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犬島(完結)


5章

 闇色の海。そこを飛び交う青白い光たち。一つの青い光球にまとわりつくように固まったかと思えば、急に弾けて散らばっていった。光はふわふわと楽しげに踊っていた。
「きれー……」
 瑞穂が切なげにため息をついた。
 まるで、この世の光景ではないかのように妖しいほど美しかった。
「なんなんだろ? この光? 蛍の一種なのかなぁ」
 光球の一つが瑞穂の近くに寄っていた。彼女の近くに擦り寄るようにまとわりつくと、元の集団に帰っていく。
「海蛍なのかもしれないな。以前何かで見たことがある」
「うみほたる?」
「うん、確か海洋性微生物の群生で淡い光量でも輝く性質を持っているんだ」
「へぇー、そうなんですか」
瑞穂は一度納得した後、不思議そうに首を傾げた。
「でも、微生物ってことは海の生き物ですよね。じゃあ、なんで宙に浮いているんだろ?」
「そうだよなぁ……じゃあ、なんなんだろうな、これ?」
 近くに寄ってきた光球をつかむ。しかし、実体がないのか勇也の手をすり抜けていった。
「不思議だ……。熱も何も感じない。光だけがそこに存在しているみたいだ」
 勇也が掴もうとした光球は、彼をからかうかのように鼻先をすり抜けていった。
「謎だ」
「いいじゃないですか。こんなにもキレイなんですよ。なんか夜空に浮かぶ妖精みたいで……。とてもロマンチックじゃないですか」
 自分の中の感動を伝えようとするかのように身振り手振りで辺りを指し示す。瑞穂にしてはあまりに子供っぽい仕草だったので勇也はそれがおかしくて微笑した。
「むぅ、先輩、笑ってるぅ」
「いや、お前ガキみたいだなぁ」
 瑞穂は頬を膨らませて、
「だって、キレイじゃないですか!」
「あはは、はいはい、そうだな」
 子ども扱いするように、ぽんぽんとその頭を撫でる。彼女はこれにはご立腹で、本格的に拗ねてしまったようだ。上目使いで恨めしそうに勇也を見つめてくる。
「わたし、子供じゃありません。だいたい一歳しか年齢違わないじゃないですか」
「悪かったって、そうむきになるなよ」
 頬を膨らませて怒っていた瑞穂だったが、急に何かを思いついたように、にんまりと笑った。どこか橋本に通じるものがあった。勇也は本能的に危険を感じる。
「せんぱぁい。わたし子供じゃないんですよ……」
 小悪魔は勇也の腕を取ると、しなだれかかるようにその体重を乗せてきた。これには固まる勇也。
「いっ!?」
「……確かめて……みますか?」
 息がかかる距離に瑞穂の顔があった。頬は上気し、目は潤んだように輝いている。視線を下げた時、キャミソールの間から、彼女の胸の谷間が垣間見えた。意外に豊かな事に驚く。
 口の中が緊張でカラカラに乾いていく。ごくりとやけに大きく唾を飲み込む音が聞こえた。むず痒いような緊張感。
「じょ、冗談だろ?」
「……せんぱい。わたし、子供ですか?」
「いっ、いや。そんなことは――」
 勇也が追いつめられたその瞬間、瑞穂はにっこり笑った。
「分かってくれればいいですから」
 するっと腕を抜けて離れた。
「へっ?」
「あれ、先輩どうしたんですか? 固まっちゃって」
 瑞穂は何事もなかったように平然としている。しかし、それがポーズだという事は、微妙に笑いが残っている口元を見れば一目瞭然だった。
「お前なぁぁ」
「きゃあ、先輩が怒ったぁ!」
 二人でふざけ合う。
青白い光が飛び交う中、遊ぶ若い男女。それは平和で、とても幻想的な光景だった。

――しかし、それは次の瞬間崩れた。

光の集団が何かに怯えるようにばらばらに消えていった。
うるさいほど鳴っていた秋虫たちの声も、ぴたりと止まる。
あたりに急速に冷気が満ちてくる。
「……なに?」
 瑞穂は自らの肩を抱くようにして身をすくめる。薄着のせいもあるだろうが、これは尋常な事態とは思えなかった。吐く息は白く、体が痺れるほどの強烈な威圧感がした。
 そして、それは出現した。
――『手』――
 それは手と呼ぶにはあまりに相応しくないのかもしれない。その数が尋常ではなかった。海から数十本、数百本であろうか、視界を埋め尽くすほど、手が一斉に出現する。自ら青白く輝き、天に向かって救いを求めるかのように自らを伸ばしていた。それら蛇の如く絡み合い、分離統合を繰り返しその数をどんどん増やしていく。
「ヒッ!?」
 瑞穂は蒼白な顔をして、へたり込んだ。身体に全く力がはいらないように腰がくだけた。顔から血の気が失せ、脂汗が噴き出していた。あまり事態の変化に思考がついていかず、呆然となる。恐怖というモノを具現化した存在が目の前にあった。
「……なんなんだよ。いったい何なんだよ!」
 勇也も同様だった。目の前に存在するものに心が恐怖に支配される。恐ろしく非現実的な光景が目の前にあった。海に乱立する手。まるで、できの悪いホラー映画みたいだった。
 手は動き始めた。ワラワラと一斉に勇也達の方に寄って来る。その内数本が一度大きく伸び上がると、急降下して襲い掛かってきた。
「きゃあああああああ!」
 瑞穂は動けなかった。恐怖に見開いた目に、手が迫ってくるのが見えた。しかし、急に視界がぶれる。
「しっかりしろ!」
 勇也だった。彼が手を引っ張ってくれた事によって、からくも危機は脱した。
「先輩!」
「わかってる。でも今は立て! 逃げるんだ!」
 話をしている間にも、手は襲ってくる。勇也は持っていた竹刀で瑞穂を掴もうとした手を叩き落とした。重い感触が勇也に残る。竹刀の重さもさることながら、手の勢いがとんでもなかった。
「せんぱ……い。わたし、ちからが入らない……」
 瑞穂は腰を抜かしているようだった。地べたにへたり込み、震える手を使って、尻餅をついたまま後ずさる。しかし、そのスピードは哀れなほど遅く、到底逃げ切れそうになかった。
 襲ってくる手の数が増えてきていた。
『――下郎が!』
 頭の中で急に声が聞こえた。
(なんだ!?)
