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ユメクイ


ギザ歯のユメクイ


「あー、そっちはいいのね、おっけ」
 この声の持ち主と、B組の大宮君と会話をしていた甘えた声の持ち主が同一人物だと思う者は殆どいないだろう。だが、大抵の女子というのは、何種類もの声音を使い分ける術を持っている。麗亜という女子もそうだった。スマートフォンの通話を切って、麗亜は舌打ちする。
「どうだった?」
 二番目くらいに仲がいい子が、麗亜にすり寄るように訊いてきた。
「帰ってない。マユ達があいつんちの近くで張ってるように言っといたから、ウチらはその辺探す」
 PTAなんて、簡単だ。ちょっと可愛い顔を作って『香苗ちゃんに借りてたノート、帰したいんですけどー……』なんて上目使いで言えば、『ああ、ちょっと香苗呼ぶねー』もしくは『ごめんねー、香苗、まだ帰って来てないの。ノートだけおばさんが預かってよっか?』などという情報を流してくる。
「ウチらの陽平君に近づくとか、マジありえねーし。しかもデブ谷とか」
 八つ当たりするように、麗亜は辺りを、獲物を狙う雌ライオンの如き視線で睨み付け、電柱に寄りかかる背中をまっすぐにした。
「行くよ」
「ん」
 香苗の通学路を巡回するべく、麗亜ともう一人の女子がその場を去る。その姿が見えなくなって、少しして、いつの間にかそこに現れた扉が小さく開いた。神経質な黒い目が、きょろきょろと辺りを見る。
「とっとと行け。ネズミかお前は」
「ふぁあっ!? ちょ、ドリーさん……っ!」
 背中を押され、香苗が前につんのめる。なんとか転ぶのは回避したが、半ば強引に店から出されてしまった。
「押すって事ありますか!」
「出たがってたのはお前だろ」
「そうですけど……」
 それとこれとは話がちょっと違う。壮大な夢の前への第一歩がこれで挫かれては話が進まない。香苗はじっとりと湿った視線をドリーに送ってぼそぼそと尋ねる。
「私の夢、叶える気、あります?」
「ったりまえだろ。で、なんなんだ、その御大層なお前の夢は」
「か……っ、帰る事です」
「……はああ?」
 耳までボケたか、と言わんばかりに、ドリーはただでさえ皺の多い顔をくしゃくしゃにして歪めた。
「い、家まで、私の家まで、無事に帰る事ですって……」
「んな幼稚園児みたいなみみっちぃ夢で、あのメアがあそこまで過剰反応するわけないだろ」
 女子高生アレルギーでも持っているのではないか、と思わせるほど派手な拒絶反応を示したあの男は、ドリーと香苗について行く事を断固拒否していた。実際には何に対する過剰反応なのか、香苗にはわからなかった。だが、この場をしのぐためにはそんな事は気に留めていられない。
「みみっちぃってなんですかっ。私はこの夢の為なら、多分どんな事でも出来ます!」
 少なくとも今日かぎりは。自信の無さを補うべく、心の中でそう付け加えた。今日、麗亜達から逃げ延びる事に成功しても、これから同じように生きられるかはわからない。しかし、今日生き延びる事が出来れば、少なくともあと三日は安泰のはずだ。今日は金曜日だ。
 肝心要な今日、この金曜日を切り抜けるためには、絶対に一人では無理だ。だが、ドリーがいる。この、人間ではないユメクイが。
(あんな変な力持ってるくらいだから……この人……じゃない、ユメクイを頼れば、なんとか、家まで……)
 辿りつけるはず。それを信じて、目の前の老人としばし睨み合い、香苗はなんとか彼が諦めたように息を吐くまで堪える事に成功した。
「わかった。お前、しっかり家に帰れよ?」
「はい! もちろ……ん?」
「で、どっちなんだ?」
「え、ちょっと……」
「なんだ?」
