楽天市場
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

その他。


とりあえず、お茶でもお飲みになりませんか

 

 西村妙は戸惑っていた。  いや、正しく言えば「戸惑う」などという、一言で言い表せるような単純な感情ではない。恐怖、絶望、達観、諦観、くやしさ、情けなさ、その他自分にこれだけのものがあったのかと思うほどに諸々の感情が複雑に交じり合った、なんとも表現のしようの無い想いが身体の中を渦巻いている  でも、その中でも一番大きいものは間違いなく「戸惑い」だった。  妙のすぐ目の前。ほんの10mも離れていないところに、10歳くらいの小さな女の子がいた。その子は床にレジャーシートを敷いた上に正座をし、携帯ボトルから注いだお茶を飲んでいる。  別に、おかしな光景ではない。  そのお茶を飲む姿が、見た目の年齢に相応しくないくらい様になっているというところは、あまり普通ではないかもしれない。けれど、子供がレジャーシートに座ってお茶を飲んでいるというのは、別段珍しい光景ではないと思う。  もしも、ここが日曜日の公園ででもあったのなら。  でも、それが12階のビルの屋上となれば話は別だ。  しかも、目の前に手すりを越えて、今にも飛び降りそうな妙がいるのならば。  背筋がぴんと伸びてもまだ床に届くその子の髪が、高所故に吹き荒れる風にあおられて千々に乱れている。それでも居慣れた茶室にいるかのように、その所作が乱れることはない。 「……それで、まだですの?」  ゆっくり時間をかけてお茶を堪能してから、女の子が言った。間が抜けてすら見える大きなトンボ眼鏡の奥の瞳が妙を捉える。  突き刺すようなするどい眼差しは、今はそれがようやく窺える程度までに、つまらなそうに細められていた。 「な……何がだよ」  自分でも声が震えているのがわかる。何がなんだか分からない。  妙は不良仲間では一目も二目も置かれる存在だった。鉄パイプ片手に相当な無茶もやってきた。普通の同年代の奴等よりも、ずっと濃い経験をつんでいると思っている。  それでも、流石にこんな事態は常識外だった。 「飛び降りるのでしょう? ゆっくり時間をかけるのも趣がありますけれど、わたくしはこれから予定が詰まっているものですから、早く終わりにして欲しいのですけれど」  普通、こんな状況なら止めようとするだろう。あるいはこのくらいの小さな子供なら、逃げるか良くても誰かを呼ぶのが関の山だと思う。  それが、レジャーシートを広げてお茶を入れて、見物だと? 「見世物じゃねーんだよ!」 「観客の居る前でそんなことをして、見世物にならないとでも思っていますの?」  正確に言えば違う。妙が手すりを乗り越え、覚悟を決めようとしているところにこの子がやってきたのだ。  本当ならば、その時点で飛び降りるなり諦めるなりすればよかったのだと思う。しかし不意の他人の乱入に、決めたはずの覚悟は霧散し、かといって手すりを越えて戻るのは居心地が悪い気がしてしまった。  そんな風に戸惑っている間に……こんなことになってしまったのだ。  あきらかに見物されている状態で、飛び降りなどできるものか。 「中止なら早くそう言ってください。今言いましたとおり、わたくしは暇ではないのですから。それとも、一緒にお茶でもお飲みになりますか?」  ちくしょう。暇じゃないヤツがこんなところでこんな状況をのんびり見物なんかしてるもんか。  ナメられている。どうせ飛び降りやしないと思われているのだ。長らく不良仲間の中にいた妙にとって、それはもっとも我慢ならないことだった。  望みどおり飛び降りてやる。そう心を決めて、妙は下を見下ろした。  高かった。覚悟の決まりかけていたさっきまでよりもずっと高く見える。風も強い。フェンスにつかまっていなければ、今にも吹き飛ばされてバランスを崩してしまいそうだ。  それが、望みのはずなのに。  この手を離す勇気もない自分の情けなさが可笑しかった。  見下ろせば、遥か眼下に人間達がいる。この高みから見下ろすその姿は、文字通りゴミのようだった。あんなゴミみたいにしか見えない人たちにも、きっと自分なりの生活があるのだろう。