林檎コンビ格納庫
ローズ♂×ジャック
金の切れ目がナントヤラ
せかせかとローズの足はジャックのいるはずのアパートの階段を上がっていた。いくら連絡をしてもうんともすんとも言わない。苛立ちの段階を通り越した心配は仕事の合間を縫わせてローズを帰国させる程度には強く、次の会議まであと数時間にも関わらず、彼はこんな場所にいた。
呼び鈴を押すと安っぽい音がした。
「ジャック、」
呼びかけても、なんとも言わない――――と思った矢先、重苦しい音と共に一部錆びた戸が開いた。出てきた男に文句のひとつくらい言おうと思ったが、それが声になる前に、驚きで言葉を失った。
「な……んだ……おめーかよ……」
「…………ジャック、ですよね」
おそらく一カ月ぶり程度に会った彼は、記憶の中にいる姿よりも随分痩せていた、もとい、やつれていた。ぼさぼさの髪に、見覚えのないヒゲが生えていて、なんとなく嫌なにおいもする。ローズは思わず顔を顰めた。
「わ、りぃ……な……」
「一体、ここ一カ月なにが……っ!?」
ふら、とローズの目の前で揺れた、と思うと彼の胸元に落ちてきた。
「ジャック!?」
思わず、らしくもない声をあげて倒れてきたジャックを支えてしまった。
「ちょっと、ジャッ――――……」
グギュルゥウルルルルルルルルルルルルルルルルルルル
「―――――……ック………」
言いかけたローズの声を黙らせたのは、ジャックの腹の奥から聞こえてきた、容易く安直な擬音にできる程盛大な、空腹の虫の音だった。
「っはぁああああああ! 食った! はぁああ、生き返った!」
「それは何よりです」
棒読み口調で返し、コンビニ弁当の空箱を見やった。胃が小さくなっているせいなのだろうか、ジャックにしてはやや少ない量の空箱に、ローズは肩をすくめた。
「サンキュー、ローズ……死ぬかと思ったぜ……」
「それは構いませんが、そろそろ答えてくれないかな? 一体全体、いつから君の部屋は、ガスも電気もネットも止められているのです」
「あー……十日前、くらい、か?」
明後日の方向に目を逸らしながら、ジャックはしどろもどろに答えた。
「本の中だけの話かと思っていました。最後に止まるのは水、というのは本当なのですね。感心しましたよ」
「おっと、皮肉か、ローズ」
「その通り。それで、どういう理由でこんな事態になっているのか聞かせなさいな。なぜ飢え死になりかける程ギリギリの生活をしているのです」
いかにも言いたくなさそうな顔をするジャックをゴーグルの奥から睨み付けた。ローズの強い口調に、ジャックは目を逸らしながら、ようやく小声で話し始める。
「いやーそのー……借金しちまって」
「…………は?」
「借金」
「借金」
「そう、ソレ。ちょーーーーーっと欲しいシューズがあるとする。結構イケそうな株があるとする。で、それに手を付けるとする」
「皆まで言わなくて結構です。要は、株に手を付けて失敗した、と」
「グッサリ来るじゃねえか、ローズ……」
コンビニでローズが買ったお茶を飲んで、ジャックはため息を吐いた。
「まー、ちょっと俺のナケナシの貯金じゃ足りなかったワケ。っつっても、頑張ればなんとか利子が膨れる前に返せるから――――」
「こんな無茶な生活をした、と」
電気のつかない薄暗い部屋を見渡して、ローズは吐き捨てるように言った。普段感情のあまり籠らない声にそんな色合いが出るとかなり目立つ。相当ご立腹らしい。これからのお小言を想像し、ジャックはため息を吐いた。
十日近く、どうやら水と最低限の食事で生活していたらしいジャックの部屋は半額の値札が貼られたおにぎりのビニールがいくつか散乱していた。服も随分洗っていないものが溜まっているし、目の前の張本人は動物的なにおいがした。スン、と鼻をこすって、ローズは文句を口にする。
