その他。
今は遥か、彼方遠く
その日、有彦は池の縁を散歩していた。
蓮の浮かぶその池は、有彦の実家にあるものと全く同じ大きさだった。大きさだけではない。形も湛える水の色も、蓮の合間に時折姿を覗かせる鯉の模様まで、何一つとして違うところはない。
池から後ろを振り返れば、そこには有彦の家と全く同じ屋敷が建っている。屋根の高さも玄関の位置も、柱の間隔や子供の頃につけた壁の傷まで全く同じ。
知らない者が見れば……いや、知っている者が見れば、同じ家だと思うだろう。
有彦は長らくここに暮らしていた。俗世間の喧騒から逃れ、日々心穏やかに過ごせるここは、有彦にとって終の棲家として申し分ない。
ただひとつの心残りを除いては。
実家に置いて来てしまった、どうしても兄離れの出来ない妹のことだけは、ずっと心配でならなかった。
でも、それもきっと今日で終わる。そうすれば、本当になんの心配もなく休む事が出来る。
──休みたい、なんて、まだ二十歳そこそこの若者の思考じゃないよなぁ
自分で自分に苦笑いするけれど、それこそが間違いなく今の有彦の唯一の望み。
「兄様っ!」
来た。
喜びと焦りとを押し殺して、ゆっくりと振り返る。
懐かしい、けれどすっかりと成長して大人になった妹の姿。瞳に涙をいっぱいに湛えながら、両手を広げてこちらに駆けて来る。
「亜里紗」
有彦も手を広げてそれを受け止めた。記憶にあるよりも衝撃が強すぎて、一瞬息がつまりかけたけれど、耐える。
だって、兄なのだから。
「兄様、兄様兄様兄様!」
「……全く、こんなところまで来てしまうなんて、困った子だね」
必死にしがみついて、胸にこすり付けてくる頭を優しく撫でる。何の疑問もなく、ただ一緒にいられたあの頃、いつもそうしていたのと同じように。
「だって、どうしても兄様に会いたかったのですもの」
言いながらも頭をこすり付けてくるのは止めない。はっきり言って息が苦しいのだけれど、それすらも嬉しい。
「もう高校生になったって言うのに、亜里紗は甘えん坊だね」
「最後に兄様に甘えたのは小学生の時ですもの。その続きです」
そうか、もうそんなに経つのか。
ずっと見守り続けてきたから久しぶりに会った気はしなかった。でも、確かに亜里紗の頭を撫でる手が、身体が覚えているよりもずっと高い場所にある。
「本当に……亜里紗は大きくなったね」
そう気付いてしまうと、鳩尾辺りにある柔らかい感触を意識してしまう。
有彦は、亜里紗の肩に手を置いて、さりげなくその身体を引き剥がした。
「それに、とっても美人になった」
お世辞なんかではない。
一時はそばかすだらけだった顔も、今ではすっかりと張りのある肌に落ち着いている。やはり女の子というものはそう言う風に出来ているのだろう。
兄の贔屓目を差し引いても、美人の範疇に入る事は間違いない。
「兄様は全然変わっていませんわ」
それはそうだ。有彦は苦笑した。
「そういえば、屋根に上る癖は直ったのかい?」
言われた瞬間に、亜里紗は嫌な顔をした。両親から何度も注意されていることは有彦も知っている。それでもやめるつもりがないことも。
「初めて屋根の上に上げてくださったのは、兄様ではないですか」
屋根の上は有彦のお気に入りの場所だった。古いしきたりだの稽古事だの、がんじがらめの生活の中で、あそこだけが自由で居られる場所だったから。
有彦の後ろをいつもついてまわっていた亜里紗を、せがまれるのに負けて上げてしまったのがきっかけだったのだけれど……どうやらそれが悪かったらしい。
「あの時は僕も一緒だったからだよ。それが今じゃ一人で登るようになっちゃって」
自分がやっていて、しかも教えておいてなんだけれど、やはり女の子が屋根の上に登るなんてあまり褒められた事じゃない。
