ノートルダムの鐘Ⅱ
『ノートルダムの鐘Ⅱ』
先のページでも書いたが、最初、これを観る気はなかった。
大体が続編というものは本編をしのぐことはないと思ってたし、きっと蛇足だろう、絵柄も雑そうだし、
本編の思い出のままで留めておきたい。そう思っていたのだけれど、
ひょっとしたらと思って観てみたら、これが案外良かった。
というか、カジモドの人生に添うという意味では、観て良かった。
注文つけたいところは、とにかく、絵。
画質ということよりも。カジモドの顔が相当違う。
場面ごとにも違うが、全体に、なんかちょっと品が下がった感じがする。親しみやすさは増したかもしれないが。
それとも、彼も歳をとったのかな?
太ったみたいだし。フロロという重荷がなくなったから?
カジモドは本編では、そんなに鼻の下が前面に出てやしないと思う。目も、もう少しピッとした感じにすべきだ。そんなに垂れ目じゃないから。
特に、「恋の始まり」の歌をガーゴイル達が歌ってるときのカジモドの顔は明らかに別の生き物だと思う。
という、絵のことをあえて気にしないで観て欲しい。
かつての初恋のひとであるエスメラルダはフィーバスと幸せな家庭を持ち、その幼い息子ゼファーとともに、一家はカジモドの良き友達となっている。
かつて彼らがカジモドを社会に押し出してくれ、引き続き支えてくれた。
その友に囲まれ、人間社会で、自分の役割を誠実に担い、日々を楽しみながらも、カジモドはどこか寂しさを抱えていた。
もうすぐ催される「愛の祭り」に町中が浮かされていても
自分には決して幸せな恋など訪れないと。
そこに現れるサーカスの娘、マデリン。彼女は団長のサルーシュの悪事の片棒をかつがされているのだが。
きっかけはともかく、カジモドに出会い、その不思議な存在に、徐々に目を開かされることになる。
カジモドのほうも、通りすがって行ったマデリンに、諦めていた恋を思いがけず掻き立てられ、
一般人にはごく「普通のこと」でも自分には「奇跡」である恋への憧れを願って歌う。
この歌の美しいこと。
カジモドが稀有な生い立ちを経て大聖堂の中で、自然をめでながら、命に感謝しながら、愛と恋を知る、そんな歴史を感じさせながら、
カジモドもそんな美しいありのままの自然の一部なんだなと強く思わせる、
自由に動きまわる身体と、どこまでも響き渡るフォルテとピアニシモの声。
というか、彼こそサーカスに入団したらいいんじゃないか。
サーカスを観にきたカジモドと、幼い友達ゼファーの、ホントに心あったまる様子を見て、
マデリン感動しつつ、カジモドに声をかける。
照れながらもマデリンを元気づけ、町をエスコートするカジモド。
そこから始まる二人の時間。
ここで繰り出されるカジモドの、豊かなパーソナリティの魅力。
思いやりもあって、遊び心もあって、
見かけに惑わされずに自然や人の真価を見抜き、愛情を持ってしてそれを人に伝えることのできる、成熟した大人。
それこそ「世界のことをそんなにも分かっている」天性の叡智。
サルーシュのせいで、カジモドのマデリンに対する信頼は、一度は裏切られる。
でもそこを乗り越えたことで、二人の思いは更に強く堅いものになっていた。
マデリンは、カジモドに出会い、
初めて自分のことを、価値のある、可能性のある、人間だと認めてもらえた。世界の窓口に、立たせてもらえた。
でもカジモドも、マデリンによって、恋という分野においての自己価値、可能性、を開かせられることになる。
そのままの個性で、お互いが互いを輝かせる、こういうのが本当にソウルメイトとの出会いと呼べるのだろう。
ラ・フィデルの鐘の外側が地味なのに内側がきらびやかなのが象徴的。
ガーゴイルの存在に気づくほどのイマジネーションを彼女も持ち合わせていたことに心から祝福したい。
ユーゴとビクトルとラヴァーンにウィンクしながらカジモドの口唇に真正面からキスするマデリンが頼もしいし、
それを受けるカジモドの、左目(でかいいぼに圧されているほうの目)が実に切なくセクシーですらあるし。
エンドロールに流れている歌はマデリンの思いそのもの。
(マデリン役のジェニファー・ラブ・ヒューイットが、自ら作詞を手がけたという)
原作ではありえなかったカジモドのこの新しい人生が、
この素敵な伴侶とともに、これからも色彩ゆかたに末永く幸せに続いて欲しい。
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先のページでも書いたが、最初、これを観る気はなかった。
大体が続編というものは本編をしのぐことはないと思ってたし、きっと蛇足だろう、絵柄も雑そうだし、
本編の思い出のままで留めておきたい。そう思っていたのだけれど、
ひょっとしたらと思って観てみたら、これが案外良かった。
というか、カジモドの人生に添うという意味では、観て良かった。
注文つけたいところは、とにかく、絵。
画質ということよりも。カジモドの顔が相当違う。
場面ごとにも違うが、全体に、なんかちょっと品が下がった感じがする。親しみやすさは増したかもしれないが。
それとも、彼も歳をとったのかな?
