犬島(完結)
8章
「もうっ、しつこい!」
陽子は仙石の追撃を逃れるため、走り続けていた。しかし、一向に距離は開かない。むしろ、じわじわと縮まり始めていた。時折、飛んでくる物理的な攻撃が陽子の走るスピードを鈍らしていたのだ。
『右へ』
声に従い飛ぶ。寸前まで陽子の身体があった位置へ、赤子の頭大の石が突き刺さる。その衝撃で地面が爆ぜ、土砂が陽子を襲う。だがそれは甘んじて受けた。ここでもう一度回避行動を取れば、そこを狙われるからだ。
後ろから奇妙な唸り声が聞こえてくる。それは既に人の声をなしておらず、地の底から響くような気味の悪い声だった。
「まったく、女の子の扱いを知らないんだから!」
陽子の口から悪態がもれる。だが、そのような事を言っても事態に変わりはない。今は足を動かしつづける事が大切だった。
(ねえ!)
声に呼びかける。この奇妙な会話方法にも慣れてきた。むしろ、呼吸を使わない分だけ、走っている最中にはこの方が適しているように思われた。
『――なんでしょう?』
声が答えた。最初の頃のようにノイズがかっているのではなく、明瞭な声だった。その違いを陽子が尋ねると同調してきたのだと声は答えた。
(なんで、先生あんなにしつこいの? あなた達の間に何があったの?)
陽子は根本の疑問がずっと気になっていた。仙石は愛の言葉を口にしていた。なにか二人の間には事情がありそうだった。
『あれは、貴方がたの先生ではありません。奴に取り付かれて、意識を奪われた傀儡です』
(先生が!? ……確かに思い当たる節がありすぎだわ。先生、生真面目だけどやさしい人だもの。いつ頃からって……聞くまでもないわね)
『はい、あの神社に現れた頃にはもう奴になっていました。わたくしも奴に見つかりたくなくて、隠れていたのですが遅かったようです。もう既にご存知でしょうが、わたくしと貴方は会っているのですよ。神社でのあの時に』
(やっぱり、あの綺麗な女の人なんだ)
『お褒めに預かり光栄です。あっ、左へ!』
反射的に陽子は飛ぶ。青白い手が彼女の居た位置を掴んだ。しかし、場所を代え、陽子は走り続ける。
陽子の身体は淡く発光していた。そのおかげなのか身体能力が数段アップしていた。もともと、運動神経には自信のある陽子だが、オリンピック選手顔負けのスピードで、長期間走れるわけがなかった。そして、こんなにも体力が続くわけがなかった。反射神経、状況判断力、筋力。その全ての能力が向上しているからこそ、こうして逃げつづけられるのだ。逆を言えば、そうならなければ逃げる事さえ覚束ないということだ。
(じゃあ、先生の身体を使っている奴と、勇也とあなた、この三人はいったいどういう関係があるの? なんだか奴はあなたを追い回しているし、勇也はあなたを見て、涙を流すし)
『申し訳ないと思っています。わたくし達の問題にあなた方を巻き込んでしまって。わたくし達三人は、この世のものではありません』
(えっ、勇也も!?)
彼の姿を思い浮かべる。どう見ても、彼は生きているようにしか見えなかった。
『いえ、彼は生きています。正確に言うのなら、彼の中にいるあのお方がと言うべきでしょうか。わたくしの伴侶です』
(伴侶って旦那さん?)
『はい、わたくしはあの方の妃にあたる存在です。そして、奴はあの方の昔の友』
(ちょっ、ちょっと待って! それじゃあ、あなた方が不仲になる原因なんてないじゃない。夫婦とその友達。どう考えても平和な組合せじゃない。それとも、昔の人だと違うの?)
『いえ、男女の仲、友愛はいつの世もその大切さという意味では変わりません。ただ、奴はわたくし達を惨殺した上で支配権を奪取し、その力を持って、転生するはずのわたくしの魂を長年犯し続けてきたのですっ! 奴に殺されたこの島で!』
声に初めて怒りの色が混じった。陽子はまるで自分のことのように憤りを感じた。目の前が真っ赤になりそうなほどの怒り。破壊の衝動が込み上げてくる。
『すみません……お恥ずかしいところを……。奴は友であったあのお方を裏切ったのです。わたくしのことを差し置いても許すわけにはまいりません』
(ということは、あなたと勇也の中の人と、奴は敵対関係にあるのね?)
『はい、ですが悔しい事にわたくしの力など奴には到底及びません。あの方なら拮抗することは可能なのですが……』
(拮抗ね……、そもそもあなた方ってどういう存在なの? この島に来てからの信じられないような怪異。それを引き起こせる力っていったいなんなの!?)
『わたくし達は神代の住人です』
「じゃあ、神様ぁ?」
あまりの事に思わず素っ頓狂な言葉が漏れる。陽子の足が僅かに鈍る。
『あ、いけません。集中してください!』
(うん、ごめん。……でも、それってどういう事なの? 神様って)
陽子の頭の中には人を高所より見下ろす、神の姿が浮かんだ。断罪する絶対者。
『わたくし達は今の世で言う、八百万の神に分類されるものなのです』
(それって、日本神話の?)
『はい、あなたの知識ではそうなっていますね。――飛んでください!』
言われたように陽子は跳躍した。そこを手が通り過ぎる。足払いをかけるつもりでいたようだ。背中から感じる圧迫感が強まっていた。先程のことで距離を随分つめられたようだ。焦燥感が湧き上がってくる。
(じゃあ、追って来る奴も、神話の怪物だと言うの!? あの気持ちの悪い手も)
『手は違います。あれはかわいそうな彷徨える霊達。死んで行き場のない霊は海に集まってきます。それを、奴が捕らえ利用しているのです』
(どっちにしても性質が悪いって事には変わりないわ!)
『それについては否定いたしません。霊は干渉されたものの性質に染まります。ですから、奴に生み出されたものは、奴に近しいものを持っているのです』
陽子の鋭敏化した聴覚には足音が大きく成りつつあるのが聞こえてきた。
(追いつかれそうよ! まだ勇也に会えないの!?)
『もう少しです。あの方もこちらに向かっています』
声にも焦りがあった。
(勇也も? なにかあったの!?)
『傀儡に追われています。連れがいるせいか、思うように動けないようです』
(傀儡ってなに? 仙石先生みたいなものなの?)
『厳密には違います。今追ってきている者は、直接奴の力を受けていますが、傀儡とはある一定の命令しかこなせない、できの悪い人形です。ですか、数をそろえる事はできます』
(数って……、どれだけの人が勇也を追っているの!?)
『おそらく、この島の住人のほとんどが』
(……うそっ、じゃあ、勇也は……)
『――危険な状態にあります』
陽子は貧血を起こしたように目の前が暗くなることを感じた。
(でっ、でも、勇也の中にも神様がいるんだよね。あなたが私に貸してくれている力みたいなのがあるんじゃないの!?)
『……残念ながら、わたくしと出会わなければ、あの方も覚醒しません。時折、夢うつつで目覚める事もあるでしょうが、それも一瞬の事。すぐに眠りについてしまうでしょう』
絶望的な言葉。顔から血の気が引いていくのを陽子は感じた。
(なんとかして! 勇也が、勇也が!)
『分かっています。急ぎましょう。一刻も早く! あなたが自力でたどり着かなければなりません』
声はうろたえかけた陽子を叱咤する。彼女が動揺した分だけスピードが落ちていた。追って来る仙石。彼の攻撃は徐々に精度を増していた。
(分かってる! 待っててね、勇也!)