「だってあそこにいると、兄様がいてくれるような気持ちになれるのですもの」
それは……気付いていた。屋根に登って空を見上げている時、自分のことを考えていてくれるのだろうとは、有彦も気付いていた。
もしかしたら、自分がもう少し一緒に居てあげられたら、亜里紗に屋根に登る癖なんてつかなかったのかもしれない。
それは、きっと有彦の考えすぎではないだろう。
亜里紗が兄離れしてからだったのなら、きっと。
「亜里紗。君はもう立派なレディなんだから、いつでも優雅にエレガントにいなくちやいけない。……屋根に登る時でもね」
その一番最後の一言を聞いた途端、亜里紗の表情が輝いた。
「優雅に出来たら屋根に登ってもいいの?」
甘すぎるのはわかっている。でも、可愛い妹がこんな顔をしている時に、冷たくダメだなんて言える兄なんていやしない。
「でも、優雅に屋根に登るのは大変だぞ?」
「大丈夫。頑張るから!」
本当は、その努力は別の方向に向けた方が良いのだと思う。でも、亜里紗にとってはそれはとても大切なことなのだろう。
だから、有彦は何も言わずに微笑んで見せた。
「兄様、これからはずっと一緒よ」
本当に嬉しそうに、心からの笑顔で。亜里紗は、当たり前のように言った。
でも、有彦は笑わなかった。
ここが有彦にとっても亜里紗にとっても正念場だと知っていたから。
言わなくてはいけない言葉を知っていたから。
「……亜里紗。それはダメだよ」
途端に亜里紗の顔色が変わった。
「どうしてですか? 兄様は私と一緒はイヤですか?」
今にも泣き出しそうな表情。有彦は、身を屈めて亜里紗を視線を合わせた。小学生だった頃、幼い亜里紗にしたのと同じように。
「亜里紗。僕だってずっと一緒にいたいさ。でもね、亜里紗は本当にそれでいいのかい?」
「いいに決まってます! でなかったら、あんなに苦労してここまで来たりしません」
「……僕以外の全てを捨てなくてはいけないのだとしても?」
そこで亜里紗は始めて言葉に詰まった。
「あの頃は、亜里紗には僕しかいなかったかもしれない。でも、今の亜里紗には大切なものがたくさんあるはずだよ」
「でも、私は兄様と一緒にいたくて……」
「大切なものがたくさん出来たという事はね、それは亜里紗が成長したということなんだ。妹の成長が嬉しくない兄なんて、いるわけが無いだろう? だから、亜里紗にはそれを大切にして欲しいんだ」
妹の成長に、喜びと寂しさを同時に覚えるのは兄として当たり前の感情だ。
それを感じることが出来る事こそ、兄に与えられた最大の権利だろう。
「でも、だって、私は苦労してここに……」
そう。ここは簡単に来られるところではない。亜里紗は本当に苦労してここまで来てくれた。
だからこそ。
「亜里紗。帰るつもりがなかったなら、どうして一番簡単な方法でここに来なかったんだい?」
本当は、もう亜里紗にもわかっているはずだ。表情がそう言っている。でも、それを認めることが出来ない。当然だろう。有彦と別れてからずっと、そう思い続けて来たはずなのだから。
「だって……だって……」
「ごめん、責めているわけじゃないんだ。亜里紗は、本当に大切なものはなんなのかきちんとわかるくらい大人になった。その上で、それでもこうして会いに来てくれるくらい、僕のことを大切に思ってくれている。その両方が、すごく嬉しいんだよ」
有彦は、泣きじゃくる亜里紗をそっと抱きしめた。
大人になったように見えても、別れたあの頃と何も変わっていない。甘えん坊で、泣き虫で、でもしっかりとした芯を持った、有彦の自慢の妹。
「ほら、泣かないで。兄様に笑った顔を見せておくれ」
一生懸命笑おうとしているけれど、その努力が実るにはもうしばらく時間がかかりそうだった。
「ほら」
「きゃっ……」