 ジロリ、と自分とさして変わらない高さから黄色い視線が飛んでくる。逃げ場を探しながら、香苗はぼそぼそと口ごもった。
「だ、だって……えっと、ユメクイなんですよね? さっき、私からなんか絡め取って、食べてましたよね?」
「夢だ。クソしょぼかったけどな」
「そう、そういう不思議な力で、ぱぱっと私の夢を叶えてくれるんじゃ……ないんですか?」
 最後の言葉が尻すぼみになる事を強いるような、何か変な生き物を見たかのような目のまま、ドリーが言葉を失う。
「……お前な、俺を魔法使いのオジイサン的なナマモノだとでも思ってんのか?」
「…………違うんですか?」
 ぽかん、と目を点にして、香苗が聞き返す。ドリーは煩わしそうに節くればった手で頭を掻いた。
「夢は自分で叶えるもんだろうが、タコ」
「や、正論ですけど……」
「じゃあやれ」
「や、違いますよね!? 夢、叶えてやる、とか言ってましたし、叶いますとか、書いてありましたよね!?」
「あのな、叶える手伝いはするが、実際に叶えんのはお前だ」
「手伝いと称して、私をぱぱっと家の前に運んでくださいよ!」
「佐●急便かクロネ●ヤマトに言え!」
「それでもユメクイですか!?」
「じゃあかしい! おら、さっさと帰って夢叶えろ! 俺は腹が減ってんだ!」
「こっ……!」
 この、自己中心っぷり。すべてが間違いだった。佐●急便にも、クロネ●ヤマトにもなってくれないというのならば、店から連れてきたことがまず大きな失敗だ。間違い探しをするときりがないが、それが大きすぎる。
 絶望のため息を吐いて、香苗はその場にうずくまった。
「も、もうだめだ……」
「あん?」
「このまま麗亜達に心も体も何もかもをぶちのめされて終わるんだ……私……」
 一人で家まで逃げ延びるというのも難易度最高だったが、老人と女子高生という、ボランティアか田舎でもない限り殆ど見られないこの組み合わせは、最高の壁に挑戦したかのごとく、高みを目指していらっしゃる。
「おい、帰るんじゃないのか、お前」
「ほっといてください……今、辞世の句でも考えてるんです……」
「ババアかよ……ったく、おらっ!」
「ぎゃっ!」
 可愛らしくもなんともない声が口から飛び出す。ドリーに引っ張られた腕が痛い。
「な、なんなんですか!」
「帰れ」
「無理ですって! 女の子に見つかったら人生終了っていう最悪な道のりですよ!?」
「隠れろ」
「ひ!?」
 ドリーの腕に引かれて階段の影に隠れる。すぐそばを、セーラー服の襟と校則に縛られた黒髪が通り過ぎる。ドリーの腕の骨っぽさよりも、近くを通ったセーラー服の方が、香苗の心臓の鼓動を早めた。
「……要はこういう事だろ」
「……なんて、無茶な……私、だぁあ……」
 家まであと何キロあるか。
「どんだけ私たちが無茶するか、わかってるんですか……!」
「今のを繰り返すだけだろ? 簡単だ」
「……本当にやるんですか……」
 呆れ半分、怯え半分に呟くと、ドリーは皺だらけの顔であのニタリ、とした笑みを浮かべた。
「やんなきゃ、夢ってのは叶わなねーよ」
「はあ……」
 なんという酷い持論だ。周りに注意深く視線を送って、恐る恐る一歩進んだ。
「そうだ」
「なにが、『そうだ』ですか……」
 上から目線なこのユメクイの態度に、もういっそ苛立ちなんてものは感じない。すべてを通り越した呆れと、彼を頼ろうとしてしまった自責の念に思考は使われてしまっている。
 老人の細い目は、辺りを見回しながらなるべく人目につかない裏道を選び、さらに辺りを見回し、を繰り返していた。女子高生だけでなく、道行く人にも不審者に思われそうな事を、平気でやっている。その点ではある意味ありがたいのだが、一緒に歩く自分の身にもなっていただきたい。
「どっちに進めばいいんだ?」