 体が別のモノに取って代わられる気がした。意識が希薄になる。それにつれて身体に力が漲ってくる。
勇也は瑞穂の前に立ちはだかった。襲ってきた手を三つ続けざま払いのけると、彼女を右肩に抱え上げる。
「せんぱい!?」
 彼女を抱え上げたせいで実質左手一本しか勇也は使えなくなった。これはどう見ても無茶な事だった。人一人分の体重を抱えた上で、迫り来る手から逃げなくてはならないのだ。これは無茶を通り越して無謀な試みだった。
「抱きついてろ」
 瑞穂は彼に精一杯抱きついた。こんなにも事体は切迫しているのに、こんなにも怖い思いをしているのに、不思議と安心感があった。彼ならなんとかしてくれる。訳もわからずそう思った。
 勇也は走りだした。それを追いかける手たち。若干開いていた距離もすぐに詰められる。前を見ている勇也にはともかく、瑞穂にはそれがありありと目に映った。
「せんぱい!!」
 掛け声に反応して、勇也は振り向く。だが致命的に遅い。
――間に合わない!?
瑞穂は目をぎゅっと閉じた。
しかし、いつまでたっても何も起こらない。
訝しげに目を開ける。
「……すごい!」
 勇也は左手一本で追いすがる手を、次から次へと打ち落としていた。瑞穂の目にはそれが残像のようにしか映らなかった。
 一瞬、手の攻撃の間が空いた。
 その機を逃さず、勇也は駆け出す。手は虚をつかれたのか、それとも別の理由があったのか追ってはこなかった。

 勇也は走りながら、体がかつてない高揚感に包まれているのを感じていた。細胞一つ一つに力が漲り、体の奥から力が溢れてくる。手を最初に見たとき、強い恐怖と共に湧き上がってきたのは、歓喜だった。敵を見つけた喜びに体が震えた。襲い掛かってくる手を見ても、少しも脅威に感じなかった。芸がないとさえ思った。
ただ傍らには瑞穂がいた。彼女には危険な事態だった。事実、手は彼女だけを狙っていた。
もう二度とあいつにオンナを殺させるわけにはいかなかった。
それにあの程度のものが、自分に危害を加えられるはずないのだ。
(……なんでだ?)
 あのような下賎な者共に自分は負けない。
(……どうして、俺はそう思うんだ?)
「せんぱい! 止まって!!」
 瑞穂の声が聞こえた。はっと我に返る。
 いつの間にか見知らぬ場所を走っていた。
「しっかりしてください!」
 彼女の声が耳元で聞こえた。なにか別の意識が体の中に吸い込まれていった気がした。
「……大丈夫だ」
 意識が完全に覚醒する。足を止めて立ち止まった。同時に忘れていた瑞穂の体重がズンと肩にのしかかった。
「先輩! もうっ、心配したんだから!」
 彼女の身体を下ろす。その途端、瑞穂は泣きながら勇也の胸に飛び込んできた。着ていたシャツはすぐに濡れてしまった。でも、好きにさせておこうと思った。
「ック、ヒック……」
 彼女は嗚咽を漏らしながら、勇也のシャツを掴んで離さなかった。
 しばらく瑞穂は泣き続けていたが、気持ちが落ち着いてきたのか徐々に嗚咽が小さくなっていった。それを判断して勇也は声をかけた。
「わりい、心配かけたな。怪我はないか?」
「…………はい」
 瑞穂は胸に顔をうずめたまま蚊のなくような声で答えた。ざっと確認する。たしかに見える範囲で怪我などはなかった。
「……それにしても、さっきの何だったんだろうな?」
「いっ、いや……いやっ!」
 びくりと震えると彼女は、顔をさらに強く押し付けてくる。これ以上、この話は拒否するという意思表示だった。ぽんぽんと赤子をあやすように背中を撫でる。しかし、それとは裏腹に勇也は強い調子で言った。
「瑞穂、考えるんだ。俺たちは今、言葉のあやでも何でもなく生命の危機に瀕している。あの化け物は明確に俺たちを狙っていた。それは、紛れもない事実だ。俺達が襲われたという事は、他の奴もやられている可能性があるだろう。今回は運が良かったが次回もこうだとは限らない。何か手段を考えないと……」
「…………なんと…かって……」
「うん?」
「なんとかって……いったいどうすればいいんですか! わたしは怖いです。ほんとに怖いんです! なんなんですか……、あれっていったいなんなんですか!? こんなの信じられない。現実じゃないみたい。悪夢が現実に襲い掛かってきたっていうんですか! だいたいおかしいですよ! なんで先輩そんなに落ち着いてるんですか!? お化けが出たんですよ!」
 瑞穂は叫んだ。身体を離し、糾弾するように言葉を紡ぐ。自分の中に収まりきらない激情を、勇也に当り散らすかのようだった。
言われてみて勇也も気づく。
どうして自分はこんなにも落ち着いているのだろう。何故、あのような手が出てきても平然と対応できるのだろうか。
