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林檎コンビ格納庫


6月2日


「ローズの日だ」
「は?」
 雑誌越しに部屋のカレンダーを見て何を言い出すかと思いきや。突然飛び出した自分の名前に、ローズはきょとんとジャックを見つめた。
「来週、6月2日。語呂合わせで『ろー(6)ず(2)』になるよな?」
「……ちょっと無理やりですが。まあ、理解しかねる、ということもありませんかね」
 自分の誕生日は無論別の日だが。特になんの感慨もなくカレンダーを見やるローズとは裏腹に、ジャックはにんまりと笑って雑誌を閉じた。
「ローズの日。じゃあ、ちょーっとだけ世話になってるお前の記念日っつーことで、美味い酒開けようぜ!」
「君はそういう記念日にかこつけて、私の手持ちの酒を飲みたいだけでしょうに。まったく」
 呆れながら言うが、その口調は隠し切れない楽しみが影を見せている。
「しかし君の記念日は、誕生日以外なさそうですね」
「『じ(4)ゃっ(8)く(9)』……はやく新しい年号になったら、その4年の8月9日、だ。そんときゃ、盛大に頼むぜー?」
「はい、はい」
 そっけなく答えようとするが、にやにや笑うジャックに来週も会える、予定が出来たという楽しみは、ローズの声のトーンを少し上げる。
「ワインはちょっと最近飽きたから、日本酒にしようぜ?」
「我儘ですね。まあよろしい。昼間は商談がありますけど、夜は予定を空けておきます。……一週間もあれば最高の日本酒くらい用意できますね」
「ジョートーじゃねーか。ヨロシク、ローズサマ」
「……私の記念日とか言った割には、用意するのは私ですか」
「細けーこと気にするんなって。じゃあ、6時に待ち合わせで」
 もう一度、カレンダーを見やって、にやついた。ローズも同じ日を見やって、頷く。
「了解ですよ、ジャック」





 6月2日五時半。ローズは大抵早く待ち合わせにいる。遅れる時もあるが、例えそれが3ケタの秒数で測れる時間でも、律儀に連絡を入れてくるから愉快だ。
 ゲームに熱中しすぎていて三十分遅れた時は苦言を漏らされ、以来ジャックも少しだけ気を付けている。今日もそうだった。美味い日本酒が用意されていると思うと、安い缶酎ハイと缶ビールしかない自室には何の未練もなく、鍵を掛けることさえ忘れそうだ。
 待ち合わせのビル前まで歩きながら、ジャックは少し緩んだ口元のまま、小さく鼻歌を歌っていた。通り過ぎる駅の電光掲示板に書かれた「6」と「2」は、ちょっとだけ羨ましい。
『いつか見てろ、ジャックの日だってこねーわけじゃねーし』
 その時は高い日本酒どころか――――と思っていた矢先、目に飛び込んできた、鮮明なマゼンダ。
 いつものローズではない方の、それ。
 見慣れた花屋に並べられた大量のバケツには、色とりどりの薔薇の花が入っていた。ほんの少し陰りはじめた6月の日の中で、赤だの白だのピンクだの、中にはなんと表現すればいいのかジャックにはわからないような色も並んでいる。
『6月2日は 薔薇(ローズ)の日!』
 そんなポップを目の当たりにし、ようやくジャックはローズの名前にそんな意味があったのを思い出した。
「いらっしゃいませー」
 ほんの少し足を止めたら、茶髪の店員から声がかかった。
「今日はローズの日なので、薔薇フェアです。お安いですよ?」
「いや、悪ぃけど――――」
 そう言い掛けて、手ぶらの自分を思い出した。
 今日は、あいつの記念日だ。
『いや、だからって、花って』
 今買って俺が持っていくなんて。道中はまだまだ。それに相手は野郎で。それに、ローズにローズを渡すなんて、あまりにも安直。
 思いは巡るが、最初に目に触れた鮮明なピンク色の薔薇は、焼き付いたまま離れない。ぐるぐると首を傾げたり、表情を変えたりして悩むジャックに、店員はきょとんとし、少しにやりとして言葉を添えた。
「お好きな色で十一本選んでください。三千五百円のとこ、三千円にしますよ?」
