同じ重さに設定してある。いいトレーニングになるはずだ」
勇也は受け取る。ずしりとした重みがその両腕にかかった。
「ありがとうございます。……なんかすいません」
「……別にいい。気をつけて帰れよ」
田中は照れたように俯いた。そんな不器用な仕草をたまらなくうれしく勇也は感じた。
「失礼しました」
それから、一礼をして、勇也は部屋を出た。彼は今夜、橋本たちと同室の205号室で過ごすつもりでいた。
窓の外は既に夜の帳が下りていた。先刻から若干天気が悪くなり、夜空を雲が覆っていた。同時に強い風も吹いており、木々を揺らすざわざわとした音が不快に鳴り響いた。
(明日は雨かもな……)
勇也はぼんやりとそう思った。
――神社で会った女。
思考は徐々に今日の夕刻の事件について傾いていく。
一瞬の邂逅。不思議な感情を呼び起こした美しい女。まるで、約束を守ったかのように、彼女は誇らしげな顔をしていた。勇也を見つめるその目は愛しい者を見るかのようだった。確かに勇也も、あの女に深い愛情を感じた。心の奥底から込み上げてくる想いがあった。
しかし、何かを忘れている気がした。とても大事な事だ。それが思い出せなくて、勇也の心は千々に乱れていた。
廊下は、消灯時間を過ぎているせいか、薄暗く朧な明かりしか灯っていない。足元を見るには十分な光量だが、遠くまで見渡せるとかと言えばそうでもなかった。現に205号室の前まで来た時、人影に声をかけられるまで気づかなかった。
「……先輩。ちょっと、いいですか」
部屋の前にいた人物――千堂瑞穂は憂いの表情を浮かべそこに立っていた。彼女はキャミソール上に幅広のTシャツを着て、黒いスパッツを身に付けていた。見ていて気の毒になるほど、その顔には悲壮感が満ちていた。
「ああ、なんだ?」
瑞穂は風呂上りのようだった。髪は乾かした後なのだろうがわずかに水気を帯びていた。ほのかなシャンプーの香りが勇也の鼻腔を刺激した。
「ここじゃ、ちょっと……」
「じゃあ、ちょっと歩くか?」
話し辛い事のようだ。勇也はそう判断した。
部屋の中に人の気配があった。気を使って外へ誘う。
「……はい」
瑞穂は頷いた。常とは違うその様子に、勇也のほうが少し戸惑っていた。
二人は目的も決めずに歩き出した。歩き始めてすぐに、勇也は田中から貰った竹刀をそのまま持ってきてしまったことに気づいた。だが、今更、置いてくるという雰囲気でもなかったのでそのまま持ち運ぶ事にした。
雨こそ降ってはいなかったが、空気は湿り気を帯びていた。湿度が高く、じっとしていても汗が噴き出しそうだった。事実、風呂上りのはずの瑞穂の額にはうっすらと汗が浮いていた。
道路脇の草むらからは、虫の切なげな声が響いていた。夏は中盤に差し掛かろうとしていたが、気の早い秋虫達がその存在を主張するように鳴いていた。
「…………先輩、……辞めるって本当ですか?」
先程まで黙っていた瑞穂だったが、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「ああ、本当だよ」
勇也は答えながら、内心、またその話かと嘆息した。橋本がふれ回ったせいなのか、会う部員、皆に同じ事を聞かれる。いいかげん同じ答えを返すのにうんざりし始めていた。
「……そうなんですか」
瑞穂はまた口を閉ざした。今度は勇也が気まずさを感じた。
「正確には辞めさせられるんだけどな。俺が変なことをしたから」
勇也は夕刻の仙石の言葉を思い出した。今思っても、納得はいかないが彼の理屈には一理あった。
「でも、そんなのおかしいです! なんで勇也先輩が辞めなきゃいけないんですか!?」
瑞穂は、激情を言葉に乗せるように叫んだ。
しかし、その気持ちは勇也が一番持っているもので、今更、他の人に言われるまでもなかった。答える気がしなかったので、勇也は黙り込む。
気がつけばフェリー乗り場への道を歩いていた。知らず知らずの内に、知っている道を選択したようだった。
海が見えてきた。夜の海は、日中とは違い、深い闇にその身に落としていた。全てを飲み込む黒い海。なにか得体の知れないモノが潜んでいても、おかしくはない。そう思わせるものがそこにはあった。
「わたし、先輩と海行きたかったなぁ……」