不意をついて亜里紗の身体を横抱きに抱き上げる。所謂お姫様抱っこという形。
「ほら、よく高い高いしてやったよね。亜里紗はこれが大好きだった」
随分背の伸びた今では大して高くならないけれど、それでも幾らかは違うだろう。
「そらっ!」
そのまま走り出す。小学生だった頃とは違ってかなり大変だけれど、そんな事は関係ない。それで可愛い妹の涙を止められるのなら、ちょっとやそっとや相当程度の無茶ならやり遂げてみせる。
「ちょ……兄様、ダメです、もう!」
また瞳の端に涙が残っているけれど、亜里紗は笑っていた。
……うん。もう、大丈夫だ。
「ごめん……ちょっと一休み」
亜里紗を降ろして芝生の上に寝転ぶ。両手と腰がつらかったけれど、それも妹の重みだと思えば心地いい。
「全く……兄様はいつも勝手なんですから」
その隣に亜里紗が腰を降ろした。
ゆっくりと時が流れていく。今更言葉が必要な仲ではない。ただ黙って隣合っていれば、何を言いたいかなんてわかる。生まれた時からずっと、兄妹なのだから。
ずっとこうしていたかった。いつまでも、ずっと。
でも。
「……亜里紗」
それだけで伝わるはずだった。
「……もう少し、一緒にいてはいけませんか?」
「これ以上ここに居ると、この世界に飲まれてしまうよ」
「……はい」
うん。それでこそ自慢の妹だ。
立ち上がる。座っただけの亜里紗の方が先に立ち上がって、有彦に手を差し出していた。
ほんの一瞬だけ迷ったけれど、その手を取る。小さかったはずの妹の手は、兄が立ち上がるのを助けられるくらい、力強くなっていた。
そのまま向き合う。手は握ったまま。
「それじゃ、亜里紗。気をつけて」
「はい。兄様」
言葉を続けようとして、一度口を噤む。最後の、決定的なその言葉を告げるための一呼吸をして。
「さようなら、兄様。……世界で一番大好きでした」
その気持ちは今も変わってはいない。ただ、それよりも大切なものが出来てしまったというだけのこと。
「さようなら、亜里紗。世界で一番大好きだったよ」
その気持ちは今も変わってはいない。ただその想いは、亜里紗の住む世界のどこにも存在していない。
有彦は、自分からそっと手を離した。
手を差し出した姿のまま、再び亜里紗の頬に涙が伝う。でもその瞳は、優しく強く輝いていた。
「……兄様、また会えますよね?」
「ああ。でも、今度は出来るだけゆっくりおいで」
微笑み、手を振りながら、有彦は妹の背中を見送った。
亜里紗は振り向かなかった。一度決意してしまえば後ろを振り返ったりなんてしない。
その姿が見えなくなるまで、有彦はその場に立ち尽くしていた。
「……本当に、一人前のレディに育ったね」
嬉しいような寂しいような。
次に会えるのは六十年後か、八十年後か。その時には夫なんてものを連れているのだろう。
「……とりあえず、そいつを二、三発殴っとかないと気が済まないな」
例え亜里紗本人が幸福だったとしても、そのくらいの権利はあるはずだ。兄として。
兄というよりは男親の感覚に近いかもしれない。でもそんなものだ、一回り以上年の離れた兄なんてものは。
有彦は、また蓮池のまわりをぶらぶらと歩き始めた。
一人前のレディに育った妹に兄がして上げられる事と言えば、遠くから見守ってやることくらいだ。それはつまり、今までと何も変わらないということ。
ふと池に目をやると、蓮の葉の間には白い花が浮かんでいた。そして、それにそっくりな太陽が、ゆらゆらと水面で揺らめいている。
いつの間にか、辺りは昼に近くなっていたようだった。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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