「ぐっ、やるじゃねーか、にーちゃん……」
「こっちも商売ですから。何色がいいです?」
「って、決定かよ!」
「理由が欲しい顔していますよ? 押し付けられたって」
「~~~~~……っ」
 花屋のにーちゃんにまでバレるような顔だったのが、逆流した血でのぼせそうなほど恥ずかしい。
「んじゃー、そのネオンピンクっぽいのひとつと、あーと……」
 ローズの目。
「オレンジひとつ」
 ローズのコート。
「ちょっと黒っぽいやつみっつと、白いのひとつと、そっちのピンクひとつ」
 ローズの髪。
「あと全部薄いピンク」
「随分カラフルになっちゃって、ちょっと統一感ないですけど、大丈夫ですか?」
「…………」
 なんか足りない、とすぐに気付いた。適当に黄緑色の花を取って、薄いピンクに添える。
 あいつの、髪留め。
 しっくりきた。
「いいぜ、それで」
「はいはい。三千三百円です」
「どっから来たんだ、その三百円!?」
「お客様が加えたじゃありませんか」
「くっそ、それくらいサービスしろよ……って、薔薇、十本じゃなくてなんで十一本なんだ?」
 やけにキレの悪い数字にジャックが首を捻る。茶髪の店員は、悪戯っぽく笑う。
「薔薇は本数によって意味合いが違うんです。十五本は友情とか、一本は一目惚れとか。十一本はですね、『最愛』です」
「最……あいっ……!? 違うっ、断じて、あいつそんなんじゃない! ローズの日だから渡すだけだっ!」
「照れないで下さいよ、大事な彼女さんでしょ」
 茶化しながら言われる、彼女さん、なんて言葉。そうだったらいいのに、と口の端が引き攣りかけて、いや、カノジョじゃ、だめだ。なんて思ってしまう病気。
「おや、本当に違いました?」
「そっ、そうそう、彼女! いやー、モテる男は辛いぜ!」
 慌てて話を合わせると、店員はまたにっこり笑った。簡易なラッピングをして、何も言わず、合わせるリボンは黄緑。ジャックの薄い財布から代金が支払われると、帽子を取って、花束を渡してきた。
「ご検討、お祈りしています」
「お、おう」
 ぶわっとくる薔薇の香り。ちょっと持つのが恥ずかしい花束。俺が持っていれば、色男のはず。帰りはあいつに持たせて、夜の道中で恥をかかせてやろう。腹に決めた時、店の時計を見て少し青くなった。
「やっべ……! じゃあな、にーちゃん!」
 店員のありがとうございます、も聞こえなくなるくらいのダッシュで、ジャックは残り十分を駆け抜けた。
 人通りを駆け抜けていく、薔薇の花束を持った男はかなり目を引く。ショーウィンドウにも一瞬きらめいて見える自分は、髪や服の青と花束の色で中々派手さが増していた。
 だが、悪くない、色男だ。ちょっとにやっとした。何も用意していないだろう、とたかをくくったローズの驚く顔が楽しみだ。
 残り二分、というところで待ち合わせのビルの前。全力のダッシュにぜえはあと息をするジャックの視線の向こうに、絵にかいたような高級車が停まっていた。ローズがそこにいる事を主張するようなそれに、ニッ、と笑ってしまう。
 見えた。
 手持ちの花束の薔薇と同じ、薄いピンク色の長髪。
 花束を持った手をぶんぶん振って、大声で名前を呼べば、肩をぴくりとさせて、苦笑まじりに振り向くはず。
 いざ、実行―――――と、手を上げかけた。が、その右手が止まる。別の色の長髪に、微笑むローズの横顔が、ジャックの肩の力を噛み潰した。




 正直言って、理解しかねる。口元から笑みが消えかけているのを悟らせないよう、ローズは車内で口元に手を添えていた。仕事は終わったはずなのに、なぜその話を車内でまでしなければいけないのか。幼少から車や飛行機、新幹線など、どこでも文字を辿ってきたローズは、手元の文字だらけの資料程度では車酔いになんてならない。なれたら、多少楽なのだろうか。
「――――しなければなりません。そこで、弊社の」
『ジャック、』
 仕事ん時はそーするけどよ、オフに仕事持ち込んでも疲れるぜ? ぱーっとやるぞ!
