Fly higher than the sky.
1
はじまりの朝
上機嫌で鼻歌を歌いながら、彼はアパートの階段を上がっていた。宅配便の朝一番の仕事は気分が乗らないなどなどと同僚は言うが、朝しか見られない風景もある。この間は寝起きの美女が寝間着のまま出てきて、どうにも挙動不審になってしまった。それ以来、同じ出来事を期待すると、朝一番の仕事の気だるさも吹き飛ぶ。
宛て名に書かれた『高瀬ヒロカ』の名前に心が躍れば、自然と歌だって鼻から飛び出してくる。
三階の一番奥の部屋という、配達員に優しくない場所に住む『高瀬』の部屋のチャイムを、彼は意気揚々と押した。
「高瀬さーん」
ありふれたチャイムの音が部屋の中から聞こえてくるが、誰かが出てくる様子はない。踊っていた心がステップを踏むのをやめた。
もう一度、チャイムを押してみる。
「高瀬さーん」
どうにも留守、というようだ。裏切られた期待に小さくため息を吐いて、配達員の彼はポケットから不在連絡票とペンを取り出した。
『九時十八分……配達員、佐田……番号……』
1……と番号を書き始めた所で、目の前の部屋から何かが動く音がした。部屋の主が目覚めたのか、とブーメランされてきた期待に、彼は連絡票を書く手を止めた。
「……高瀬さーん?」
コン、とドアをひとつ叩いた。数拍おいて、返答は来た。ただし、彼にとってはあまり嬉しくない形だが。
「ちこっ、遅刻……遅刻ぅううううう!」
顔面スレスレで開かれたアパートのドアは、彼の帽子を見事なまでに廊下へと吹き飛ばし、壁にあたって痛々しい音を鳴らした。
叫んだ声と、ちらりと見える書類と本まみれの屋の主は、跳ねかえってきたドアを取って、ばたばたと鍵をかけた。舞い散る白い羽と、目の前でどたばたする赤い髪の女に、彼はぽつりと呆けた声を出した。
「……高瀬さん?」
「はいっ!? 配達? すみません、私、今、無理で、遅刻っ!」
慌てふためく女は、さながらニワトリのようで――――実際、ニワトリだった。
やや重たげな胸肉に、真っ赤な髪に、明らかに彼の半分もないような、腕から生えた小さな翼。ニワトリか、道理で、と彼はやたらと納得した。
ようやく鍵が閉められた彼女は階段に走りながら、ばさばさと羽を散らして行く。
「ごめんなさい、不在届入れといてください! 本当、すみません!」
今にもコケコケと鳴き出しそうなニワトリを、数時間前に目覚めた時の表情でぼけっと見送る。階段を転げ落ちそうな音を聞いて、はっとして、彼は肩を竦めた。
「……しょーがないなー……」
不在届の続きを書いて、投函して、彼はちらり、と廊下の柵から広がる午前九時の世界に目をやった。ちょっとだけ沈んだ気分を立て直す為に、ちょっとだけ。
荷物をしっかりと広い鞄に入れて、彼は柵を乗り越えた。
朝の少しひんやりとした空気に全身が晒された瞬間、文字通り、鳥肌が立つ。折りたたまれていた腕の翼が空気に泡立ち、全貌を晒す。幅およそ2mの力強いカモメの翼が、灰色がかった白の羽を散らした。
誰も見ない瞬間を捉え――――――何もない空気に足を投げ出す。その瞬間、足はただの脚。役立たずになって、翼にすべてが託される。空気を支えに、彼は飛ぶ。アパートから道ひとつ分離れたトラックのすぐ隣までの短い飛翔。その短さだけでも十分だ。
彼は、『鳥』だ。
この世界は、『鳥人間』のものだ。
トラックの隣に降り立ち、彼は近くに人がいなかったか見渡した。時間の割には人通りがなく、カモメが一匹飛んだ程度では目立たなかったようだ。一人、こちらを見たしわくちゃな鳩の翁がいたが、素知らぬふりをしている。みんな、飛びたい衝動は同じだ。配達員は小さく会釈のみ。
殆ど、飛んだというより降りただけだったが、久々に翼を使った心地の良さが彼に良かったのか、上機嫌でトラックに乗り込む。
「やっぱ鳥だもんなあ」
などと独り言を呟き、車のラジオをつけて、トラックを比喩的に飛ばす。今日の仕事も、頑張ろうと笑えた。
『――――天気予報の時間です―――――本日は降水確率10% 曇りのち晴れ 最高気温は19度 午後は絶好の飛行日和となります――――――』
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- 奏 Euph
- 割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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