Fly higher than the sky.
4
天の川
地響きは明らかに、右隣から聞こえてくる。隣に入居者はいなかったはずなのに。
『……泥棒?』
まさか、と思いながら耳を傾けずにはいられない。耳を疑おうにも、何度も断続的に聞こえてくる音に、ヒロカは眉間に皺を寄せた。堂々とした泥棒もいるものだ。お飾り的な翼がついた腕でベッドから起き上がり、壁に手を当てた。確かに僅かな振動が伝わってくる。と、ひときわ大きな振動が手を襲ってきた。
「……なんなの……」
怯える、というよりは、感情が振り切っていたせいか、苛立ちが前面に滲んだ声が出る。泥棒に備えてスマホを取り、番号を警察に合わせておいてから、そっと玄関に出ていく。外に近づくほど、振動は近づいているようだった。時折、うめき声さえ聞こえる。
鍵をかけ忘れていたドアを静かに開け、そっと隣に目をやった。
途端、眼鏡を忘れたのかと勘違いした。
勘違いだ、眼鏡はしっかり鼻に乗っている。では、どういうことか。論理的に考えようにも、ちょっと無理がある。
そこには自分の翼なんか比べ物にならない程、大きな翼が挟まって蠢いていた。真っ黒で、おそらくカラスのものだろうが、やけに大きい。地元にいたトンビの翼の方がもう少し大きかった気がするが、都会でここまでの翼を見るのは久々。というよりも、広がった状態の翼を間近で見るのが久々なのだ。
「あー……」
あっけにとられていた思考が、ようやく戻ってきた。動いているということは、この翼の持ち主がすぐ傍にいることで、でもこの部屋は長らく留守で、ついでにこの翼が挟まっているということは、泥棒だとしたら動けない事で。
意を決し、ヒロカは翼の本体側に回った。
予想は当たっており、やはりカラス。持ち主もちゃんとそこにいた。が、半ば予想していた泥棒ガラスの図とは随分違っており、ドアに挟まった翼の痛みに涙を堪えきれない、若く、痩せた、そう年の違わない男がいる。
「……何して……るんですか?」
絞り出すように声を出すと、ヒロカの存在に気付き、大きく身じろぎする。泣き腫らして真っ赤な日本鳥離れした目と、目が合い、視線の強さにどきりとした。
「あの……ここって……」
「あだ、助けて、クダサイ」
「は?」
「ワタシの、翼……」
ぐ、とまた力を込めてしまったらしく、カラス男の喉から、耳障りな叫び声が飛び出し、辺りに響く。言葉のアクセントや顔立ちからして、明らかに日本鳥じゃない。ヒロカは慌てて力をさらに込めようとするカラス男の腕を抑えた。
「お、落ち着いてくださいって! ほら、えっと、そっちに力入れないで! ほら!」
いつもマリカの頭を撫でていたように、カラス男の腕を撫でると、少しだけ落ち着いたらしく、身じろぎが止まってきた。抑えるのをやめ、ヒロカは挟まった向こう側に目をやる。単純に開け放たれたドアの蝶番と蝶番の間に、細骨が通っている翼の一部が挟まっているようだ。ちょっと頭を使えば、ドアをゆっくり閉めればなんとかなるとわかる。
「……アホらし」
思わずそう呟いて、ゆっくりとドアを閉めていくと、カラス男の翼を締め上げていた力が緩む。驚きの表情を見せるカラス男は翼を抜いて、まじまじと挟まっていた所を見つめる。
よかった、と安心するのも一瞬だった。そもそも彼が何者かもわかっていないのに、自分は一体何をしているのだか。
「……あのですね、あなた、誰ですか? 新しく入居した方ですか……?」
そう言いながらちらり、と部屋の中を見るが、自分が下見に来た時並みに、何もない、簡素すぎる部屋が映る。十中八九泥棒か、それとも不正入国者かといった所だ。危惧してじりじりと後ずさりするヒロカを見つめて、カラス男はようやく別の表情を見せた。
伊丹やマリカ、尾田も思い出してしまう様な、満面の笑みに、思わず鳥肌が立った。
「アリガト、ゴザマス」
「……ドーイタシマシテ」