 なんて、君はいつか言っていた。
 出世したいのか、売り込みがしたいのか。目の前の女性は、ローズが車に乗り込むのに、どうしても、なんて食らいついて一緒に乗り合わせてきたが、流石にここまで続くと、ジャックとの待ち合わせギリギリまで聞かされそうである。
『区切りが付けられない私の方が、随分要領が悪いですよね』
 ぱたん、と資料を閉じるローズの手元に、取引相手の幹部の口上が止まった。
「すみません、そのお話を私に聞かせたい、と仰っていましたが」
 ニコリ、と笑い、自分ほどではない長髪の女性を見返す。
「すみません、先ほどは了承しましたが、やはり私の勤務時間外ですので―――――おっと、」
 車が止まった、時計を見ると、もう待ち合わせ数分前だ。
「では、失礼します。その件はまた後日――――」
「いえ、失礼しました。重ね重ねではありますが、その後日の予定をいただけませんか」
 一緒に降りる程食い下がる野心に、ローズは辟易の表情を崩さないでいられるか少し心配だった。縋りつく、長い髪の女性に笑い掛け、ローズはスケジュールを思い出した。悪くない。
「そう……ですね、今日これからと明日は私、オフです。その後は一週間監査と、」
「オフでしたら、どうか一時間」
『申し訳ないけれど、あなたに与える時間なんて、一分もありません』
 口の中にそれを押し込めて、ローズは首を振った。
「仕事は区切りが大切ですよ。では」
「…………ありがとうございます」
 観念して、ようやく引き下がり、まるでフられた女性のような顔持ちで車に戻る。運転手に送るよう囁いて、道路の向こうに行ってしまうのを見送った。
「……さて、」
 ジャックはまた遅刻だろうか、などとようやく少し笑う。中々しつこい商談相手に苛立った分、彼に会って緩和されるのが楽しみだ。
 六時ちょうど、声が聞こえた。
「ヘイローズ、」
「ジャック。………?」
 道路の向こう側の声は聞き馴染んでいて、多少の街のノイズなんかでは消えない。対面する見慣れた男の仁王立ち。手には、あまり似合わない、少し車と風の流れで視認しにくい花束が握られている。
「すみません、今そちらに行きます。今日は時間ちょうどですね」
 車の流れの切れ目を探したローズの耳に、またジャックの声が届く。
「お前―――――いや、なんでもない」
「?」
「俺でも、そうだったからな」
 ローズの目が、きょとん、と揺らめく。そのゴーグルの奥の目が今まで誰を見ていたかを想像すると、花束を握るジャックの指の力が強くなった。
 男同士が恥ずかしいとか。
 女相手の方が体裁は保てるとか。
 そもそもただの友人の延長戦だとか。
 ギリギリ、と胸を締めつける、自分に跳ね返るそれは耐えられない。
「ジャック!」
 気が付いた時、ジャックの足は元来た道を走り出していた。
 別に、ローズから逃げきれることを期待したわけではない。アパートの場所も職場も知られているが、どうしても、今、ローズの顔を見たくなかった。
 知らない路地を、右へ、左へ。怪しい名前のバーや、ファーストフード店の裏の大きなゴミ箱を通り過ぎ、どこを通っているかもわからない。
 割と持久力があるはずの肺から息が切れる音のする頃、フェンスで区切られた路地の影に、ジャックは座り込んだ。手元にまだ薔薇の花があるのに気付き、ぐ、と歯を噛んだ。どうせなら捨ててくればよかった。
 ばさ、と路地の壁に投げると、ピンク色の花びらと黄緑のリボンが宙に舞った。ローズの髪の毛に酷似したその色に、また胸が締め付けられる痛みが走る。
『俺なんて、やだろ、』
 ぐ、とらしくもなく膝を抱え込み、誰も来ない、とズボンで鼻をこする。暮れてきた日の光の代わりに、遠くで外灯が灯る。
「……長い髪の、かわいーねーちゃんのが、いいもんな。ばーか、うぬぼれんな」
 けほ、と長距離を走った独り言を、自分に言い聞かせるように叩き込む。くしゃ、と額にかかる髪の毛を引っ張って、落ろして、俯く。
 6月2日は、ローズの日!