陽子の瞳に強い光が宿った。
「こっちだ!」
「はいっ!」
勇也の怒声が響く。瑞穂は足をもつれさせながらも懸命についていく。
背後には人の群れ。一対一なら、そうそうな相手にも引けをとることがない勇也だが、数の暴力の前には無力だった。わき目も振らず逃げ惑う。
しかし、群集はいくら勇也達が距離を取ろうと、疲れを知らないかのように延々と追いかけ続けてきた。
「右に行くぞ!」
二手に分かれた道に出くわした。スピードを落とさぬまま曲がる。
「はあっ、はあ、先輩っ! 前!」
瑞穂の悲鳴のような声。入った道に人影があった。虚ろな目をした男がこちらへ向かってくる。勇也は持っていた竹刀を振り回した。もんどり打って倒れる男。
(これで、何人目だ……)
次第に疲労が溜まっていくのを勇也は感じていた。それは瑞穂も同じようで、先程から足をもつれさせる回数が増えている。遠からず限界がくる。それは、絶望的な事実として、二人の間に浸透しつつあった。
「……先輩、少し、まってっ……」
瑞穂が遅れていた。勇也は立ち止まる。瑞穂は息を弾ませながら、なんとか追いつく。
「大丈夫か!?」
時間の余裕はなかった。しかし、今の状態で瑞穂に倒れられては終わりだった。手から逃れた時に湧き上がってきた力。あれが切実に欲しかった。しかし、勇也の身体には何の変化もない。ただ重苦しい疲労感が蓄積していくだけだった。
「行けます!」
瑞穂は気丈にも頷く。ただ、その足は震えていて、今にも倒れそうだった。
再び二人は走り出す。
「あっ!?」
瑞穂が蹴躓いてこけた。慌てて勇也は駆け寄った。膝は擦り切れ、その滑らかな足に傷ができていた。
「走れそうか?」
迫ってくる群衆を感じながらも、勇也は瑞穂を介抱する。
「……へいきです」
無理をしているのは明白だった。立ち上がろうとするだけで、痛みに顔をしかめている。
「瑞穂、乗れ!」
勇也は背中を向けて屈み込んだ。今まで身を守ってくれた竹刀を捨てた。
「……でも」
瑞穂は躊躇った。ここで彼女が乗る事で、勇也まで危険に近づける事が分かっているようだった。
「いいから、乗れ!」
「はっ、はい!」
予断を許さない真剣な声。それに、瑞穂は説得される。
瑞穂の柔らかい重みが勇也の背中にかかった。しかし、普段ならどうってことない重さも、疲労の極みにある現状では勇也の足に多大な負担となって襲い掛かった。
「……行くぞ!」
立ち上がって駆け出す。走る速さは随分落ちていたが、それでも瑞穂が走るよりはマシだった。
無言の群集。追って来る足音だけが次第に大きくなっていく。それは有形無形の恐怖となって、二人を拘束していく。
「……せんぱい」
瑞穂が肩越しに呟く。
「はあっ、はぁ……なんだっ?」
心臓が破裂しそうだった。血液を送り込むポンプが過負荷に悲鳴を上げている。鍛え上げた手足はまだ言う事を聞くが、心肺能力に限界が見え初めてきた。
「……わたし達、ダメかもしれないですね」
それは、静かな声だった。なにかを悟ったように、何かを諦めたように。
「まだだ! まだ、俺は諦めない!」
疲れがなんだ。身体が動かない事がどうだというのだ。諦めが人を殺す。諦めた時、お終いなんだ。指一本動かなくなるその時まで足掻きつづけてやる。
「……はい、でも最後になるかもしれません。だから、言いたい事があるんです」
すぐ背後に感じる群集の気配。勇也にも分かっていた。だが、分かっていたが諦めるわけにはいかなかった。勇也が諦めることは即瑞穂の危険にも繋がるのだ。それだけは避けたかった。
二人分の体重が乗った足は鉛を詰めたように重かった。あれほど機敏に動いた体も、もう見る影もないほど鈍くなっている。
「終わらない! 終わってたまるか!」
瑞穂が背中でしゃくりあげているのがわかる。涙は背中を濡らし、彼女はより強い力で抱きついてくる。
「先輩……わたし、先輩の事が好きです。。強くて優しい先輩が」
瑞穂の突然の告白。決意を込めた声。
「ずっと好きでした。だから、先輩と合宿に来れたことは嬉しかったし、海に遊びに行く事は楽しみにしていました。先輩が部を辞めさせられると聞いたときは、心臓が止まるかと思いました。だけど、その後で、海に遊びに行く約束ができたのは嬉しかったです」
熱に浮かされたような声。瑞穂の声は震えていたけれど、気持ちを伝えようとする意思は伝わっていた。
「……なんか、変な状況での告白ですけど、わたし本気なんです。ほんとはもう少ししてから、言うつもりだったんですけど、なんか……時間もないですし」
瑞穂の声は勇也の返事を求めていた。自分は瑞穂のことをどう思っているのだろうか、勇也は周りの状況を忘れて、自問する。好意というものを確かに持っている。でも、それは、本当に男女間のものなんだろうか。可愛い後輩に対する親愛ではないだろうか。
ふと、陽子の事が頭に浮かんだ。
(あいつ、大丈夫かな……)
自分達がこれだけの目にあってるんだ。どこも、似たりよったりだろう。いつも馬鹿できる一番親しい女友達。もしかしたら、好意を持っていたかもしれない相手。
「先輩!」
瑞穂の悲鳴。反射的に首を竦める。頭の上を何かが通り過ぎた。僅かに振り向く。群集が迫ってきていた。
「くそっ!」
疲れた身体に鞭打ってスピードを上げようとする。しかし、悲しいくらい反応しない。
「……先輩、わたし、最後に先輩といられて良かったです」
泣き声混じりの声。
そして、遂に時は来た
勇也の肩に熱い衝撃が走った。宙を浮く身体。地面を転がる。反動で瑞穂の身体が離れた。
「きゃぁあああああああああ」
彼女の悲鳴。同時に勇也に覆い被さってくる人々の群れ。すぐに重みで動けなくなる。
「あああああぁぁぁ……」
瑞穂の声は徐々に小さくなっていく。
「ぐっ……」
人のことにかまっている余裕などなかった。腹に熱い衝撃が走った。吐き気が込み上げそうな痛み。目の前が真っ暗になり、意識が混濁する。
(……俺は守れないのか……また)
何故かそう思った。
それぞれ得物を持ち、振りかぶっている人々。それを憎悪を込めて睨みつける。だが、それが、精一杯の抵抗だった。情けなさで涙が出た。
(……また奴にやられるのか。そんなことはさせない!)
思考が何者かと重なる。同時に身体の感覚が稀薄になる。
(力を……力をくれ! だれでもいい! まだ終われないんだ!)
『――よかろう』
声が聞こえた。力を持つ存在。
頭の中に急に何者かの意識が入り込んだ。
漲る力。絶対的な無敵感。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
咆哮。群集が吹き飛ぶ。そして、そこに現れたものはおよそ、人と呼べるようなものではなかった。元は勇也だったものは、獣のように唾を垂れ流し、目は金色に輝き、身体は淡く発光していた。
「があああああああ!」
勇也の腕が一閃する。
群集たちが木の葉のように吹き飛ばされていく。
(瑞穂!)
彼女の元へ。
それが、勇也の心の中を占めていた。
固まっていた群集。勇也はそれを吹きとばす。その下から瑞穂が出てきた。
「……せ…ン…ぱい」
瑞穂の虚ろな声。抱き上げる。彼女の確かな重みが勇也にかかる。頬は擦り切れていたが、命に別状はない。だが傷つけた。その事自身に怒りが湧いてくる。
「きぃさぁまらぁぁぁぁ!」
勇也の視線は物理的圧力となって、群集を吹き飛ばした。一人も逃すつもりなどなかった。命までは取るつもりはない。
だが当分は苦しめっ。
操られているとはいえ、己が罪をあがなうがいい。
今の勇也にはこの人々が何者かに操られている事がわかっていた。そして、その操っている奴が大元の敵だと言うことも。そして、そいつが近づいてくる事も。
群集を全部吹き飛ばしてから、勇也は瑞穂に声をかけた。
「大丈夫か……?」
「……えへ…へへ……。わたし大丈夫。せ…んぱいが……守ってくれたから」
瑞穂は涙でぐしょぐしょになった顔を押し付けてくる。勇也は黙って抱きしめ返した。
怖かったのだろう。辛かったのだろう。瑞穂の涙は枯れる事無く溢れ続けた。
「……先輩。 その目……どうしたんですか?」
ようやく顔を上げた瑞穂が勇也の変化を指摘する。
「なにか、なってるか?」
勇也は自分の変化を承知していた。まるで、体の中に小さな太陽が生まれたように、活性化している。力が後から後から溢れ、気を抜くと暴走しそうだった。
「金色に輝いてますよ」
瑞穂は勇也の頬を触った。
「まるで、ライオンみたい。強くて優しい、ライオンさん」
うっとりと潤んだ目で見つめてくる。そして、彼女はおもむろに勇也の唇に口づけをした。
「んっ!」
急な事で目を白黒させる勇也。呆然とした目で瑞穂を見つめる。
「……お礼です。わたしの初めてですよ」
頬を赤らめ、瑞穂は微笑んだ。
「えっと、あの? え? え?」
あまりの事に硬直する勇也。展開についていけない。どうしようかと思ったときまた声が聞こえた。
『――来るぞ』
圧迫感を感じた。その方向へ振り向く。何者かがこちらにやってきていた。感覚が鋭敏化した勇也にはそれが陽子だとわかる。そして、それを追ってきている者も。
「陽子!」
陽子がこちらを見る。浮かない顔をしていた。奴が彼女のすぐ後ろに迫っている。
「瑞穂、そこに隠れているんだ!」
「は、はい。先輩は?」
急に変わった勇也の態度に驚きながら、瑞穂は疑問を口にする。
「陽子の後ろにいる奴。あいつが元凶だ。全てを終わらせてくる!」
勇也はそう言い置くと駆け出した。後ろから瑞穂の声が聞こえてくる。
「先輩! がんばって!」
『次の角を曲がればあの方がいます』
声がそう言った。追ってくる仙石とは、ぎりぎりの攻防が続いていた。だが、陽子はその全てを避けた。満身創痍になろうと、勇也に会えるまで倒れる訳には行かなかった。
そして、角を曲がった。彼の姿が見えた。
(えっ……)
『えっ……』
陽子は唖然とする。声も同時に驚いていた。
彼と瑞穂がキスしていたのだ。すぐに二人の身体は離れたが陽子は唇が触れ合っているのを見てしまった。鋭敏化した視覚が陽子にそれを可能にしていた。
「陽子!」
彼がこちらに気づいた。複雑な気持ちが湧き上がる。
勇也の身体は自分のように淡く発光していた。あの方というのが覚醒したのだろうか。
『駄目です。すぐに眠りにつかれようとしています。あの方の傍に行ってください』
声の指示もいつもより力がなかった。
勇也もこちらに駆け寄ってきていた。
遂に二人は邂逅した。
勇也は、追ってきた人物――仙石に陽子とすれ違いざま殴りかかった。
――ガツっ
それは鈍い音をたてて、仙石をかばおうと出現した手を蹴散らした。仙石の動きが止まる。その間に、陽子が体勢を立て直した。
「大丈夫か、陽子!」
「えっ、ええ……」
どこか陽子の歯切れが悪い。見ると彼女の身体は自分と同じように淡く発光していた。
「どうしたんだ、それ?」
「あ、うん。夕方出合ったの幽霊がわたしの中に入っているの」
「お前の中に? いったいどういう事だよ?」
仙石を睨みつけたまま、勇也は尋ねた。剣道部顧問、仙石智弘はその姿を無残に変えていた。猛禽類のような鋭い目は血走り、濁っていた。そして、口からは涎がだらだら垂れていた。まるで、人という擬態を放棄したみたいだった。
「よく、分からないんだけど、私巫女なんだって」
「巫女ぉ? なんなんだ、それは?」
「知らないわよぉ。キミの方が知ってんじゃないの」
「なんで、俺が!?」
勇也にはさっぱり訳がわからなかったが、陽子は確信しているようだった。
「ぐるるるるるぅぅぅぅぅ!」
既に人の声を為していない唸り声。仙石の呼び声に呼応して、青白い粒子を伴った手が出現する。それは、分離統合を繰り返し、瞬く間に数を増やした。
「無駄話をしている暇はないようだな。陽子、今回の騒動はな、あいつが原因だ。奴を倒すぞ」
勇也は光を纏った右手を振りかざし、仙石に狙いを定めた。
「――待って、勇也!」
陽子の声が聞こえたが、既に攻撃を仕掛けた後だ。衝撃波の攻撃は手をなぎ倒し、仙石へと向かっていく。
――しかし
「掻き消えた!?」