「とりあえず、体くらい洗いなさい……」
「ハイハイ、っと……お前が来るってわかってたら、もーちょい気ぃ遣ったんだけどな」
「で、その借金とやらはおいくらです。肩代わりします」
とんでもないローズの台詞を解するまでに、栄養不足なジャックの脳は数秒かかった。
「……はあああ?」
立ち上がったジャックの視線がローズに突き刺さる。
「いや、お前、どーしてそーなるんだよ?」
「君が返せる額面くらい、私にはかすり傷にもならないさ。君がこんな無茶な生活をしているのは放っておけない」
「イヤミだな、お前……っつか、別にお前には関係ねーだろ? 連絡とれねーのは仕方ないけどよ、死なない程度には気を付けてやるよ」
それが信用ならないというのに、この男にはそれが理解できないらしい。ローズは呆れ混じりに首を振った。
「いくら手っ取り早く返したいからと言って、こんな劣悪な環境で過ごしていたら、いつか君は……と言いますか、実際に今日がそうだったわけで」
「そんなお恵み、受け取らねーからな」
きっぱりと言い切るジャックの言葉が、ちっぽけなアパートの一室に鳴る。ローズを黙らせるにはてきめんだった。言い過ぎた、と表情を曇らせ、ジャックは上着を脱いだ。冷たい水しか出てこないシャワーは気乗りしないが仕方ない―――――と、手首にぬるい温度が触れた。
「あ?」
「ジャック、どうでしょう」
座っていた、おおよそこの部屋に似つかわしくない、お高そうな身なりの男は、ジャックの手首を抑えたまま立ち上がる。
「キス、してください」
「……はあ?」
「そうしたら、一万円、差し上げます」
「はあああ?」
今更、キス程度に――――そう思いかけて、ジャックはようやくこの男が所謂恋人という奴だったのを思い出した。
「おいおい、ローズ。趣味が悪ぃぜ……身体売れってか?」
「なんとでも仰いなさい。私は、理由をつけてでもなんとかしたい」
頑固な奴だ、と呆れたジャックの首に、ローズの唇が掠める。
「君からの、キスで一万。ハグで二万。セックスのお誘いで3万。本番で、十万。君の云う『お恵み』とやらではありませんし、悪くないでしょうに」
「悪くねーどころか……高級風俗でも取らねーぞ、そんなん……」
「対価ですよ。純粋な」
しれっと言い放つローズは、まるでなんでもない事だとでも言いたげだ。自分にそんな価値を付ける人物なんて、この男以外誰にもいないだろう。ジャックは頭を抱え、ローズを睨み付けるように見つめた。
決めた、と顔をあげたジャックの目に、またローズが鼻をこすっているのが飛び込んでくる。
「とりあえず、その口のにおいをなんとかしてからで」
「ムードもシリアスもへったくれもないな、お前」
悪態をついたところで、まずは三万。
「ヘイローズ。――――なんだ、その……ヤろうぜ?」
「……その誘い方、正直、二万程度ですね」
「知るかよ」
とん、と胸を小突き、ジャックは思いついたように言う。
「一緒に風呂入って体洗えば、5万とか?」
「魅力的ですが、冷たいシャワーは御免ですし」
さっと時計を見やって、ローズは小さく首を振った。自分には時間がない。
「君との時間も、これくらい簡単に買えればいいのですけれどね」
「言ってくれるじゃねーか」
簡単に、という言葉に不貞腐れた顔のままシャワーに行くその背を見送り、ローズは一人、電気の付かない部屋を見渡した。遮光性の悪いカーテンの向こうから飛んでくる昼光のせいで、電気がつかなくともいろんなものが見える。物思いにふけりながら布団を触ると、思ったような湿っぽさはなかった。他にやることがなくて、空腹を紛らわすために布団を干すジャックの姿を想像した。