 なんて浮かれていた自分は馬鹿みたいだ。誰にでも等しい優しさに甘えていた。
「俺だって、俺だって、お前なんかよりも、ぼいんのねーちゃんがいいし、絶対……いらねーよ、くそっ」
「聞き捨てなりませんね、ジャック」
「!!?」
 馴染みの声が、路地のジャックの耳を撫でた。しかし、知っているよりも鋭利で、苛立ちが隠せていない、むき出しの声。逃げる場所を探して、フェンスに手をかけたが、間に合わない。
「どういうことですか、ジャック」
 冷たい声にジャックが振り向くと、真顔で一歩一歩、距離を詰めてくる男がいた。
「ローズ……どうして、お前ここが……」
 くすり、と笑うローズの黒い手袋をはめた手から、ひらひらとバラの花びらが落ちてくる。どきっとして、さっき投げ捨てた薔薇の花束を見やった。
「まるで、ヘンゼルとグレーテルみたいじゃありませんか? それとも、なんでしょうか。探してほしかったのですかね?」
「っ、んなわけねーだろ。むしろもう、お前と、そーゆーのはナシだ」
「そーゆーの、とは?」
「……嫌なんだろ……お前も」
 取って付けたように、自分もそうだ、と主張する言葉を添える。
「野郎抱いて、女扱いして、ケツにナニを突っ込んで、アイシテルー、だのなんだの言うのも、お前だって――――お前だって、」

 俺は、悪くなかった。
 なんて甘えは塗り潰して、言葉を絞り出す。

「……お前だって、気持ち悪ぃだろ? な? そういう事だろ?」
「…………」
 沈黙が、お前の答えだ。
 無表情のまま何も言わないローズに向かって首を振り、ジャックは口を開きかける。
「……じゃあ、な、ロー――――……ッ!?」
 ガッ、という金属フェンスの音が全身に響く。一瞬何が起こったかわからなかった。至近距離にふわりとかかってきた、馴染んだ香りが襲ってくる。
 ジャックの体をフェンスに磔にし、肩を強く抑える。昔、護身術として合気道やら、何やらを教わった。力はある方ではないが、体力を切らしているジャックを抑え込むくらいはわけない。
 特に今は。
「ぎ、っ……ローズ……お前……」
「あまりスマートでないのは好みませんが、仕方ないですね、ジャック」
 微笑むのは口元だけだった。ゴーグル越しにうっすら見えたローズの目は、どんな刃物よりも鋭く、ジャックに突き付けられていた。危うい程の殺意さえ感じ取れるそれは、ジャックの目を見開かせる。
「私、口下手なので説得するのが苦手です。口で言って信じてもらえないのでしたら、別の手を試しましょう」
「な、に、お前……っく、」
 フェンスに磔にされた両腕を抑えられ、ジャックの唇にローズの口が押し当てられる。いつも下手だとからかう余裕も、今はない。
「ゃ、めろ、お前、馬鹿っ……! こんな、とこ」
「さっきみたいに、逃がしたくないです」
 道路の向こうで、泣き出しそうな顔のジャックが、背を向けて走り去った、あの喪失感。突き落とされたようなそれは、二度と味わいたくない。
「見られても構いません、私。社会的に死のうが、知りません。ですから、ジャック」
「んぐ、ッ」
 耳元をべろり、と舐めて囁く。ピアスをひとつ、齧って、耳の形をなぞるように弄る。
「わかってください」
 ゾクン、と背中に響く吐息混じりの声は、容易くジャックの体に入り込んで痺れさせる。ジャックがフェンスに寄りかかったまま、ずるずると足の力が抜けるのに伴い、ローズも浅く跪く。
「や、めろって……ローズ……!」
「すみません」
 体を押しのけようとしてくる腕をいなして、ぐじゅ、と卑猥な音を立てて耳を吸う。びくり、と震えたジャックの全身に響くよう、蕩けるチョコレートのような息をかける。
 上着のファスナーに手をかけ、むき出しの首に指を這わせた。つ、とそのまま下に落ちていき、その跡を辿るように舌が追う。首筋の柔らかいところを見つけると、ローズの唇が歯牙のように突き立てられ、音がするほど強く吸う。痛みとくすぐったさと、病熱にも似た感覚がジャックの正常な思考を奪っていった。