なによりどうしてあの時、仮初と雖も手を迎撃できたのだろうか。今思えば自分は信じ難い早さで動いていた。そして、普段は絶対に出せないであろう力。一度に向かってくる対象全てを認識し、続けざまの連撃をうった。それは完璧な速さと強さを兼ね備えていた。そして、絶対的な無敵感。感覚が四方に広がり、まるで天上から全ての事象を見下ろしている気分になっていた。
瑞穂の言うようにもっと慌ててもいいはずだった。恐怖におののき泣き叫んでも、だれも勇也をあざける奴はいないだろう。
しかし、自分にはこれがどうしても大した事態には思えないのだ。もちろん危機だという事はわかっている。放っておけば深刻な事態になることも承知している。それでも、自分一人なら、なんとかなりそうな気がした。根拠はない。だが、動かし難い事実として心の中にあった。
だが、これからの事を考えなくてはならない。思い浮かぶのは陽子や橋本という剣道部の仲間達。なんとかして、この危機を一刻も早く伝え対策をとらなくてはならなかった。橋本ならこんな時どう対処するのだろうか。彼ならどんな事態になろうと飄々としていそうだった。
「……あの、……先輩?」
 黙り込んだ勇也を見て、瑞穂は急に心配になった。先程、勇也が走り続けている時、手が追ってこなくなった事に気づいた瑞穂は、止まってくれるように言った。何度も声をかけた。しかし、彼は止まってくれるどころか瑞穂の言葉が聞こえないみたいに、たんたんと前だけを見てとんでもない速さで走り続けた。その横顔は、まるで別人だった。目はらんらんと強く輝き、不敵な笑みが口元に浮かんでいる。勇也が違う人のように見えて、怖くなった。最後の方には、言葉は悲鳴じみたものになっていた。
今度また勇也があのような状態になったら自分は、耐えられそうにないと思った。
「うん? ああ、これからの事を考えていたんだ」
 瑞穂の視線に気づき、勇也は答えを返した。ほっと瑞穂は胸を撫で下ろす。
「……すみません。取り乱しちゃって」
「いや、普通だれでもそうなるさ。落ち着いたか?」
 勇也の口調には気休めではないものが含まれていた。眼差しには瑞穂を気遣う色が見えた。その温かさに、不安と恐怖に支配された心が解けていくような気がした。
「……はい」
 瑞穂は僅かながらも笑みを浮かべることができた。
「そうか」
 それを見た勇也は、瑞穂は大丈夫そうだと判断する。
「じゃあ、宿舎に戻ろう。この危険を早く皆に知らせないと。――歩けるか瑞穂?」
 先程身体の力抜けていた瑞穂を思い出した。彼女は腰を抜かしていたのではなかったのか。
 瑞穂は今更気づいたといった感じで、自分の体を確認する。
「……大丈夫そうです」
 特に異常はないようだった。
「じゃあ、行くぞ。辛くなったら言ってくれ。……その前に、瑞穂、尋ねたい事がある」
 勇也の顔は真剣だった。自ずと瑞穂も緊張感が高まる。
「……なんですか」
 彼は溜息をついた後、困ったように頭をかいた。
「ここ、どこだっけ?」
 二人は迷子になっていた。



 陽子は205号室で勇也の帰りを待ち続けていた。もうそろそろ全員の点呼の時間だった。何度も帰ろうと思った。けれど、次の瞬間帰ってくるかもと考えたら、身動きが取れなかった。いや、動く気がしなかった。須藤との事があったから、なおさらだった。
反面、いったい自分は何をしているんだと自己嫌悪に陥りそうになる。元々、勇也に大した用事などなかったのだ。ただ明日帰る彼ともっと話がしたかった。彼が許してくれるなら一緒に帰ってもいいと思っていた。
「……何やってんだろ、私」
 呟きには虚ろな響きが含まれていた。
 その時、急にドアが開いた。反射的に声をかける。
「遅い!」
 ドアを開けた人物を睨む。しかし、次の瞬間、陽子はひと間違いだと悟った。間違えられた彼は目を白黒させていた。
「なんなんだ? 陽子?」
 橋本は面白そうに笑った。
「いっいえ、先輩こそ何してたんですか。もうすぐ点呼始まりますよ」
「だから、戻ってきたんだよ。あー、よく遊んだ!」
「……何してたんですか?」
 陽子の当然の疑問。橋本はそれにニヤリとした笑みで答えた。
「聞きたいか?」
 橋本の顔は自慢の悪戯を報告する少年のようだった。陽子は瞬時に問う気をなくした。
「……別にいいです」
「えぇぇぇぇぇ!」
 大げさに驚く橋本。信じられない者を見たかのように陽子を見つめる。
「お、お前。ほんとにオレの偉業を聞きたくないのか?」
「だから、そんなのいいですってば。それより、先輩。勇也見ませんでしたか。帰ってこないですよね。せっかく待っているのに」