『私はそんなに頼りないのでしょうかね』
「ヘイ、ローズ」
「おや、お早い」
「時間がねーみたいなこと言ってたのはお前だろ」
まさにカラスの行水というべきか、せいぜい五分程度しか経っていないのに。タオルで髪をがしがしと荒らしながら、ジャックはローズの視線から目を逸らした。
「……電気、消せねーんだな」
「消せないもなにも、でしょうに」
少し馬鹿にしたようなローズの台詞に、ジャックは眉間に皺を寄せた。
「お前、徹底的に馬鹿にしてんな……」
「折角の機会ですし、そうさせていただきます。せいぜい、私から搾り取りなさいな」
「…………」
必死で、不器用で、だらしない奴。ローズの表情からそれを読み取れるのは、ジャックだけだった。明け透けなローズの煽りに、乗ってやろうと腹を決めた。
タオルを捨てて、汚い部屋の床に座るローズの正面に膝をついた。
「俺は全裸だっつーのに、なんでお前はそのまんまなんだよ」
「普段とあまり変わりませんよ」
「てめえ……」
聞こえない程度に悪態をついた後、ジャックはローズのスカーフを外す。あまり慣れない手つきで、コートのベルトもいじくり、外した。少し手に『脱がせていいのか?』などという迷いを残しながら、ローズの肩からコートを落とす。ここまでがちょっと限度だ。もうどうすればいいかわからないのを誤魔化すように、ジャックは白いタートルネック姿のローズの顔に、言い訳を探す。割とすぐに見つかった。
「ヘアピンとかは、お前がやんなきゃ痛ぇぞ?」
「……そうですね」
髪の毛を結っているバンドとヘアピンを外し、手袋とリングと共にテーブルに置いた。ゴーグルも外すと、脱ぐよう促すジャックの視線とかち合う。
頷いて、ローズはインナーごと衣服に手をかけて、脱ぐ。互いの顔が見えなくなる数秒というのは、ジャックの思い付きを実行に変えるのには十分な時間だった。
白い衣服の出口からローズの顔が見えるや否や、ジャックの手がローズの胸元を押す。少し息が苦しくなるくらいに押し倒される。
「なに……を、ジャ、ッ」
ローズの腕には衣服が残ったままで自由にできないのをいい事に、ジャックの手がローズの肩にかけられた。まるで、覆い被さるような姿勢に、勢いに乗せたかのように一気に近づくその瞳。
「キス、一万だって?」
確認の言葉だけ吐いてその答えも聞かず、ジャックはそのままローズの唇に噛むような口付けを施した。ちゅる、という唾液の音がして、唇の辺りが気持ちよくなる。
ローズに、自分からなんて。
唇を離し、ジャックはにやりと笑った。
「一万、ゲット……ってトコか?」
その笑み。勝ち誇っているくせに真っ赤な顔。彼に良く似合っていた。笑って返す前に、ローズは腕を動かし、衣服の拘束を解いた。
嵐のようなあんなキスの一瞬は、見事に余裕を少し削いでいった。ローズが上半身を起こし、ジャックの腕を掴む。
「足りませんよね?」
「……そりゃーな」
「じゃあ、照れている場合ですか?」
「て……ッ! 誰も照れてねえよ!」
煽られた手が、ローズの背中にかけられ、抱きしめる。
「……ハグで、2万は高くねーか?」
「問題でも?」
「ねえけどよ……」
「……キスもいいですが、悪くないですよ?」
敢えて言うなら、普段あまりない密着具合は心地よい。裂けて飛んで、駆け出して逃げてしまいそうなほど早い鼓動のジャックの音が、胸越しに響いてくる。それがローズ自身の心臓の鼓動と時折同調するのが、とても鮮やかだ。
それにはジャックもすぐに気付いたらしく、早々に体を離した。額に手をかけ、頭を抱えて「恥ずかしい奴……」などと言う。
「ジャック、」
「……っと」
