その他。
とりっく あんど とりーと
二年ほど後。
『郵便屋さん』
僕は自転車を止めると、地図を広げた。
もう長い間郵便屋を続けていて、この街のことは全部知っているつもりだった。当然、地図を使う機会なんてほとんどない。それでも地図を持ち歩いているのは、郵便屋としての使命感みたいなものからだった。
手紙を取り出して、宛名の住所と地図とを比べてみる。子供が書いたような、とても読みづらい字だったけれど、ここに間違いなかった。
目の前に立っているのは、こじんまりとしているけれど上品な、可愛らしい外観の洋風の家だった。まるで童話か何かから抜け出してきたようで、子供が見たらきっと大喜びするだろう。
でも何故か、それが昏く沈んで見えている。ひどく気落ちしているような、或いは……来るはずの無いものを待っているような、諦めに似た雰囲気を帯びているようだった。
それにしても、こんなところにこんな家があっただろうか。周囲を見渡してみると、ここは分譲住宅の只中。似たような外見の、普通の家ばかりが並んでいる。その中にこれだけ目立つ家があって、知らないわけがないのだけれど。
でも、実際にこうして家が存在していて、地図に載っていて、ちゃんと手紙だってある。
僕の思い違いか、それとも最近はこの辺りに来る機会がなかったから、その間に出来たかのどちらかなのだろう。
一応、もう一度だけ地図と手紙とを確認してみて……僕は一瞬途方に暮れた。
手紙を入れるべき郵便受けがない。
一度手紙を鞄に戻して、郵便受けを探してみる。玄関の前まで行ってみても、庭をうろうろしてみてもやはり見当たらなかった。
さて、どうしよう。玄関前に、野晒しに置いておくなんてのはありえない。石などを乗せて置くにしても風に飛ばされでもしたら大変だし、雨でも降って読めなくなったりしたら大変だ。僕は郵便屋だ。その誇りも、何もかもを投げ捨てるような真似が出来るわけが無い。
となれば仕方がなかった。やっぱり直接手渡しするしかない。
そういえば、ここしばらく手紙を手渡しすることなんてなかった。たまたま家の人が外に出ているところに鉢合わせでもしなければ、そんな機会はないのだから。
直接、手渡しか。随分と、久しぶりな気がした。郵便受けに入れた手紙が底に落ちるコトンという音も、仕事を果たしたという満足感を感じさせてくれる。けれど、本人に直接手渡しして、受け取った時の表情を見られるというのは、やっぱり郵便屋にとって最高の喜びだと思う。
ちょっとだけ緊張しながら、僕は呼び鈴のないドアを静かにノックした。
「あ……は、はーい!」
中からは返事をする、年を召した女性の声。それからどたばたと慌てて走るような音と、それから……ゴン。
まるでテーブルの角にぶつかりでもしたかの様な音がした。
やがて、大丈夫なんだろうか、と心配した頃になって。
「いらっしゃい、待ってた……の、よ……?」
戸口に現れたのは上品そうな老婦人だった。何処かにぶつけでもしたらしい太股の辺りを撫でている。
上品そうと言っても、冷たい雰囲気や厳しい眼差しを持っているわけではない。育ちのよさゆえの可愛らしさみたいなものが、人好きのする外見を醸し出している。一見しただけで、この可愛らしい家に相応しい住人に見えた。
「あらまぁ珍しい。郵便屋さんの仮装なのね」
「いえ……仮装ではなくて、本物なのですけれど」
もしかして本物に見えないのだろうか。長い間郵便屋をやっていて、そのことに誇りを持っているだけに少しショックだった。
「あらあら。本物の郵便屋さんなの? ごめんなさいね。私ったら、もうすっかりハロウィンの仮装だとばかり」
「ハロウィン……ですか?」
聞きなれない言葉だった。言葉の響きからして、きっと異国の何かなのだろうけれど。
「あら、ハロウィンを知らないの? ……でも、貴方くらいの年齢の人は、かえって知らないのかもしれないわね」
確かに、横文字を禁止されていたのは、僕たちくらいの年齢だけだったらしい。多分このおばあさんくらいの世代だと、むしろ近代化のために西洋のものが奨励されていた時代なんじゃないだろうか。
「ハロウィンというのは……あ、そうだわ。立ち話もなんですし、折角だから上がって行きなさいな」
パンと手を叩きながら、おばあさんはまるで当たり前のことのように言う。
突然の申し出に、僕は目を白黒させた。郵便屋の仕事は、基本的に手紙を渡したところで終了なのだけれど。
