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Short & present!


はなをあいするひと


 【一年目】
『暑いナァ』
 妊娠半年目のお腹をさすりながら、桜子はブーケをこしらえていた。誰それの誕生日用の予約で、明るく、オレンジ色で。アリストロメリアとカーネーションなどで、思う存分明るく作る。
 ちっぽけな花屋でやる事は、今はそれくらいだ。旦那は隣の県に出張。あまり豊かでもない妊婦が暇を持て余すとなれば、やる事なんて実家の花屋の手伝いくらいしかない。祖母は奥の部屋でぐっすりと寝ていた。
 みんみんと早くも蝉がよく鳴く、7月はじめの暑い日だ。店の前を通る人は、みんなハンカチ片手に汗をかいている。その暑さを知っているからこそ、壊れかけた空調と、扇風機と、テーブルの上の冷えた烏龍茶が、この上なく気持ちよくなるのだ。
 半分近くなっていた冷えた烏龍茶を喉に与えると、喉から全身に、きんと冷たさが広がって、何も考えない、穏やかな息だけが桜子の口を吐いた。人の顔を覚えてくれない上司のいる会社でOLをしていた頃には、全く想像していなかった平和ぶりが、桜子の表情を、喉を撫でられた猫の様な顔にする。
『平和だナァ……』
 烏龍茶のグラスをテーブルに置き、またブーケに向き直った―――――とき、桜子の目に窓ガラスの向こうの景色が触れた。
『ん?』
 と、思って目を細める。5、6歳の小さな男の子が、お隣の植物園の出口で泣きそうな顔になっているのが見えた。今にも泣くんじゃないか、というようなあの表情は、とっても見慣れている。一目でピンときた。迷子だ。
 見慣れていなくても大方察しは付く。キョロキョロと辺りをずっと見ていて、お母さん! とここでは聞こえない声をあげている。
 外のじりじりした日光の真下で、その子はびっしょりと汗をかいていた。
「よっこら、」
 椅子を押しのけ、チリン、と鳴る扉を開け、桜子は照りつく日の元に体を出した。
「うえ」
 思わず辟易とした顔を表に出し、男の子の前に体を運ぶ。ちょっと不思議そうな目が、桜子と合った。
「ねえ、烏龍茶飲む?」
「…………」
「お父さんと、お母さんが出てくるの、一緒に待ってようよ」
 そう言って花屋を指差すと、男の子はちょっと迷った後、べそかきながら頷いた。
 ガラスの扉がチリン、という音を立てるのを聞きながら、男の子と桜子はまた花屋に戻った。安い空調と扇風機と烏龍茶しかないくせに、外の世界とはまるで砂漠と北極くらい温度差がありそうな気がする。
 桜子はもそもそと大型犬のように動きながら、冷蔵庫で冷やしてある烏龍茶を取り出した。氷の入ったグラスに注いで、男の子が座った椅子のテーブルの前に出してやると、水っぽい目を輝かせて、勢いよく飲んだ。あまりにも勢い良すぎて、つーと顎を小さく烏龍茶が伝った。
 桜子はくすくすと笑いながら、ハンカチでそのお茶をぬぐう。
 あっという間に烏龍茶は終わり、カラン、と氷の音が心地よく花屋に響く。
「美味しかった?」
 こく、と男の子は無言で頷く。
「まだいる?」
 これにも同じように頷く。なんだかその仕草が面白く、空になったグラスと自分のグラスに、再び烏龍茶を注いだ。今度はゆっくりと飲み、その男の子は半分も行かない内に息を吐いた。