瑞穂は足元の石をこつんと蹴飛ばした。
「いま、来てるじゃないか?」
勇也が怪訝そうに尋ねる。
「そういうんじゃ、ないんですけどね。……でも、その鈍感さが先輩らしいですよね」
「うん?」
「いいんです! あーあ、もう、せっかく水着買ったのになぁ」
瑞穂の横顔は何故か悲しそうに見えた。少し勇也の胸が痛んだ。
「……悪いなぁ。付きあってやれなくて。でも、この天気だし、明日からは雨かもしれないだろ。だから、どっちにしても無理だったのかもなしれないしな。また、帰ってから天気のいい日にでも、遊びに行けばいいじゃないか」
「ほんとですか!?」
急に瑞穂は目を輝かせた。
「な、なに?」
「さっきの言葉です!」
「海に遊びに行くって事?」
「はい!」
「うん、本当」
小悪魔は勇也の腕を抱き寄せて、
「うわぁ、うれしいなぁ! 先輩とデートだ!」
これには吃驚する勇也。
「デ、デート?」
「デートです」
その可愛らしい言葉にぼっと赤くなる。
「いやっ、あのっ、俺としてはは、皆も一緒にという意味で言ったんだが」
「えー、皆って誰ですか?」
「橋本さんや須藤や陽子とか」
瑞穂はぴたっとはしゃぐのを止めると勇也を見つめた。
「……前から思ってたんですけど、陽子先輩と勇也さんって付き合ってるんですか?」
「俺と陽子が? まさか」
勇也は苦笑して、
「例え、俺がどうこう思おうと、向こうが相手にしないさ。なんたって、須藤やその他大勢にモテてる陽子さんだからな」
「……そんなことは、ないと思うんですけど」
「うん?」
「いえ、なんでもないです!」
瑞穂は何故だかガッツポーズをしていた。
「という事は陽子さんのことなんとも思ってないんですね?」
「瑞穂もしつこいなぁ。ただの友達……だよ」
「そうなんだぁ」
瑞穂は喜色満面に微笑んだ。
「ところで結局、話ってなんだったんだ? 俺達世間話しかしていないような気がするんだが」
勇也が根本の疑問を投げかける。
「あ、いえ、もう済みました」
「へっ、もう?」
「はい、ありがとうございました」
勇也の腕からするっと離れると瑞穂は頭を下げた。顔を上げた後にも笑みが残っていた。
「でも、せっかくですから、もうちょっとお話しま――あれっ、なんだろう?」
瑞穂が海の方を指差す。波止場の先にある闇色の絨毯に、そこだけ染みをたらしたように青白い光点があった。舞い上がる光達。幻想的な光景がそこにはあった。
――勇也と瑞穂が宿舎を出た同時刻。
205号室。そこには二人の男女が緊張した面持ちで向かいあっていた。一人は陽子、もう一人は須藤である。勇也達が立ち去ったちょうどその頃、室内では修羅場が繰り広げられようとしていた。須藤がドアの前で立ちはだかり、陽子を阻んでいたのだ。
「……陽子さん、……どうして、逃げるんですか?」
「……別にそんな訳じゃないけど」
須藤は陽子の目を見つめる。しかし、陽子は須藤と目を合わそうとしなかった。
「わかりません。それじゃあ、わかりませんよ。どんな訳って言うんですか!」
須藤の瞳には追い詰められたものが持つ、異様な光が浮かんでいた。女性と見まがうばかりの美貌も、今は醜く強張っていた。
陽子にはそれが怖かった。
今まで、須藤のことを怖いと思うことはなかった。懐いてくれる可愛い後輩だと思っていた。
――それがいつの頃だろう。
彼の好意がただの先輩、後輩の関係を逸脱するものだと気づいたのは。男が女へ向ける気持ちだと気づいたのは。
戸惑いはあった。女として評価してくれて嬉しい気持ちもあった。けれど、受け入れられないと思った。既に想う人がいた。
その後、陽子は少しづつだが距離を広げていった。これで気づいてくれるといいと思いながら、話し掛けないようにしていた。
しかし須藤はめげなかった。陽子が距離を取る度に、彼女との距離が空くのを拒むように懸命に話し掛けてきた。陽子が重荷と思うその時まで。
陽子がこの部屋に来たのは勇也に話しがあったためだ。そこに運悪く須藤が一人でいた。陽子はすぐに自分の部屋に帰ろうとしたが、須藤に捕まってしまい。それでも帰ろうとすると、今までの不満を爆発させるように須藤が暴走したのだった。彼としても限界だったのだ。
(もうっ、早く帰ってきなさいよ!)