「ワタシ、は―――――」
肝心な事を言いかけて、カラス男ははたと言葉を止めた。
「翼……ナイ……?」
心底驚いたようにヒロカの腕を凝視する。また恐怖や、不審に苛立ちが勝ってしまった。ニワトリに会ったことが無いのか、コイツは。
「どーせちっさい翼ですよ。飛んだこともありませんッ!」
こんなんだから大人げない、っていうのに。勢いで吐いた言葉を反芻して、また自分に対し苛立つ。嘴をきしませるヒロカに、カラス男はひたすら仰天していた。
「飛んだ……ナイ……?」
「……そうですけど」
「モッタイナイ!」
「!?」
感情がこの短時間であっちこっちにめまぐるしい。がっしりと掴まれた肩に、掴むカラス男の腕に、今度は恐れが打ち勝つ。
「ちょ、離し……」
「飛ばない、駄目。ワタシ、連れてく」
「え、な、ななな何――――」
連れていくって、どこに。
そう思うのも一瞬で、目の前に黒い物が広がった。カラス男の翼だ、と気付く前に、風と粉塵の臭いが飛び散る。がっしりと、何かが肩を掴み、同じタイミングで足が浮き上がった。
「や!」
生まれてこのかた、跳躍したってこんなに高く足が浮いたことが無い。地面がすっと離れていく感覚に全身の血液が泡立つ。
「ワタシが、一緒に」
「え、ええ、え、え――――――」
「飛びマス!」
そこからは声が出ない。ヒロカの全身を浮かせたカラス男の力が、勢いをつけて空中に彼女を放り出す。
「つかまッテ」
「!!?」
体を受け止めたやや狭い空間はカラス男の背中だった。神経伝達よりも早く、彼の言葉が腕を動かす。首もとに必死で掴まれ、と本能で理解するほど、風の匂いは空に近い。夜の冷たい空気が、頬を撫で、ヒロカの髪で遊ぶ。
ちょっと息苦しくなる頃、なんとか声の出し方を思い出した。
「や……お、下ろして! やめて!」
「知って」
「何を!」
ゴウゴウと喚き、叫ぶ風に声がかき消されているのか。カラス男の耳にヒロカの声が届いている様子は全くないようだった。
「やだやだやだやだやだやだ! 無理! 無理ぃい!」
自分のキャラも体裁も歳も忘れて絶叫する。自分のアパートの屋根の色なんて初めて知った。あんなセンスのないベージュだなんて知らなかった。いっそ呑気に考察を始めるのは、自分の置かれている状況を理解したくないからだ。頭は受け付けなくとも、叫ぶ喉とひたすら首もとにしがみつく腕だけは理解している。
落ちたら、死ぬぞ、と。
「ぃやあああああああああああああ!」
風圧と揺れで吐きそうになる。眼鏡も吹き飛びそうになる。もういっそ吹き飛んでくれた方が周りもぼやけて楽かもしれないが。
「来た……!」
静かなのに、やけにはっきりしたカラス男の声が聞こえた。それとほぼ同時に、風の音が少し止む。大きな揺れも、なくなった。
「……?」
吐き気と目眩の暴風圏はまだ抜けていない。ふらふらする頭は急に変わった環境についていけていない。
「見テ」
熱が籠ったおかしな発音が、ヒロカに懇願する。その必死さに勝とうとも思わないで、何も考えずに目を開いてしまった。
天の川に放り込まれた――――ヒロカはそう錯覚した。
宇宙のどこかに呑みこまれたような黒の中に、キラキラ輝く明かりが無数にちりばめられている。いつかマリカと見たことがある長野の星空とも、電車から見た夜景とも違う。星空より果てしなく近く、電車からの夜景より果てしなく遠い。
宝石にも似た光の海は、地平線というものを教える程続く。明かりの強さも、密集具合も実に様々で、すべてに目が離せない。風景から光は飛び出し、踊りながらヒロカの瞳をもてあそんでいた。
時折カラフルな色を明滅させる光と、深淵のコントラストを引き立てる、遠くで囁く風の音。空気の温度。感情によるものか、環境によるものかも不明な息苦しさ。宇宙の果てに来たら、こんな感じだろう。不思議で、光と感情の嵐にひたすら心を奪われる。