「ねえ、お名前は?」
「みかみせいじ」
 早口言葉みたいに自分の名前を唱えて、ちらっと桜子を見る。
「いくつ?」
「ごさい」
「植物園、お父さんとお母さんと来たの?」
 『せいじ』はこく、と頷いた後に、また早口言葉のように「あとゆみ」と呟いた。
「え?」
「ゆみ」
「ゆみちゃん?」
「ん」
 こく、と頷いて、『せいじ』は烏龍茶をまた飲む。桜子を見た後、外の自分がいた所を見つめ、植物園の出口を見た。
 今頃、『せいじ』の両親は、『ゆみ』を抱えながら『せいじ』の事を探しているのだろう。植物園の館内放送はここまでは聞こえない。余計な事をした気がして、桜子の心が汗みたいな何かでべたついた。
「ここ、なに?」
「んー? 花屋さんだよ」
「しってる」
 ちょっと落ち着いたらしく、『せいじ』の目から涙のあとは消えていた。
「せいじ君は、お花の名前言える?」
「これ、かーねーしょん」
「お、」
 桜子がさっきまで作っていたブーケの中のひとつを指差し、『せいじ』は得意げに言う。
「で、あれがばら。あれがきく」
「すごいすごい」
 桜子が褒めると、ますます得意そうな顔をして、椅子から飛び降りた。
「これなに?」
「ガーベラっていうんだ」
「これも?」
「そっちは向日葵」
 ちょっと不機嫌そうな顔をして『せいじ』は花の名前が書いてあるプレートを睨んだ。
「みんなおなじはなじゃん」
「違うよ」
「はながまるくっておっきいもん」
 むきになって言う『せいじ』に向かって、桜子は笑いながら言う。
「じゃあ、ゆみちゃんとせいじ君は、手も二本、足も二本、顔はひとつ、目はふたつ、指は全部で十本だから、同じ人だね」
「ちがうもん! せいじ、ゆみじゃない!」
「でしょう? お花も同じなんだ」
 またむきになると思った『せいじ』は、桜子が驚くほどあっさりした顔をして、ガーベラを見つめた。向日葵とガーベラを見比べて、ちょっとむっとした顔をしながらぼやく。
「がーべら。ひまわり」
「そうそう。あっちが雛菊、あっちが牡丹、あっちがカスミ草、そっちの白いのが百合」
「はな、すきだね」
「大好きだよー?」
 そう言って、また桜子はブーケを作る仕事に戻った。まだあと2つある。
「私は花が大好きだよ」
「だからはなやさん?」
「んー、まあね」
 本当は祖母の仕事だが、まあいいや。
 祖母は奥で寝ている。今は『私の花屋』にしておいた。
 桜子がブーケを作る仕事をしている間、『せいじ』はちょっとちろちろと店内の花を眺めていたが、5分もしない内に飽きたらしく、テーブルに戻って植物園の出口をじっと眺め出した。
 桜子が見ている間に、その目はどんどんトロンとして行き、しまいにはすやすやと眠り出した。
 こっそりと据え置きの電話のボタンを押し、植物園に電話をかけてみる。出ない。
「……もー」
 時計の長針が一周ぐるりとまわった辺りになると、桜子もそろそろ警察に保護してもらうべきか、祖母を起こして『せいじ』を見ていてもらい、自分は植物園に行って相談するべきか迷い始める。
 と、そう悩み始めた頃に、植物園から一人、日曜日のお父さん、といった風貌の男が出てきた。どうもだいぶ慌てているらしく、暑さのせいだけではない汗をかいていた。
 チリン、と花屋の扉が鳴るのに、男の動きが止まる。
「あのお、せいじ君のお父さんですか?」







