ユメクイ
【2】
飛田陽平
金曜日の喧騒とは打って変わって、世界は何も変わらずに香苗を出迎えていた。びくびくしながら教室に入って、授業を聞いて、特に誰とも話さないで教室を出ていく。ここ数カ月では例を見ない程、穏やかな月曜日はいっそ不気味だった。麗亜の取り巻き達も、視線をチラチラ送って来るだけか気が抜けたような顔でいるかで、何も言わないし、香苗の半径1m以内に近づこうとしない。ロッカーの中にしまっておいた鞄だって、いつもだったら泥まみれのぐしゃぐしゃになっているか、落書きでもされているか、それとも中に入れておいた教科書が全部まとめて隠されているか、といった具合だったのに、無傷。
平和だ。いつになく、平和だ。
その平和は、次の瞬間にぶち壊された。
「細谷さん、今日、嬉しそうだね」
「いっ!?」
もう下校時刻だというのに、このタイミングで。
ロッカーからナイロン製のケースに入ったギターを出しながら、絶世のイケメンこと飛田陽平が顔を合わせてくる。
「何かあった?」
「いや、なんでもない……ケド」
「そう? 細谷さんの事だから、図書館に面白い本でも入ったかなって」
周囲の視線が、無関心と畏怖から嫉妬に変わる。だが、目の前の美少年はそれを中和するのに十分な顔と声をしていた。
「この前紹介してくれた本、読んだけど。難しくってさ」
「え、あ、ご、ごめんなさい……」
「だからさ、その代わり、また新しい本教えてって」
「へ?」
「な? 待ってるからさ」
純粋培養された笑顔の爽やかさに、香苗が丸ごと溺れる。どこからか悲鳴が聞こえてくるようだったが、この嵐の様なハートの海の中では無音に等しい。
「う、うん……よ、用意して……おく……絶対っ」
「マジ? サンキューな! じゃ、また」
飛田がバンドのメンバーに呼ばれて、にこやかに手を振って行ってしまっても、余韻だけで残りの一日が何もせずとも天国にいるかの如く幸せになれそうなものだった。まるで少女漫画の王子様。
(飛田君……すごい……)
幸せだ。いつになく、幸せだ。
その幸せは、次の瞬間にぶち壊された。信じていたのに、幸せは裸足で逃げていく。校門の端っこに立ち、香苗の視界の隅っこに映った男は、校舎2階の窓にいた香苗と目が合うと、悪魔の如くニヤリ、と笑った。絶対に逃がさない、というような、さっきの飛田とは真逆の、香苗を地獄に突き落とす笑み。
背筋が寒くなった。天国の気分もあっという間に吹き飛び、現実離れした現実という地獄に引き戻す。
不幸だ。いつになく、不幸だ。
残念なことに、この不幸はいくら待ってもぶち壊される事なく、その場にとどまっていた。それに、実際にいくらでも待っているわけにはいかない。不幸に落とされた途端、周囲の嫉妬の視線が痛く突き刺さる。飛田と会話したリスクだけが納豆のネバネバの如く、しつこく香苗の体に残っていた。
香苗が校舎から出てくると、随分長い間待っていたらしく、悪魔のような人相の彼は黄色い目を細めて不機嫌そうに声をかけてきた。
「おい」
「『おい』、じゃないです、私」
「お前の名前、知らねーんだよ。恩を仇で返す気か。このイマドキクソ女子高生が。メア呼んで、お前の夢、根こそぎ食わせるぞ? 観念しろ」
「……細谷香苗です」
言われた通り観念してそうぼやくと、ドリーは満足そうに頷いた。香苗と自分と取り囲んでいる奇異なものを見る視線などお構いなし、といった模様だった。当然香苗にそんな羞恥プレイに耐える心意気はない。すっとドリーの隣を通り過ぎ、校門を足早に抜ける。
「おい、勝手に行くな、カス」
「あのですね、感謝してます。この前の件は。助けてくださり、本当ありがとうございます。私もちょっとですが勇気を持って、これから頑張って生きられそうです。このご恩は一生忘れません。本当にありがとうございました」
「うっせえ」
「いいじゃないですか、これで!」
「何勝手に解釈してんだ。俺が欲しいもんは、お前のそんなペラッペラの感謝のお言葉じゃないからな、このボケ」
早口の棒読みで解放してくれるとは思わなかったが、実際にその通りだと彼の粘着質を改めて実感させられた。
このユメクイという生き物は、自分の夢を叶えて食べるまで、諦める気配がまるでない。願いを叶えてもらうなんてちょっと聞いた限りありがたい限りかもしれないが、このユメクイは自分の果てしない努力を要求している。
飛田陽平と近づく。
健気だが純粋で、届きそうもないというドリーが好みそうな夢の心当たりはこれしかない。万が一この夢が叶っても、その先は知れている。麗亜達の脅威がほぼなくなったとはいえ、彼と手を繋げたとして、自分が釣り合うはずもなく、視線だけで射殺され、これからの人生への保証もなくなるかもしれない。リスクが高すぎる。
