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Fly higher than the sky.


3

Marica



 キーとカードで認証させ、ヒロカは学生室の扉を乱暴に開けた。改めて夕暮れの薄暗い窓に映る自分の顔を見ると時短メイクが落ちた上、口の甘さと親友のファンに辟易した、かなり酷い顔をしている。部屋の明かりをひとつ付けて、さっさと窓に映る自分を消した。
 それにしても今月にそこまで余裕があるわけでもないのに、よくもまああの後、更にケーキを求めて喫茶店なんか行ったものだ。だがそれで正解。例によって例の如く、マリカはファンを振りほどける様子はなかった。ビルを出た時点でビルの周りを飛びまわる軍勢を見た時から知っていた。ああなってしまった彼女の遅刻は、三十分や一時間なんて可愛い物じゃすまない。実際に予約していた店に間に合わないくらいの時間に、彼女からの時間指定メールが入ったのだから。
 充電器を端末に、コンセントにプラグを刺して、ようやくメールがしっかり確認できる。尾田からのメールや着信は一切合財無視だ。
 自分のデスクにへたり込み、ヒロカは大きくため息を吐いた。数メートル離れた所にある、資料や実験ノートや模型やはんだでしっちゃかめっちゃかになっているのが、尾田カズオミのデスクだ。
『あのインコ』
 私がニワトリなのと同じように、あいつもインコだ。どうあがいてもその事実は変わらない。鳥人類が今までいがみ合いやら戦争やらを繰り返すのももっともだ。
 尾田のデスクとは正反対の、整理整頓が行き届いたデスクの端から小さな木製の飛行機を手に取り、カラカラと木のプロペラを回した。
「なんだ、高瀬さんですか」
「!」
 驚いてうっかり飛行機を床に落としたヒロカが見えているのか見えていないのか、しわが寄った手が部屋の電気を全部つける。一気に明るくなった学生室の入口に、にこにこと笑う初老のタンチョウが立っていた。
「い、伊丹先生……」
「今日は休みなのに、熱心ですねえ」
 タンチョウのやや長いクチバシが、言葉を発するたびに口の端からのぞく。
「研究発表の資料作りですか?」
「そのつもりで……」
「嘘おっしゃい。いつも高瀬さんは一週間前には全部終わらせています」
 タンチョウというより、サギのようだ。自分の日頃の真面目さをきちんと見てもらえているのがありがたいやら出まかせが粉みじんになった気不味さやらで、目が直視できない。
 伊丹はヒロカのデスクまで音も立てずにしなやかに歩み寄る。タンチョウらしい美しくも少しだけ不気味なその歩き方が、ヒロカはどうにも好きになれなかった。
「どうなさったんですか。何か研究に支障がありましたか?」
 伊丹はヒロカが落とした飛行機を拾い上げ、うっとりとそれを見つめた。
 彼――――伊丹ナオヒコの専門は飛行機だ。しかもこの九橋大学を有名にしたのは、彼ら教授の属する工学部航空船舶科といっても過言ではない程に、功績は大きい。数年前、航空企業で採用された新型旅客機の翼の設計にも、彼が携わっている。
 勿論、彼の研究室の院生をやっているヒロカや尾田も、専門の研究は飛行機や船舶となっている。飛行機などという鉄の塊を飛ばす技術の研究は他の分野の例に漏れず、試行錯誤という四文字熟語がぴったりなものだ。
「今のところは特にないです」
「そうですか」
 羽も毛も少し薄くなった白髪の頭が傾く。
「用事もないのに学生室にいらっしゃるとは、まるで私のようで。高瀬さんも一介の研究者らしくなったものですねえ」
「はあ……褒め言葉として受け取らせていただきます」
「はい。褒めています。でも高瀬さんはもう少し遊んでもいいと思いますよ?」
「いや、私だって遊んでますよ。今日だって――――」
 と言いかけて、ヒロカは今現在学生室にいる事を思い出した。伊丹も同じ事を考えているらしく、くすくすと笑いだす。
「休日なのに、今日だって大変真面目な模様ですね」
「……返す言葉もありません」
「まあ、真面目に頑張っていらっしゃる高瀬さんにはプレゼントがありますよ」