一生懸命働いて、誰かを愛して、せいいっぱい生きている。  ついさっきまで、自分もあちら側にいた。悩みもつらいこともあったけれど、それでも明日の心配なんてしないで生きていた。寝て起きれば、昨日と変わらない明日が来るのだと、何の疑問も持たずに生きてきた。あのゴミにしか見えない人間達の中に、自分のような者がどれだけいるのだろう。  本当のゴミは自分の方だ。全てを失って、全てに絶望して、出来る事といえばここから飛び降りる事くらい。  自分の居るべき場所は、この下にあるのだ、と妙はすでに悟っていた。とん、と足を蹴れば、それで全て御仕舞い。悩む事も苦しむ事も泣く事も何もなくなる。いいや、踏み出す必要すらない。この手を離して風に身を任せさえすれば、意識すらせずにこの奈落の下まで連れて行ってくれる。  それはとても簡単な事。目を瞑って力を抜いて、ほんの少し待つだけ。  もう、終わりにしよう。フェンスを掴んだ指から、そっと力を抜いていく。 「……まだ時間がかかるようでしたら、何か暇つぶしの話でもしてくださいませんか?」  びくっ、として思わず指に力を込める。 「喋りで観客を飽きさせないのもエンターティナーの努めですわ」  ちくしょう、いい気になりやがって。  下を見下ろす。先程までの吸い込まれるような感覚はなくなっていた。  妙は溜め息を吐いた。もう一度覚悟が固まるまでには、かなりの時間がかかりそうだ。 「……何が聞きたいんだよ」 「そうですわね。せっかくですから、事ここに至った背景などを」  確かに、今それ以外にすべき話などないだろう。  思い出したいことではない。でも、このまま胸に閉まったままでは息がつまりそうだった。その重さに引きずられたからこそ、こうして地面を見下ろしているのだから。 「わかりやすい話さ。……親の会社がな、潰れたんだ」  子供は興味のなさそうな顔でお茶を飲んでいる。自分から聞きたいと言いやがったくせに。  でも、気にせず妙は続けた。そもそもこの子に聞かせようとしたのではない。胸に詰まっているものを、口から外に吐き出したかっただけ。 「借金が1億近くあるらしい。まぁ、このご時世だから、それ自体は仕方ないんじゃないかと思うんだよ。そもそも人が良いだけで、商才なんてないヤツだったからな。……でもな。親父のヤツ、よりによってヤバいところから借金してやがった」  会社を、家族を守ろうとしたんだと思う。きっと、どんなことをしてでも。  でも、そんなところから借金をしなくてはいけないような会社が、簡単に立ち直れるわけがない。結局、それは事態を悪化させただけだった。 「見りゃわかると思うけど、アタシは不良だからさ。家にはあんまり近付かないし、たまに帰っても親と顔をあわせたりしないんで、そんなこと全然気付かなかった。関西最強とか呼ばれてちやほやされてさ、いい気になってたんだな。『西の虎』って聞いたことあるか?」 「不良に興味はありませんもの」  そりゃそうだ、と妙は頷いた。不良でもない一般人がそんなことが知っているわけがない。あくまで不良の仲間内で名前が売れているというだけのこと。  あまりにも狭すぎる世界。そんな中で粋がって何にでも噛み付いて必死でやってきて。その挙句がこのザマだ。 「取り立てもさ、最近じゃ色々法律とかあって巧妙になってるみたいなんだよな。家のことになんて関わろうともしなかったし、興味もなかったアタシが知らないうちに、親はどんどん追い詰められてって……約束しちまったらしいんだよ」  そこで妙は言葉を止めた。今でも信じられない。信じたくない。信じるしかなくても認めたくない。それが現実逃避に過ぎないとわかっていても。  ためておくには重いけれど、吐き出すにはあまりにも痛すぎる事実。 「何を、と聞く必要はありますか?」  見透かしたようなその台詞が無性にムカつく。でも、促されたことで認めなくてはならないという覚悟が出来た。ありがたかったのは確か。 「……借金のカタに、アタシを差し出すってさ。ほら、アタシって若くて美人だから」  自嘲気味に笑ってみせる。自分の容姿にはそれなりに自信があった。仲間内で評判になる程度には。