「……そんなの、……がーーーーん」
 橋本は陽子の最初の言葉でダメージを受けてしまい、後半は耳に入らなかったようだ。しゃがみ込んで床にのの字を書いている。
「ああ、もうっ! はいはい分かりましたよ。いったい何したんですか?」
「おお、やはり聞きたかったか。あのな――」
 一瞬で復活した橋本は目をきらきらさせて話そうとした。しかし、今度は闖入者が彼の弁を邪魔した。
「おい、そろそろ点呼だぞ。廊下に出てくれ」
 田中だった。橋本は殺意のこもった視線で睨みつける。
「たぁなぁかぁぁ! なんか恨みでもあるのか!?」
「え? いや、別にないが」
「いや、今のタイミングで登場すること自体、オレに悪意があるとしか思えない」
 ほとんど酔っ払いの言い掛かりだった。
「橋本先輩、なに言ってんですか! 主将、点呼の時間なんですよね?」
「お、おう」
「じゃあ、私、自分の部屋に戻りますから」
「ええぇぇ、話は?」
「主将にでも話しておいてください。では、後で」
 橋本の悲鳴のような声を無視して部屋を出た。
廊下にはもう他の部員達が部屋の前に並んでいた。剣道部の点呼は効率のため、全員を廊下に出し、一斉に数える事にしていた。こうすれば一目で誰がいないのか分かるからだ。
この時間からは原則的に外出禁止になっていて、部屋に居るのかを確かめる必要があった。しかし外出禁止が守られる事はほとんどない。点呼は一回きりなので、外出をしてもほとんど見つからないし、見つけても大目にみようという雰囲気があった。だが、一つだけ注意する事がある。それは点呼の時間に間に合わない事。これだけは、翌日の練習が特別メニューなるという罰が容赦なく実行された。皆が休んでいる時も稽古。皆が遊んでいる時も稽古。はっきりいって誰もが敬遠することだった。それ故、部員達はその過酷さを知っているため、よっぽどの猛者ではない限り、破ろうとはしない。もっとも橋本だけは、例年、きつい稽古をわざわざやるために、破ったりしていた。
「あ、ようこちゃん」
 梢が陽子に気づいて手を振る。陽子の部屋の前には、既に主な面々が並んでいた。
「遅かったねぇ。どこ行ってたの?」
「うん、ちょっとね」
 適当に答えを濁して梢の隣に並ぶ。
「梢は何してたの?」
「わたし? わたしはね、橋本さんと一緒にトラップを仕掛けていたの」
「トラップゥ?」
 思わず陽子の口から素っ頓狂な声が漏れた。
「あ、内緒だったんだ。ようこちゃん、誰にも言っちゃダメだよ」
 梢は物騒な内容とは裏腹に、にっこり微笑んでくる。陽子は冷や汗をかきながら尋ねた。
「……別にいいけど。具体的にはいったい何したの?」
「えっとね、カメラを仕掛けてきたの」
「……どこに?」
「出入り口に、脱走者をチェックするとか言ってたよ」
「…………あの人は」
 橋本の考えているのことは明白だった。そのビデオを状況証拠として提出し、部員達に特別メニューを科すつもりでいたのだ。言い訳の効かない状況を作り出して、練習量を増やす。いくら自分がやりたいとはいえ、さすがに抜け目がない行動だった。

「じゃあ、点呼始めるぞ」
 定刻が来たので、田中は部員達を数え始める。三回生から始まり、男、女の順番で名前を呼び上げる。
 ニ回生の番になった
「近藤」
 勇也の名が呼ばれる。しかし、返事はない。
「……まあ、あいつはしょうがないか……」
 田中は独り言のように呟くと点呼を再開する。次々と名前が呼ばれていく。
(勇也、どうしたんだろ……)
 陽子は心配だった。結局勇也は帰ってこなかった。彼の性格からして、たとえ部を辞めたとしても最後までけじめをつけるはずだ。それなのに、この時間まで帰ってこない。何かあったのだろうか。
「佐藤」
 それに須藤も事も気になる。彼はここにはいない。飛び出してそれっきりだった。少し強く言い過ぎたのかもしれない。
「佐藤!」
「は、はい!」
 田中の強い声に、陽子はびくりと震える。
「あんまり、ぼーっとしてるんじゃないぞ。次、須藤」
 一回生の番になった。返事はない。部員が辺りを見渡した。しかし、須藤の姿は発見できない。
「あいつもか……。特別メニューだな」
 田中の言葉に、橋本が少し意地の悪い笑みを浮かべて笑っていた。特別メニューの参加者が早くも一人増えて、喜んでいるようだ。
「千堂」
 一回生の女子の番になった。しかし、彼女の返事もない。
「千堂、いないのか。誰か見たものはいないか?」
 部員同士がお互いを見渡す。その内、瑞穂の女友達の一回生が手を上げた。
「あの……、さっき瑞穂、近藤先輩と出て行くの見ました」