心の中で毒づくが勇也は一向に帰ってこない。
(……しょうがないか)
彼の気持ちに返事をせず、ずるずるここまできたのは、自分の責任だった。言いづらかったという理由もあるが、それは自分勝手な理由。彼の為にも今ここで言わなければならなかった。これ以上引き伸ばすのは彼にとっても酷な話だった。
「……理由を話したら分かって貰えるの?」
「………」
「一体、私から何が聞きたいの?」
「……陽子さんの気持ちです」
ここで初めて、陽子は須藤の瞳をひたりと見据えた。
「……須藤君、残念だけど私はあなたの事、恋愛対象として見えない。もう心に決めた人がいるから」
「――つっ!」
須藤は傷ついたように顔を歪める。
「だから、こういうことされるのは、はっきり言って迷惑としか思えない。もう、止めて欲しい」
「……勇也さん、ですか?」
疑問と言うより確認を取る口調だった。しばらくためらった後、彼女は頷いた。
「……うん。勇也はどうだか知れないけど、私は好き。出会ったその時から彼の事好きでたまらない。だから、他の人の事考えられない」
陽子は言い切った。彼女自身初めて、人前でその気持ちを明かした。自分へ好意を寄せてくれた者への、精一杯の礼儀だと思ったからだ。
「本気……なんですね……」
「ええ」
須藤は憑き物が落ちたように無表情になった。同時にドアの前から退く。陽子からほっと溜息がもれでた。
しかし、陽子が部屋から出ようとした瞬間、腕を掴まれた。
「……陽子さん、それでも、……それでもボクは!」
須藤の瞳には熱に浮かされたような情熱があった。
「離して」
「陽子さん……!」
「離しなさい!」
びくりと須藤の体が震える。陽子の瞳に浮かんでいたもの。それは軽蔑。
「あの……ボクは……そんなつもりじゃ」
動揺する須藤。急に自分がしていることが、どれほど愚かな事か気づいたかのように、彼の顔に、さっと朱が差した。
「……違う、違うんです!」
しかし、陽子は答えない。ただ、瞳に映る感情は少しも変わらずに須藤を見据えていた。
「そんなつもりじゃ、なかったんだ!」
須藤は陽子の腕を放し、部屋から飛び出した。その反動で陽子は倒れこむ。後には、彼女だけが残されていた。
不意に涙が込み上げてきそうになった。緊張の糸がプツリと切れたみたいだった。しかし、ぐっと堪えた。唇を噛み締め、目頭を抑える。その場にへたり込み膝を抱えた。
「……ゆうやぁ、早く帰ってきてよぉ」
彼女の切なげな声が無人の部屋に木霊した。
(ちくしょう!)
須藤は陽子を突き飛ばしたままの勢いで一階へ駆け下りた。玄関で慌しく靴を履き替え、ドアを打ち壊すように開く。そのまま、外に走りだした。
闇雲に走る。道なんかどうでも良かった。ただ、今自分の中に存在する、荒れ狂った感情をどうにかしたかった。
景色が真横に流れる。曇った空も須藤の足元を照らす月明かりだけは届けてくれた。爆発する感情に身を任せ走りつづける。
息が弾む。心臓が悲鳴を上げる。足が鉛のように重かった。
「はぁ……、ぁはぁはぁぁ」
体力の限界まで走ったその瞬間、須藤は倒れこんだ。道の真中に大の字になって寝転がり、大きく喘いだ。心臓が破裂しそうだった。血液全てが、音をたてて体中を巡っていく。
同時に、須藤の頬に涙が伝った。後から後から、あふれ出て彼のシャツを濡らした。
(どうして、ボクじゃダメなんだろう)
近藤勇也――彼の事を考える。
確かに、勇也は世間一般でいう男前の基準を大きく満たしていた。ナイフで削り取ったみたいな、鋭角な輪郭に、知性と強さを兼ね備えた瞳が印象的だった。須藤とは違い180cm以上の長身、姿もよく、筋肉質である。剣の腕も橋本には及ばないものの、最近メキメキと腕を伸ばし、三回生の先輩達の間では、彼を来年の主将に推す声が多かった。ただし、今日のことがなかったなら。
(それでも……)
自分だって負けないと須藤は思っていた。容姿は男らしさこそないが、人並み以下ではない。身長こそ低いが自分の顔にはこれくらいがチョウド良いと思っていた。手先は器用だし、大抵の事はこなせる。勇也にないものを須藤は持っていると自負していた。
「……でも、陽子さんは……ボクを……選んでくれ…なかった」
鼻水がたれる。嗚咽を止まらず喉が震えた。悲しかった。心が見えない糸できりきり締め付けられ、絶えず痛みを与えられているようだった。寝転んでいる地面の感覚がなく、世界がぐるぐるとまわっている気がした。
「……ボクは……ほんとに、……ほんとに…あな…たの事が!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら須藤は夜空に向かって叫んだ。この願いよ天まで届けとばかりに。彼女が笑ってくれるなら他に何もいらなかった。自分はその笑顔を見るだけで幸せになれた。