 ケガをさせるくらい強く突き飛ばせば、逃げられるか? いや、もう一度フェンスに磔にされるし、ケガはさせたくない。それに早くも現金なジャックの体は、与えられる見知った快感に、確かな悦楽を示していた。軽い火照りが下半身にまで行き渡る前に、とローズの体を押すが、わけもない、と言わんばかりにいなされる。
「ロー、ズ、頼むから……ここじゃ……」
 誰が来るかもわからないし、万が一良くない人種だったら、と、危惧する正常な思考と言葉にも、沈黙が絡み始める。
「すみません、ジャック」
「んッ!」
 小さな痛みを伴い、仕上げられた。
 首筋に出来た赤いキス痕は、ジャックの目には見えず、ローズの眼下で煌々と鮮やかな薔薇色を主張していた。ローズが唾を飲み込むと、喉が煩い程に鳴った。乾いている、と。
「ジャック、」
「いづ……っ」
 きゅぅ、と胸の小さな突起に親指を触れさせ、少しだけ爪を立てた。普段は焦れる程やさしく扱われた事しかないそこは、突然の痛みに過敏なほど反応した。
「ってぇ、な……ローズ、俺は、」
 これ以上、何も言わないでほしい。と、釘を打ち込むように、ジャックの唇を奪った。カリ、とローズの爪で少し強めに擦られるせいで、触れ合う唇の熱さは一層際立っていた。
 いつものローズらしくない、切羽詰まった自身の扱われ方には少し身が縮まる恐怖もうっすらと感じる。どんどん身体から力が奪われ、見知った体温に発情するのもわかり、更に恐怖をかきたてる。本当にこのまま――――非難する言葉を浴びせようにも、塞がれた口の中はローズの舌で蹂躙されていた。
 舌が離れた、とようやく息を吸ったジャックの口に再度突っ込まれたのは、ローズのそれではない。
 手袋をしたままの手がジャックの口内をまさぐり、舌をほじくりだす。
「う、ぅ、げ……へ、ぁあがっ、あ、だ……」
 言葉を成せない音と、吐き気の酸っぱさしか喉からは出てこない。口外に晒しだされた舌に、ローズの唇が触れ、奇妙なキスを仕掛けてくる。
「君の舌が、口が好きです」
 手袋越しのローズの手から解放され、げほげほと咳き込むジャックの耳に、そんな言葉が届く。
「私の名前を、呼んでくれる、君の口が好きです」
「…けほっ……おい、ロー……ッ、ん!」
 ズボン越しに手の甲で触られた局部は、思い知らされる程に屹立していて、まるでローズの温度を欲しがっているようにさえ見える。ジャックが冷たい地面に手を付き、身を引いても、ローズがさらに距離を詰めてくるだけだった。
「君のココも、好きです」
「や、め……ッ」
 緩いベルトで留まっていたズボンが下着と一緒に下ろされると、固くなった自身が外気に晒されて、血が逆流しそうな混乱がジャックを支配する。
「正直な君がわかる、男の性というのに忠実な君のココ。好きです」
「~~~っぅ、あ、あ……っくぁああ……ふ、っつ……」
 路地裏で、男同士の野外プレイ。AVや同人誌みたいな煽り文句が実際に身に降りかかるなんて、思った事もなかった。万が一にでもこんな変態じみた行為を、見られたら――――ジャックがそれに竦む前に、コートを脱ぎ捨てたローズの手が、直に過敏なその部位に触れてくる。
「やっ、だ……め、ろよ、ローズ……ローズ……」
 懇願するように言っても、ローズのオレンジ色の目は冷徹に首を振る。熱いのに、冷たい、火のようなものが灯っていて、どんな言葉でもそれは今、消せそうになかった。
 身を寄せ、ジャックの身体の熱を確かめるように全身を触れさせながら、ローズの手はやわやわとジャックの棒を扱く。何度も繰り返したその行為は、会えなかった時間もかみ合って、鮮やかな火照りをジャックに与えてきた。
「君の、目も好きです」
「……ッ、ひ……?」
 ローズが見下ろすそこには、舌を掴まれ、蹂躙された生理的な涙を浮かべた目があった。おびえたような色を見せるその目は、あまり馴染みがない。
「……ジャック、」