そこからは言葉もなく、じりじりと足の位置だとか、体勢が変わった。ぎし、と煩く啼いた安アパートのフローリングが生々しい。その音に合わせて、今更、ティッシュがまだあったか、なんて考えにジャックは至った。が、ローズのくすぐったい髪の毛の感触が腰にかかる。行為をするとき、お決まりのそれ。落ちてくるピンク色の髪。
近すぎるローズの瞳にさっきの大胆も忘れた。ごく、とジャックの喉が鳴る。
「……十万でいかがです?」
味気ない台詞。でありながらも、値段に言い換えたローズの余裕のなさは、少し愉快だった。十万だなんて、と嗤ってやった。
「いいぜ」
二か月程前と違って、ジャックのアパートの階段を上がるローズの足取りは少し重かった。
言い渋るジャックから訊いた借金の額面は、計算が正しければ先週に会った時に渡した紙幣でもう0のはずだ。喜ばしいことである、がどうにもローズの足は鈍いテンポを刻む。そんな重いテンポでも、ひとつの戸の前に着いてしまう。ローズの足が止まった。
ジャックに、『理由を付けてでもなんとかしたい』なんて吐いた自分を思い出す。
『理由を付けたのは、私の方でしたね』
男同士、友人、もしくはライバルと言ってもいい自分が相手ともあって、それなりに長くなってきた付き合いにも関わらず、いまだに躊躇いや羞恥を残すジャックも好きだ。しかし、しかし、だ。
彼からキスをされたいだとか、ハグをされたいとか、誘われたいとか、そんな願望をここぞとばかりに詰め込んだ。あんな理由を付けなければいけない臆病な自分なのに、これからどうしたものか――――――などと考えていたところで、ノックも呼び鈴もしていないのに戸が開いた。
「よう」
仕事帰りなのか、少し疲れた顔をしているが、二か月前とは違いヒゲも剃っているし嫌なにおいもしない男が出てきた。むしろ、少しだけ石鹸のにおいがする。
「ジャック」
「影があればクロネコかお前、ってのが相場だな。明日は時間長ぇからこの前みたいにヤるのはナシな」
「……人を猛獣みたいに」
「この前はそーだったろ」
「君の為、ですよ」
しれっ、と。そう聞こえるように言うローズを尻目に、ジャックは片手に持っていた封筒を彼に突き付けた。きょとんとしたローズの顔が封筒を見つめる。
「なんでしょうか、これは」
「二万」
「……?」
「返す。今日、給料日だったしな」
胸元に突き付けられた茶封筒は、うっすら透けていて、確かに中には紙幣が見えた。
「私、君に差し上げます、と言いましたが」
「貸します、の間違いだろ? 待ってくれねー金貸しが、お前になっただけだ。お前なら――――」
傍で待っててくれる、と言い掛けてその言葉の恥ずかしさに気付いて閉口する。カサ、と音のする封筒をまだ手に取らないローズに押し付けた。
「別に金貰えるからってヤってたわけじゃねーよ」
「……」
くしゃ、と胸元で音を立てる金を、封筒ごと受け取った。透けて見える紙幣を見つめ、思わず口元が緩む。
「それはですね、ジャック、どういう意味かご存じで?」
理由があったから、あんな事をした。という動機が消えれば、後に残るのは。
「――――……き、で、構わねーだろ」
『すき』という単語を、ジャックはやたら早口で、小さい声で言う。
「うへ、なんつー顔してんだよ、お前」
「……そんな顔していましたか?」
「してるぜ。だっらしねー顔しやがって」
照れを必死になって押し込んで隠すジャックの笑みが愛おしい。
「……さて、と。全部返すのに何年かかることやら……」
「言うじゃねえか、ローズ。今に見てろよ?」
「――――っと、」
襟を掴まれて、そのまま一万。
襟を離して、部屋に入るよう身振りで示す。
「……利子付けて返してやる」
石鹸のにおいが、誘ってきた。
「ジャック、三万ですね。それは」