「そうね、そうだわ。せっかくだから、子供たちが来てくれるまで付き合ってくれないかしら?」
「あ、いえ。一応仕事中なので」
そうだ、まだ配達の途中だった。戻してあった手紙を探して、右手で鞄の中を探る。
「ね、ほんの少しだけ。お仕事の邪魔になるほどとは言いませんから」
それを止めるように、おばあさんの手が僕の腕に添えられた。幽かに縋るような色を帯びた視線が僕を見詰めている。
「……でも、お邪魔じゃないですか?」
何故かはわからないけれど……この人は、本当に僕にここにいて欲しいらしい。
「ええ、もちろん。やっぱり一人きりはさびしいもの」
「そうですか……では、そこまでおっしゃるなら」
今日の配達はこの家で最後だ。帰るまでに少しくらい時間をつぶして行ってもかまわないはずだ。そういえば、昔はよく配達に行った家の縁側に腰掛けて、お茶をご馳走になったものだ。最近はなかったから忘れていたけれど。
「どうぞどうぞ、上がってくださいな」
おばあさんに促されて、家へと上がる。洋風の外見通り、靴は脱がなくていいらしい。ちょっと戸惑うと同時に、土足で上がりこむことに慣れなくて、なんだか後ろめたい気がした。
「それで、ハロウィンのことだけれど。子供たちが街中の家を、『トリックorトリート』って言ってまわる行事なの」
僕が子供の頃は、そんなお祭りはなかった気がする。
というか、そんな横文字のお祭りをしていたら、きっと親や先生に殴られたはずだ。きっと僕たちが大人になってからはじめられたお祭りなんだろう。
勧められた椅子も、造りの良い上品な物だった。でも、子供用なのだろうか。僕には小さすぎる気がする。
「とりっくおあとりーと、ですか?」
やっぱり聞いた事が無かった。最近になって始められたにしても、ここまで世間に疎すぎるのは問題かもしれない。
「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ、っていう意味なの。そうやってお菓子を貰って回るのね。その時にお化けの仮装をしているのよ。だから、郵便屋さんも仮装なのかと思ってしまったの」
郵便屋はお化けじゃないと思う。お化けじゃないんだから、流石にそんな仮装はしないだろう。
というよりも、そもそもお化けなんてものが本当にいるんだろうか。少なくともこの街では、そんな話は聞いたことがないけれど。
「だから、今日は子供たちが来るのを待っていたのよ。」
そう言っておばあさんが微笑む。それは優しげな完璧な笑顔だったけれど……でも、その気配はどことなく寂しさを孕んでいた。
「ああ、そうだ。これを……」
と、鞄を開けようとしたところで。
「まぁ、私ったらお茶もお出ししないで!」
「いえ、あの……」
手紙を、と言おうとした時には、既におばあさんは奥の部屋へと姿を消していた。
ノックをした時も思ったけれど、お年に似合わず元気な方らしかった。それはとても良い事なのだけれど、もう少し他人の話を聞いて欲しい。
ひとり取り残されて、僕は何となく家の中をみまわしてみた。
家の内装は、外観と同じように可愛らしい造りになっている。おとぎばなしにでも出て来そうな家。でも、それはあくまで内装だけの話。その中に置かれた家具の類は、必要最低限のものしかない気がした。この部屋には、僕が腰掛けている椅子とテーブルの他には、壁際の使われた様子のない暖炉しかない。殺風景とまでは言わないけれど、酷く寂しさを感じさせる部屋だった。
もしかしたら、ここは客を迎えるためだけの部屋なのだろうか。そうだとしたら、生活感みたいなものがないのは当然かもしれない。でもそうだとしても、もう少し飾り気みたいなものがあってもいいのに。
「お待たせしました。紅茶くらいしかないのだけれど、ミルクとレモンとどちらがいいかしら?」
そうやって回りに気を取られている間に、おばあさんがお盆を持って現れた。その上にのっているのは、多分紅茶を淹れる道具なのだろう。
「えっと……それでは、ミルクをお願いします」
どちらと言われても、今まで紅茶を飲む機会なんてなかったから、どっちがどうかなんてわからない。とりあえず先に言われた方にしてみる。
おばあさんは慣れた手付きで紅茶を注ぐと、僕の前へと差し出してくれた。
「ごめんなさいね、何かつまめるものでもあればよかったのだけれど。この年になると、すっかりと食が細くなってしまうものだから……」