 バサッと伊丹の腕から、ヒロカとは比べ物にならないほど流麗で大きな翼が広がる。
「私の奢りでお勧めのうどん屋さんにお連れしましょう」
「う、うどんですか。いえ、遠慮します。ちょっと友人と待ち合わせしてまして」
「おや、ではその方もお誘いしてはいかがですか?」
「本気ですか」
「今日の私の財布は、期待しても良いですよ」
 断じてそういう事を気にしているわけではないのだが。ヒロカが伊丹の何が苦手かというと、こんな風に突拍子のないところだ。
「あまり、研究生とそのように付き合うのはよくないと聞きますが……」
「んん、それは、枯れた鳥が何をしろと」
 ちょっと目を開いた後に、くすくすと笑う伊丹の腹が読めず、相手が相手だというのにむしゃくしゃした。
「ところで、待ち合わせをなさっているのは、綺麗なカナリアの方ですか?」
「……なんでご存じなんですか」
「先程下で見かけました。ご案内しますよ」
 負けた。鞄を持って、肩を竦め、ヒロカが学生室を出るのをにこにこと見守って、伊丹は電気を消した、薄暗い廊下にちらほらと差す明かりは、休みなのに残ってしまっている実験にてこずる学生の存在を知らしめていた。
「あちらです」
 少し肌寒い廊下から、一歩向こうの透けた部屋。エアコンのあるミーティングルームに、疲れた面持ちのカナリアがいた。鞄から帽子を出して、ヒロカは部屋のドアを押し開けた。
「マリ、」
「ヒロちゃん!」
 入ってきたヒロカを見るや否や、椅子から跳ねるように飛び起きて、カナリアはヒロカに飛びついた。呆れ交じりにため息を吐いて、ヒロカはカナリアの頭を撫でた。
 彼女こそが日本中、世界の一部鳥人間を震撼させるアイドル、Maricaこと、幼馴染の宇田マリカだ。ライブやプロモーションビデオなんかでは絶対に見られない、力の抜けたあどけない今の表情が、本当の彼女らしい。ちっぽけな優越感に浸りながら、ヒロカはマリカの頭を慰めるように撫で続け、仕上げに帽子をかぶせてやった。
「お疲れ……」
「本当に疲れたよう……あ、さっきはありがとうございます!」
「いえいえ、どういたしまして。高瀬さんのお友達でしたか」
 Maricaのことを知ってか知らぬか、伊丹はいつものようにニコニコと笑っていて、ヒロカは内心焦りが止まらなかった。彼がミーハーでない事だけを祈るが、見事にへし折られる。
「では、お礼ではありませんが、よろしければこちらにサインを……」
「あ、はいっ!」
 思わずがくっとしてしまう。嬉しそうに手帳を開き、マリカも思わずサラサラと数秒でサインを書き込んでしまう。
「伊丹、と申します」
「イタミ、さんですね」
 そこまでリクエストするか、とジト目で伊丹を見るが、彼の鉄面皮にはどうにも浸透してくれないらしい。To Itamiと添えられた手帳のサインを満足げに見て、伊丹は大事そうにそれを内ポケットにしまった。
「とても嬉しいです、ありがとうございます。娘に自慢できます」
「いえいえ、私こそ嬉しいです」
 胡散臭い伊丹の笑顔とは違い、ブロマイドにしたら数万円の価値が付きそうな笑顔で応えるマリカに、ヒロカは眩暈を抑えながら囁いた。
「じゃ、行くよ」
「あ、うん」
「おや、高瀬さん、折角ですからうどん屋さん行きませんか?」
「まだ言いますか?」
「うどん!」
 呆れるヒロカとは裏腹に、マリカは目を輝かせて飛びつく。そういえば彼女がうどん好きなのを忘れていた。ヒロカは堪えきれない眩暈を持て余して唸った。
「そうなのです、歩いてすぐの、美味しい所なのですが」
「ひ、ヒロちゃん! 駄目かな?」
「……わかった」
「やったい!」
 ここまで疲れ果てながらも来てくれたマリカを、これ以上失望させたくはない。伊丹には後々にネチネチ言うとして納得し、ヒロカは件のタンチョウ男を軽く睨んだ。その彼は相変わらずニコニコしている。
「では、行きますか」
「はい!」
「……ハイ」
 見えないロープに引きずられる気分だ。楽しげに前を歩く二人に繋がれたように、よろめきながら歩く。
「ヒロちゃんの先生なんだね!」
「え、ああうん」
 急に振り返ってきたマリカに、なんとか返す。マリカは羨ましそうに首を傾けた。