部屋に入って安アパートのドアを閉める。ローズの腕が言うことをきかなくなって、玄関に封筒が転がったら、そこから先は。
値段もつけられない時間になった。
呼び鈴を押すと安っぽい音がした。
「ジャック、」
呼びかけても、なんとも言わない――――と思った矢先、重苦しい音と共に一部錆びた戸が開いた。出てきた男に文句のひとつくらい言おうと思ったが、それが声になる前に、驚きで言葉を失った。
「な……んだ……おめーかよ……」
「…………ジャック、ですよね」
おそらく一カ月ぶり程度に会った彼は、記憶の中にいる姿よりも随分痩せていた、もとい、やつれていた。ぼさぼさの髪に、見覚えのないヒゲが生えていて、なんとなく嫌なにおいもする。ローズは思わず顔を顰めた。
「わ、りぃ……な……」
「一体、ここ一カ月なにが……っ!?」
ふら、とローズの目の前で揺れた、と思うと彼の胸元に落ちてきた。
「ジャック!?」
思わず、らしくもない声をあげて倒れてきたジャックを支えてしまった。
「ちょっと、ジャッ――――……」
グギュルゥウルルルルルルルルルルルルルルルルルルル
「―――――……ック………」
言いかけたローズの声を黙らせたのは、ジャックの腹の奥から聞こえてきた、容易く安直な擬音にできる程盛大な、空腹の虫の音だった。
「っはぁああああああ! 食った! はぁああ、生き返った!」
「それは何よりです」
棒読み口調で返し、コンビニ弁当の空箱を見やった。胃が小さくなっているせいなのだろうか、ジャックにしてはやや少ない量の空箱に、ローズは肩をすくめた。
「サンキュー、ローズ……死ぬかと思ったぜ……」
「それは構いませんが、そろそろ答えてくれないかな? 一体全体、いつから君の部屋は、ガスも電気もネットも止められているのです」
「あー……十日前、くらい、か?」
明後日の方向に目を逸らしながら、ジャックはしどろもどろに答えた。
「本の中だけの話かと思っていました。最後に止まるのは水、というのは本当なのですね。感心しましたよ」
「おっと、皮肉か、ローズ」
「その通り。それで、どういう理由でこんな事態になっているのか聞かせなさいな。なぜ飢え死になりかける程ギリギリの生活をしているのです」
いかにも言いたくなさそうな顔をするジャックをゴーグルの奥から睨み付けた。ローズの強い口調に、ジャックは目を逸らしながら、ようやく小声で話し始める。
「いやーそのー……借金しちまって」
「…………は?」
「借金」
「借金」
「そう、ソレ。ちょーーーーーっと欲しいシューズがあるとする。結構イケそうな株があるとする。で、それに手を付けるとする」
「皆まで言わなくて結構です。要は、株に手を付けて失敗した、と」
「グッサリ来るじゃねえか、ローズ……」
コンビニでローズが買ったお茶を飲んで、ジャックはため息を吐いた。
「まー、ちょっと俺のナケナシの貯金じゃ足りなかったワケ。っつっても、頑張ればなんとか利子が膨れる前に返せるから――――」
「こんな無茶な生活をした、と」
電気のつかない薄暗い部屋を見渡して、ローズは吐き捨てるように言った。普段感情のあまり籠らない声にそんな色合いが出るとかなり目立つ。相当ご立腹らしい。これからのお小言を想像し、ジャックはため息を吐いた。
十日近く、どうやら水と最低限の食事で生活していたらしいジャックの部屋は半額の値札が貼られたおにぎりのビニールがいくつか散乱していた。服も随分洗っていないものが溜まっているし、目の前の張本人は動物的なにおいがした。スン、と鼻をこすって、ローズは文句を口にする。
「とりあえず、体くらい洗いなさい……」
「ハイハイ、っと……お前が来るってわかってたら、もーちょい気ぃ遣ったんだけどな」
「で、その借金とやらはおいくらです。肩代わりします」