勇也の攻撃は仙石の少し手前で、消失した。
「だから、待っててば。キミの中にいる人を目覚めさせなきゃダメなの! 私の中の声がそう言っているの!」
陽子の言っている意味がわからなかった。
「俺の中に人って……俺は一人だけど?」
「もう、そんな事は分かってるの! キミが何でそんな力使えるか考えなさいよ!」
確かに陽子の疑問はもっともだった。人外の力。それを過不足なく操る自分。だが、今は力の意味を考えるより、その力を振るう時だ。
「よく分からんが、話はあいつを倒した後にしよう!」
気のせいか身体の燐光が弱まってきた気がする。それが、勇也を急かしていた。仙石の下に行こうとする。しかし、陽子が立ちふさがった。
「だから、人の話を聞いてよ!」
「あぶねぇ!」
手の攻撃。反射的に打ち落とす。しかし、今度はこなごなにならなかった。ただ、手は弾き飛ばされただけで、復活する。
「……どういう事だ!? くっ、陽子、そこをどけ!」
光がさらに弱まりつつあった。同時に消えていく力。完全になくなる前になんとかけりをつけたかった。
「……勇也、もうダメよ」
陽子の言葉と同時に完全に光が消失する。それとともに、立っていられないほどの疲労感が込み上げてくる。
「……いったい!?」
「あの方が、また眠りについたのよ。勇也、私の手を握って」
「何でだ……?」
「いいから早く!」
彼女の言葉に押されるようにその手を握る。
その時、勇也の中で何かがざわついた。心の中から何かが乖離していく。彼女の瞳を見た。
その途端、感情が爆発した。
湧き上がってくるのは、愛情。愛しいものを遂に目にした達成感。悲願だったのものが遂にかなえた瞬間。陽子から、光が消失していく。そして、同時に二つの人影が宙に出現した。
一人は女。幻想的なまでに美しい女。
もう一人は男。勇也の夢の中に何度も登場し、幼い頃から彼を苦しめ続けた男。黒衣を纏った偉丈夫だった。
「おまえは!?」
この男には見覚えがありすぎた。繰り返し夢の中に出てきては、勇也の悪夢の元凶になった男。
『おお、会えたぞ! 遂に会えたぞ!』
『――お会いしとうございました』
勇也の言葉など届いていないように空中で人影は抱きあった。二人の表情は安らいでいた。まるで、あるべき場所に帰ったように。
「どういう事だ!?」
少しは事情が分かっていそうな陽子に問い掛ける。悪夢が現実になったとでもいうのか。
「私も分からないだけど、あの男の人がいるでしょ。あの人、勇也の中でずっと眠っていたみたいなの」
「そんな、馬鹿な!」
幼少期の苦労が蘇ってくる。では、自分が苦しんだのは心理学的原因などではなく、あいつのせいだと言うのか。両親を苦しめ、幼い自分を絶望の淵に追いやったのはあいつのせいだというのか。認められない。そんな事を認めてたまるか。
勇也の中に強い怒りが湧き起こってきた。幸せそうに抱き合っている二人がひどく憎くかった。
「やっと、会えたのよ。あの二人、ずっと引き離されていたの。幸せそうね」
陽子の言葉など耳に入ってこなかった。
幸せ? 他人の不幸の上で成り立った幸せか。それはさぞ気持ちのいいものだろう。
勇也の心境など分からない陽子は幸せそうな二人を見ている。その顔には素直な喜びが浮かんでいた。
この場で憎悪に身を焦していたのは勇也と、そして仙石だった。
不意にあれほど獣じみていた仙石が糸が切れた操り人形のように倒れこんだ。そしてピクリとも動かなくなる。すると突然彼の上に男が出現した。今度は白衣の男。その男も前の二人同様、宙を浮いていた。
『ほう、自ら姿を現すとは、卑怯者のお前にしては度胸がいいな』
『だまれ! 渡さぬぞ! お前には渡さぬ!』
中空で二人の偉丈夫が対峙する。
戦闘が始まった。
男達が腕を一閃するたびに、炎や雷が生まれ相手を打ち据える。そうかと思えば地面が隆起し、土の槍となって相手に襲い掛かる。
「くっ、周りは関係ないってことかよ!」
あたりは天変地異の様相を呈してきた。地面はえぐれ、大気は震えていた。
不意に対象をそれた炎の攻撃が勇也の方へ飛んできた。完全に虚をつかれ硬直する。炎が目の前に迫った。
視界が急にぶれる。何者かが覆い被さっていた。
「……大丈夫?」
陽子だった。彼女は身を呈して勇也をかばっていた。
「ああ……」
炎が激突した場所を見て、絶句する。地面が焼け焦げ、衝撃で小さなクレーターを形成していた。
「……ここにいるのは危ないな。陽子、あっちに避難しよう! 瑞穂もそこに隠れている!」
「……うん」
勇也達は瑞穂の所に戻ろうとした。しかし、その場所から当の本人が向かってくるではないか。
「馬鹿っ! なんで来たんだ!?」
「だって、先輩!」
瑞穂が指をさす。その方向を見ると、先程、勇也が倒したはずの群集が起き上がっているのではないか。
「……嘘だろ、倒したはずなのに」
絶望的な状況だった。前にも後ろにも逃げ場などない。前門の虎、後門の狼とはこのことだ。勇也にはもうあの力がないため、突破する事も難しい。
「勇也、どうする?」
「先輩、どうしましょう?」
陽子と瑞穂、二人の声が重なった。一瞬、彼女らの視線が重なりあう。
「どうしょうもないな。幸い、群集もその場から動かないし、少々危険だが、この場所にいるしかない」
確かにこの場所にいる分には、危険な事には変わりはないが、どちらかに行くよりはましだった。
そうこうする内に空での戦闘は激しさを増していた。勇也の中にいた黒衣の男が剣を生み出し振り回した。それは空気を切り裂き、衝撃波として、白衣の男に襲い掛かる。紙一重でかわした白衣の男だったがその頬を大きく切り裂かれていた。
女も黒衣の男に加勢していた。二対一ではどうにも分が悪いらしく徐々に形勢が傾いていく。
『どうした? その程度なのか。やはり、不意をつかないと戦いもできない卑怯者は弱いな!』
『黙れ、だまれ、 だまれぇぇぇぇ!』
黒衣の男のあざける声に激怒した男は地面から手を出現させ、二人を襲おうとする。
しかし、黒衣の男が一瞥するだけで手は消し飛んだ。それを見た男は更なる攻撃を仕掛ける。氷柱を生み出し投げつける。
『弱い、弱いな! その程度なのか?』
黒衣の男はまるで舞うが如く華麗にかわしていく。その隙に女は攻撃を仕掛ける。白衣の男は避ける。そして黒衣の男に攻撃。
勇也は戦いを見ていて気づいた事があった。白衣の男は決して、女に決して攻撃しようとはしなかった。このような状況になっても、攻撃できない男の心理とはいったいなんなのだろうか。
「勇也、愛情って辛いよね……」
陽子がぽつりと呟いた。
「あの男の人、どうしても、許せない事みんなにやったけれど、それでも愛する人を傷つける事ができない。なんで、女の人を愛するように他の人も愛せないのかなぁ……」
目の前の光景をまるで痛々しいものでも見るかのごとく、顔をしかめていた。
「ほんとにそうですね……」
瑞穂も頷く。
そして、遂に最後の時が来た。黒衣の男が手にした剣が白衣の男を貫いたのだ。
『ぐわぁぁぁぁぁぁああああああ!』
聞いた者の魂を凍らせる絶叫。それを長く、響かせて男の身体は青い粒子となって空を舞った。後には、剣を手にしたままの男と美しい女だけが宙に残された。
『……終わりましたね』
『うむ、終わった』
二人は宙でお互いの身体を抱擁しあった。
『それでは……行きましょうか』
『うむ』
抱き合ったまま二人は天に昇っていく。
「待てよ! どこ行くんだよ」
勇也としては引き止められずにはいられなかった。今まで散々苦しめられたのだ。謝罪の一つでも受けなければ気が済みそうになかった。
『天へ行く』
「天だと?」
『わたくし達はすでに生あるものではありません。だからこそ、他の仲間がいるところにいき、そこで暮らしたいと思っています』
会話をしている間も、どんどん天に昇っていく。
「あんた、なんで俺の中に入ってた。なんで、俺を苦しめたんだよ!」
問わずにはいられない質問だった。黒衣の男はニヤリと勇也に笑いかけた。
『それはな、お前がワシだからよ』
「どういう意味だ」
『文字通りワシの転生体という意味よ。その魂の強さ、輝き、何をとっても常人とは違う。ワシはお前の中に眠っていた記憶と力を抽出した存在に過ぎん。だから、ワシが苦しめたのではなく、お前が自分自身の記憶に苦しんだだけなのよ』
黒衣の男は真摯な瞳を勇也に向けた。そして、女をより強く抱きしめた。
『こいつを失った時の絶望は、今思い出しても黄泉の国に落ちたようじゃったわい。それ故、深く魂に刻み付けられ、転生しても記憶が生き続けてしまったのじゃよ』
男は女の髪の毛を愛しげに撫でた。女はそれに身を任せ、うっとりと目を閉じた。
『もう、お前は悪夢を見ることもないだろう。そして、夢で苦しむ事もなくなるだろう。全てが終わったのだから。では、さらばだ!』
男はそう締めくくると天に昇っていった。その姿はすぐに見えなくなり、雲の間に消えていった。
「…………勝手な奴」
二人の姿が消え行くまで勇也は二人の姿を見送った。知らず頬を涙が伝った。後から、後から涙が込み上げてきて、嗚咽が止まらない。悲しくはない。だか半身を失ったような物寂しさがあった。
誰かの手が頬の涙を拭った。その人物を見る。
「……陽子」
「……大丈夫?」
彼女は心配そうな顔をして立っていた。
「……ああ、なんで俺…泣いてんだろ……」
どう考えても泣くような状況ではなった。むしろ、自分を苦しめていた奴がいなくなって清清していいはずだ。それなのに、相変わらず頬を伝う涙は流れたままだし、喉が引きつる嗚咽は止まらない。
「……大丈夫、大丈夫だから、俺は」
不意に陽子に抱きしめられた。
「無理、しないで……」
柔らかい感触がした。彼女に包まれていると心が落ち着いていくのがわかった。陽子の手が頭を撫でていた。
急に照れくさくなった。頭を上げる。
「あっ……」
「……もう、いい。なんか照れくさい」
陽子は残念そうな顔をしたが、その後、微笑んだ。
「いいのかなぁ、私に抱きしめられる機会なんてそうそうないぞ」
「はいはい、それは惜しい事をしましたねぇ」
いつも通りの会話。日常の会話。そんな事がひどく嬉しい。陽子に微笑みかける。彼女も微笑んだ。
しかし――
「ひっ、先輩!」
瑞穂の金きり声が勇也の耳朶をうった。声の方を見る。瑞穂が呆然と立ち尽くしていた。
「何事だ!」
彼女の傍に駆け寄る。
「あっ、あれ!」
瑞穂が指し示す方を見た。そこには倒れこんだ群衆がいた。呪縛が解けたのだろう。
「どうしたんだ、いったい?」
勇也の言葉が終わらない内に、倒れている人々に変化が訪れた。口から青白い光が漏れ出たのだ。それはお互いに重なりあい、集まりあい、次第に一つのものに構成されていった。
――手
今までの大きさの比ではない。まさに大樹と呼ぶのに相応しいほどであった。薄気味悪く発光し、確たる存在として、そこにあった。
喉がからからに渇いていった。冗談ではなかった。全ては終わったのではなかったのか。恐怖が背中を駆け上がる。
「……勇也」
「……先輩」
陽子と瑞穂の呆然とした声。自分だって同じ気持ちだった。なんでこいつが出てくるんだ。あいつら天に帰るんならゴミの始末ぐらいして帰れよ。
手が大きく伸び上がる。攻撃態勢に入った。
「走れ!」
勇也達は走り出した。地響きをたてて、手は追ってきた。
「なんでこっちばかり来るのよぉ!」
瑞穂の言葉どおり手は必要に追ってきた。まるで勇也達しか目に入らないようにその後を追いすがる。途中、操られていただろう人々が転がっていたが、そちらには目もくれなかった。
「わからん! とにかく走れ! 俺達の方が足は速い!」
手はその巨体のせいか移動スピードが遅い。追いかけっこになら分があった。しかし、それは事を手も分かっているようで、射程内の内に仕留めようと苛烈な攻撃を加えてくる。
「ちっ!」
大きく勇也は跳び退った。大樹のような手が勇也を絡み取ろうとする。いつのまにか彼の真上に来ていたのだ。
「大丈夫ですか!?」
「ああ気にすんな、走れ!」
少し足を捻ったが問題ない。
勇也達はスピードを落とさず走る。
(なにかおかしい?)