 【十年目】
「ただいまー!」
 長男の卓巳が花屋の戸を鳴らす。昔、彼の曾祖母が寝そべっていた座敷の奥で、母親がむくりと起き上がった。
「あー、おかえりー」
 もうすぐ十歳になる息子の為に焼いておいたおやつの蒸しパンを蒸し器から上げる。鼻をくすぐるいい香りに、卓巳の目が嬉しそうに細くなった。
「今日、学校どうだった? ……あー」
 そこで初めて振り返って、卓巳と一緒に花屋に入っていた中学生の顔を見る。
「やだー、誠司君と一緒に帰ってきたの?」
「うん!」
「ありがとうね、誠司君」
「いや、大丈夫大丈夫、俺もここに用事あったし」
「あらそう? そうだ、烏龍茶と蒸しパンいる?」
「いるいる!」
 卓巳に負けず劣らず無邪気な目でおやつをせがむ。桜子は笑って、誠司の分の蒸しパンも、蒸し器からあげた。
 暑い日のお供の烏龍茶もグラスに注ぎ、テーブルに用意する。
「ちゃんと手、洗ってよね?」
「はいはい」
「『はい』は一回」
 ばたばたと手を適当に洗って、卓巳は蒸しパンに齧りついた。誠司もまだ湿っている手で蒸しパンを取り、頬張る。
 みじん切りにしたカボチャが入った蒸しパンは、野菜の優しい甘さがほんのりする。暑い日に食べるようなものではない程の温度なのに、またひと口と頬張ってしまう。
「うんまぃ」
「そういうように作ってるから」
 くすくすと笑いながら、桜子も烏龍茶を飲んだ。
「それで、用事って?」
「……俺の彼女さ、明日誕生日なんだけど」
「へー」
 まあ、女の子が放っておきそうな顔はしていないが。
「俺、小遣い少ないから……喜びそうなもの買えないんだよなー……」
「……まあ、大体想像ついたけど? サービスするのはラッピングだけだよ?」
「そんなぁ! 桜子さんなら500円でブーケ頼めない!?」
「あのねえ、うちも商売してんのよ? 大体、500円もあれば、うちの花、なんでも買えちゃうじゃない」
 そう言うと、誠司は難しそうな顔をして呻いた。
「……だって、ブーケの方が貰って嬉しいじゃん……」
「ばっきゃろー。一輪でも花は美しいのよ。その子、どんな子よ? 花を貰って嬉しくない女の子なんていないって」
「いや、だからこそブーケがいいかなあって思って……」
「諦めなー」
「……ああああもう……」
「代わりに、どの花選んでも200円にしてあげる」
「ありがとう」
 ず、と烏龍茶を飲んで、誠司は花を吟味し始める。
「誠司兄ちゃん、彼女いんの?」
「おーいるぞー」
「ひゅーひゅー!」
「うっせー」
 卓巳の冷やかしにも負けず、誠司はバラの花を睨みつける。
「やっぱ、バラ?」
「中学生のガキからバラの花貰うってのもねえ」
「さっきと言ってた事違うじゃん」
「10年早いって言ってんのよ」
 蒸しパンをちぎり、口に入れて桜子は立ち上がった。
「どんな子なの?」
「……まー、大人しい子」
 照れくさそうに思い出して、どんな子か必死になって思い描くのに、桜子はにやにや笑いながら店内を歩いた。
「俺が話すと、瑠璃子、いつも笑ってくれてさー……なんつーか、あー、これ」
 す、と白いガーベラをバケツから取り出して、誠司は唇の内側を噛んだ。
「……これ」
「ガーベラね。200円だよー」
「はい、はい」
「『はい』は一回」
「ハーイ」
 ふざけた誠司の口調にまた一笑して、桜子は100円玉をふたつ受け取り、レジに入れる。
「じゃあ、とびっきりのラッピングしてあげる」
「ありがと」
 テーブルを3人で囲み、誠司と卓巳が烏龍茶と蒸しパンをおやつに見ている前で、桜子は白いガーベラを綺麗に透明のセロファンでラッピングし始める。
「白いガーベラはねえ、『希望』って花言葉なんだよ」
「……ほんっとうに花、好きだなあ」
「まあね」
 誠司に真っ赤なバラには十年早いから、その代わりに綺麗な、真っ赤なリボンを蝶々結びにする。
 真っ白なガーベラの根元に飾られたリボンに、誠司は気恥ずかしそうに目を逸らした。
「……あのさ、紙袋かなんかに入れてほしいんだけど」
「あはっ! 仕方がないなあ、誠司君は」
 白い紙袋にガーベラを入れて、桜子もおやつの席に戻った。
「昔っからそうなんだから」