でもまさか、そのせいでこんなことになるなんて。  或いは、もしかしたら最初から、妙が目的で家に金を貸していたのかもしれない。妙はあちらこちらで目立つ事をしていたし、恨みだってどれだけ買っているかしれない。そのスジの奴らなら、妙を自由にする事がステータスになると考える者だっているかもしれない。 「……実際には養女とか結婚とかの形式になるみたいだけど、それがどういう意味か位はアタシにだってわかるさ」  その手段や今までの借金取りの態度を見れば、金持ちに見初められて玉の輿に、なんてシンデレラストーリーではないのは明らかだ。 「それで?」 「それでって……」  今説明したってのに、何を聞いていたんだ、コイツは。 「今のお話と、飛び降りるという結論とが結びつかないのですけれど」  そういえば、コイツは見た目も物腰もいかにもお嬢様然としている。妙のような零細企業の社長の娘なんて半端なものではなく、本物のお嬢様なのだろう。お茶を飲む仕草を見ても、茶道かなんかやってるんだろうと予想が付く。  きっと苦労なんてしたことがないのだろう。まして、親に売られるなんてこと、想像すら出来ないのに違いない。 「だから、絶望して飛び降りようとしてんだよ!」  時間の無駄だった。別にわかって欲しくて話したわけじゃない。それでも、普通なら同情の言葉のひとつくらいはあるものじゃないだろうか。  自分が最後に言葉を交わす相手が、まさかこんな奴になってしまうなんて。  最後の最後になって、自分の人生がどれだけ意味のないものだったのか、はっきりと突きつけられた気がした。 「具体的には、どこに絶望したのです?」  何故コイツはこんなにしつこいのだろう。まさかワザとイライラさせようとしているのだろうか。絶望して飛び降りようとしている自分を、からかって楽しんでいるのか。  或いは、そうやって早く飛び降りさせようとしているのだろうか。 「具体的には……そう、親に売られたってところだよ。子供を守るはずの親に売られたら、普通絶望するもんだろうが」 「親が子供を守るものだなんて、誰が決めたのですか?」  あまりにも意外な返事に、妙の思考が一瞬停止した。 「え……? いや、そんなの当たり前だろうが」 「子供を虐待する親。それで殺してしまう親。放置して死なせる親。そこまでではなくても無関心な親。別に珍しいことではないでしょう。そのどこが当たり前なのですか。中には、子供を産んだ事すら覚えていない母親もいるというのに」  流石に産んだ事自体を覚えてないってことはないと思う。十ヶ月も腹の中で命を育てて、体を痛めて子供を産んだことすら覚えていないなんてことは。  でも、それ以外は実際にあることだ。最近、またニュースになった。  決してふざけているのではない様子に、反論が出来なくなる。 「貴女の親は、子供を売る親なのでしょう? その親にずっと育てられてきて、何故今になって急に絶望したのですか?」  親に売られた。それは事実だ。自分でそう言ったのだ。  でも。 「違う! 追い詰められて、どうにもならなくなって、それでつい魔が差したんだ!」  自分を売ったとはいえ、自分もずっと顧みずにいたとはいえ、それでも家族だった。悪いのはいつも非行に走った自分の方。家族は変わらずそこにいて、妙を待ってくれている。ずっとそう信じていたのだ。それが全て嘘だったなんてこと、耐えられるわけがない。 「つまり、追い詰められて魔が差せば子供を売る親だったのでしょう? 追い詰められようが魔が差そうが子供を売らない親が、急に別人になった訳ではありません。子供に保険金を残すために自ら死を選ぶ親だっているのです。貴女の親は、自分を犠牲にするのか、子供を犠牲にするのかの選択で、子供を犠牲にすることを選んだ。つまり、最初からそういう親だったのです。今までは、ただその条件が整わなかったというだけですわ」  そう……なのだろうか。今まではたまたま運が良かっただけで、本当はいつこうなってもおかしくなかったのか。 「で……でも、こんなことにならなければ、アタシを売ったりなんてしなかったはずなんだ」 「ええ。運がよければ、ずっと知らずにいられたのかもしれませんわね。