勇也は逃げながら、ある事に気づいた。
(……こいつ、俺だけを狙っていないか?)
そう、先程から勇也一人しか攻撃されていない。まれに他の二人にも攻撃がされる事もあったが、それは勇也がかわした後のものが向かっていただけだ。
そして、また手が絡みつこうとしてくる。今度も勇也だ。横に転がってかわす。ここに至って確信した。
「次で分かれるぞ!」
前方に交差点があった。
「どういう事?」
息を弾ませながら陽子が問い掛けてくる。
「目標を分散させるんだ。たぶん手は一瞬躊躇するだろう。その間に距離を稼いで逃げ切るんだ!」
「でっ、でも!」
瑞穂が不安そうな顔をする。
「でも、じゃない! やるんだ! 陽子と瑞穂は右。俺は左だ!」
「わかった!」
陽子が頷く。
「いくぞ!」
三人は交差点に飛び込んだ。
しかし――
「どうしてこっちに来るんだ!?」
勇也の悲鳴のような声が夜空に鳴り響いた。
「だって、勇也、囮になるつもりだもん」
「先輩と一緒がいいです」
彼女らの目は真剣だった。
「何考えてんだよ。手はおそらく俺を狙ってるんだぞ! お前ら逃げきれたのに」
「そっちこそ何考えてんのよ! 私は勇也を犠牲にしてまで助かろうとは思わない!」
「そうですよ!」
陽子や瑞穂の瞳に怒気が含まれているを見て、思わず蹴落とされる。
「いや、俺はその方が可能性が高いと……」
「可能性? 可能性なんて関係ないわ! 未来は計算なんかで計れないでしょ。助かるんなら皆で助からないと」
「そうです。わたし、まだ告白の返事聞かせてもらってないですからね」
瑞穂が片目を瞑る。
「まったく……お前らは」
「そういうことなの」
「えへへ」
心が暖かくなっていくのを感じながら、勇也は駆け続ける。
しかし、勇也達と手の間は無情にも徐々に縮まっていった。
スピードなら勇也達の方が速い。しかし、勇也達には有って、手には無いものがその差を無効にしていた。
それは疲労。
人間はどうやっても長期間全力運動に耐えられるようにできてはいない。なおかつ、勇也や瑞穂は既に群集から逃げていた時にかなりの距離を走破しているのだ。一日の体力にも限界があった。
「はぁ……はあっ、まったくしつこい!」
憎まれ口にも力が湧いてこない。膝がガクガクと揺れていたがそれでも止まるわけにはいかなかった。
手はその間、スピードを少しも落とさない。一旦は射程の範囲外に逃れていた距離もあっという間に詰められていた。
手が勇也を襲う。転がって避ける。しかし、先程捻った足が痛みを訴え反応が遅れる。手の攻撃がかすった。足が嫌な音をたてた。
「くぅっぅぅぅ!」
あまりの痛みに悶絶する。だが、すぐに立たなければならなかった。地面に足をつこうとする。しかし、激痛が走った。あまりの痛みに意識が飛びかける。足のどこかを決定的に痛めたのかもしれない。
ここに至って勇也の足は完全に止まってしまった。手と対峙する。すさまじい威圧感。自分がなにかとんでもなく勘違いをしているような気になった。どうして、こんなものから逃げられると思ったのか。
手も止まった。獲物の足が止まったのを見て、確実に仕留めるつもりなのだろうか。
「勇也ぁ!」
「先輩ぃ!」
陽子と瑞穂が勇也の身体を引きずろうとする。しかし、疲労困憊した体だ。いくらも行かない内に、その動きが止まってしまう。
「……俺のことはいいから行け」
二人まで巻き添えにするわけにはいかなかった。
「何いってんのよ! 諦めちゃダメ!」
「先輩、がんばって!」
しかし、彼女達は頑固にも退こうとはしない。
手が動いた。大きく伸び上がり、勇也達の頭上に迫った。二人はそれでも、勇也を引きずる事を諦めない。
(ちっちくしょぉぉぉぉぉ!)
目を見開いて迫り来る手を睨みつけた。
しかし――
『――――――――っ』
声にならない悲鳴が聞こえた。
勇也達と手が触れ合おうとした刹那、光が走ったのだ。
それは刃物の煌めき。
手の先端が青い粒子となって、空に帰っていく。
そして、同時に古ぼけた剣を片手に持つ、見慣れた人の後ろ姿が見えた。
「どうした、勇也。くたばるにはまだ早いぜ」
聞きなれた声が耳朶を打つ。その人――橋本は振り返りにやっと笑った。
「橋本先輩!」
「話は後だ!」
橋本は古ぼけた剣を正眼に構え突っ込んでいく。そして、手が自分の射程に入るやいなや、当たるを幸いに切りまくる。もちろん手だって切られてばかりではない。反撃をしようと彼に絡み付こうとする。しかし、その動きも橋本は見切っていた。ぎりぎりまで引きつけて、一瞬で切り倒す。
(すごい……!)
橋本はまるで踊るように剣を振るっていた。ひらりひらりと手の動きをかわし、鋭い斬撃で斬り飛ばす。すさまじい。その一言に尽きた。
先端を失った手はその姿をどんどん小さなものに変えていった。大樹くらいだった大きさもいまや、最初に手を見た時の大きさでしかない。しかし、橋本は一切容赦はしない。どんどん小さくなっていく手を切り裂いていく。
その時、手が急に攻撃する事を止めて、一つのところに集中し始めた。まるで蛇のようにお互いがからまりあると、あるものを形成していた。
――それは顔
中空に巨大な顔が出現した。
『その身体をよこせ!』
顔は言った。その顔は、仙石から出てきた白衣の男にひどく似ていた。しかし、より獣性が前面に押し出され、あの男にあった倣岸さや気品というものが無かった。
「なんで、俺の体なんかが欲しいんだよ!?」
勇也は心底疑問に思った。様子を見ようと思ったのだろうか、橋本の攻撃が止まる。
『このままでは意識がなくなってしまう。そうなるとこの私が死ぬのだよ! この神の私が! さあ寄越せ! 寄越すのだ! どうせあの男の残りかす。私が使ってもいいだろう! 神に使われることを光栄に思うがいい!』
傲慢なまでの顔の主張。朦朧とする意識の中、あまりのことに呆気にとられた勇也だったが、次第に怒りが込み上げてきた。口を開こうとしたその時、
「ふざけないで!」
陽子の怒声が響き渡った。
「この人が残りかす!? 馬鹿言わないでよ。私の大事な人はそんなものなんかじゃない。勇也の中に神が居なくなった事ぐらいがいったいなんだって言うのよ。彼の価値は少しも損なわれてなんかいない。むしろ身体を失って見苦しくもがいているあなたの方が残りかすだわ!」
あまりの剣幕に文句を言おうとした勇也自身が、言葉を飲み込んでしまう。それにしても自分が陽子の大事な人。どういう意味なのだろうか。
『……神を愚弄したな』
顔から殺気が漂う。だが――
「その通り!」
橋本が再び斬りかかった。
『ぐあああああぁぁぁぁあ!』
何度も何度も目にも止まらぬ速さで斬りつける。顔はその度に胸糞が悪くなる悲鳴を上げ、青い粒子を巻き上げながら小さくなっていく。
『わ…私を殺すと言うのか。この神を……。人の分際で殺すというのか!? お前らなど、所詮我らの糧に過ぎない存在なのに』
橋本は無表情になった。勇也が一度だけ見たことある、彼が真に怒った時の表情だった。普段が表情がくるくる変わる、愛想の良すぎる男のため、その違いは、明白だった。
橋本は剣を振りかぶると容赦なく顔に切りつけた。
『ぬあぁぁぁぁ!』
顔は苦悶の表情を浮かべる。しかし、橋本はかまわず切り続ける。
『止めよ……やめよ……』
橋本の剣が煌めくたびに顔は小さくなっていく。
『神を……恐れぬのか……』
遂には小動物並みの大きさになった顔が苦しげにうめいた。
「うるせえ! おめえが神様なら俺は橋本様だ! 人間をなめんじゃねえっ!」
両手を高々と振りかぶり、真っ二つに神を切り裂いた。
『――――――――っ』
その途端、青い光が視界を覆った。神の顔が有った所から舞うように大量に天に昇っていく。まるで、その一つ一つが解放されたこと喜んでいるようだった。
「きれー」
瑞穂の声がした。夜空に青い橋がかかっていた。きらきらと輝く天の橋。ひどく幻想的で、美しかった。
「勇也っ!?」
「先輩っ!?」
視界が急激に暗くなっていく。どうやら頑張りすぎたようだ。でもいいよな。全部終わったんだし。
遠ざかる意識の中、何か柔らかいものに受け止められるのを感じた。
陽子は仙石の追撃を逃れるため、走り続けていた。しかし、一向に距離は開かない。むしろ、じわじわと縮まり始めていた。時折、飛んでくる物理的な攻撃が陽子の走るスピードを鈍らしていたのだ。
『右へ』
声に従い飛ぶ。寸前まで陽子の身体があった位置へ、赤子の頭大の石が突き刺さる。その衝撃で地面が爆ぜ、土砂が陽子を襲う。だがそれは甘んじて受けた。ここでもう一度回避行動を取れば、そこを狙われるからだ。
後ろから奇妙な唸り声が聞こえてくる。それは既に人の声をなしておらず、地の底から響くような気味の悪い声だった。
「まったく、女の子の扱いを知らないんだから!」
陽子の口から悪態がもれる。だが、そのような事を言っても事態に変わりはない。今は足を動かしつづける事が大切だった。
(ねえ!)