「……それな…のに」
別れ際、陽子の顔にあったのは軽蔑の色。親しみも何もこもっていない、他人を見る目だった。彼女と幸せになりたかったのに、彼女を幸せにしたかったのに。
「……ボクはっ…彼女をっ……傷つけた……」
自分に対する嫌悪で一杯だった。あんな事するつもりなかった。でも、確かに感じた。彼女の腕の柔らかさを。鼻腔をくすぐる甘い匂いを。劣情を抱いた。彼女をめちゃくちゃにしたいと思った。手に入らないなら奪ってしまえ。頭の中のどこかが須藤にそう命じていた。そして、自分はそれに従いそうになっていた。陽子の目に射抜かれるその時まで。
「……陽子さん…………」
愛しい人の名前を呼ぶ。空に溶けていくように言葉の余韻は宙に吸い込まれていった。拒絶された。それでも好きな事に変わりはない。彼女の愛らしい姿やその仕草が須藤の頭の中に浮かんだ。
「……陽子さん、本当に好きです」
鼻水は変わらず出続けていたが、涙は徐々に引こうとしていた。昂ぶっていた感情が、少しづつだが落ち着こうとしていた。
須藤は目を開けた。涙の残滓が目元に残っているのを感じた。不意に空が明るい事に気づく。空は雲に覆われていたが、その合間から月が顔を出していた。青々と光り、怪しいまでに美しい月だった。
それは、素直に須藤の心をうった。残っていた悲しみを癒してくれるようだった。徐々に冷静になっていくのが須藤自身感じていた。
辺りを見回す。見覚えのある場所だった。夕刻に神社に行く時に通った道だった。
――神社での出来事。
そもそもあれが、須藤が陽子に気持ちを伝える事を焦らせた原因だった。勇也が辞める事になった時の陽子の表情。まるで、陽子自身が苦しみを受けているみたいに顔を歪め、仙石に詰め寄っていた。それは嫉妬という感情を須藤の中に芽生えさせた。一度芽生えたモノは急速に大きくなり肥大した。妬みは憎しみに変わった。仙石が勇也を追い詰めているのを、むしろ爽快な気分で須藤は眺めていた。暗い感情に身を浸していると自覚していた。
(……行ってみよう)
不意に思った。引き金を引いた、あの神社へ。
須藤は身を起こすと歩き出した。道は満足な舗装もされておらず、粗末な石畳だったが、道路脇の街灯と夜空に浮かぶ月のおかげで困る事はなかった。
すぐに鳥居が見えてきた。どうやら、かなり近くまで来ていたようだ。鳥居の前に立つ。
昼間はそうは思わなかったが、鳥居はひどく不気味な感じがした。闇の中にそびえ立つその存在は、現世と異界をつなぐ、門のように感じられた。辺りもひっそりとしていて、何が出てきてもおかしくないように思われた。
急に須藤は怖くなった。自分の気持ちを整理するためにここまで来たが、この鳥居の向こう側に行くのが恐ろしかった。
神社の中で見た奇妙な女を思い出す。勇也に微笑みかけていたこの世ならざる存在。
――あれを見かけたのはどこだったのだ。
鳥居の向こうではなかったのか
回れ右をした。もうこれ以上ここに居たくなかった。帰ろうと一歩足を踏み出した。
その瞬間、異変が起こった。
道路脇の街灯が、その命を燃やし尽くしたかのように明滅して消えた。気温が急激に下がる。真夏であるのに、須藤の吐く息は白い形として彼の目に映った。
強烈な存在感を感じて振りむく。
――視界を埋め尽くす手
そこに須藤が見たものは、鳥居から飛び出す無数の青白い手だった。自らてらてらと発光し、蛇を思わせる動きで威嚇するように伸び上がる。そしてそれらは一斉に加速すると驚きに固まった須藤に掴みかかった。中に引きずり込もうと彼の身体に絡みついていく。
「なっ!?」
一瞬で引き倒された。足を引きずられていく。必死で抵抗する。地面に爪を突き立てる。一瞬の硬直。しかし、手の力は弱まらない。それどころか、さらに強く須藤を中に引き込もうとする。爪の間に土が食い込む。激しい痛みがはしる。そんなことにかまっていられない。渾身の力を込めて耐える。限界を超えて鈍い音をたてて爪が折れた。
「助けっ、助けて! いやっ、いやだ、いやだっ!」
最後の力を振り絞り、誰か助けに来てくれる事を願い叫んだ。しかし、その願いもむなしく、手の力には効し難く、引きずり込まれていく。
「いっ、いやだあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その声を境に辺りに静寂が戻る。
後にはただ、鳥居に向かって伸びる、十本の血が滲んだ指の跡が爪の欠片と共に地面に残されているだけだった。
それは彼らにとって一番長い夜の始まりを告げる合図のようだった。
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
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