 くしゃ、と髪に触れようとしただけなのに、さっきからのローズの動作すべてに脅えたジャックは、びくり、と身をよじらせる。
「や……だ、触んな……や、だ……やめ、ろ……」
「ジャック、」
 声に、上手く温度が入らない。やはり、口で言うのでは通じない。
「……ごめんなさい、ジャック」
 ローズの言葉に、おそるおそる視線を合わせて、後悔した。オレンジ色の目から、わずかな歯止めが消し飛んだ。そんなところだった。
「っがぁあ、あッツ!」
 誰かに見つかる、という事も忘れる程、ジャックの喉から痛々しい声が出た。肩を強く、フェンスにむかって押し付けられ、無理やり体の向きを変えられる。後ろからぐち、と扱かれる自身の中心でさえも、あまりの緊張に萎えそうなくらいだ。
 と、耳元に後ろからローズの声が触れる。
「――――――ちょっと乱暴、します」
 あまりにも冷徹な宣言に、背筋が強張り、凍り付いた。フェンスに引っかけられたジャックの指に、手に重なるよう、ローズの手が触れる。後ろから扱いていた手は、ジャックのペニスから搾り取るように白みがかかった透明な液を奪い、そのまま睾丸に一瞬触れ、背筋の緊張を弛緩させる。後ろに触れた、液をまとった指に、一瞬の弛緩もまた緊張に変わる。
「や、だ、ローズ……そんな、あ、あ……」
 答えもせず、男性にしてはやや細い指が、ずるり、と埋まった。一本程度なら、と許した其処に奥まで侵入し、二本目もねじ込まれる。
「あ、ッ……ん、ひ……ぃああ、ろ、ず……やめ、ろ……ろぉ、ず、ッ、あ、あ……」
 知っている。
 全身に色濃く刻まれた日頃の二人の夜は、ジャックの意に反して後ろの孔を緩める。普段ならしつこい、と苛立ち、焦れる程の前戯もとばしたその性急さは、ローズらしさがほとんどない。身がわかりやすいほど竦み、震える。相手は、ローズなのに。
『あ、』
 ローズなのに、と思った。
 逆に言えば、ローズなら――――と。
『……俺、ローズなら、いいんだな』
 息らしい呼吸が出来ない喉の奥で、その思考は微かだった。考えている余裕なんてほとんどない、が。抜き差しされるローズの指は、覆い被さってくるローズの息の荒さも伴った速度で、ジャックの身体を揺らす。
「っく、ひ……ぃ、い……っか、ああ、ろ、ず……待……おま、え、ろーず……ッ、ん……んんん…ッ!」
 奥に届きそうで、届かない、もどかしい熱が与えられるのは同じだった。
「……ジャック、」
 耳に触れる熱と共に、ローズの指が体の中からいなくなる。ベルトの音がして、少し後に突き付けられた熱も、知っていた。
「あ……」
 いつもより、慣らしが足りない。少し窮屈なジャックの中を無理やり押し拡げる。バックの体制で、ケモノみたいに、強引に挿入されるローズの熱量に、胸の奥がつっかえる。息を吸うのすら、ジャックはその時忘れた。
『そ、だ……』
 塗り潰したはずのそれが煌々と主張してくる。視界の隅に触れる、薔薇の花だか、ローズの髪だかわからないピンク色。
 その色は、目から涙を促すほど、愛おしかった。
「は、あ……ん、ん、っふ、あ、あ……」
 ずるずると体内を侵していく、火傷しそうな程熱い血潮の昂ぶりに、喉から声が搾り取られる。フェンスを指で握りしめ、向こうの外灯が歪んでいるのに、ようやく目に涙が溜まっているのをジャックは思い知った。
『ローズ』
「好きです」
 唐突に突き付けられたローズの声に、身体がぴくりと震える。腰を抱き、胸を抱き、ジャックの顔に額を擦りつけるローズは、なんとなく子供じみていた。
「好き、なんです、君の事―――――ほんとうに、こわいくらい」
 侵す昂ぶりが、進むのをやめ、泣きそうなローズの声が耳を撫でる。
「君に嫌われるのは嫌だ。君を抱きたい、大事にしたい…………君に私を突っ込んで、愛していると言いたい」
 らしくもない、下品な台詞も、笑えない。
「君が一人でいたいと思っても、私なんて嫌だと言っても。私は、君が好きです。わかって……ください……」