現実を見ずに、夢だけ見ていられたのかもしれません。それで?」  まただ。また『それで?』。  他人事だと思って。まるで何でもないことのように言いやがる。ムカつく。こんなガキの言うことだとわかっていても、それでもどうしようもなくムカつく。 「……それで十分だろうが」 「いいえ。まだ不十分です。実害は何があったのですか? そもそも売る約束だけで、まだ引き渡されたわけではないのでしょう? その今現在で、どのような実害が起こっているのですか?」 「そんなのは……時間だけの問題じゃねーか……」  何をされるのか予想できる。でもそれはあくまで予想であって、実際にされたことではない。  だからといって、されてからでは遅い。 「起こってしまったことはどうにもなりません。ですが、まだ起こっていないということは、これから避けることが出来るということです」 「避けるったって、どうしようもないだろうが! もう、どうにもならないんだよ!」  返済期限は明日だ。一億なんて金が出来るわけがない。それが出来るようなら絶望なんてするもんか。 「絶望した程度で死ぬならさっさとそうなさい。そんなに甘えているような人が、この先生きていけるとはとても思えません」  そうだ。だからここにいる。お前が邪魔さえしなければ、もう何もかも終わっていたはずなのに。 「……絶望ってのは、もう終わりだってことだろうが」  この子に対する苛立ちが、自分の境遇のことよりも妙の心を支配し始めていた。 「終わっていないからここにいるのでしょう? 本当に終わっていれば、ここに居る事す ら出来ませんわ」  死にさえしなきゃ終わりじゃないということか。どこの少年マンガの台詞だ。  生きてさえいりゃ何でも解決できるなんてわけがない。一日で一億なんてどうしろというんだ。日給一億の仕事なんてあるのか。  これのどこが、終わってないというんだ。 「1%でも可能性があるなら諦めるなってか? そんなキレイ事が通じるわけがねぇだろうが!」  99%成功するという時に、1%失敗するということを恐れるようなものだ。あまりに無意味過ぎる。  そもそも、その1%すらないから絶望なのだ。 「だから甘えているというのです。可能性が1%なければやらない? 0%だろうがやりなさい。同じ死ぬなら前のめりに倒れて死になさい。その分遠くに手が届くでしょう。犬死するなら刺し違えなさい。意味なく死ぬなんてサルでも出来ます。人間として生まれたのなら、人間らしく意味のある死に方をなさい。ここから飛び降りれば、流れた血や回収しきれない肉片は流されて下水行きです。文字通り、ドブに捨てる程度の命だと思うなら、そうなさい」  反論しようと口を開いて……そのまま溜め息を吐いた。その言葉の内容自体には、反論できるところはない。  だから、妙は瞳を逸らした。 「……人間はみんな、そんなに強くないんだよ」  どうにもならないとわかっているのに。終わりが見えているのに。それでも前に進み続けるなんてこと、出来るわけがない。 「別に、前にしか道がないわけではありません。他人が決めた口約束など破ってしまえばいいでしょう? 貴女自身が婚姻届に判を押したわけではないのならば、何も終わってなどいません。弁護士に相談はしましたか? 民事再生法の申請は? それでもどうにもならないようなら、夜逃げしてもいいでしょう。出来ることなどいくらでもあります。同じ堕ちるにしても、自己破産、生活保護、ホームレス、いくらでも方向を選ぶことが出来ます。ビルから飛び降りるだけが堕ち方ではありませんのよ?」  自己破産はともかく、ホームレス生活なんて出来るわけがない。  出来るわけがないけれど、でも……確かに、出来ることが全くないわけではないらしい。 「貴女は絶望したと言いました。ええ、確かに絶望したのでしょう。ですが、『どん底だから』絶望したのではありません。『どん底だと思ったから』絶望したのです。絶望と終わりはイコールではありません。絶望にはその下があります。どん底だと思ったその更に下で、その状態を普通として生きている人たちがいます。その人たちが今の貴女と同じ状況になったら、きっとやり直す機会を得たと思うでしょう」  他人はあくまで他人だ。