「いえ、どうかお構いなく」
恐縮するおばあさんを手で制して、僕は紅茶を口に運んだ。
僕には紅茶のことなんて全くわからないけれど、それでも口にした途端、これが丁寧に入れてあるのがわかった。きっと、このおばあさんの性格そのものなのだろう。
「紅茶は初めてですけれど、思っていたよりもずっと美味しいです。びっくりしました」
「まぁ、それはよかったわ」
本当に嬉しそうに笑う。きっとこれがこの人の本当の表情に違いない。でも、そうだとしたら、時々見せる寂しげな表情はなんなのだろう。
「それでですね、今日は……」
「実はね、ハロウィンは私の孫が大好きなのよ」
また、遮られた。まるで、僕が手紙を渡そうとするのを邪魔するように。話が終わってしまうのを、恐れてでもいるかのように。
「随分前からうちには来なくなってしまったのだけど。でも、仕方ないわよね。あの子もいつまでも子供じゃないんだから。でもその代わり、近所の子供たちが来てくれるから、今でもハロウィンは毎年楽しみにしているの」
さっきからずっと感じている違和感。
それに気付かないフリをして、強引に手紙を渡して、彼女を振り切って帰るのは簡単だ。本当なら、そうするべきなのかもしれない。
でも、行き場のない彼女の想いを放っておくことは、想いを届けるのが仕事の郵便屋として、どうしても出来なかった。
だから。
「……本当に、子供たちは来るのですか?」
「ええ、勿論」
即答。そして、そう答えるおばあさんの表情は、全く変わっていない。それで僕は確信した。
「それなら、どうしてお菓子が用意されてないんですか?」
「用意してあるわよ。隣の部屋に、たくさん」
やっぱり、なんの反応も無い。こんな失礼な、明らかにあなたを疑っていますという意味のことを言われているのに。
「……つまめるものはないって言っていましたよね? お茶請けなら、クッキーでもキャンディでも良かったはずです。子供に上げるお菓子を用意してあるなら、どうして紅茶と一緒につまめるようなものがないんですか?」
そこで初めておばあさんの言葉がつまった。それで後ろめたいような気持ちが湧いたけれど、僕は言葉を続ける。
「どうして僕をこんなに熱心に引き止めるのですか? 他のお客さんが来るなら、僕はいない方が都合が良いはずです」
邪魔とまでは言わないまでも、僕の相手をしていたのでは、子供たちを出迎えるのに集中することが出来ないはずだ。毎年来てくれるくらい親しい子供たちなら、なおさら。
だから、ああまでして、僕を引き止める理由は無い。
「本当に、子供たちが来る予定があるのですか? いいえ、来ないとはっきりわかっているのではないですか? ……僕が帰ってしまうと、ひとりきりになってしまうと、わかっているのではないですか?」
おばあさんの話を聞いているうちに、それなりの時間が経っている。それなのに、子供はまだひとりもこの家を訪れていない。
これからもきっと、訪れる事は無いのだろう。
「……来ないとわかっているわけではないの。昔は来ていた子供たちが、ここ何年かはずっと来てくれていないというだけ」
俯いて僕の言葉を聞いていたおばあさんは、いつしか両手に顔を埋めていた。まるで、見たくない現実から目を覆い隠すかのように。
「子供たちが来なくなってからも、しばらくはお菓子を用意していたの。……でもね、楽しみに用意したお菓子を、全て無駄にしてしまう虚しさがわかるかしら。無駄になってしまったお菓子を、ひとりで食べる寂しさがわかるかしら。私は、すぐにそれに耐えられなくなってしまったわ」
……多分、わかると思う。届けられなかった手紙を、もう永遠に届ける事の出来ない手紙を、ずっと眺め続けなければならないのと、きっと同じ気持ちなのだろうから。
「それにね。どうせお菓子を用意していたって、来てくれた子供たちは、すぐにこの家から去って行ってしまうのよ」
それは……当然だろう。お菓子が目的で来た子供たちは、その目的の物が手に入れば、すぐに帰ってしまう。
仕方ない。
「ねぇ、どうして、お菓子かいたずらのどちらかしか選べないのかしらね」
おばあさんの声は、まるで心の中で淀んでしまったものを吐き出すようだった。自分にはどうすることも出来ないことへの悲しみの感情で満ちている。