「そうか……、まったく今日はいったいどうしたっていうんだ。まさか、一回生だからって罰則のこと知らないわけじゃあるまい」
「いや、田中、こいつはひょっとしたら事件かもしれないぞ」
 橋本が重々しい調子で言った。
「……事件って大げさな、ありえないだろ」
 田中は困惑しているようだった。例年でも点呼をサボタージュする者はいる。次の日の罰則を覚悟して、その夜を遊び倒すのだ。そのようなつわもの強者は毎年確かに存在していた。しかし、発言主の橋本がその回数が一番多い事は周知の事実だったため、今の発言にはことさら説得力がなかった。
「いや、そんなことはない。この場にいない三人のメンバー構成を考えてみろ。勇也、須藤、そして千堂瑞穂だ。須藤は別に関係ないとしても、勇也と千堂、こいつら二人の組合せは怪しい。目撃証言からも、ずばり密会していると見た!」
 橋本は犯罪を暴く検事のように断定した。最初の重々しい口調はどうやら、このための伏線だったようだ。部員達はいつもの冗談だと判断する。
しかし、陽子の胸にはかすかな痛みが走った。
勇也が瑞穂と? まさかと思う。彼は部活の点呼をサボってまで、遊ぶような節度のない人じゃない。それに、あの瑞穂が彼を相手にするわけないじゃないかと考える。彼女は外見も派手で非常にコケティッシュだ。あまり部活に出ないとはいえ、なんで剣道部に入っているのか疑問に思える。だから、この件は偶然の一致に決まっている。
反面、疑問が頭に浮かぶのが抑えきれなかった。胸の奥がなんだかざわついて居心地が悪かった。
「ようこちゃん、どうしたの」
 不意に梢に声をかけられた。彼女は心配そうな顔で陽子を見ていた。
「大丈夫、ちょっと立ちくらみ」
 陽子は胸の内を悟られないため、殊更笑顔を作る。だが内心、何か居心地の悪いものが頭をもたげてくる事を感じていた。
「よし、ここは、あいつらに電話をかけてやらねばなるまい」
 橋本は陽子の気持ちなど知ってか知らずにか、調子にのって携帯電話を取り出していた。勇也の電話番号を検索すると、通話ボタンをプッシュする。
『ツー、ツー、ツー』
「ん?」
 橋本は携帯の画面を確認する。電波状況が圏外になっていた。
「さっきまでは使えたんだが。さすがは島だな。電波が入りにくいのか」
 橋本の言葉を受け、皆も携帯を確認し始める。しかし、誰もが同様に、画面に圏外の文字が浮かんでいた。まれに電波状態が少し回復したかと思えば、すぐに圏外に戻る。ほんの少し前までは問題なく使えたのだ。それらが一斉に使えなくなっていた。
 陽子の携帯は、かろうじて電波を指し示す表示が最低ラインの一本を保っていた。橋本と同じ試みをしてみようという気になった。繋がるか確かめるため実験と理由をつけ行動を正当化した。
 勇也の名前をメモリーから探す。それは目立つ位置にすぐ出てきた。通話ボタンを押す。
 待つこと数秒。
『トルゥゥルル、トルゥゥルル』
(あれ、繋がった?)
 少し意外な気持ちで勇也がでてくれるの待った。
『トルゥゥルル、トルゥゥ――ッ』
 電話が繋がった。
「あっ、もしもし勇也」
『………………』
 しかし、電話は沈黙している。通話時間の経過だけ携帯の画面に表示されていた。不審に思い、陽子は問い直す。
「もしもし?」
 その途端、異変は起こった。
『キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ』
 子供特有の甲高い笑い声。耳をつんざくような高音だった。陽子の腕は一瞬にして鳥肌で埋め尽くされる。おぞましさで身体が震えた。反射的に電話を切ってしまった。
(……今の、何!?)
 震えの残るまま、携帯の発信履歴をみる。先程の電話相手は近藤勇也だと記録されていた。余計にわけが分からなくなった。
 陽子は意を決してもう一度挑戦してみる。
『ツー、ツー、ツー』
 しかし、今度は繋がらなかった。
 携帯の画面を見たまま、呆然となる。何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。勇也のいたずらにしては性質が悪すぎた。そもそも、彼はそのような事をする人はではない。では、今のはなんなのか。
 陽子は鳥肌が立っている自分の腕を見つめた。ひどく不吉な予感がした。自分は今、取り返しがつかないものに遭遇したのではないのか。恐怖が込み上げてくる。ひどく自分が頼りない存在のように思えてきた。
「どうした、陽子。勇也はでたか?」
 何も知らない橋本が、のんきな様子で問い掛けてくる。
「……いえ」
 どう答えればいいのか分からなかった。声が震えてしまう。異常事態だった。
(異常事態? そう異常よ!)