そいつがどう考えるかなんて関係ない。  でも、自分の基準だけで考え過ぎていたのかもしれない。 「今まで居た場所しか見ないから絶望などするのです。今現在、立っているその場所をしっかりと見据えて、その上で上を見上げなさい。そうして這い上がる方法を探しなさい」 「……好き勝手言いやがる」  でも、間違ったことは言っていないと思う。少なくとも、妙には見つけられなかった。 「結局のところ、貴女の人生、貴女の命です。どう使うのかは他人が決めることではありません。貴女がお好きになさい」  そんなことはわかっている。だから、自分で決めたからこそ、こうしてここに立っているのだ。  そう、言おうとした。  でも言えなかった。飛び降りようとした決意に嘘はないけれど、それだって今考えてみれば衝動的なものに過ぎなかった気がする。確かにどん底まで落とされたけれど、追い詰められたわけではない。  こんなことになってしまった今でも選択肢はたくさんあって、飛び降りるというのはその中のひとつに過ぎないのだ。  そう思うだけで、随分と心が軽くなっていた。  出来るだけの事をして、飛び降りるのは本当にどうにもならなくなった時でいい。出来る事があるのなら、いよいよ借金取りに引き渡されるその瞬間まで、足掻いてみてもいいんじゃないだろうか。0%でもやるなんてことは、妙には出来そうもないけれど。  そう思うことも、妙ひとりでは出来なかった。色々と引っ掻き回してくれたけれど、それを教えてくれたこの子がいたからこそ、それがわかったのだ。  半ば感謝の気持ちで視線をめぐらせる。  その当の本人は、膝の上に広げたノートパソコンに視線を落としていた。  本当に、妙のことなど見世物だとしか思っていないらしい。 「……何やってんだよ」  流石に腹が立った。ついさっきまでとは全く違う理由で。 「株式相場ですわ。そろそろ上げ止まる頃合ですから」 「お前……株なんて持ってんのか」  見た目からすれば、この子供はどう考えても十歳かそのくらいのはずだ。口座とか持てるのだろうか。 「ええ。自社株や関連企業の株も所有していますけれど、そちらは売り買い出来る性質のものではありませんから。これは純粋なデイトレード用のものですわ」  こいつ、今さらっと自社株とか言いやがった。かなりいいところのお嬢様なのだろうとは思ったけれど、それでも自社株を持ってるってのは普通じゃない。 「4……3……2……」  何をやってるのか全然わからないけれど、話の流れからすれば上げ止まるタイミングとやらを測っていたのだろう。  一瞬、腹いせに邪魔をしてやろうかとも思ったけれど、大人げないことは止めておく。道連れが欲しいとか思っているわけでもない。 「……三秒ほど読み違えたようですわ。予想額を20万円程下回ってしまいました」  20万。妙が一生懸命に働いても、稼ぐのに一ヶ月はかかるだろう金額だ。しかしそれは、この子にとってはたった三秒で動く金額に過ぎないらしい。  さっきまで重くのしかかっていた金というものなんて、その程度のものだった。そのことに脱力する。  何だか、何もかもどうでもよくなってしまった。 「よっ……と」  手すりの上に手を添えて、妙は再びそれを飛び越した。今度は外側ではなく、内側へ。コンクリートの感触の、揺らぐ事のないしっかりとした足場の上へと。 「飛び降りるのは中止ですか?」 「ああ。お前の期待に答えられなくて残念だけどな」  その子の表情が残念そうでないことを知った上で、妙はそう言った。 「ああ、ついでですからもうひとつ言っておきますけれど、親の借金を子供が背負う必要はありませんわ」 「……そうなのか?」 「ええ。性質の悪いところから借りたなら簡単にはいかないかもしれませんけれど、きちんとした対処をすれば、法的に解決できることですわ。いずれにしても、先ずは弁護士に相談なさい。自己破産するにしても、手続きが必要ですから」  どうやら、問題はもっと簡単だったらしかった。  手すり越しに下を見下ろす。終わりのはずのこの場所は、妙にとって終わりではなかったらしい。 「それで、結局どうするつもりですの? 