【十三年目】
『寒くなったナァ』
 温かい烏龍茶をひと口飲み、桜子は時計を眺める。もう時間は午後五時だ。この季節のこの時間になると、空ももう夕暮れ色ではなく紫色だ。どっこい、などと言いながら立ち上がって、外にディスプレイしてある花のバケツを片付け始める――――と、斜め向かいの図書館の男女が目についた。
 ちょうど図書館の前で別れたらしく、手を振りあって、男の方はこちらの方面に近づいてくる。
「あ、」
 勿論、誠司は目ざとく気付いてくれた。
「桜子さん、なんか久しぶり」
「お疲れ。勉強?」
「ん、そう」
 そういえばあの泣いていた男の子だった『せいじ』も、この通り受験生だ。月日の流れの速さが妙に感慨深い。
「うちの卓巳も、来年は受験だなあー。どこ行くんだろ、あの子」
「うちの高校でどう?」
「やだァ、誠司君のとこ、頭いいじゃん」
「んなことないって。俺みたいなのもいるし」
「またそんな事言ってぇ」
 茶化してやると、照れくさそうに誠司は頭を掻いた。なんだかんだで肩にかかっているカバンはノートが詰まっているのか、とても重そうだった。
「そういえば桜子さん、いつもより花しまうの早くない?」
「んー、今日は寒いからちょっと早めにね。花がかわいそうだから」
「かわいそうって……ほんと、花、好きだよなあ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
 などとふざけてみせる。茶番に誠司はニヤッと笑って応えてくれた。
「最近、うちの店に来ないけど、やっぱ受験って大変なの?」
「それ、高校受験の時にもむちゃくちゃ訊いたよね?」
「そりゃあ、ねえ」
「卓巳なら大丈夫だって」
「だと思うけどさ」
 肩をあげておどけて、バケツをまた店に戻す仕事に移る。誠司も鞄を置くと、何も言わずに手伝い始めた。
「やだー、ありがとー」
「別に。たまには体動かさなきゃいけないし……っていうか、なんか品数減ってない?」
「あー」
 気付いてしまったか、と言わんばかりに、桜子の口からため息交じりの声が零れる。
「最近、景気悪いから」
 いつものあっさりした口調ではなく、少し後を引くような、夏の汗のようにべたつきを持った口調に、誠司は眉をひそめた。
「植物園の花屋だし、大丈夫じゃないの?」
「へ?」
「いや、隣の植物園、市営じゃん?」
「それで、何?」
「え、この花屋ってあの植物園のじゃないの?」
「……十三年間、ずっとそう思ってた?」
「違うの!?」
「私営だから……自営業? だから……」
 なんで私が言い訳しているみたいになっているんだ。そう思いながら、桜子はうわごとみたいに言葉を捻り出し、戸惑いを隠せていない誠司に引き攣った笑みを送った。
「まあ、結構長く続いてるけど、最近だとスーパーとかでも花は買えるし、ラッピングはしてもらえるし……。まあ、結婚式とかお葬式があると、ガッツリ仕事は入るけど、最近この辺りも……ね?」
「だって……えええ?」
 いまだに納得が出来ていないらしく、誠司は店内をざっと見回して、また桜子を見返した。
「……ヤバい?」
「まーね」
 今度はさっきのべたつきはどこへやら、いつもと同じあっさりした口調。気を使われた気がして、誠司は顔をしかめた。
「…………」
「どうかした?」
「俺、入りやすいからって理由でテキトーに経済学部とか言ってたけどさ、今、理由できたなーって思って」
 そう言って、真面目な顔で桜子を見る。
「きっと受かるよ、俺」
「わかってるよ」
 くすっと笑って、桜子は店の中に入った。
「じゃあ、いいものあげるね」
「いいもの?」
「まー、これこれ。良かった、少し時期がずれてるけどまだあって」
 出てきた桜子の右手には丸い赤紫の花。左手の鋏で少し切って、誠司に差し出す。
「また……花?」
「そ。アマランサスって花。ここじゃあんまり売れないけど……萎れることがないっていう、強い花だよ」
「へー」
「……花言葉は『粘り強い意志』。応援してるよ、誠司君」
 他意もなく、屈託なく笑う桜子は、誠司が小学生の時も、中学生の時も、今でも、同じ笑顔だった。顔の位置は変わっても、何も変わらない。
「……ほんっと、好きだよなあ」
「好きだよ。ちなみにその花、食べられるよ」
「げー」