声に呼びかける。この奇妙な会話方法にも慣れてきた。むしろ、呼吸を使わない分だけ、走っている最中にはこの方が適しているように思われた。
『――なんでしょう?』
声が答えた。最初の頃のようにノイズがかっているのではなく、明瞭な声だった。その違いを陽子が尋ねると同調してきたのだと声は答えた。
(なんで、先生あんなにしつこいの? あなた達の間に何があったの?)
陽子は根本の疑問がずっと気になっていた。仙石は愛の言葉を口にしていた。なにか二人の間には事情がありそうだった。
『あれは、貴方がたの先生ではありません。奴に取り付かれて、意識を奪われた傀儡です』
(先生が!? ……確かに思い当たる節がありすぎだわ。先生、生真面目だけどやさしい人だもの。いつ頃からって……聞くまでもないわね)
『はい、あの神社に現れた頃にはもう奴になっていました。わたくしも奴に見つかりたくなくて、隠れていたのですが遅かったようです。もう既にご存知でしょうが、わたくしと貴方は会っているのですよ。神社でのあの時に』
(やっぱり、あの綺麗な女の人なんだ)
『お褒めに預かり光栄です。あっ、左へ!』
反射的に陽子は飛ぶ。青白い手が彼女の居た位置を掴んだ。しかし、場所を代え、陽子は走り続ける。
陽子の身体は淡く発光していた。そのおかげなのか身体能力が数段アップしていた。もともと、運動神経には自信のある陽子だが、オリンピック選手顔負けのスピードで、長期間走れるわけがなかった。そして、こんなにも体力が続くわけがなかった。反射神経、状況判断力、筋力。その全ての能力が向上しているからこそ、こうして逃げつづけられるのだ。逆を言えば、そうならなければ逃げる事さえ覚束ないということだ。
(じゃあ、先生の身体を使っている奴と、勇也とあなた、この三人はいったいどういう関係があるの? なんだか奴はあなたを追い回しているし、勇也はあなたを見て、涙を流すし)
『申し訳ないと思っています。わたくし達の問題にあなた方を巻き込んでしまって。わたくし達三人は、この世のものではありません』
(えっ、勇也も!?)
彼の姿を思い浮かべる。どう見ても、彼は生きているようにしか見えなかった。
『いえ、彼は生きています。正確に言うのなら、彼の中にいるあのお方がと言うべきでしょうか。わたくしの伴侶です』
(伴侶って旦那さん?)
『はい、わたくしはあの方の妃にあたる存在です。そして、奴はあの方の昔の友』
(ちょっ、ちょっと待って! それじゃあ、あなた方が不仲になる原因なんてないじゃない。夫婦とその友達。どう考えても平和な組合せじゃない。それとも、昔の人だと違うの?)
『いえ、男女の仲、友愛はいつの世もその大切さという意味では変わりません。ただ、奴はわたくし達を惨殺した上で支配権を奪取し、その力を持って、転生するはずのわたくしの魂を長年犯し続けてきたのですっ! 奴に殺されたこの島で!』
声に初めて怒りの色が混じった。陽子はまるで自分のことのように憤りを感じた。目の前が真っ赤になりそうなほどの怒り。破壊の衝動が込み上げてくる。
『すみません……お恥ずかしいところを……。奴は友であったあのお方を裏切ったのです。わたくしのことを差し置いても許すわけにはまいりません』
(ということは、あなたと勇也の中の人と、奴は敵対関係にあるのね?)
『はい、ですが悔しい事にわたくしの力など奴には到底及びません。あの方なら拮抗することは可能なのですが……』
(拮抗ね……、そもそもあなた方ってどういう存在なの? この島に来てからの信じられないような怪異。それを引き起こせる力っていったいなんなの!?)
『わたくし達は神代の住人です』
「じゃあ、神様ぁ?」
あまりの事に思わず素っ頓狂な言葉が漏れる。陽子の足が僅かに鈍る。
『あ、いけません。集中してください!』
(うん、ごめん。……でも、それってどういう事なの? 神様って)
陽子の頭の中には人を高所より見下ろす、神の姿が浮かんだ。断罪する絶対者。
『わたくし達は今の世で言う、八百万の神に分類されるものなのです』
(それって、日本神話の?)
『はい、あなたの知識ではそうなっていますね。――飛んでください!』
言われたように陽子は跳躍した。そこを手が通り過ぎる。足払いをかけるつもりでいたようだ。背中から感じる圧迫感が強まっていた。先程のことで距離を随分つめられたようだ。焦燥感が湧き上がってくる。
(じゃあ、追って来る奴も、神話の怪物だと言うの!? あの気持ちの悪い手も)
『手は違います。あれはかわいそうな彷徨える霊達。死んで行き場のない霊は海に集まってきます。それを、奴が捕らえ利用しているのです』
(どっちにしても性質が悪いって事には変わりないわ!)
『それについては否定いたしません。霊は干渉されたものの性質に染まります。ですから、奴に生み出されたものは、奴に近しいものを持っているのです』
陽子の鋭敏化した聴覚には足音が大きく成りつつあるのが聞こえてきた。
(追いつかれそうよ! まだ勇也に会えないの!?)
『もう少しです。あの方もこちらに向かっています』
声にも焦りがあった。
(勇也も? なにかあったの!?)
『傀儡に追われています。連れがいるせいか、思うように動けないようです』
(傀儡ってなに? 仙石先生みたいなものなの?)
『厳密には違います。今追ってきている者は、直接奴の力を受けていますが、傀儡とはある一定の命令しかこなせない、できの悪い人形です。ですか、数をそろえる事はできます』
(数って……、どれだけの人が勇也を追っているの!?)
『おそらく、この島の住人のほとんどが』
(……うそっ、じゃあ、勇也は……)
『――危険な状態にあります』
陽子は貧血を起こしたように目の前が暗くなることを感じた。
(でっ、でも、勇也の中にも神様がいるんだよね。あなたが私に貸してくれている力みたいなのがあるんじゃないの!?)
『……残念ながら、わたくしと出会わなければ、あの方も覚醒しません。時折、夢うつつで目覚める事もあるでしょうが、それも一瞬の事。すぐに眠りについてしまうでしょう』
絶望的な言葉。顔から血の気が引いていくのを陽子は感じた。
(なんとかして! 勇也が、勇也が!)
『分かっています。急ぎましょう。一刻も早く! あなたが自力でたどり着かなければなりません』
声はうろたえかけた陽子を叱咤する。彼女が動揺した分だけスピードが落ちていた。追って来る仙石。彼の攻撃は徐々に精度を増していた。
(分かってる! 待っててね、勇也!)
陽子の瞳に強い光が宿った。
「こっちだ!」
「はいっ!」
勇也の怒声が響く。瑞穂は足をもつれさせながらも懸命についていく。
背後には人の群れ。一対一なら、そうそうな相手にも引けをとることがない勇也だが、数の暴力の前には無力だった。わき目も振らず逃げ惑う。
しかし、群集はいくら勇也達が距離を取ろうと、疲れを知らないかのように延々と追いかけ続けてきた。
「右に行くぞ!」
二手に分かれた道に出くわした。スピードを落とさぬまま曲がる。
「はあっ、はあ、先輩っ! 前!」
瑞穂の悲鳴のような声。入った道に人影があった。虚ろな目をした男がこちらへ向かってくる。勇也は持っていた竹刀を振り回した。もんどり打って倒れる男。
(これで、何人目だ……)
次第に疲労が溜まっていくのを勇也は感じていた。それは瑞穂も同じようで、先程から足をもつれさせる回数が増えている。遠からず限界がくる。それは、絶望的な事実として、二人の間に浸透しつつあった。
「……先輩、少し、まってっ……」
瑞穂が遅れていた。勇也は立ち止まる。瑞穂は息を弾ませながら、なんとか追いつく。
「大丈夫か!?」
時間の余裕はなかった。しかし、今の状態で瑞穂に倒れられては終わりだった。手から逃れた時に湧き上がってきた力。あれが切実に欲しかった。しかし、勇也の身体には何の変化もない。ただ重苦しい疲労感が蓄積していくだけだった。
「行けます!」
瑞穂は気丈にも頷く。ただ、その足は震えていて、今にも倒れそうだった。
再び二人は走り出す。
「あっ!?」
瑞穂が蹴躓いてこけた。慌てて勇也は駆け寄った。膝は擦り切れ、その滑らかな足に傷ができていた。
「走れそうか?」
迫ってくる群衆を感じながらも、勇也は瑞穂を介抱する。
「……へいきです」
無理をしているのは明白だった。立ち上がろうとするだけで、痛みに顔をしかめている。
「瑞穂、乗れ!」
勇也は背中を向けて屈み込んだ。今まで身を守ってくれた竹刀を捨てた。
「……でも」
瑞穂は躊躇った。ここで彼女が乗る事で、勇也まで危険に近づける事が分かっているようだった。
「いいから、乗れ!」
「はっ、はい!」
予断を許さない真剣な声。それに、瑞穂は説得される。
瑞穂の柔らかい重みが勇也の背中にかかった。しかし、普段ならどうってことない重さも、疲労の極みにある現状では勇也の足に多大な負担となって襲い掛かった。
「……行くぞ!」
立ち上がって駆け出す。走る速さは随分落ちていたが、それでも瑞穂が走るよりはマシだった。
無言の群集。追って来る足音だけが次第に大きくなっていく。それは有形無形の恐怖となって、二人を拘束していく。
「……せんぱい」
瑞穂が肩越しに呟く。
「はあっ、はぁ……なんだっ?」
心臓が破裂しそうだった。血液を送り込むポンプが過負荷に悲鳴を上げている。鍛え上げた手足はまだ言う事を聞くが、心肺能力に限界が見え初めてきた。
「……わたし達、ダメかもしれないですね」
それは、静かな声だった。なにかを悟ったように、何かを諦めたように。
「まだだ! まだ、俺は諦めない!」
疲れがなんだ。身体が動かない事がどうだというのだ。諦めが人を殺す。諦めた時、お終いなんだ。指一本動かなくなるその時まで足掻きつづけてやる。
「……はい、でも最後になるかもしれません。だから、言いたい事があるんです」
すぐ背後に感じる群集の気配。勇也にも分かっていた。だが、分かっていたが諦めるわけにはいかなかった。勇也が諦めることは即瑞穂の危険にも繋がるのだ。それだけは避けたかった。
二人分の体重が乗った足は鉛を詰めたように重かった。あれほど機敏に動いた体も、もう見る影もないほど鈍くなっている。
「終わらない! 終わってたまるか!」