「……」
「ジャック……」
「…………」
 声しか聞こえないのに、どんな顔をしているか想像がついた。
 こんな切実な顔をする奴が、こんな甘い声で呼んでくる奴が、俺を裏切れるはずがない。
 ジャックの手の強張りが、瞬間、抜けた。フェンスによりかかったまま、ずるり、と落ちていくジャックの身体に、ローズの声が震える。
「ジャック?」
 まさか、何かの拍子に怪我でも――――という考えを裏切り、ジャックが身じろぎして、ローズを見返してくる。全身の冷たさが、ぽつりぽつりと熱に変わって、脱力していたジャックの手に再度力がこもった。
「……ジャック、」
「バッ、クは……嫌いだ。犬かよ、お前」
 声を絞って、フェンスを握りしめて汚れた手を睨んだ。冷たく、汚れた地面で、どーとか、こーとか。ここまで来たら、同じか。
「抜け、よ……逃げねーから……」
「……本当、ですか」
 すぐに、頷いてやった。
 ちょっと躊躇った後に、ジャックの身体からローズの熱がいなくなった。力がこもった右腕で体を起こし、フェンスを背にして寄りかかる。息を吸って、目の前の男が我慢できずに体を寄せてくるのを、嗤ってやった。
「信用ねーな、俺……」
「……君だから」
 心配そうな声を出すローズの髪ごと肩を抱いた。まだ上手く力が入らない。
「ばか、やろ……わかってねーのは……お前だろ、ばか」
「……ジャック」
「本っっっ、とーに、ばかだ。お前」
「……その私が、今の状況に我慢できると思っていますか?」
「思わねーな」
「その通り……」
「ん」
 抱き締められたまま、唇を欲しがってくる。また舌が掴まれるのでは、と思ったが、今度は優しかった。知っている甘い扱いは、野郎相手にするようなキスではない、のに。ローズの味がした。
「っふ……あ、あ、っく」
 再度入ってきたローズの熱に、身体が緊張する。今度はさっきよりもゆっくり入ってくるから、形も熱も、ローズの息遣いまで鮮明にジャックに伝わった。
 緊張の糸を解すように、前も緩急付けて弄られる。
 ジャックの腕からは時折力が抜け、その度、思い出したようにまたローズの肩を掴む。肩に触れるジャックの手の力と、びくびくと震えるそれが、肩から全身に伝わる。まるで、世界で一番、愛されているかのような気さえする。
「ジャック……」
 そうであれば。と祈るようにまた、首筋に痕を付ける。くすぐったさと唾液の感触と、恥ずかしい快楽に、ジャックの身体から力が抜けていく。
「か、っは、ああ、ん……っ、ん、ろず、ろ……ぉず……っ……」
「ジャック」
「~~~~~ッ、ん、んん、あ、い……ッ、あは、あ」
 ぐ、と大きく息を吸い、最奥に届かせる。きゅぅ、と締まり、ぞくぞくと震えるジャックの目とローズの目が合う。
 涎と、ちょっとだらしない、鼻水を垂らしてすする、ジャックの顔。どろどろに融けて、視線を向ける先もおぼつかないのに、ローズ、なんて呼ぶ口は舌をちらちらと見せてくる。
 余裕とかいうのを、どこに忘れてきたのか、と茶々を入れたくなるようなローズの表情は、荒い息を繰り返し、綺麗な顔立ちは度々歪んでいた。額にやや乱れた髪がかかり、首はほのかに赤く、汗も伝っている。
 堪えきれない。
「ひ、あ! ばか、ろず……ろぉ……ッ、だめ、だッ、あ、あっ、ん……っくぅううう!」
 大きく突き上げた、途端、痙攣し、ローズの衣服を握りしめる。頭が白くなり、身体がいう事をきかなくなり、大きく弾ける。その締め付けに、震え、ローズもジャックの肩を強く抱いた。
「……っ、く……は…………ゃ、っく……」
 抱きつぶす、という表現がぴったりだった。ジャックがまともに呼吸できなくなるほど、強く、抱き締めてしまった。何も考えず、ただ、ジャックの温度を感じて果てる悦楽は、何にも代えられない。
 突き抜ける快感に、全身は溶けていった。
 震える。息が止まる。そして。