【二十四年目】
 本格的に寒くなり始めた。余計にそう思わせるほどの隙間風が、店を揺さぶっていた。が、それにびくびくする事もない―――――というのも、店にもう花はなかった。
 最後のバケツを重ねると、桜子はようやく息を吐く。店をずっと見回すと、薄暗い店内が目に入った。
 もう、二十年――――いや、それ以上、ずっと花が店を彩ってきたのが、瞼の裏に焼き付いている。売ってきた花も全部覚えている。
 入口には百合やカーネーションなど、需要が高そうな花が並び、バラ、雛菊、ガーベラ、アリストロメリアと色々な花々が並ぶ。
 もう、花と一緒に烏龍茶を飲むことも出来ない。
 皺が刻まれた手を見つめ、桜子は薄く微笑んだ。
 なんでも、枯れるもんだ。
 隙間風に髪が吹かれた―――――時、取れかけたベルが鳴る。
「桜子さん!」
「っ、はい!?」
 唐突に入ってきた男に、久しぶりに体が素早く動いた。入ってきた男は走ってきたらしく、大きく呼吸をしていた。眼鏡にスーツなんて、こんな中途半端な田舎では珍しい。
「さっ、桜子さん!」
「はいっ!?」
「俺、今度こそ、バラ、買いに来た!」
「…………」
 ちょっと馬鹿みたいに一生懸命な顔に、ぱっと桜子の瞼に誰かが出てきた。
「……誠司君!?」
「え? はい……?」
「やっだ、誠司君じゃない!」
「……俺だって、わかんなかった?」
「だって……っはぁ~……」
 思い出せば面影は残っているが、少し染めた髪に、スーツに、昔はなかった眼鏡の存在。目をぱちくりして、桜子は呆けていた。
「……老けたねえ」
「ちょ、その言い方はひどいって……」
「いや、私の話」
 久しぶりに心地よく笑って、桜子はギシギシと鳴る椅子に座った。
「ごめんね、誠司君。この通りここは閉店だからさ」
「知ってる。母さんにきいた……閉店するって。だから俺、帰ってきた」
「本当? わざわざありがとう。だけど、それがわかってるならバラを頼むなんて、ひどいんじゃない?」
「知ってるから、来たんだ。まずこっちの話が先だったね、桜子さん、」
「?」
「まだ、元気?」
「失礼な事言うようになったわね」
 この通り、と言わんばかりに腕まくりして細い腕に精一杯力こぶらしき何かを作ってみせると、誠司は嬉しそうに笑った。
「図書館の向こうの通りに、花屋が出来るんだ」
「そうなの? 今のご時世に頑張るわねえ」
「桜子さんが、やるんだ」
 隙間風と一緒に、誠司の口から飛び出してきた耳を疑う様な言葉が、桜子の耳を撫でた。多分、自分はきょとんとしているのだろう、そんな顔が鏡を見れば映る様な気がしてならない。
「何の、お話?」
「俺、経済学部出て、大手の花屋の事務も仕事して、色々勉強して、独立しに帰ってきたんだ」
 落ち着いた呼吸と一緒に、誠司が吐く。
「桜子さんの力が必要だから」
「私?」
「いくら勉強しても、俺も花が好きでも、どうしても花屋やるためには桜子さんの力がほしい。大学に入ってから時々スーパーとか、商店街の花屋に行ったけど、桜子さんみたいな人がいないから、帰ってきたんだ。成功したい」
 添えるように、成功したい、なんて言う。この十一年間で何があったかわかりもしないくせに、誠司が何を考えているのか、わかってしまう。
「誠司君ねえ、人が良すぎるよ」
「それさ、瑠璃子にも言われたんだけど」
「そうだ、瑠璃子ちゃんも元気にやってる?」
 そう尋ねると、誠司はニヤッと笑った。
「バラ」
 そう言われて、桜子もニヤッと笑った。
「そうだね」
 この子に、バラの花束を作らなきゃ。もう十年以上、待っていたんだ。もういい、いい男になっているから許可しよう。
「旦那にも言うよ。その花屋、いい店になるって」
「…………」
「何、その顔」
「いや、やっぱり花が好きなんだなって」
「自分で言っておきながら、何さ」
「普通、信じられないんじゃない?」
「かもねえ」
 でも、縋ってしまう程、確かに自分は花が好き。取れかけていた扉のベルを取ると、小さくチリン、と鳴った。
「さて、と、バラの花と結婚式の準備をしなきゃね」
「――――ありがとう」