「お菓子をあげれば、子供たちは本当に嬉しそうな表情で笑ってくれるの。でも、お菓子を受け取ればすぐに次の家へ行ってしまう。お菓子を上げなければ、イタズラの間だけはここにいてくれる。でも、子供たちはがっかりした顔をするの。どうして、お菓子を上げるのと、ささやかで可愛らしいイタズラに付き合ってあげるのと、両方ではいけないのかしら」
わからない。でも、きっと。
「そんなしあわせを、たくさんの人にわけてあげるためなんじゃないでしょうか」
しあわせを配り歩くのが、郵便屋の仕事なのだから。
「……独り占めはダメ、っていうことなのかしらね」
そういうことなら納得がいくわ、とおばあさんは悲しげに笑った。
おばあさんだって、きっとどうにもならないことだとわかっているのだろう。わかっているからこそ、こうしてどうすることも出来ずに嘆いている。
「……でも、お菓子もいたずらも、貴女が独り占めにしていい人がいるんじゃないですか?」
僕は、郵便鞄の中から手紙を取り出した。キャラクターものの便箋にかかれた、整っていない字。
差出人の名前の『さ』の字が裏返しになって、『ちとる』になっている手紙。
「やめて! そんなもの、出さないで!」
耳をふさぐようにして、おばあさんは頭を振った。
「今までずっと連絡も無くて、ずっと放って置かれて、今更届いた手紙なのよ。絶対に、読みたくないことが書いてあるに決まっているわ」
不安なのは、わかる。相手の気持ちがわからない時、それを知りたくないと思ってしまうのは仕方ない。
でも、耳をふさいじゃいけない言葉だってある。まして、耳をふさがなくてはいけないというのが、自分だけの思い違いであるのなら。
「……僕は郵便屋ですから、こうして手に取れば、書いた人がどんな気持ちなのかわかるんです」
そっと手紙に手をかざしてみる。中を見る必要なんてない。そこからあふれてくる感情は。
「これはお孫さんからの手紙ですよね? この手紙は、優しさと気遣いと愛情に満ちています。あなたに対する、暖かい気持ちだけで出来ています。どうか、お孫さんの想いを受け取ってあげてください」
おばあさんの方へと差し出す。おばあさんは、信じられないという風に僕を見つめていたけれど。
やがて、恐る恐るといったふうに手紙に手を伸ばした。
「……おばあちゃんへ」
封筒と便箋の文字に懐かしそうに目を細める。震える声で、おばあさんは手紙を読み上げ始めた。
「ハロウィンに行くという約束を守れなくてごめんなさい。でも、いつもおばあちゃんのことを忘れたことはありません」
読み進めるうちに、おばあさんの目から涙が溢れていた。ぽろぽろ、ぽろぽろと。途切れること無く。読み進める声は嗚咽が混じり、かすれ、その内容が次第に聞きとれなくなってくる。
「……またおばあちゃんに会いたいです。ぼくたちはそちらにはいけないけれど、……お父さんもお母さんも、おばあちゃんと一緒に暮らせる日を楽しみにしています」
読み終わると、おばあさんはその手紙を自分の胸へと押し当てた。まるでその手紙に書かれた想いが、自分の心に届いたことを知らせるように。
「……ありがとう、郵便屋さん」
おばあさんがにっこりと微笑んだ。涙でぐちゃぐちゃになってはいたけれど、それは今までの寂しげなものではなくなっている。
「それが郵便屋の仕事ですから」
僕も微笑み返す。おばあさんのこの素敵な笑顔に返すのにふさわしいものになっていたか、自信はなかったけれど。
再び手紙を読み返し始めるおばあさんをそのままに、僕はそっと家を後にした。これで、郵便屋としての仕事は終わったのだから。
郵便鞄を自転車の籠に入れ、ペダルを踏む。慣れ親しんだ相棒は、たちまちのうちに僕を風にしてくれる。
……そういえば、あの家にどうやって行ったのかよく覚えていない。初めて行った場所だったから、なんだか記憶が酷く曖昧だった。
自転車を止めて振り返る。立ち並ぶ、見分けの付かない家々の陰に隠れて、あの家はもう見えなくなっていた。
まぁ、いいか。
僕は向き直り、自転車を漕ぐ足に力を込めた。多分、もうあの家に手紙を届ける事はない気がする。
それはきっと、あの老婦人にとってしあわせなことに違いない。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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