「飛行機作るなんて、ヒロちゃんも、先生もカッコイイなあ……私、昔っから馬鹿だから、全然……」
「飛行機も、仕組みがわかれば大体簡単な所は簡単ですよ?」
「そうなんですか? わかれば楽しそうですね!」
 じゃあ、代わってよ―――――私の地獄じみた研究の山と。急いで後の一文を付け足し、オススメの店と言う場所ののれんを、二人に続いてヒロカもくぐった。
 伊丹の言う通り、確かにオススメというだけあっていい香りが漂っていた。魅惑的な出汁の香りに、ヒロカは少しだけ事を忘れてうっとりとしたが、目の前の金と白の翼の鳥が視界に入って、現実に戻ってきた。
「では、私はきつねうどんを」
「私も!」
「一番安いので」
「じゃあ、きつねですね。きつねうどんを3つ、お願いします」
「…………」
 別に伊丹が嫌いなわけではないが、なんとも言えないもどかしさが、喉に溜まって、胃に帰っては、喉へ、と往復する。マリカに対しても同じ気持ちを覚えそうで、付き出しの漬物を突いては押し殺した。
「そういえば、ヒロちゃん、一緒にいたインコの人は良かったの?」
「え?」
「緑色っぽい翼の、インコの人」
 尾田の事か。
「別に。あそこで偶然会っただけ。ただの後輩だし」
 あんたに夢中みたいだし、と悪魔がボソリと小声で付け足す。
「そう? そっかー。あと、いつもいつもいっぱい待たせちゃって、本当にごめんね……」
「いいって。当たり前なんだから」
「高瀬さんも、宇田さんも、いいお友達を持ちましたね」
 宇田、と言われてマリカの事かと思い出すのに、ヒロカは一拍かかった。自分もずっと呼んでいなかった彼女の苗字で呼ぶ意味を思い出すのに、もう一拍かかった。なんだかんだ考えている伊丹の一面だけは好ましい。
 早々とやってきたきつねうどんを、伊丹はマリカと一緒に嬉々として並べる。
「持つべきものは、友達ですよ。お二人の関係がずっと続くといいですね」
 何か含んだ様な言い方が、ひっかかる。
 気にしているような暇はあまりない。早く食べて出て行かないと、いつ誰がMaricaに気付いて、友達との時間が奪われるかもわからない。
「……あっつい」
「ちゃんと冷ましなさいって……」
「えー、冷ましたよ?」
 可愛らしい仕草で口元を抑える、目の前のカナリアに和んでいる場合じゃないのに。熱さをものともせずにちゅるちゅるとうどんを啜る伊丹はマジックでも使っているのだろうか。
「宇田さんと、高瀬さんは、同郷の方なのですか?」
 ヒロカがあたりさわりない返事をしようとするのを遮って、マリカが前のめりになる。
「そうです! ヒロちゃん、ずーっと昔から友達なんです!」
「おやおや、そうでしたか。お二人とも上京なさってきたのですね」
「はいっ。ヒロちゃん、優しくって、私がこっちにいて不安にしてるところに来てくれて、すっごく嬉しかった……」
「いや、大学の関係だから……」
「うっそだー」
「強いて言うなら、あんたが東京で何度も迷子になる話を聞くからってのはあったけど」
「そ、その話はやめて……あ、美味しいです」
「でしょう?」
 ようやく食べられる温度になったきつねうどんを噛んで、マリカは何度も頷く。すべての仕草が素なのに、上品で、軽やかで。
『ああもう……』
 彼女はアイドルの自覚が足りない。カウンターの男性が見とれているのがわからないのだろうか。数分もしない内に、一人のハト男が席に近づいてくる。
「あの……もしかして、Maricaさん―――――」
「サインも握手もお断り」
 一人に付き合ったら、あと何人待っているかわからない。今度はマリカが言う前に、ヒロカが鋭く言い放つ。なんだこのニワトリ、という視線が突き刺さるが、幼い頃から慣れているから平気だ。
 高校時代にも、中学時代にも、マリカと付き合いたいって奴は後を絶たなかったっけ。懐かしいな、などときつねうどんに改めて箸を付けながら感慨にふけっていたヒロカにとって、マリカの小さな声は爆発音並みの衝撃だった。
「あ、あの、握手でしたら……」
「……は?」
 いつになくすっ呆けた声に、他ならぬヒロカと、何故か伊丹が驚いた。マリカは視線を泳がせながら、金色の翼の生えた鳥の手を差し出す。