「その角を左に曲がって、まあ、ひたすらまっすぐです……しばらくは」
「ん」
「……あの、ドリーさん。もしも誰かに会ったら、私、どうすればいいんですか?」
「逃げろ」
「そんな簡単に言われても……ドリーさん、走れませんよね」
「そうだな」
 老人扱いされて怒るかと思いきや、あっさりとドリーは肯定した。
「だから、俺を置いて、逃げろ。どうせお前を探す奴はお前が目的だろ」
「もしかしたら私と一緒にいたっていう理由で……ぼ、暴力とか受けるかもしれないんですよ?」
「クズみたいな奴らだな。じゃあ、少しくらい引き留めてやるからその間に帰れ」
 また塀の影を目で探り、ドリーは香苗に合図しながら電柱から電柱を渡る。香苗も辺りを気にしながら、ドリーが言った言葉を解剖し、疑問する。
「……そうまでして、私の夢って食べたいものなんですか?」
「ああ」
 掠れた声に少し咳をして、ドリーは頷いた。
「もう俺は餓死寸前だ。早くお前の夢でも、叶えて食べないと死ぬ」
「し……っ!?」
 言われても、そこまで緊迫した状態には見えない。こうして動く事も出来れば、しっかり話す事も出来ているドリーが、死にかけている、だなんて。
「ユメクイとしての機能も、もう殆どないな。夢の気配を嗅げないし、見てくれにも気を遣えない、走れないし、握力も人間のガキ以下だ……だから、早く夢を叶えて、食わせろ」
「は、はい……」
 自分の『家に帰る』という目標が、ちゃんと夢として機能していればいいのだが。そうであることを必死に願いながら、香苗は足を進めた。
 二十歩歩くたびに、自分を探すセーラー服の女子高生は目についた。中には男子高生も時々いる。根回しされた、麗亜の取り巻き達の彼氏だと思う。たとえ無関係かもしれなくても、危ない橋を渡るのは御免だ。
「大体お前は、なんでこいつらから逃げてるんだ?」
 ドリーの体の影になんとか忍びつつ、向かいの道路の女子高生3人の視線を避ける香苗に向かって、ドリーは面倒くさそうにぼやいた。
「私のせい……なんですけど」
「ああ?」
「私が……みんなのルール破っちゃったから……」
 飛田陽平に気に入られてはいけない。自分の様なカーストの底辺にいる女子には、相手に話しかけられでもしない限り、会話だってしてはいけない。それが、誰が決めたかもわからない、暗黙のルール。自分は夢を見ることも許されない。
「……私は、下手に夢をみちゃいけなかったんですって」
「馬鹿らしいな」
 フン、と鼻を鳴らし、ドリーは去って行った女子高生を一瞥した。
「そんなんだから、俺がここまで腹をすかせるんだろうが」
「そうなんですか?」
「届きそうもない大きな夢を叶えた瞬間が、最高だ」
 思い出したように、ドリーは目を細めた。しわがれた声が、うっとりした声音で僅かに潤う。
「みんなに叶うはずがないと言われても、めげずに逆境に立ち向かい、その結果掴み取った、努力の結晶ともいえる、大きな美しい、夢が美味い―――――のに、ないんだ。クソッ、最近は」
 苦々しげな声音で、再度声は掠れ交じりのものになった。
「だって、夢って……リスクがありますから」
 この前の三者面談でも、言われたみたいに。点数から自分の行けそうなところを選ぶ。どうしてもそこに行きたいから、と学校を選び、死に物狂いの努力をするのは思ったより少ない。ドリーはそれを聞いて舌打ちした。
「夢を追う美しさを、人間は忘れたんだな。馬鹿め」
「……」
 そう言われてしまっては何も言いようがない―――――と、伏せていた目を辺りに向け、香苗は気付いた。信じられない。少し打ち震えながら、香苗はドリーの服の裾を引っ張った。
「ドリーさん……う、うちまであと少しです」
「おお」