とんでもないローズの台詞を解するまでに、栄養不足なジャックの脳は数秒かかった。
「……はあああ?」
立ち上がったジャックの視線がローズに突き刺さる。
「いや、お前、どーしてそーなるんだよ?」
「君が返せる額面くらい、私にはかすり傷にもならないさ。君がこんな無茶な生活をしているのは放っておけない」
「イヤミだな、お前……っつか、別にお前には関係ねーだろ? 連絡とれねーのは仕方ないけどよ、死なない程度には気を付けてやるよ」
それが信用ならないというのに、この男にはそれが理解できないらしい。ローズは呆れ混じりに首を振った。
「いくら手っ取り早く返したいからと言って、こんな劣悪な環境で過ごしていたら、いつか君は……と言いますか、実際に今日がそうだったわけで」
「そんなお恵み、受け取らねーからな」
きっぱりと言い切るジャックの言葉が、ちっぽけなアパートの一室に鳴る。ローズを黙らせるにはてきめんだった。言い過ぎた、と表情を曇らせ、ジャックは上着を脱いだ。冷たい水しか出てこないシャワーは気乗りしないが仕方ない―――――と、手首にぬるい温度が触れた。
「あ?」
「ジャック、どうでしょう」
座っていた、おおよそこの部屋に似つかわしくない、お高そうな身なりの男は、ジャックの手首を抑えたまま立ち上がる。
「キス、してください」
「……はあ?」
「そうしたら、一万円、差し上げます」
「はあああ?」
今更、キス程度に――――そう思いかけて、ジャックはようやくこの男が所謂恋人という奴だったのを思い出した。
「おいおい、ローズ。趣味が悪ぃぜ……身体売れってか?」
「なんとでも仰いなさい。私は、理由をつけてでもなんとかしたい」
頑固な奴だ、と呆れたジャックの首に、ローズの唇が掠める。
「君からの、キスで一万。ハグで二万。セックスのお誘いで3万。本番で、十万。君の云う『お恵み』とやらではありませんし、悪くないでしょうに」
「悪くねーどころか……高級風俗でも取らねーぞ、そんなん……」
「対価ですよ。純粋な」
しれっと言い放つローズは、まるでなんでもない事だとでも言いたげだ。自分にそんな価値を付ける人物なんて、この男以外誰にもいないだろう。ジャックは頭を抱え、ローズを睨み付けるように見つめた。
決めた、と顔をあげたジャックの目に、またローズが鼻をこすっているのが飛び込んでくる。
「とりあえず、その口のにおいをなんとかしてからで」
「ムードもシリアスもへったくれもないな、お前」
悪態をついたところで、まずは三万。
「ヘイローズ。――――なんだ、その……ヤろうぜ?」
「……その誘い方、正直、二万程度ですね」
「知るかよ」
とん、と胸を小突き、ジャックは思いついたように言う。
「一緒に風呂入って体洗えば、5万とか?」
「魅力的ですが、冷たいシャワーは御免ですし」
さっと時計を見やって、ローズは小さく首を振った。自分には時間がない。
「君との時間も、これくらい簡単に買えればいいのですけれどね」
「言ってくれるじゃねーか」
簡単に、という言葉に不貞腐れた顔のままシャワーに行くその背を見送り、ローズは一人、電気の付かない部屋を見渡した。遮光性の悪いカーテンの向こうから飛んでくる昼光のせいで、電気がつかなくともいろんなものが見える。物思いにふけりながら布団を触ると、思ったような湿っぽさはなかった。他にやることがなくて、空腹を紛らわすために布団を干すジャックの姿を想像した。
『私はそんなに頼りないのでしょうかね』
「ヘイ、ローズ」
「おや、お早い」
「時間がねーみたいなこと言ってたのはお前だろ」
まさにカラスの行水というべきか、せいぜい五分程度しか経っていないのに。タオルで髪をがしがしと荒らしながら、ジャックはローズの視線から目を逸らした。