「ほ、本当ですか!? うわあ……応援してます!」
「こちらこそ、いつも、ありがとうございます」
 にこっと笑うマリカにノックアウトされるハト男の後ろでは、新たな鳥が群がっていた。
「ちょっと、マリ……あんた、」
「ご、ごめん……でも、私―――――」
 きつねうどんにつけていた箸を置き、本人なりに毅然とした表情で呟く。
「――――Maricaだから―――――」
 喉に染みていた出汁のうま味が、急に泥みたいになる。
 あの頃とは、もう何もかも違う。
「…………そーね」
「高瀬さん?」
 カツリ、とヒロカも箸を置いて、財布を取り出す。
「先生、こちら、お支払いします」
「いえ、ここは奢り……」
「お願いします」
 千円札を押し付けて、ヒロカは俯き、首を振った。マリカの表情が、急に暗くなる。
「ヒロちゃん、」
「じゃ、また……」
 ヤバイ、『また今度』すら、言えない。喉にしがみついた泥が固まる前に、マリカの頭をひと撫でし、店を足早に出ていく。ガラス戸越しにマリカの顔が見えた。
 まるでドラマ。死地に向かう恋人を必死で引き留めるヒロインのよう――――もっとも、自分はそんな上等な登場人物じゃない。
 ガラス戸をぴしゃりと閉め、ばくばくする心臓を抑えて、足早に道を歩く。
『最悪』
 尾田以上だ。
『最低』
 いつもの自分らしくない。マリカに固執して大人になっていないのは自分の方だ。中学から、ずっと変わらない。悪い意味で。
 あのカナリアは、立派なアイドルになったのに、このニワトリは、相変わらずガキのままだ。
 本日の朝、遅刻の二文字に駆られて出たはずのアパートに辿り着く。普通の鳥なら、ちょっとしたハイな気持ちを得ようと、これくらいの距離なら飛んでしまう。
 だが、ヒロカはニワトリだ。
 トサカ由来の真っ赤な髪に、遺伝的に太りやすい体に、胸や腿は重い脂肪の塊。極めつけは――――飛べない翼。全くもって役に立たない翼をぶらさげ、ヒロカはのろのろとアパートの階段を上がった。ここまでの早歩きに、体力はだいぶ削られていた。
 部屋の鍵とドアを開けると、朝に会った配達員が入れた母からの不在届と、電気代の明細と、大家からの手紙が落ちていた。拾う気力もなく、朝の騒動で散らかった部屋の隅にあるベッドに、ヒロカは背中から崩れ落ちた。
 薄暗さで灰色がかった天井が落ちて、押しつぶしてくれるように願っても、無理です、と告げられる。
「……あーもう」
 ぐしゃ、とゴツゴツした鳥の手で顔を覆い、消えたいくらいの気持ちを転がした。
 比べてもしょうがないのは知っている。
 彼女の友達というのがどういう事なのかは知っている。
 彼女の大変さも、辛さも、知っている。

 この気持ちが、無い物ねだりなのもわかっている。はずなのに。

 横向きになると、鏡にニワトリが一人映ってしまう。どうしようもなくむかついて、天井に向き直った。
 醜いアヒルの子だって、白鳥にならなければ救われない。ましてや、ニワトリが幸せになれる話なんて、聞いたことが無い。
 当たり前。だって、ニワトリは幸せになった試しがないんだから。ぐ、と喉に迫った呪いじみたそれが自分を絞め殺す前に、とヒロカは強くそれを飲みこんだ。わけのわからない胸の痛みで、天井を睨む目に涙が滲む。

 醜いニワトリの私を、どうか、どこか―――――――
 空高く―――――天国まででも―――――

「……?」
 願いを叶える地響きか、壁の向こうから凄まじい振動が響いてきたのは、ヒロカの涙が零れたその直後の事だった。


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プロフィール

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奏 Euph
割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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