 今日二回目の怪異との遭遇だった。夕方出会った幽霊。本来なら、あのようなモノに出会うはずなどない。それなのに、陽子は出会ってしまっている。そして、今、電話でも不可解な事態に遭遇している。
 ――何かが起きている?
 陽子の本能が警告を発していた。際限なく危機感が湧き出してくる。ここに居ることが、ひどく危険な気がした。
 しかし、理性が否定をする。そんなはずはない。先刻の電話も自分の聞き間違いかもしれない。
「ようこちゃん、真っ青だよ」
「……ごめん、私気分が悪い」
 気遣わしげに梢が陽子の顔を覗きこむ。陽子の顔は脂汗に覆われていた。
「部屋で休んでいようよ。主将、ようこちゃん調子悪いみたいだから、わたし達部屋に戻ります」
「おう、しっかり休めよ」
 梢は陽子の肩を抱くように抱え部屋に戻った。就寝用に用意してあった布団を敷くと、彼女を横たえた。
「ほんとに大丈夫? 何か欲しいものある?」
「……だいじょうぶ」
 本当は、少しも大丈夫などではなかった。危機感がどんどん近くに迫ってくる。それは息苦しさと圧迫感を同時に陽子にもたらしていた。呼吸をする事も困難な緊迫感。陽子だけがそれを、感じているようで梢は平気そうな顔をしていた。まるで大型の肉食動物の檻に入れられた気分だった。逃げたい。この場から少しでも遠くに逃げたい。その思いが抑えきれないほど沸き起こってくる。
「つっ……っ!」
もうダメだった。我慢の限界だった。悪寒が背筋を這い登り、吐き気が込み上げてくる。
「きゃっ」
 梢は急に立ち上がった陽子に驚いたように悲鳴を上げた。
「どっ、どうしたの?」
「ゴメン! ちょっとここにいたくない」
 言い置くとすぐに駆け出した。廊下に出ると、点呼は既に終わっていた。人影もまばらにしかない。
「陽子、大丈夫なのか?」
 誰かの声が聞こえた。しかし、そんなことにかまっている余裕などなかった。一刻も早くここから出たい。身体が悲鳴を上げていた。陽子は速度を落とさず、走り続ける。
「おい!?」
階段を二段飛びで駆け下りた。その勢いのまま玄関でスニーカーに履きかえる。踵を踏み潰すようにして、急いで履いた。そして、ようやく外に出た。
大きく息を吸い込む。
「はぁ、はぁあ、……ふう。…………えっ……!?」
途端に悪寒が消えていった。あれほど胸の内を騒ぎ立て、陽子を苦しめていた何かが綺麗さっぱり解けていった気がした。
「……どうしたんだろ、私」
 あまりの不可思議さに困惑する。
振り返って宿舎を見上げた。別段異常なところなど見られない。
「……なんで」
 ストレスが溜まっていたのだろうか。今日は確かに心を磨り減らすような事件が多すぎた。疲れが溜まっているからこのような事になるのだろうか。
 陽子は軽く頭を振ると、宿舎に戻ろうとした。しかし――
「うごかない!?」
 足が動こうとはしなかった。身体が頭の支配に抵抗しているように、意思とは裏腹にびくともしない。一歩あとずさる。
「あれ?」
 足が動いた。陽子は試しに足を上げてみる。一歩進めた。しかし、それ以上は進めなかった。ある一定ラインを越そうとすると、急に身体が動かなくなるのだ。まるで、そこから先に進む事を身体が拒否するかのように。
(どういうこと?)
 不思議だった。その境界線に手を伸ばす。何も伝わってこなかった。物理的な壁があるわけではないのだ。
そうだとすれば、何か理由があるはず……。
 陽子が宿舎前で一人苦悩している時、玄関から慌しく人が出てきた。
「ひどいよ、ようこちゃん」
「ひどいわ、陽子ちゃん」
 梢と橋本だった。橋本は梢の口真似をしている。
「……何のつもりですか?」
 もちろん橋本に向けたセリフだった。こっちが真剣に悩んでいる最中なのにその態度には、少し腹が立ったからだ。
「だって、ようこちゃん。急に突き飛ばして出ていくんだもの」
「だって、陽子ちゃん。無視して行ってしまうんだもの」
 橋本はしなまで作っている。ごつい男がそんなことをすると、とても見苦しかった。
「あっ、ごめんね。梢」
 橋本は無視である。陽子は視線すら合わせない。
 少し落ち込んだ彼だったが、そんなことでへこたれる程、甘くはなかった。すくっと背筋を伸ばして陽子に話し掛けた。幾分真面目そうな顔をしていた。
「でも、さっきはどうしたんだ? 随分切羽詰っていたようだが?」
 橋本は、彼なりに心配しているようだった。陽子は今のが橋本の照れ隠しだということを理解する。心持表情が柔らかくなった。
「うん、そうそう。大丈夫? 少しは気分よくなった?」
 梢も心配そうだった。
「……気分は良くなったんだけどね。ちょっと、困った事が起きていて……」
「なんなんだ?」
 陽子は二人に今起きている事を説明した。半信半疑で聞いていた二人だったが、陽子が足を進めようとしても、一向に境界線を越えられない事に目を丸くする。
「こりゃあ、いったいどういう事なんだ? ちょっといいか」