 【四十年目】
「おばちゃん、ありがとー!」
「はいはいー」
 チリン、という音を鳴らして、小学生の女の子が駆けていく。冬の雪道をさくさくと進んでいった。足跡が目立つ冬の道路はとても静かで、音の存在を忘れてしまいそうになる。
 扉のベルは、自己主張を繰り返していた。また、チリンと鳴り、別の女の子が入ってくる。
「おばーちゃん!」
「あら、ゆかりちゃん。ママはどこ?」
「車、おいてくるって!」
「じゃ、パパの烏龍茶も用意しなきゃねえ」
 孫の手を引いて、暖かい烏龍茶を入れる。しばらく待つと、ゆかりの母親が店のベルを鳴らした。
「すみません、お義母さん! どうしても先に降りたいって言って聞かなくって……」
「大丈夫だよ、夕美さん。この子だって、花が大好きなんだから。ねえ?」
「うん!」
 ゆかりは店の端で育てているシクラメンに小さなジョウロで水を与えていた。ジョウロを置いて、すぐに手を洗いに行く。夕美は呆れたように笑った。
「お花よりも、お義母さんの蒸しパンの方が好きそうですね」
「まあねえ。誠司君も、卓巳も好きだったから」
「私も好きですよ、蒸しパン」
「嬉しいわぁ。じゃあ、食べて行ってちょうだい」
「あ、でもゆかりのお稽古事が……」
「あら、そう?」
 申し訳なさそうな夕美の表情は、なぜかどうも素直に読み取れない。すぐそこの、アリストロメリアの花のように微笑む顔が、どうも―――――
「辛い?」
 突発的に飛び出した言葉に、夕美はびっくりしたように振り向いた。
「なにが、ですか?」
「いや、なんとなく。夕美さんがアリストロメリアみたいだったから」
「……はあ……?」
「あれの花言葉はねえ、『辛い』だよ」
 驚いたようだった夕美の顔が、徐々に落ち着いてくる。少しだけ目を伏せて、笑った。
「兄の言う通りですね」
「誠司君?」
「はい。兄はいつも、『桜子さんは、花が大好きだから』って言っています」
 いつの間にそんな風評が――――言いふらしているのか、となんだか恥ずかしくなる桜子の前で、夕美は笑って言った。
「本当ですね」
「……辛いなら、いつだっておいで」
「はい……ゆかりー」
 いつの間にか蒸しパンを食べていたゆかりを呼び出し、桜子に謝って会釈をする。
「じゃ、そろばん行こっか」
「えー」
「じゃあ、私達――――――」
 そう言いかけた夕美の目に、アリストロメリアの花が飛び込んでくる。
 こんなに綺麗なのに、『辛い』のか。
「…………」
「大丈夫、夕美さん?」
「あ、はい」
「ママ?」
「大丈夫、なんです―――けど、」
 いつかの誠司と同じように、目が湿っている。桜子は苦笑して、椅子に座った。
「たまには、休みましょ」
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
 何度も蚊が鳴くような声で謝って、夕美はひとしきり泣いていった。
 何も言わずにタオルを差し出して、ゆかりと蒸しパンを食べたり、花の世話をする。窓の外は寒そうで、雪が降りしきる景色は当分変わりそうにない。
「寒いのに、毎年花はさくね」
「そうだねえ」
 ちょうど同じことを思っていたゆかりに、桜子は微笑んで頭を撫でた。
「けど、冬にも咲く花があるけど?」
「本当?」
「本当、椿も、今ゆかりちゃんが育てているシクラメンだって雪の中で咲くの」
「すごい! おばあちゃん、花はかせだね!」
「そうかなあ」
 そういえば、旦那にも、誠司にも、同じ言葉を言われたか。いつの話か忘れる程昔か、言われた事が多すぎるだけか。
 どうとも思わず、その内咲くであろうゆかりの鉢のシクラメンの葉を眺め、桜子はゆかりの頭を撫でた。
「私は、花が好きなだけだよ」