「……電気、消せねーんだな」
「消せないもなにも、でしょうに」
少し馬鹿にしたようなローズの台詞に、ジャックは眉間に皺を寄せた。
「お前、徹底的に馬鹿にしてんな……」
「折角の機会ですし、そうさせていただきます。せいぜい、私から搾り取りなさいな」
「…………」
必死で、不器用で、だらしない奴。ローズの表情からそれを読み取れるのは、ジャックだけだった。明け透けなローズの煽りに、乗ってやろうと腹を決めた。
タオルを捨てて、汚い部屋の床に座るローズの正面に膝をついた。
「俺は全裸だっつーのに、なんでお前はそのまんまなんだよ」
「普段とあまり変わりませんよ」
「てめえ……」
聞こえない程度に悪態をついた後、ジャックはローズのスカーフを外す。あまり慣れない手つきで、コートのベルトもいじくり、外した。少し手に『脱がせていいのか?』などという迷いを残しながら、ローズの肩からコートを落とす。ここまでがちょっと限度だ。もうどうすればいいかわからないのを誤魔化すように、ジャックは白いタートルネック姿のローズの顔に、言い訳を探す。割とすぐに見つかった。
「ヘアピンとかは、お前がやんなきゃ痛ぇぞ?」
「……そうですね」
髪の毛を結っているバンドとヘアピンを外し、手袋とリングと共にテーブルに置いた。ゴーグルも外すと、脱ぐよう促すジャックの視線とかち合う。
頷いて、ローズはインナーごと衣服に手をかけて、脱ぐ。互いの顔が見えなくなる数秒というのは、ジャックの思い付きを実行に変えるのには十分な時間だった。
白い衣服の出口からローズの顔が見えるや否や、ジャックの手がローズの胸元を押す。少し息が苦しくなるくらいに押し倒される。
「なに……を、ジャ、ッ」
ローズの腕には衣服が残ったままで自由にできないのをいい事に、ジャックの手がローズの肩にかけられた。まるで、覆い被さるような姿勢に、勢いに乗せたかのように一気に近づくその瞳。
「キス、一万だって?」
確認の言葉だけ吐いてその答えも聞かず、ジャックはそのままローズの唇に噛むような口付けを施した。ちゅる、という唾液の音がして、唇の辺りが気持ちよくなる。
ローズに、自分からなんて。
唇を離し、ジャックはにやりと笑った。
「一万、ゲット……ってトコか?」
その笑み。勝ち誇っているくせに真っ赤な顔。彼に良く似合っていた。笑って返す前に、ローズは腕を動かし、衣服の拘束を解いた。
嵐のようなあんなキスの一瞬は、見事に余裕を少し削いでいった。ローズが上半身を起こし、ジャックの腕を掴む。
「足りませんよね?」
「……そりゃーな」
「じゃあ、照れている場合ですか?」
「て……ッ! 誰も照れてねえよ!」
煽られた手が、ローズの背中にかけられ、抱きしめる。
「……ハグで、2万は高くねーか?」
「問題でも?」
「ねえけどよ……」
「……キスもいいですが、悪くないですよ?」
敢えて言うなら、普段あまりない密着具合は心地よい。裂けて飛んで、駆け出して逃げてしまいそうなほど早い鼓動のジャックの音が、胸越しに響いてくる。それがローズ自身の心臓の鼓動と時折同調するのが、とても鮮やかだ。
それにはジャックもすぐに気付いたらしく、早々に体を離した。額に手をかけ、頭を抱えて「恥ずかしい奴……」などと言う。
「ジャック、」
「……っと」
そこからは言葉もなく、じりじりと足の位置だとか、体勢が変わった。ぎし、と煩く啼いた安アパートのフローリングが生々しい。その音に合わせて、今更、ティッシュがまだあったか、なんて考えにジャックは至った。が、ローズのくすぐったい髪の毛の感触が腰にかかる。行為をするとき、お決まりのそれ。落ちてくるピンク色の髪。