まるで、台風の目。暴風圏を抜けて、そこには風もなにもなく、ただ静かな空間があった。それまでの何もかもを思わず忘れてしまう。
なので、思い出すのは突然だった。そこが高度900mの、カラス男の背中の上だという事に。
見下ろした先には今日行った幕張ツインビルがあり、喉は叫ぶ事を思い出した。
「いやぁあああああああああああああ! や、高い! 高い! 死んじゃう!」
「そうデス! 飛べば、高い所、これマス!」
「これマスじゃない! 早く戻して! 帰してぇえええ!」
「嫌い、デスカ?」
「ったり前でしょうが! どこをどうしたら拉致されて上空ウン百m宙ぶらりんが楽しいの!? 頭おかしい!」
「……?」
カラス男にヒロカの言葉は理解できないらしい。表情は見えないが、こんな笑えない状況で、腕の限界も近いのに考え込んでいるのはわかる。
「下ろっ、下ろし、下ろしてっ! 早く、下に! 行ってええ!」
「わかりマシタ!」
「ひっ!」
ぐいん、と変な圧力は、ヒロカの吐き気を限界まで試していた。
さっきの天の川の感動は国外追放されたらしい。代わりに、と表れた地獄のような風の寒さと、今度こそ眼鏡を吹き飛ばしてしまった圧力と揺れが襲う。きっともう二度と、どんなジェットコースターに乗っても恐怖なんて感じないだろう。
バタバタ、と靡くカラス男の黒い翼は夜の闇と同化して、飛んでいるというよりは飛行機からのダイビングに近い。それも、パラシュートなんかない。どんどん近づく光の海に、隕石の如く急降下。
「馬鹿! や、やあああああああ!」
あれは本物の海じゃない、実際は蛍光灯とか、看板のネオンとかであって、ダイブしたら助からない。目を瞑って死を覚悟したい程だが、地獄の悪魔は目を逸らす事を許してくれなかった。
なんで、と泣き叫びたくなるヒロカの目は、決して閉じられることが無かった。天の川は、今もなおヒロカの目を奪っていたのだ。
と、大きな揺れと共に、ヒロカの腕がずれる。
「待っ、」
全部叫ぶ前に、無情。
カラス男の背中が見えた、つまる所―――――ヒロカは空中に置き去りにされた。もう叫び声も出ない。声の出し方を忘れたというのも違う。とにかく、声が出ない。カラス男はあっという間に暗闇に呑まれて、ヒロカの眼鏡無しのぼやけた視界から消えて行った。
『夢だ――――』
こんなの。
わけのわからないカラス男に空に連れて行かれて、地上に落下して死ぬなんて。
そんなの。
『夢じゃない』
風の悪魔が、冷たさの悪魔が、天の川の悪魔が、ヒロカに事実を伝える。一瞬、一瞬が長く、ヒロカの二十三年が体をザクザクと貫いて行った。
『やだ、まだ、マリカと――――』
ふと現れた幼馴染のカナリアは、走馬灯になって流れていく。彼女の幻は目の前で手を差し出し、アイドルらしい笑顔を見せていた――――こんな時にまで。
いつの間に、ここまで深く突き刺さっていたのだろう。
死の文字を、彼女の笑顔が浮かんだその一瞬だけ忘れた。悪魔がまた襲いかかってくる、と思う前に、また突然風が止んだ。急な吐き気に、酸っぱい物が喉まで来た。
「あはは」
耳障りな笑い声、そして、また感じる風圧。
「気持ちーデスネ!」
「……」
悪魔たちが舌打ちしながら去っていく。戻ってヒロカを抱き留め、空中で転がって背中に戻したカラス男は、からからと笑ってどこの国ともわからない言葉で興奮していた。
死の影は帰っていく。土産に、ヒロカの疲れ果てた意識を連れて――――
そこで、その日の記憶は途切れた。
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- 奏 Euph
- 割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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