今まで待たせられたのですから、せめてこれからどうするという予定だけでも聞かせて欲しいのですけれど」  ただムカつくだけのガキだったけれど、望むと望まざるに関わらず、ここまで関係したことは間違いない。この屋上でのことを終わりにするために、それくらいのことは伝えておかなくてはキリが悪い気がする。 「そうだな。とりあえず薦められたとおり、弁護士にでも相談してみるよ。……でも、あんなでも親は親だからな。借金の中にはアタシを育てる分も入ってるんだろうし。それを見捨てたりしたら、アタシを売った親とおんなじになっちまう。何とか返す方向で考えてみるよ」  もっと簡単な道があることは、今教えて貰ったとおりだけれど。 「弁護士に相談しても、金利を法定内で計算しなおして、返却までの期間を延ばす程度でしょうね。借金取りに怯えて、頭を下げて、爪に火を灯すような生活になることは、多分間違いありません」  わかっている。弁護士に相談しただけで何もかも全て解決、なんて都合のいいことは、いくら妙でも考えていない。  それでも金持ちに囲われたり、ここから飛び降りたりするよりはずっとマシだ。 「ま、本当にどうにもならなくなって、それが一番マシな方法だと思ったら、またここに来るさ」  でもきっと、それはないだろう。自己破産でもなんでもして、どん底にしか見えないどん底ではない場所で、きっとたくましく生きていける。 「でもそれは、あまり賢明とは言えませんわね」 「んなこたわかってるよ。アタシはバカだから」  そんな言葉も、今では素直に返す事が出来た。この子は妙の半分くらいしか生きてないのだろうけれど、百倍くらいは賢い。それを認めることが、きっと今立っている場所を見据えるということだと思う。 「可能性が0パーセントでもやりなさい、とは言いましたけれど、それよりも勝ちの目の多い方法があるなら、そちらを選ぶべきですわ」 「……あるのかよ、そんな方法が」  覚悟は出来たけれど、これからのことに恐怖がないわけではない。家族を売るほどではないにしても、それに近い生活が何十年も続くのは間違いないのだから。  それ以外の方法があるのなら、やはりそちらを選びたい。 「時間を切り売って働いて、人生を浪費することは自分を売ることと同義です。売るものは出来るだけ高く売るべきです。それが自分自身であれば尚更ですわ」  そんなことはわかっている。だからこれから一番高く買ってくれる……給料がいいところを探す。  でもそれは、少しでも借金の問題をマシにしてからだ。 「不当に買い叩かれるくらいなら、私が買い取りましょう。貴女を喰い物にしようとした奴等の頬を、札束で叩いて黙らせられる額を支払います。どうせただ捨てるつもりだった命なら、私が有効に使いましょう。そんな下衆に見下されて、食い物にされることのない生き方をさせて差し上げます」  それは、確かに魅力的な提案だった。  自分を売った親。そこまで追い詰めた借金取り。その黒幕である、金を貸した奴。その全てを見返せるのなら、それはとても気持ちのいいことに違いない。  でも。 「買うったって、一億だぞ? そんな金あんのかよ」  一億というのがどれだけの金額なのか。それだけ集めるのにどれだけ苦労しなくてはならないのか。そのために飛び降りようとしていた妙が一番良く知っている。 「ありませんでしたわ。さっきまでは。たった今、手持ちの株を処分して作りました。現金で用意するには少し時間がかかりますけれど、小切手なら今すぐにでも切れます」  さっきのあれか。  パソコンを開いて、四秒数えて、クリックを一度。それで一億稼いだのか。 「……嘘だろ」  いや、それだけの株を手に入れるのに、半端でない元手や時間や能力がかかっているのはわかっている。それでもやはり、信じられない。 「持ってたとしても、いいのかよ。使っちまって」 「ええ。元手は既に回収してあります。ですからこれは、経済の動きを学ぶためだけの、全て失っても痛くも痒くもない泡銭に過ぎません。惜しくなどありませんわ。しかもそれが、価格に相応しいものを買い取るための支払いなのでしたら」  レンズの向こうの瞳が全く揺らいでいない。本気で言っている目だった。  それで悟った。