瑞穂が背中でしゃくりあげているのがわかる。涙は背中を濡らし、彼女はより強い力で抱きついてくる。
「先輩……わたし、先輩の事が好きです。。強くて優しい先輩が」
瑞穂の突然の告白。決意を込めた声。
「ずっと好きでした。だから、先輩と合宿に来れたことは嬉しかったし、海に遊びに行く事は楽しみにしていました。先輩が部を辞めさせられると聞いたときは、心臓が止まるかと思いました。だけど、その後で、海に遊びに行く約束ができたのは嬉しかったです」
熱に浮かされたような声。瑞穂の声は震えていたけれど、気持ちを伝えようとする意思は伝わっていた。
「……なんか、変な状況での告白ですけど、わたし本気なんです。ほんとはもう少ししてから、言うつもりだったんですけど、なんか……時間もないですし」
瑞穂の声は勇也の返事を求めていた。自分は瑞穂のことをどう思っているのだろうか、勇也は周りの状況を忘れて、自問する。好意というものを確かに持っている。でも、それは、本当に男女間のものなんだろうか。可愛い後輩に対する親愛ではないだろうか。
ふと、陽子の事が頭に浮かんだ。
(あいつ、大丈夫かな……)
自分達がこれだけの目にあってるんだ。どこも、似たりよったりだろう。いつも馬鹿できる一番親しい女友達。もしかしたら、好意を持っていたかもしれない相手。
「先輩!」
瑞穂の悲鳴。反射的に首を竦める。頭の上を何かが通り過ぎた。僅かに振り向く。群集が迫ってきていた。
「くそっ!」
疲れた身体に鞭打ってスピードを上げようとする。しかし、悲しいくらい反応しない。
「……先輩、わたし、最後に先輩といられて良かったです」
泣き声混じりの声。
そして、遂に時は来た
勇也の肩に熱い衝撃が走った。宙を浮く身体。地面を転がる。反動で瑞穂の身体が離れた。
「きゃぁあああああああああ」
彼女の悲鳴。同時に勇也に覆い被さってくる人々の群れ。すぐに重みで動けなくなる。
「あああああぁぁぁ……」
瑞穂の声は徐々に小さくなっていく。
「ぐっ……」
人のことにかまっている余裕などなかった。腹に熱い衝撃が走った。吐き気が込み上げそうな痛み。目の前が真っ暗になり、意識が混濁する。
(……俺は守れないのか……また)
何故かそう思った。
それぞれ得物を持ち、振りかぶっている人々。それを憎悪を込めて睨みつける。だが、それが、精一杯の抵抗だった。情けなさで涙が出た。
(……また奴にやられるのか。そんなことはさせない!)
思考が何者かと重なる。同時に身体の感覚が稀薄になる。
(力を……力をくれ! だれでもいい! まだ終われないんだ!)
『――よかろう』
声が聞こえた。力を持つ存在。
頭の中に急に何者かの意識が入り込んだ。
漲る力。絶対的な無敵感。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
咆哮。群集が吹き飛ぶ。そして、そこに現れたものはおよそ、人と呼べるようなものではなかった。元は勇也だったものは、獣のように唾を垂れ流し、目は金色に輝き、身体は淡く発光していた。
「があああああああ!」
勇也の腕が一閃する。
群集たちが木の葉のように吹き飛ばされていく。
(瑞穂!)
彼女の元へ。
それが、勇也の心の中を占めていた。
固まっていた群集。勇也はそれを吹きとばす。その下から瑞穂が出てきた。
「……せ…ン…ぱい」
瑞穂の虚ろな声。抱き上げる。彼女の確かな重みが勇也にかかる。頬は擦り切れていたが、命に別状はない。だが傷つけた。その事自身に怒りが湧いてくる。
「きぃさぁまらぁぁぁぁ!」
勇也の視線は物理的圧力となって、群集を吹き飛ばした。一人も逃すつもりなどなかった。命までは取るつもりはない。
だが当分は苦しめっ。
操られているとはいえ、己が罪をあがなうがいい。
今の勇也にはこの人々が何者かに操られている事がわかっていた。そして、その操っている奴が大元の敵だと言うことも。そして、そいつが近づいてくる事も。
群集を全部吹き飛ばしてから、勇也は瑞穂に声をかけた。
「大丈夫か……?」
「……えへ…へへ……。わたし大丈夫。せ…んぱいが……守ってくれたから」
瑞穂は涙でぐしょぐしょになった顔を押し付けてくる。勇也は黙って抱きしめ返した。
怖かったのだろう。辛かったのだろう。瑞穂の涙は枯れる事無く溢れ続けた。
「……先輩。 その目……どうしたんですか?」
ようやく顔を上げた瑞穂が勇也の変化を指摘する。
「なにか、なってるか?」
勇也は自分の変化を承知していた。まるで、体の中に小さな太陽が生まれたように、活性化している。力が後から後から溢れ、気を抜くと暴走しそうだった。
「金色に輝いてますよ」
瑞穂は勇也の頬を触った。
「まるで、ライオンみたい。強くて優しい、ライオンさん」
うっとりと潤んだ目で見つめてくる。そして、彼女はおもむろに勇也の唇に口づけをした。
「んっ!」
急な事で目を白黒させる勇也。呆然とした目で瑞穂を見つめる。
「……お礼です。わたしの初めてですよ」
頬を赤らめ、瑞穂は微笑んだ。
「えっと、あの? え? え?」
あまりの事に硬直する勇也。展開についていけない。どうしようかと思ったときまた声が聞こえた。
『――来るぞ』
圧迫感を感じた。その方向へ振り向く。何者かがこちらにやってきていた。感覚が鋭敏化した勇也にはそれが陽子だとわかる。そして、それを追ってきている者も。
「陽子!」
陽子がこちらを見る。浮かない顔をしていた。奴が彼女のすぐ後ろに迫っている。
「瑞穂、そこに隠れているんだ!」
「は、はい。先輩は?」
急に変わった勇也の態度に驚きながら、瑞穂は疑問を口にする。
「陽子の後ろにいる奴。あいつが元凶だ。全てを終わらせてくる!」
勇也はそう言い置くと駆け出した。後ろから瑞穂の声が聞こえてくる。
「先輩! がんばって!」
『次の角を曲がればあの方がいます』
声がそう言った。追ってくる仙石とは、ぎりぎりの攻防が続いていた。だが、陽子はその全てを避けた。満身創痍になろうと、勇也に会えるまで倒れる訳には行かなかった。
そして、角を曲がった。彼の姿が見えた。
(えっ……)
『えっ……』
陽子は唖然とする。声も同時に驚いていた。
彼と瑞穂がキスしていたのだ。すぐに二人の身体は離れたが陽子は唇が触れ合っているのを見てしまった。鋭敏化した視覚が陽子にそれを可能にしていた。
「陽子!」
彼がこちらに気づいた。複雑な気持ちが湧き上がる。
勇也の身体は自分のように淡く発光していた。あの方というのが覚醒したのだろうか。
『駄目です。すぐに眠りにつかれようとしています。あの方の傍に行ってください』
声の指示もいつもより力がなかった。
勇也もこちらに駆け寄ってきていた。
遂に二人は邂逅した。
勇也は、追ってきた人物――仙石に陽子とすれ違いざま殴りかかった。
――ガツっ
それは鈍い音をたてて、仙石をかばおうと出現した手を蹴散らした。仙石の動きが止まる。その間に、陽子が体勢を立て直した。
「大丈夫か、陽子!」
「えっ、ええ……」
どこか陽子の歯切れが悪い。見ると彼女の身体は自分と同じように淡く発光していた。
「どうしたんだ、それ?」
「あ、うん。夕方出合ったの幽霊がわたしの中に入っているの」
「お前の中に? いったいどういう事だよ?」
仙石を睨みつけたまま、勇也は尋ねた。剣道部顧問、仙石智弘はその姿を無残に変えていた。猛禽類のような鋭い目は血走り、濁っていた。そして、口からは涎がだらだら垂れていた。まるで、人という擬態を放棄したみたいだった。
「よく、分からないんだけど、私巫女なんだって」
「巫女ぉ? なんなんだ、それは?」
「知らないわよぉ。キミの方が知ってんじゃないの」
「なんで、俺が!?」
勇也にはさっぱり訳がわからなかったが、陽子は確信しているようだった。
「ぐるるるるるぅぅぅぅぅ!」
既に人の声を為していない唸り声。仙石の呼び声に呼応して、青白い粒子を伴った手が出現する。それは、分離統合を繰り返し、瞬く間に数を増やした。
「無駄話をしている暇はないようだな。陽子、今回の騒動はな、あいつが原因だ。奴を倒すぞ」
勇也は光を纏った右手を振りかざし、仙石に狙いを定めた。
「――待って、勇也!」
陽子の声が聞こえたが、既に攻撃を仕掛けた後だ。衝撃波の攻撃は手をなぎ倒し、仙石へと向かっていく。
――しかし
「掻き消えた!?」
勇也の攻撃は仙石の少し手前で、消失した。
「だから、待っててば。キミの中にいる人を目覚めさせなきゃダメなの! 私の中の声がそう言っているの!」
陽子の言っている意味がわからなかった。
「俺の中に人って……俺は一人だけど?」
「もう、そんな事は分かってるの! キミが何でそんな力使えるか考えなさいよ!」
確かに陽子の疑問はもっともだった。人外の力。それを過不足なく操る自分。だが、今は力の意味を考えるより、その力を振るう時だ。
「よく分からんが、話はあいつを倒した後にしよう!」
気のせいか身体の燐光が弱まってきた気がする。それが、勇也を急かしていた。仙石の下に行こうとする。しかし、陽子が立ちふさがった。
「だから、人の話を聞いてよ!」
「あぶねぇ!」
手の攻撃。反射的に打ち落とす。しかし、今度はこなごなにならなかった。ただ、手は弾き飛ばされただけで、復活する。
「……どういう事だ!? くっ、陽子、そこをどけ!」
光がさらに弱まりつつあった。同時に消えていく力。完全になくなる前になんとかけりをつけたかった。
「……勇也、もうダメよ」
陽子の言葉と同時に完全に光が消失する。それとともに、立っていられないほどの疲労感が込み上げてくる。
「……いったい!?」
「あの方が、また眠りについたのよ。勇也、私の手を握って」
「何でだ……?」
「いいから早く!」
彼女の言葉に押されるようにその手を握る。
その時、勇也の中で何かがざわついた。心の中から何かが乖離していく。彼女の瞳を見た。
その途端、感情が爆発した。
湧き上がってくるのは、愛情。愛しいものを遂に目にした達成感。悲願だったのものが遂にかなえた瞬間。陽子から、光が消失していく。そして、同時に二つの人影が宙に出現した。
一人は女。幻想的なまでに美しい女。
もう一人は男。勇也の夢の中に何度も登場し、幼い頃から彼を苦しめ続けた男。黒衣を纏った偉丈夫だった。