 喜びを全面に表すなんて事はせず、ドリーは静かに笑い、ギザギザの歯をむき出しにした。
「じゃあ、ラストスパートってとこだな」
「は、はい……」
 本当に、信じられない。あの文房具屋から、ずっと、人の目を避けられるなんて。今一番怖いのは、見つかる事よりも、月曜に彼女らに会う事だ。それまでの執行猶予は、手が震える程嬉しい。
 停車されている車の影から、あの曲がり角の向こうを想像する――――もう夕方も過ぎて、親が心配している時間だろう。言い訳を考えておかなければ、と思考が油断する。ここ数時間で、一番不用意に足を伸ばした途端、ドリーの目の色が変わる。
「馬鹿!」
「ひっ?」
 ぐい、と腕を引かれて、半ば突き飛ばされるように車の陰に引き戻された。だが、もう遅い。何人分かの足音が近づいてくる。
「デブ谷ァ!」
 バレた。
 心臓がビニールのパックに詰められ、圧縮されたみたいに苦しくなる。ドリーが道を差す。
「逃げろ」
「だ、って……え、っひ」
 ドリーが枯れ枝みたいに細い足を車の陰から素早く出すと、それに躓いて女子高生が数人倒れる。だが、ドリーの足も妙な方向に曲がり、表情が苦しそうに歪む。
「行け!」
 彼の怒号にびく、と肩が震え、がたがたする足を脊髄が無理やり動かす。ドリーに魔法でも使われたのかと疑う程に、足は動いてくれた。頭のパニックと、喉が渇くほどの恐怖をよそに、香苗の足は飛び込むように路地裏から逃げ道を探す。だがそれも、3分すら持たなかった。
 尊敬できる程、彼女らは律されている。香苗を見つけた瞬間、誰かが彼女に連絡したのだろう。すっと路地の出口から、目の前に立ちふさがった女子高生に、香苗は思わず、ヒッと鳴いた。
「やだぁ、香苗~♪ こんなトコで会っちゃうなんて、チョー偶然!」
 後ろから自分を追う足音と、目の前で偶然を騙る麗亜に、強烈な目眩がする。喉は声が出ない程乾いていた。サラサラのストレートを少し臭い路地裏の風に晒すのも厭わず、麗亜は可愛いデザインの靴を進めた。後ろから別の女子高生も一人ついてくる。
「今日さぁ、ウチらから宿題貰っちゃって、実はマジラッキー♪とか思ってた? 文房具屋さんで飛田君待つとか、香苗、考えたよねえ」
 尾ひれの付いた話を否定する前に、麗亜にセーラー服を掴まれる。彼女の手から恐怖が全身に染みた。
「調子乗ってんじゃねぇよ」
 女子の高い声であるにも関わらず、その脅し声は今までに聞いたどんな音よりも怖かった。身長には数センチしか差がないはずなのに、ヤクザに胸倉をつかまれているのと変わらない。
「夢見てんじゃねぇし。あんたみたいなブスでデブのくせに、飛田君? なにそれギャグなんですけど? 近づくとか、飛田君も迷惑がってるし、やめてくんない? つかマジウザいから消えて」
 淡々と欲求を突きつけて、麗亜は手を離し、香苗の腹部を強く蹴飛ばした。
「ひぎっ!?」
 情けない悲鳴が渇いた喉から出て、汚い道路に転がった。嘲りの視線が四方八方から飛んでくる。
「っつか、ジジイの傍にいるからってウチらから逃げられると思ったの? マジ?」
「ぇ……」
 鈍い音がして、香苗の背中に軽いとも重いとも思えない衝撃が当たる。
「ど……っ!」
 今にも死にそうな咳を吐くドリーが、道に転がっていた。自分の体の痛みと心の痺れが少しだけ消える。
「そいつさあ、あんたのじーちゃんじゃないよねー。全然似てないし。エンコー? 人畜無害デスヨー的な顔してるくせに、やることやってるじゃん♪」
 麗亜の声が少し遠くなり、老人の肩に手を添える。
「ど、ドリーさん……大丈夫ですか!?」
 香苗を濁った目で見つけると、ドリーはカサカサの唇で『かえれ』などと、音交じりの息を吐く。
「あなたって……!」
「何? こんななのに諭吉さんの要求? やるじゃん」