太ったみたいだし。フロロという重荷がなくなったから?
カジモドは本編では、そんなに鼻の下が前面に出てやしないと思う。目も、もう少しピッとした感じにすべきだ。そんなに垂れ目じゃないから。
特に、「恋の始まり」の歌をガーゴイル達が歌ってるときのカジモドの顔は明らかに別の生き物だと思う。
という、絵のことをあえて気にしないで観て欲しい。
かつての初恋のひとであるエスメラルダはフィーバスと幸せな家庭を持ち、その幼い息子ゼファーとともに、一家はカジモドの良き友達となっている。
かつて彼らがカジモドを社会に押し出してくれ、引き続き支えてくれた。
その友に囲まれ、人間社会で、自分の役割を誠実に担い、日々を楽しみながらも、カジモドはどこか寂しさを抱えていた。
もうすぐ催される「愛の祭り」に町中が浮かされていても
自分には決して幸せな恋など訪れないと。
そこに現れるサーカスの娘、マデリン。彼女は団長のサルーシュの悪事の片棒をかつがされているのだが。
きっかけはともかく、カジモドに出会い、その不思議な存在に、徐々に目を開かされることになる。
カジモドのほうも、通りすがって行ったマデリンに、諦めていた恋を思いがけず掻き立てられ、
一般人にはごく「普通のこと」でも自分には「奇跡」である恋への憧れを願って歌う。
この歌の美しいこと。
カジモドが稀有な生い立ちを経て大聖堂の中で、自然をめでながら、命に感謝しながら、愛と恋を知る、そんな歴史を感じさせながら、
カジモドもそんな美しいありのままの自然の一部なんだなと強く思わせる、
自由に動きまわる身体と、どこまでも響き渡るフォルテとピアニシモの声。
というか、彼こそサーカスに入団したらいいんじゃないか。
サーカスを観にきたカジモドと、幼い友達ゼファーの、ホントに心あったまる様子を見て、
マデリン感動しつつ、カジモドに声をかける。
照れながらもマデリンを元気づけ、町をエスコートするカジモド。
そこから始まる二人の時間。
ここで繰り出されるカジモドの、豊かなパーソナリティの魅力。
思いやりもあって、遊び心もあって、
見かけに惑わされずに自然や人の真価を見抜き、愛情を持ってしてそれを人に伝えることのできる、成熟した大人。
それこそ「世界のことをそんなにも分かっている」天性の叡智。
サルーシュのせいで、カジモドのマデリンに対する信頼は、一度は裏切られる。
でもそこを乗り越えたことで、二人の思いは更に強く堅いものになっていた。
マデリンは、カジモドに出会い、
初めて自分のことを、価値のある、可能性のある、人間だと認めてもらえた。世界の窓口に、立たせてもらえた。
でもカジモドも、マデリンによって、恋という分野においての自己価値、可能性、を開かせられることになる。
そのままの個性で、お互いが互いを輝かせる、こういうのが本当にソウルメイトとの出会いと呼べるのだろう。
ラ・フィデルの鐘の外側が地味なのに内側がきらびやかなのが象徴的。
ガーゴイルの存在に気づくほどのイマジネーションを彼女も持ち合わせていたことに心から祝福したい。
ユーゴとビクトルとラヴァーンにウィンクしながらカジモドの口唇に真正面からキスするマデリンが頼もしいし、
それを受けるカジモドの、左目(でかいいぼに圧されているほうの目)が実に切なくセクシーですらあるし。
エンドロールに流れている歌はマデリンの思いそのもの。
(マデリン役のジェニファー・ラブ・ヒューイットが、自ら作詞を手がけたという)
原作ではありえなかったカジモドのこの新しい人生が、
この素敵な伴侶とともに、これからも色彩ゆかたに末永く幸せに続いて欲しい。
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プロフィール
- ニックネーム
- ぷりも
- 性別
- 女
- 自己紹介
- ディズニーアニメで好きなトップ5
1、ノートルダムの鐘、ノートルダムの鐘Ⅱ
2、美女と野獣
3、アラジン
4、リトル・マーメイド
5、ターザン