近すぎるローズの瞳にさっきの大胆も忘れた。ごく、とジャックの喉が鳴る。
「……十万でいかがです?」
味気ない台詞。でありながらも、値段に言い換えたローズの余裕のなさは、少し愉快だった。十万だなんて、と嗤ってやった。
「いいぜ」
二か月程前と違って、ジャックのアパートの階段を上がるローズの足取りは少し重かった。
言い渋るジャックから訊いた借金の額面は、計算が正しければ先週に会った時に渡した紙幣でもう0のはずだ。喜ばしいことである、がどうにもローズの足は鈍いテンポを刻む。そんな重いテンポでも、ひとつの戸の前に着いてしまう。ローズの足が止まった。
ジャックに、『理由を付けてでもなんとかしたい』なんて吐いた自分を思い出す。
『理由を付けたのは、私の方でしたね』
男同士、友人、もしくはライバルと言ってもいい自分が相手ともあって、それなりに長くなってきた付き合いにも関わらず、いまだに躊躇いや羞恥を残すジャックも好きだ。しかし、しかし、だ。
彼からキスをされたいだとか、ハグをされたいとか、誘われたいとか、そんな願望をここぞとばかりに詰め込んだ。あんな理由を付けなければいけない臆病な自分なのに、これからどうしたものか――――――などと考えていたところで、ノックも呼び鈴もしていないのに戸が開いた。
「よう」
仕事帰りなのか、少し疲れた顔をしているが、二か月前とは違いヒゲも剃っているし嫌なにおいもしない男が出てきた。むしろ、少しだけ石鹸のにおいがする。
「ジャック」
「影があればクロネコかお前、ってのが相場だな。明日は時間長ぇからこの前みたいにヤるのはナシな」
「……人を猛獣みたいに」
「この前はそーだったろ」
「君の為、ですよ」
しれっ、と。そう聞こえるように言うローズを尻目に、ジャックは片手に持っていた封筒を彼に突き付けた。きょとんとしたローズの顔が封筒を見つめる。
「なんでしょうか、これは」
「二万」
「……?」
「返す。今日、給料日だったしな」
胸元に突き付けられた茶封筒は、うっすら透けていて、確かに中には紙幣が見えた。
「私、君に差し上げます、と言いましたが」
「貸します、の間違いだろ? 待ってくれねー金貸しが、お前になっただけだ。お前なら――――」
傍で待っててくれる、と言い掛けてその言葉の恥ずかしさに気付いて閉口する。カサ、と音のする封筒をまだ手に取らないローズに押し付けた。
「別に金貰えるからってヤってたわけじゃねーよ」
「……」
くしゃ、と胸元で音を立てる金を、封筒ごと受け取った。透けて見える紙幣を見つめ、思わず口元が緩む。
「それはですね、ジャック、どういう意味かご存じで?」
理由があったから、あんな事をした。という動機が消えれば、後に残るのは。
「――――……き、で、構わねーだろ」
『すき』という単語を、ジャックはやたら早口で、小さい声で言う。
「うへ、なんつー顔してんだよ、お前」
「……そんな顔していましたか?」
「してるぜ。だっらしねー顔しやがって」
照れを必死になって押し込んで隠すジャックの笑みが愛おしい。
「……さて、と。全部返すのに何年かかることやら……」
「言うじゃねえか、ローズ。今に見てろよ?」
「――――っと、」
襟を掴まれて、そのまま一万。
襟を離して、部屋に入るよう身振りで示す。
「……利子付けて返してやる」
石鹸のにおいが、誘ってきた。
「ジャック、三万ですね。それは」
部屋に入って安アパートのドアを閉める。ローズの腕が言うことをきかなくなって、玄関に封筒が転がったら、そこから先は。
値段もつけられない時間になった。
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