「やっ!」
 別の女子高生が、靴の裏で香苗を蹴飛ばす。麗亜の綺麗な顔が嬉しそうにニコニコしながら香苗を見下す。ずきずきと痛んでいる体も、瞳孔が開きっぱなしの目も、ガチガチと恐怖に竦む歯も、切れた唇も、麗亜は楽しそうに眺めていた。
「……いい事考えた! ね、ウチらとアンタらのナイショね?」
「……?」
「アンタとそのジジイ、あっちの繁華街で車に轢かれて、全治一カ月! エンコーしてたのもバレて、来月には学校出られるよ? やったね! ウチらもアンタも飛田君も、みんな幸せになれるの。最高でしょ?」
「そん……なの……」
「逆らう権利なんて、ないし」
 冷たい声が、すべてを否定する。本当に車に轢かれるか、それとも単純に痛めつけられて、全治一カ月にされるか、大した違いなんてない。彼女たちにとってはどうでもいいのだ。悟った香苗に対して、ニコッと笑う可愛いだけの顔は、女子高生限定の残忍さを孕んでいた。
「じゃ、一緒に行ってあげる♪ 夢、叶えてあげるね♪」
 ぐ、と腕が引かれる。きゃーきゃー言いながら、誰かがドリーの腕を引っ張っていた。
「ほらー。バレないようにちゃんと歩かなきゃ、夢は叶わないよ?」
「…………」
 これが、夢。そう、全治一カ月で万事収まるなら安いくらい。泣いてお願いでもすれば、全治二週間で済む可能性だってあるかもしれない。既に痛みと恐怖で涙を流している目で、視界も滲んだ。
 これが、私の夢―――――――
「馬鹿、が」
 しわがれた声が、ぐしゃぐしゃの髪の奥の香苗の耳に届いた。
「お前の……夢は…………違うだろ……」
 掠れた声に、涙が変わる。全治一カ月も、二週間も、半年だって、変わらない。
 そうだ。
 こんなの、私の夢なんかじゃない。
「は?」
 香苗の手が、小さく麗亜の腕を振り払い、ドリーに手が添えられた。
「嫌」
「はあ? 逆らう権利なんて、ないって言ったし」
「れ……麗亜が決めた事に、なんで私……従……従わなきゃ、いけないの……?」
 震え交じりの声でも、伝わったらしい。ぴく、と校則破りの化粧をした顔が、歪む。ここまで言ってしまえば、もう何もかも一緒だ。
「私が……私が何を思っていても、どんな気持ちでも、私の勝手でしょ!? なんで私の気持ちまで……私の夢まで、あんた達に穢されなきゃいけないの!? 関係ないドリーさんまで、なんで傷つくの!? もう私、嫌だから……」
 すぅっと、息を吸って、世界にさよならを告げる。
「……もう、あんたなんて怖くないよ……?」
 面と向かって言うと、本当に恐怖だけがすっと薄れた。まだ怖いのは確かだが、さっきとは違う。
 綺麗な麗亜の顔から笑顔が消え、周りの女子も、少し怯む。
「うっざ……つか、マジ笑えるんですけど……」
 まだ怯えている香苗を嘲笑して、また蹴飛ばす。怒りにまかせてスマートフォンの角で香苗のこめかみを狙う。香苗の髪で狙いは逸れ、怒りは増した。
「全治一カ月じゃ済まない……ただのデブスじゃない、豚みたいな顔にしてあげる……」
 スマートフォンの角が、目を狙う。想像を超える痛みの予感に、胸が締め上がった。目を瞑り、目玉を抉り出すような衝撃をも覚悟した。
 しかし、その覚悟は無駄になった。
「は……っ」
 いくら怯えても、体を強張らせていても、何も来ない。微かに聞こえた、誰の物かもわからない声に、目をそっと開ける。その時、香苗は目を疑った。
 自分の体が、うっすらと光っている。
緊張状態というストレスに耐え切れなくなっておかしくなった人の話は聞いたことがある。もしかして自分もそのような状況になってしまったのかと疑ったが、そんな気はしない。しかもその光には見覚えがあった。なんとも形容しがたい光だが、記憶にあるような薄い赤ではなく、黄色っぽい、濃く、美しい光。