「おまえは!?」
この男には見覚えがありすぎた。繰り返し夢の中に出てきては、勇也の悪夢の元凶になった男。
『おお、会えたぞ! 遂に会えたぞ!』
『――お会いしとうございました』
勇也の言葉など届いていないように空中で人影は抱きあった。二人の表情は安らいでいた。まるで、あるべき場所に帰ったように。
「どういう事だ!?」
少しは事情が分かっていそうな陽子に問い掛ける。悪夢が現実になったとでもいうのか。
「私も分からないだけど、あの男の人がいるでしょ。あの人、勇也の中でずっと眠っていたみたいなの」
「そんな、馬鹿な!」
幼少期の苦労が蘇ってくる。では、自分が苦しんだのは心理学的原因などではなく、あいつのせいだと言うのか。両親を苦しめ、幼い自分を絶望の淵に追いやったのはあいつのせいだというのか。認められない。そんな事を認めてたまるか。
勇也の中に強い怒りが湧き起こってきた。幸せそうに抱き合っている二人がひどく憎くかった。
「やっと、会えたのよ。あの二人、ずっと引き離されていたの。幸せそうね」
陽子の言葉など耳に入ってこなかった。
幸せ? 他人の不幸の上で成り立った幸せか。それはさぞ気持ちのいいものだろう。
勇也の心境など分からない陽子は幸せそうな二人を見ている。その顔には素直な喜びが浮かんでいた。
この場で憎悪に身を焦していたのは勇也と、そして仙石だった。
不意にあれほど獣じみていた仙石が糸が切れた操り人形のように倒れこんだ。そしてピクリとも動かなくなる。すると突然彼の上に男が出現した。今度は白衣の男。その男も前の二人同様、宙を浮いていた。
『ほう、自ら姿を現すとは、卑怯者のお前にしては度胸がいいな』
『だまれ! 渡さぬぞ! お前には渡さぬ!』
中空で二人の偉丈夫が対峙する。
戦闘が始まった。
男達が腕を一閃するたびに、炎や雷が生まれ相手を打ち据える。そうかと思えば地面が隆起し、土の槍となって相手に襲い掛かる。
「くっ、周りは関係ないってことかよ!」
あたりは天変地異の様相を呈してきた。地面はえぐれ、大気は震えていた。
不意に対象をそれた炎の攻撃が勇也の方へ飛んできた。完全に虚をつかれ硬直する。炎が目の前に迫った。
視界が急にぶれる。何者かが覆い被さっていた。
「……大丈夫?」
陽子だった。彼女は身を呈して勇也をかばっていた。
「ああ……」
炎が激突した場所を見て、絶句する。地面が焼け焦げ、衝撃で小さなクレーターを形成していた。
「……ここにいるのは危ないな。陽子、あっちに避難しよう! 瑞穂もそこに隠れている!」
「……うん」
勇也達は瑞穂の所に戻ろうとした。しかし、その場所から当の本人が向かってくるではないか。
「馬鹿っ! なんで来たんだ!?」
「だって、先輩!」
瑞穂が指をさす。その方向を見ると、先程、勇也が倒したはずの群集が起き上がっているのではないか。
「……嘘だろ、倒したはずなのに」
絶望的な状況だった。前にも後ろにも逃げ場などない。前門の虎、後門の狼とはこのことだ。勇也にはもうあの力がないため、突破する事も難しい。
「勇也、どうする?」
「先輩、どうしましょう?」
陽子と瑞穂、二人の声が重なった。一瞬、彼女らの視線が重なりあう。
「どうしょうもないな。幸い、群集もその場から動かないし、少々危険だが、この場所にいるしかない」
確かにこの場所にいる分には、危険な事には変わりはないが、どちらかに行くよりはましだった。
そうこうする内に空での戦闘は激しさを増していた。勇也の中にいた黒衣の男が剣を生み出し振り回した。それは空気を切り裂き、衝撃波として、白衣の男に襲い掛かる。紙一重でかわした白衣の男だったがその頬を大きく切り裂かれていた。
女も黒衣の男に加勢していた。二対一ではどうにも分が悪いらしく徐々に形勢が傾いていく。
『どうした? その程度なのか。やはり、不意をつかないと戦いもできない卑怯者は弱いな!』
『黙れ、だまれ、 だまれぇぇぇぇ!』
黒衣の男のあざける声に激怒した男は地面から手を出現させ、二人を襲おうとする。
しかし、黒衣の男が一瞥するだけで手は消し飛んだ。それを見た男は更なる攻撃を仕掛ける。氷柱を生み出し投げつける。
『弱い、弱いな! その程度なのか?』
黒衣の男はまるで舞うが如く華麗にかわしていく。その隙に女は攻撃を仕掛ける。白衣の男は避ける。そして黒衣の男に攻撃。
勇也は戦いを見ていて気づいた事があった。白衣の男は決して、女に決して攻撃しようとはしなかった。このような状況になっても、攻撃できない男の心理とはいったいなんなのだろうか。
「勇也、愛情って辛いよね……」
陽子がぽつりと呟いた。
「あの男の人、どうしても、許せない事みんなにやったけれど、それでも愛する人を傷つける事ができない。なんで、女の人を愛するように他の人も愛せないのかなぁ……」
目の前の光景をまるで痛々しいものでも見るかのごとく、顔をしかめていた。
「ほんとにそうですね……」
瑞穂も頷く。
そして、遂に最後の時が来た。黒衣の男が手にした剣が白衣の男を貫いたのだ。
『ぐわぁぁぁぁぁぁああああああ!』
聞いた者の魂を凍らせる絶叫。それを長く、響かせて男の身体は青い粒子となって空を舞った。後には、剣を手にしたままの男と美しい女だけが宙に残された。
『……終わりましたね』
『うむ、終わった』
二人は宙でお互いの身体を抱擁しあった。
『それでは……行きましょうか』
『うむ』
抱き合ったまま二人は天に昇っていく。
「待てよ! どこ行くんだよ」
勇也としては引き止められずにはいられなかった。今まで散々苦しめられたのだ。謝罪の一つでも受けなければ気が済みそうになかった。
『天へ行く』
「天だと?」
『わたくし達はすでに生あるものではありません。だからこそ、他の仲間がいるところにいき、そこで暮らしたいと思っています』
会話をしている間も、どんどん天に昇っていく。
「あんた、なんで俺の中に入ってた。なんで、俺を苦しめたんだよ!」
問わずにはいられない質問だった。黒衣の男はニヤリと勇也に笑いかけた。
『それはな、お前がワシだからよ』
「どういう意味だ」
『文字通りワシの転生体という意味よ。その魂の強さ、輝き、何をとっても常人とは違う。ワシはお前の中に眠っていた記憶と力を抽出した存在に過ぎん。だから、ワシが苦しめたのではなく、お前が自分自身の記憶に苦しんだだけなのよ』
黒衣の男は真摯な瞳を勇也に向けた。そして、女をより強く抱きしめた。
『こいつを失った時の絶望は、今思い出しても黄泉の国に落ちたようじゃったわい。それ故、深く魂に刻み付けられ、転生しても記憶が生き続けてしまったのじゃよ』
男は女の髪の毛を愛しげに撫でた。女はそれに身を任せ、うっとりと目を閉じた。
『もう、お前は悪夢を見ることもないだろう。そして、夢で苦しむ事もなくなるだろう。全てが終わったのだから。では、さらばだ!』
男はそう締めくくると天に昇っていった。その姿はすぐに見えなくなり、雲の間に消えていった。
「…………勝手な奴」
二人の姿が消え行くまで勇也は二人の姿を見送った。知らず頬を涙が伝った。後から、後から涙が込み上げてきて、嗚咽が止まらない。悲しくはない。だか半身を失ったような物寂しさがあった。
誰かの手が頬の涙を拭った。その人物を見る。
「……陽子」
「……大丈夫?」
彼女は心配そうな顔をして立っていた。
「……ああ、なんで俺…泣いてんだろ……」
どう考えても泣くような状況ではなった。むしろ、自分を苦しめていた奴がいなくなって清清していいはずだ。それなのに、相変わらず頬を伝う涙は流れたままだし、喉が引きつる嗚咽は止まらない。
「……大丈夫、大丈夫だから、俺は」
不意に陽子に抱きしめられた。
「無理、しないで……」
柔らかい感触がした。彼女に包まれていると心が落ち着いていくのがわかった。陽子の手が頭を撫でていた。
急に照れくさくなった。頭を上げる。
「あっ……」
「……もう、いい。なんか照れくさい」
陽子は残念そうな顔をしたが、その後、微笑んだ。
「いいのかなぁ、私に抱きしめられる機会なんてそうそうないぞ」
「はいはい、それは惜しい事をしましたねぇ」
いつも通りの会話。日常の会話。そんな事がひどく嬉しい。陽子に微笑みかける。彼女も微笑んだ。
しかし――
「ひっ、先輩!」
瑞穂の金きり声が勇也の耳朶をうった。声の方を見る。瑞穂が呆然と立ち尽くしていた。
「何事だ!」
彼女の傍に駆け寄る。
「あっ、あれ!」
瑞穂が指し示す方を見た。そこには倒れこんだ群衆がいた。呪縛が解けたのだろう。
「どうしたんだ、いったい?」
勇也の言葉が終わらない内に、倒れている人々に変化が訪れた。口から青白い光が漏れ出たのだ。それはお互いに重なりあい、集まりあい、次第に一つのものに構成されていった。
――手
今までの大きさの比ではない。まさに大樹と呼ぶのに相応しいほどであった。薄気味悪く発光し、確たる存在として、そこにあった。
喉がからからに渇いていった。冗談ではなかった。全ては終わったのではなかったのか。恐怖が背中を駆け上がる。
「……勇也」
「……先輩」
陽子と瑞穂の呆然とした声。自分だって同じ気持ちだった。なんでこいつが出てくるんだ。あいつら天に帰るんならゴミの始末ぐらいして帰れよ。
手が大きく伸び上がる。攻撃態勢に入った。
「走れ!」
勇也達は走り出した。地響きをたてて、手は追ってきた。
「なんでこっちばかり来るのよぉ!」
瑞穂の言葉どおり手は必要に追ってきた。まるで勇也達しか目に入らないようにその後を追いすがる。途中、操られていただろう人々が転がっていたが、そちらには目もくれなかった。
「わからん! とにかく走れ! 俺達の方が足は速い!」
手はその巨体のせいか移動スピードが遅い。追いかけっこになら分があった。しかし、それは事を手も分かっているようで、射程内の内に仕留めようと苛烈な攻撃を加えてくる。
「ちっ!」
大きく勇也は跳び退った。大樹のような手が勇也を絡み取ろうとする。いつのまにか彼の真上に来ていたのだ。
「大丈夫ですか!?」
「ああ気にすんな、走れ!」
少し足を捻ったが問題ない。
勇也達はスピードを落とさず走る。
(なにかおかしい?)