 橋本が陽子の身体を少し持ち上げて、境界線内に入れようとした。中に入るには入った。
しかし、入れられた瞬間、強烈な悪寒が身体を襲った。脂汗が噴き出す。ゾワリとした恐怖が背筋を駆け上る。
「いっ、いや!」
 橋本を振りほどいた。嫌だった。そこに居たくなかった。這うようにして元の位置まで戻る。すると、途端に身体を襲っていた悪寒がなくなった。その変化は歴然だった。
 これは陽子自身にとっても驚きの事だったが、他の二人も同様だった。陽子の様子から、これが冗談でも何でもなく、本当の事だと理解する。
「……驚いたな。何か入れなくなった理由でもあるのか?」
「別に、ないんですよ。……ただ、宿舎の中にいると、とても嫌な気持ちになるんです。不快感が込み上げてどうしょうもなくて……」
 強いて言えば先程の電話だろう。ただ、自分の勘違いという可能性もある。なんとなく言う事は躊躇われた。
(……でも、言った方がいいのかも)
 橋本の顔を見る、彼ならこんな事を言われても、馬鹿にしないと思った。普段はふざけているが、いざという時にはとても頼りになる人だ。梢も同様だ。信用できる友人だ。なにより、二人とも、昼間の幽霊を目撃している。だったら、信じて貰えそうだった。
 陽子は口を開こうとした。
「ほんとは――」
 ――その瞬間、宿舎の明かりがいきなり消えた。何の前兆もなく、掻き消えた。
いや、宿舎だけではない。周囲にある建物の明かりが全て消えていた。
「……停電?」
 梢が思いついた疑問を口にする。
「いや、街灯の明かりが消えてない」
 橋本が周囲を見渡す。建物の明かりは消えていたが、他は消えてなかった。なにか不自然だった。
「ブレーカーとか」
「全部の家が一片にか? 有りえないだろ」
 異様な感じがした。空気が重い。肌をさすような冷気が漂ってくる。
「きゃあああああああああああ」
「うわぁぁぁあああああぁぁあああぁああああああ」
 突然、宿舎から悲鳴があがった。いや、宿舎だけではない。いたるところから悲鳴があがる。一人ではなく、何人もの悲鳴が折り重なる。同時に何かを打つ鈍い音が響き渡った。
「なんだ!?」
 橋本の顔は一瞬で緊迫していた。今の悲鳴にはただならぬ響きがあった。放ってはおけない。彼は室内へと向けて駆け出した。
「……待って!」
 それを陽子が止めた。
「離せ、皆が心配だ!」
 橋本は陽子を引き離そうと振り返る。しかし、彼女を見た瞬間、その動きを止めてしまう。
「……ッダメ、今、行ってはダメっ!」
 顔は真っ青に染まり、唇は紫色になっていた。体全体が瘧にかかったかのように震えている。それでも瞳だけは何かを訴えるように怖いくらい真剣だった。
「どうしてダメなんだ?」
 その様子が、橋本を冷静にさせた。
「……ダメ。ダメなの。とても嫌な感じがするの。何か危険なモノがいる」
 陽子は子供のように嫌々と首を振った。いつもの彼女からは想像できない仕草だった。普段の陽子はどちらかといえば、大人びていて理性的だ。しかし、今の彼女は幼児退行を起こしたかのように、ひどく頼りない顔をしていた。
「そうか……、だがな……」
 橋本は静かに陽子を引き剥がした。陽子は必死に抵抗したが橋本の力には敵わない。
「それでも、オレは行かなくてはならない!」
 橋本は真剣だった。ある種の覚悟がある瞳だった。それを見て、なおも追いすがろうとした陽子から、力が抜ける。
「藤井。陽子を頼むぞ」
 陽子と同様、青ざめている梢に彼女を引き渡した。
「……先輩は?」
「様子を見てくる。お前達はここにいろ」
「大丈夫なんですか? ……わたしも、すごく嫌な感じがするんです。お願いです。無理……しないで」
 橋本は微笑んだ。いつもの悪戯をする時の笑みではない。相手を思いやる笑みだった。それは染み入るように梢の心に入ってきた。形のない不安が解けていく気がした。
「必ず戻ってくる」
 彼はそう言い置いて駆け出した。


 田中は目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。
 201号室。それまで田中は自分の部屋で同室の葉山や他数人と話をしていた。今日は色々な事があったため、話をする事も多くあった。必然的に勇也の話題になり、仙石の厳しすぎる処分に不平不満が出ていた。田中はそれらの部員を宥めながら、内心、同意見だと思いつつ、話を聞いていた。今まで仙石が、そのような処分をしたという話は全く聞いた事がない。どちらかといえば、仙石は温厚な方なのだ。
神社の器物破損。確かに誉められた事じゃない。しかし、聞いた話によると、壊れたのは、襖や障子といった取替えがきく物だったというではないか。しかも、長年手入れがされていない状態で、風雪に晒されていたものだという。それでは、壊れやすくなって当然だ。それなのに、今回の勇也への処分。正直、行き過ぎだと思った。