「なんだ、お前。帰るのが夢じゃなかったのか?」
 知らない声が、覚えのある口調で言葉を紡ぐ。恐る恐る香苗が顔を上げると、すぐ目の前でスマートフォンを持つ麗亜の手が止まっていた。その腕は男の手で、抑えられている。麗亜の顔は、さっきの香苗の様に強張っていた。
 ドリーを抑えていたはずの女子高生は道端で竦んでいる。
 注目の中、麗亜の腕を抑えていた男は悠々と香苗の体から湧き出る光を、別の手ですくっては口に運び、咀嚼していた。
 ギザギザの歯に、真っ黒な髪に、黄色い目の――――老人ではなく、青年。
「ま、いいか」
 ダンスでもするかのように、麗亜の両手を取り、力を込めずに足を払って転ばせる。軽く転ばせたようだったが、麗亜を始め、誰もが彼の出現に怯んでいた。
 唯一、香苗だけが驚愕の一色を送る。
 本当に、彼はユメクイだった。自分の夢――――『勇気が欲しい』という夢を叶え、喰った。
 試すように彼は自分の拳を握り、しゃがんでアスファルトの地面を小突いた。すると、まるでドリルで刺したかのように、ひび割れが出来る。香苗も含め、全員の表情が凍った。
「こんなもんか。おい、なんだっけ、お前の夢」
 青年――――ドリーは、茫然としている香苗の手を取り、ギザギザの歯をむき出しにして笑った。
「悪くない、中々いい味だ」
「ど、ドリー……さん……?」
「あん?」
 口悪く、横柄な所はまるで変わらない。香苗が驚きとも、喜びともつかない高鳴りを持て余している間に、ドリーは十人近い女子高生達を見渡した。
「女相手に喧嘩する趣味もないからな。帰るか」
「そ、んな……えっと……」
「ッ、逃げんじゃねーよ!」
 まだ、この声には体が震える。その香苗の様にドリーは呆れ交じりにため息を吐いた。
「あんなのにビクビクしてんじゃねーよ。ウサギか、お前は」
「だ、だって……」
「にしても、困ったな……」
 綺麗だった顔を歪めて、ギラギラした視線を突き刺してくる麗亜に、ドリーが考え込むように唸る。と、後ろに影が差し、向かい合っていた女子高生達が後ずさる。
「私のエンジェル……」
 亡霊が囁くような声に、ドリーと香苗は飛び上がって驚く。
「ぉぁ!? なんだ、お前か……脅かすな」
「ご、ごめん……ようやく……その、私には釣り合わない夢の匂いがなくなったから……」
 幸薄そうな背の高い男――――メアは、ちら、と香苗を一瞥して、その後、女子高生に視線を向けた。落ち着かないメアのその様子にドリーはニヤっと笑った。
「……なんでここがわかったか、訊かないでもわかるな」
「嗚呼、素晴らしいね、ドリー……私のエンジェルの洞察力は……」
「確かに、鼻が戻ると酷ぇ臭いがする。お前が反応すんのもわかるな」
 ユメクイとしての機能を取り戻した鼻をスンスンとひくつかせ、ドリーは顔をしかめた。
「『ブランド物のバッグが欲しい』? 『限定ライブに行きたい』? 『ウザいクラスメイトと離れたい』? 『アイツに消えてほしい』? 物欲と私利私欲。臭ぇわけだ」
「ドリー……さん……?」
 香苗の腕を引いて、ドリーはメアに手を振った。人間なのに、誰もがこの空気の危うさを悟っている。
「好きにしていいぜ、メア」
 悪魔みたいに笑って、ドリーは背を向ける。
「そんなクソみたいな奴らの夢なんざ、叶わない方がいい」
「そう……」
 メアの視線が女子高生全員に走る。さっきの香苗のように、今度は青や黒の光が、彼女達の体から滲む。悲鳴なんて聞こえないかのように、真っ白な髪のユメクイはドリーとすれ違うように彼女達に向かう。
「……感謝するよ、ドリー……私のエンジェル……」
「おう、腹いっぱい食え」
 ドリーに腕を引かれ、香苗も呆然としたまま歩く。