 ぱたり、と地面に白濁が落ちる音がした。少し遠くの大通りの車の音より、煩いほどに。





「少々、大人げなかったですね」
 ジャックの上着のファスナーを上げながら、ローズは呟いた。怒り心頭の眉間にもうひとつ筋が追加され、ジャックは口の端を笑顔で歪ませた。もちろんそのままの意味のはずがない。
「『少々』? ほぉおおお?? その場で! 即! とか……なんなんだよ、お前!?」
「今回については謝りましょう」
「ぬぅわああああにが、今回ニツイテハ謝リマショウ? だ! このド! 変態! レイパー! 女たらし!」
「最後の台詞以外、返す言葉がありませんね。おそらく君が勘違いしてくださった、あれは商談相手です。相手にするのは君だけですから、その辺りについて、なんとか頑張って理解してください」
「ほぉおお? 皮肉がオジョーズで。チョー愛されてますコト。そーゆー相手にお前、ナニがドーしてあーなったんだよ?? ああ?」
「簡潔に言えば、強姦ですかね」
「わかってるじゃねえか、クソ野郎」
「……すみません。ですけど、」
 地面からコートを拾い上げ、ローズは背中を向けて告げる。
「君が私の元からいなくなると、怖かった」
「…………」
 俺だって。を、のっくんで、ジャックはフェンスに手をかけて体を起こした。膝より下まで下ろされていたズボンを引っ張り上げながら立ち上がる。とろ、と太ももの内側に垂れるローズの痕の感触に顔を顰め、その見えない様子をズボン越しに見送った。べとつくそれは思ったより早く流れるのを止めたのがわかる。安堵し、違和感の残る腰をあげて立ち上がると、今度は地面に落ちていた自分のものと思しき白い液が目に触れた。
「……ったく……!」
 悪態をひとつついて、がしがしと靴裏でそれをタバコの吸い殻の様に踏み消す。ジャックのその一連の様子を見て、ローズは楽しそうに微笑んでいた。
「んだよ、ニヤニヤしやがっ……いって……」
「無理はなさらないでください? 乱暴された後ですから」
「だ、れ、がってハナシだよ……」
 フェンスに支えられながら、深呼吸する。と、外灯の中で控えめに照らされるピンク色が目についた。
 ローズ。
 さっき捨てた花束を拾い上げた。ちょっと萎びていて、路地裏の埃やら何やらで薄汚れている。
「ローズ、」
「?」
「……お前の日だろ? ローズの日」
「……私に?」
「お前以外に誰がいんだよ。俺の知り合いに、ローズは一人だけだ」
 押し付けられた薔薇の花束からちょっと埃が舞い、ローズはひとつ咳をした。薄ピンクの薔薇の花は、まさしく自分の髪の色だったりと、全ての色に自分を見つけることが出来た。
「ジャック……」
「……うっせえ」
 ふい、と目を逸らすジャックに、にこにこと笑いかける。ジャックが横目で見るその顔には、もうさっきの冷徹さはなかった。
「こんなに、愛してくれる君の事を、裏切れるはずがないじゃないですか、ジャック」
「……なら、いーんだけどよ」
「おや、随分素直で」
「うっせえ。日本酒飲みに帰るぞ!」
「はい、はい」
「あと、」
「?」
「……」
 この馬鹿の、わからずやの、口下手の、世間知らずには、言葉じゃなきゃ伝わらない。教えてやらなきゃ。ぐ、と羞恥を押し殺して、ジャックは目も合わせずに告げた。
「やり直しは……ベッドの上がいいからな……?」
「……ジャック」
 萎びた花束を握りしめ、ローズは微笑んだ。『早く【ジャックの日】、とやらが来ますように』などなどと。
「ヘイジャック――――――そこに見えるホテルで今すぐに、ではいけませんか?」
「…………ばーか」
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奏 Euph
割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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