彼は、何か他によほどひどい事をしたのだろうか。一年以上先輩として、彼に接しているが、そんなひどい事をする奴だとはどうしても思えなかった。日頃の部活動も熱心で、性格も真面目の範疇に入る。行動にも節度がある。そして、剣道も強い。田中は密かに彼を次の主将と考えていた。これには橋本も同意見だった。
橋本に太鼓判を押されたことで、田中は自分の考えを確信した。橋本はああ見えて、人を見る目があった。いつもふざけているが、底のしれない奴だと田中は一目もニ目も置いていた。なにより、大切な友人だ。彼の考えが自分と一緒でうれしかった。
その勇也を処分――何か今回の処分には、裏があるかもしれない。後で関係者に問いたださなければならない。仙石にも話を聞きに行く。できるなら今回の処分を撤回させ、なんとか勇也を部に復帰させたい。田中はそう考えていた。
そんな時、急に前触れもなく停電が起こった。
騒ぎになる一同。田中も不審に思ったが、しばらく待っていれば復旧するだろうと、高をくくった。たしか備え付けの懐中電灯が、ドアの横にあったのを思い出す。最初に確認しておいたのだ。闇に慣れぬ目を瞬きながら、手探りで進んでいた。
しかし、異変は起こった。田中が懐中電灯にたどり着く前に、空気が軋むような圧迫感が部屋に出現した。同時に、この季節にはありえない冷気が部屋に吹き込む。背筋が凍った。
そして突然、床や壁から無数の手が飛び出したのだ。青白い燐光をまとった、薄気味悪い手の群生。それがお互い絡み合う様に蠢いていた。

「うっ、うわあああっ!」
喉の奥から悲鳴が漏れた。恐怖が身体の動きを蝕む。彼方此方から悲鳴が上がる。
手は一斉に行動を開始すると部員達を襲い始めた。葉山に絡みついた。
「は、葉山ぁぁぁぁあ!」
 助けなくては、それだけが頭に浮かんだ。葉山は引きずられて手の群生の中に埋没しようとしていた。
 田中は彼の手を掴もうとした。葉山も手を伸ばす。二人の手が触れ合うとした。その寸前、田中は手に弾き飛ばされた。眼鏡が吹き飛んだ。
「うわぁああああああああ、いやあだ、いや、いやああああ」
一瞬にして葉山は手に囲まれ見えなくなった。部屋を見回す。他の部員達の姿も消えていた。田中一人が残されていた。
ここに至って、ようやく思考が動きだす。逃げなくては。
しかし、田中の目の前には鎌首をもたげた手があった。明らかにこちらを狙っている。手近になにか武器になるようなものはないか探す。上手い具合に練習用の木刀が転がっていた。田中はそれを取る。呼気を落ち着ける。
先程から見た限り、手の動きは常軌を逸したように速い。まともに相手をしては、一瞬でやられてしまうだろう。だから、ここは逃げる。なんとしても逃げ延びてみせる。そして、捕らわれた部員を救う。その為には、体制を立て直さない事にはどうしようもない。
田中は手の後ろの窓から月明かりが入ってきているのを目の端で捕らえた。ここは二階。この下には、たしか庭があった。飛び降りても大して怪我はしないはずだ。田中は窓を脱出地点として決めた。
後は一瞬の隙を突くこと。時間がなかった。手がどんどん集まってくる。
「うおおぉぉぉぉぉお!」
田中は行動を起こした。猛然と手に突っ込んでいく。手はそれを阻むかのように、正面で待ち構えていた。交差する瞬間、手が田中に絡みつこうとする。しかし、見切ってかわす。あらかじめ木刀の位置を下げ、絡みつきやすい位置を特定しておいた。それが功を奏した。スピードを落とさず、窓へ駆け寄る。もう少しだ。
しかし、横合いから手が襲い掛かってきた。反射的に木刀を叩きつける。一瞬、手のスピードが落ちた。それを掻い潜る。冷や汗が背中を伝う。窓までたどり着いた。開けるような悠長な事はしない。突き破るつもりで飛び込んだ。
会心の笑みが浮かぶ。
だが、空中でつかまった。何かに引っ張られるように足に力がはいらない。見れば手に左足を掴まれていた。木刀を叩きつける。かなりの衝撃だった。しかし、手にはほとんど有効ではないようだった。力は弱まるどころか、前にも増して強くなった。何度も何度も半狂乱になって叩きつける。掴まれている個所から、力がどんどん抜けていき、まるで生きる力を吸い取られていくみたいだ。
田中に巻きつく手は増えていった。腕、足、顔。だんだん意識が希薄になる。頭の中を真っ白にした上で、なにかどす黒い別なモノを塗られている気がした。諦めが胸中を支配する。しかし、最後の意地で窓だけは破壊した。誰でもいい、この音に気づいて逃げてくれ。そう願いながら。
ガラスの割れる音。それが、田中が覚えている最後の記憶だった。

プロフィール

ニックネーム
ケイロン
性別
血液型
A型
生年月日
19○○年5月23日
現住所
岡山のどこか
所在地
岡山のどこか
職業
教師っぽいこと
自己紹介
小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。

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