 背後の路地裏からあがっていた悲鳴は、一歩歩くごとに遠く、小さくなっていった。




「おら、お前の家だ」
 説明を受けていた黄色い塀の、ちょっと洋風な家の前に着く。さっきから何も言わない香苗に不審がり、ドリーが顔を覗き込む。
「違うのか?」
「あ、はい……そうですけど……」
 信じられない。自分の身に起きた事、見てきたこと何もかもが。
「……あの、ドリーさんなんですよね……?」
「はあ? 今更か?」
「私の知っているドリーさんより……その……」
「ユメクイは人間に擬態する生き物だからな。見た目はどうこうなる。まあ、使う消費カロリーが一番を少ないあんな恰好だっただけだ。もう筋肉の付き方も変えた」
「そ、そうなんですか……」
「変な生き物だろ?」
「そう……ですね」
 擬態だなんて、彼の様な人間とまるっきり変わらない姿の男から言われてもピンと来ないが、深く考えてはいけない。あとは今後に関わる疑問だけ晴らす。
「あの……メアさんと……あの子達って……」
「俺と違って、あいつは夢そのものを食うからな。あいつに食われた夢は、叶わねーよ」
 相変わらず嫌な笑みを零し、ドリーは言う。
「ま、よっぽど大切そうな夢なら、あいつだって避けて食うから安心しろ」
「え?」
「お人好しそうなお前の考える事くらいわかる」
 ドヤ顔で語るドリーの表情が、ふいに変わる。
「ああ? お前んちに着いたはずなのに、お前、なんで夢出さねえんだよ」
「あ、ごめんなさい……」
「ったく、さっきいい夢出してなかったら、ブチ切れたところだ」
「あ、あははは……じゃあ……」
 不機嫌そうなドリーの顔色をチラチラとうかがい、門に手を掛ける。疑問も晴れた。これで、ユメクイという摩訶不思議な生き物と無縁の人生に帰る予定。
 その予定だった、が。
 がしっとドリーの手が香苗の門に掛けていた手を掴む。
「え」
 皺ひとつない、滑らかな男性の手が、手に触れる。経験値が圧倒的に足りない香苗の顔を真っ赤にするには十分だった。
「なっ、な……ドリーさん?」
「嘘吐くな」
「……嘘?」
「お前からまだ、夢の匂いがする」
「は!?」
「……あいつらみたいな臭ぇ匂いじゃない……それなりに美味そうな匂いだ……」
「ゆ……めって……!」
 心当たりはひとつしかない。あの時、夢喰い屋に入る前に考えたことは、今でもハッキリ思い出せる。
 あの飛田陽平と。
 真っ赤だった香苗の顔が、引き気味に白くなる。
「そ、そんなの誰でも持ってますって! 自分で言ってたじゃないですか!」
「お前は、目の前にある餌を放っておくユメクイがいると思うのか!?」
「知りませんっ!」
「知らない、じゃ済まさねえ……」
「いっ……!?」
 至近距離にドリーの意地悪そうな顔が近づく。背が高く、顔立ちもまあ整っているのに、表情と脅迫めいた言葉と犯罪者顔負けの爛々とした瞳で、マイナスの印象しか認識されない。
「精々お前の夢、頑張って叶えろ。叶ったら、アレだ」
 ぐっと、告白でもするかのような心地よい強さで握る手に似合わない台詞が、ドリーの口から飛び出る。
「俺が責任もって喰ってやる」
「…………」
 ご遠慮させて、いただきます。なんて言える勇気を持つのには、まだ満たなかった。とことん臆病な細谷香苗が、このユメクイという生き物から離れられる日は相当遠いものである。

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プロフィール

プロフィール画像
奏 Euph
割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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