こいつには一生勝てない。  ケンカなら負けるはずがない。喧嘩慣れしている妙に比べて、この子は見るからに華奢だ。どう見ても身体を使う事に慣れても向いてもいない。そうでなくても、成長期を挟んでのこの年齢差だ。むしろ負けることの方が難しいだろう。  でも、そうではない。そういうことではなく、人間の格のようなものが根本的に違う気がする。  だから、逆に心配になった。 「……アタシにそれだけの価値があると思うか?」  この子に、一億なんて金額を出させるほどの価値が、自分にあるのだろうか。  今までの妙なら、そんなことは考えなかっただろう。いつでも強気で、鉄パイプ一本あれば誰にも負けない自信に溢れた妙だったら。  でも、屋上の手すりを乗り越え、奈落の深さを覗き込んだ今の妙にとっては、それは切実な問題だった。 「先程までの貴女になら、ありませんでしたわ。無料で引き取れと言われても断ったでしょう。ですが、その手すりを再び乗り越えてこちらに来た、その目をしている今の貴女になら、それだけ払う価値があります」  ちくしょう。なんだ、すげー嬉しい。  妙にとって一番だったはずの、不良仲間たちに認められた時よりも、信頼を受けてリーダー格に選ばれた時よりも、ずっと嬉しかった。  だから、この子に自分を安く見られたくない。そんな子供じみた思いで、妙はもうひとつ聞いた。 「なら逆によ、アタシの価値は一億程度しかねぇと思うか?」 「でしたら、いずれご自分で買い戻しなさい。一億程度安いものなのでしょう? そうしてから、またふさわしい金額で私が買い取って差し上げますわ」  それは、いわば幾らでも払うということ。こうまで言われて断ることが出来るだろうか。 「わかった。これからアタシのボスはアンタだ。……アタシは西村妙。アンタは?」 「小岩井碧あおいですわ。よろしく、妙」  相手は、見た目は十歳かそのくらいにしか見えない子供。でも妙は、その子供に従うことを屈辱だとは感じていなかった。見た目ではない、本当の価値。それにふさわしいだけのものを持っているのがわかっていたから。  握手をしようと右手を差し出そうとした妙の動きを、碧はさえぎった。 「他人の体に触れる趣味はありませんの。信頼関係を結びたいなら、働きで示しなさい」  少しむっとしないでもなかったけれど、同時に妙は納得してもいた。碧の纏う雰囲気は、気軽に他人を寄せ付けるようなものではない。  近づきたいのであれば、それにふさわしい段階が必要なのだろう。 「……で、アタシは何をすればいい?」 「貴女に出来る事をなさい。指示がなければ動けないような人間は必要ありませんわ」  そう言って、碧は歩き出した。本当に、指示などは何もしないつもりらしい。  妙は慌ててその後を追いかけた。  前を行く碧の背中で、長く艶やかな髪が揺れている。  そのお尻までを覆う黒髪を眺めているうちに、ふと妙は聞き忘れたことがあることを思い出した。 「なぁ。アタシと同じ立場になって、本当にもうどうにも出来ないってなったら、アンタどうする?」  妙にとって、一億の借金が出来たというのは本当にどうにもならない状況だった。でも、碧はそれをどうにかする方法を知っていた。  だから、解決方法などなにもないという、あの時の妙と本当に同じ状況だったのなら、碧はどうしたのだろうか。それが知りたかった。  ちらと碧が振り返る。  肩越し、眦から横目に向けられた視線が妙を捕らえた。トンボ眼鏡で和らげられていない眼光が、するどく妙に突き刺さる。 「舌を噛んで死にますわ」  予想とはあまりに違いすぎる答え。その意味をしばらく理解することが出来なくて、妙は呆けた。 「なんだよそれ」  あれだけえらそうに説教しておいて、その挙句自分はさっさと終わりにするという。  そのあまりの無体さに、妙は声を上げて笑い出していた。 「覚えておきなさい、妙。この世界なんてものは、極めて理不尽に出来ているものですわ」
9/35
アクセス数
ページビュー数

プロフィール

名前
未田 尚(まだ なお)
通称
にゃー
お仕事募集ちう。
文章を書く関係ならなんでも。
連絡は「お問合せ」まで。
QRコード
携帯用QRコード