勇也は逃げながら、ある事に気づいた。
(……こいつ、俺だけを狙っていないか?)
そう、先程から勇也一人しか攻撃されていない。まれに他の二人にも攻撃がされる事もあったが、それは勇也がかわした後のものが向かっていただけだ。
そして、また手が絡みつこうとしてくる。今度も勇也だ。横に転がってかわす。ここに至って確信した。
「次で分かれるぞ!」
前方に交差点があった。
「どういう事?」
息を弾ませながら陽子が問い掛けてくる。
「目標を分散させるんだ。たぶん手は一瞬躊躇するだろう。その間に距離を稼いで逃げ切るんだ!」
「でっ、でも!」
瑞穂が不安そうな顔をする。
「でも、じゃない! やるんだ! 陽子と瑞穂は右。俺は左だ!」
「わかった!」
陽子が頷く。
「いくぞ!」
三人は交差点に飛び込んだ。
しかし――
「どうしてこっちに来るんだ!?」
勇也の悲鳴のような声が夜空に鳴り響いた。
「だって、勇也、囮になるつもりだもん」
「先輩と一緒がいいです」
彼女らの目は真剣だった。
「何考えてんだよ。手はおそらく俺を狙ってるんだぞ! お前ら逃げきれたのに」
「そっちこそ何考えてんのよ! 私は勇也を犠牲にしてまで助かろうとは思わない!」
「そうですよ!」
陽子や瑞穂の瞳に怒気が含まれているを見て、思わず蹴落とされる。
「いや、俺はその方が可能性が高いと……」
「可能性? 可能性なんて関係ないわ! 未来は計算なんかで計れないでしょ。助かるんなら皆で助からないと」
「そうです。わたし、まだ告白の返事聞かせてもらってないですからね」
瑞穂が片目を瞑る。
「まったく……お前らは」
「そういうことなの」
「えへへ」
心が暖かくなっていくのを感じながら、勇也は駆け続ける。
しかし、勇也達と手の間は無情にも徐々に縮まっていった。
スピードなら勇也達の方が速い。しかし、勇也達には有って、手には無いものがその差を無効にしていた。
それは疲労。
人間はどうやっても長期間全力運動に耐えられるようにできてはいない。なおかつ、勇也や瑞穂は既に群集から逃げていた時にかなりの距離を走破しているのだ。一日の体力にも限界があった。
「はぁ……はあっ、まったくしつこい!」
憎まれ口にも力が湧いてこない。膝がガクガクと揺れていたがそれでも止まるわけにはいかなかった。
手はその間、スピードを少しも落とさない。一旦は射程の範囲外に逃れていた距離もあっという間に詰められていた。
手が勇也を襲う。転がって避ける。しかし、先程捻った足が痛みを訴え反応が遅れる。手の攻撃がかすった。足が嫌な音をたてた。
「くぅっぅぅぅ!」
あまりの痛みに悶絶する。だが、すぐに立たなければならなかった。地面に足をつこうとする。しかし、激痛が走った。あまりの痛みに意識が飛びかける。足のどこかを決定的に痛めたのかもしれない。
ここに至って勇也の足は完全に止まってしまった。手と対峙する。すさまじい威圧感。自分がなにかとんでもなく勘違いをしているような気になった。どうして、こんなものから逃げられると思ったのか。
手も止まった。獲物の足が止まったのを見て、確実に仕留めるつもりなのだろうか。
「勇也ぁ!」
「先輩ぃ!」
陽子と瑞穂が勇也の身体を引きずろうとする。しかし、疲労困憊した体だ。いくらも行かない内に、その動きが止まってしまう。
「……俺のことはいいから行け」
二人まで巻き添えにするわけにはいかなかった。
「何いってんのよ! 諦めちゃダメ!」
「先輩、がんばって!」
しかし、彼女達は頑固にも退こうとはしない。
手が動いた。大きく伸び上がり、勇也達の頭上に迫った。二人はそれでも、勇也を引きずる事を諦めない。
(ちっちくしょぉぉぉぉぉ!)
目を見開いて迫り来る手を睨みつけた。
しかし――
『――――――――っ』
声にならない悲鳴が聞こえた。
勇也達と手が触れ合おうとした刹那、光が走ったのだ。
それは刃物の煌めき。
手の先端が青い粒子となって、空に帰っていく。
そして、同時に古ぼけた剣を片手に持つ、見慣れた人の後ろ姿が見えた。
「どうした、勇也。くたばるにはまだ早いぜ」
聞きなれた声が耳朶を打つ。その人――橋本は振り返りにやっと笑った。
「橋本先輩!」
「話は後だ!」
橋本は古ぼけた剣を正眼に構え突っ込んでいく。そして、手が自分の射程に入るやいなや、当たるを幸いに切りまくる。もちろん手だって切られてばかりではない。反撃をしようと彼に絡み付こうとする。しかし、その動きも橋本は見切っていた。ぎりぎりまで引きつけて、一瞬で切り倒す。
(すごい……!)
橋本はまるで踊るように剣を振るっていた。ひらりひらりと手の動きをかわし、鋭い斬撃で斬り飛ばす。すさまじい。その一言に尽きた。
先端を失った手はその姿をどんどん小さなものに変えていった。大樹くらいだった大きさもいまや、最初に手を見た時の大きさでしかない。しかし、橋本は一切容赦はしない。どんどん小さくなっていく手を切り裂いていく。
その時、手が急に攻撃する事を止めて、一つのところに集中し始めた。まるで蛇のようにお互いがからまりあると、あるものを形成していた。
――それは顔
中空に巨大な顔が出現した。
『その身体をよこせ!』
顔は言った。その顔は、仙石から出てきた白衣の男にひどく似ていた。しかし、より獣性が前面に押し出され、あの男にあった倣岸さや気品というものが無かった。
「なんで、俺の体なんかが欲しいんだよ!?」
勇也は心底疑問に思った。様子を見ようと思ったのだろうか、橋本の攻撃が止まる。
『このままでは意識がなくなってしまう。そうなるとこの私が死ぬのだよ! この神の私が! さあ寄越せ! 寄越すのだ! どうせあの男の残りかす。私が使ってもいいだろう! 神に使われることを光栄に思うがいい!』
傲慢なまでの顔の主張。朦朧とする意識の中、あまりのことに呆気にとられた勇也だったが、次第に怒りが込み上げてきた。口を開こうとしたその時、
「ふざけないで!」
陽子の怒声が響き渡った。
「この人が残りかす!? 馬鹿言わないでよ。私の大事な人はそんなものなんかじゃない。勇也の中に神が居なくなった事ぐらいがいったいなんだって言うのよ。彼の価値は少しも損なわれてなんかいない。むしろ身体を失って見苦しくもがいているあなたの方が残りかすだわ!」
あまりの剣幕に文句を言おうとした勇也自身が、言葉を飲み込んでしまう。それにしても自分が陽子の大事な人。どういう意味なのだろうか。
『……神を愚弄したな』
顔から殺気が漂う。だが――
「その通り!」
橋本が再び斬りかかった。
『ぐあああああぁぁぁぁあ!』
何度も何度も目にも止まらぬ速さで斬りつける。顔はその度に胸糞が悪くなる悲鳴を上げ、青い粒子を巻き上げながら小さくなっていく。
『わ…私を殺すと言うのか。この神を……。人の分際で殺すというのか!? お前らなど、所詮我らの糧に過ぎない存在なのに』
橋本は無表情になった。勇也が一度だけ見たことある、彼が真に怒った時の表情だった。普段が表情がくるくる変わる、愛想の良すぎる男のため、その違いは、明白だった。
橋本は剣を振りかぶると容赦なく顔に切りつけた。
『ぬあぁぁぁぁ!』
顔は苦悶の表情を浮かべる。しかし、橋本はかまわず切り続ける。
『止めよ……やめよ……』
橋本の剣が煌めくたびに顔は小さくなっていく。
『神を……恐れぬのか……』
遂には小動物並みの大きさになった顔が苦しげにうめいた。
「うるせえ! おめえが神様なら俺は橋本様だ! 人間をなめんじゃねえっ!」
両手を高々と振りかぶり、真っ二つに神を切り裂いた。
『――――――――っ』
その途端、青い光が視界を覆った。神の顔が有った所から舞うように大量に天に昇っていく。まるで、その一つ一つが解放されたこと喜んでいるようだった。
「きれー」
瑞穂の声がした。夜空に青い橋がかかっていた。きらきらと輝く天の橋。ひどく幻想的で、美しかった。
「勇也っ!?」
「先輩っ!?」
視界が急激に暗くなっていく。どうやら頑張りすぎたようだ。でもいいよな。全部終わったんだし。
遠ざかる意識の中、何か柔らかいものに受け止められるのを感じた。
プロフィール
- ニックネーム
- ケイロン
- 性別
- 男
- 血液型
- A型
- 生年月日
- 19○○年5月23日
- 現住所
- 岡山のどこか
- 所在地
- 岡山のどこか
- 職業
- 教師っぽいこと
- 自己紹介
- 小説を読むのも書くのもすきなのでHPを立ち上げました。
お時間が許すのなら、作品を読み、感想でもいただけたら嬉しいです。
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