 【五十年目】
 ちょっと痛む足を動かして、誠司は駅でタクシーを拾った。急遽会議を抜け出してきた後ろめたさは微塵もない。最近少し重い体をタクシーの中に転がして、ようやく息を吐く。
 彼女の事となると、妻の事以上に走る事が多い。一緒にいてくれる妻とは違い、彼女は摘みに行かなければ取れない、断崖絶壁の花の様。
 自動販売機で買った、ぬるい烏龍茶を飲み下し、タクシーを降りた。小雨が降った後の黒いアスファルトは、草花が生える余地すらない。
 彼女は嫌いそうだな、とどこかで思いながら、誠司はせわしなく足を動かした。
 一階の、8号室。目当ての苗字を見つけだし、わき目もふらずに開けた。
「桜子さん、」
 病院なのを意識した、控えめな声に、彼女の息子が振り返る。
「誠司さん……! どうして……」
「倒れたなんて聞いて、仕事は出来ないですから」
 病院のシーツにくるまれた桜子の姿は、どうにも違和感がある――――そうだ、ずっと彼女は畳の上で寝ていた。
「桜子さん、」
 誠司の声にちょっと目を開け、桜子は少し頭をあげた。
「無理しなくていいですから……そんな……」
「……また、買いに来たの?」
「え?」
「今度は……何? 向日葵? スイートピー?」
「私は――――俺は―――――」
「そうそう……スイートピーは……そろそろ咲くの。ちょうどいい……季節だよ……花言葉は、そう……『門出』……ゆかりちゃん……もうすぐ大学生でしょう?」
「桜子さん、桜子さん……」
 細くなった手で、桜子は卓巳の手を握る。
「ここは一階?」
「そうだって……昨日からそう言ってるから……」
「なら、いいね」
 そよ風みたいな吐息交じりの声で笑って、桜子は窓の外の木を眺めた。
「ああ、いい天気……」
 3月も終わったはずの薄暗い外は曇っていて、卓巳と誠司は目を合わせた。
「母さん、明日は大輝も、彩華も連れてくるよ」
「そりゃあ、いいね」
 から、と笑って、目を閉じた。
「待ってるよ……待たなきゃ……」



 いい香りがする。
 烏龍茶を飲んで、テーブルに置いて、外に出た。花屋では絶対に味わう事が出来ない香りがする。胸いっぱいに吸い込み、花で囲まれた道を通って行く。
 見えた。
 木の下には、旦那がいた。
「なに?」
 口を動かしていて、何を言っているかわからない。足を止めずに近づくと、何の木だかわかった。薄紅色の、花屋にはない花。
 夫の手を取り、木を見上げる。
「そうね、そう」
 ふわ、と花びらが舞い、香りに包まれる―――――



「わたしは はなが だいすきだよ」



 いつだったか。ずっと自分は思い、知っていた。
『この人は―――――本当に、』
 ばたり、ばたりと涙が遺体の眠るシーツを濡らす。
 シーツに、花のように涙が滲み、そして、枯れていく。

『はなを、あいして―――――』

 泣き出す孫と、子供と、誠司に囲まれる中、桜子の遺体は静かに笑っていた。
 よく晴れた4月のとある日。
 一階8号室の窓の外には、綺麗に綻んだ、薄紅色の桜並木の道があった。

プロフィール

プロフィール画像
奏 Euph
割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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