香苗は首を振った。
「いいじゃないですか……私、ちょっと頑張って夢を叶えたじゃないですか……」
「アホか、お前は。ビビンバでもチャーハンでも、石窯に残ったおこげが一番美味いだろうが」
「や、わかりますけど……」
微かに共感してしまった自分を責め、手で目頭を覆う。
(なんで……こんな……)
「ほら、着いたぞ」
「……あ」
三日前の金曜日の事なのに、もうかなり昔の事みたいに感じる。
ドリーと香苗の前にたたずむ、駅の柱に寄生するみたいにあるその扉は、あの時と変わらない。看板の文字も、窓に貼られた謳い文句も。浪漫な感じを漂わせる『夢喰い屋』の文字も。
ドリーが扉を開けて入るのにつられ、香苗は何も考えずに入ってしまった。昔の食欲はある程度収まったが、幼い頃からの好奇心はいまだに健在で、こういう時には少し恨む。ドアを抜けると、あの自分好みを絵に描いたような空間が広がっているのを思い出したのも、足を運ぶ原因だったのかもしれない。
だが、内装はガラッと変わっていた。
シックで洋風な香りがしていたはずの室内は、ランプも、置かれている本も、壁紙も、何もかもが変わっていた。香苗は呆然として、室内を見回す。
椅子や机、カウンターや窓、本棚の位置は変わらないものの、濃い茶色の椅子は全部その辺の安い家具屋で揃いそうなものになっている。机やカウンターもそうだった。香苗の興味を惹いた本棚の本も、漫画や名前も知らない誰かの画集や、読めないタイトルの本に様変わりしていた。
「……あの……模様替えでもしたんですか……?」
恐る恐るドリーに訊くと、彼はニヤニヤと笑い、椅子にどっかりと腰かけながら言う。
「この室内は、『夢喰い屋』をするにあたって、メアと俺が作った特別な場所だ。入った人間が安心して夢を詳しく話すように、そいつの趣味をなぞった部屋になる。ゴスロリ女でも連れて来れば、真っ黒な部屋に真っ赤なソファやら蜘蛛の巣模様の窓に、ステンドグラスのある部屋。カジノディーラーでも連れて来れば、本棚はスロット、テーブルはビリヤード台にでもなるだろうな。ま、今日はその必要がないから、俺とメアが普段過ごしている状態になっている」
「……じゃあ、私が見た部屋は」
「お前の趣味全開の部屋。まあ、夢だ」
意地悪全開の笑顔で、ドリーが言う。自分の心をこじ開けられていた事を知り、香苗の表情が真っ赤になって引き攣った。
「……最低……ですね……」
「はあ? 合理的と言え」
ゴキブリホイホイならぬ、人間ホイホイか、とツッコミを入れたくなるようなシステムのこの空間を自慢げに言うドリーに、香苗はため息を吐いた。
実際、この曰く合理的な部屋は、ユメクイでないと作り出せない。人智(少なくとも香苗の)が及ばない力が使われ、作られた空間である。そう思うと途端にこの部屋がまさに人間ホイホイのような危険な場所に思えて、香苗は全身が少しむずがゆくなるのを感じた。
「……そもそも、この前も訊いたと思うんですけど、どういう場所なんですかここって……」
「人間の夢を感知して、引き寄せる場所だ」
「は?」
「蜘蛛が餌の為に巣をつくるだろ? ああいうもんだ。つまり、ユメクイの巣」
「……巣……っ」
ゴキブリホイホイではないが、ニアピン賞にはなれそうだ。
「明確な夢がない限り、あの扉だって見えないし、この場所は人間にはわからない。……一度認識しちまった、お前みたいなのは別だけどな」
「じゃあ、ドリーさん達の餌を惹きつける場所って事ですか」
「主に、メアのな」
「メアさんの?」
そんな疑問詞を口に出した時だった。奥の階段から大きめの物音が聞こえ、香苗の肩を跳ねさせた。
「噂をすれば、だな」
ドリーがぼやく通り、足をもつれさせ、階段で転んだのは真っ白な髪の背が高い男だった。数日前に会った時と同じように、泣き腫らしたような真っ赤な目を忙しなくキョロキョロさせている。あ、あ、とどもりながら、香苗に視線をぶつけては逸らす、を繰り返している。
「き、君は……」
「初めまし……て……?」
助けを求めるように香苗がドリーに視線を向けても、まるっきり知らんぷりを決め込まれている。この女子高生恐怖症であるかのような男と自分が、会話をすることが出来ると思っているのだろうか。無茶な、と思いながらもメアも自分の恩人であるのを思い出した。せめてお礼は言わないと。
ぎこちない笑顔を向けて、香苗は小さく距離を取って挨拶の言葉を選んだ。
「め、メアさん……ですよね? この前は助けて……? まあ、助けてくださったん……ですよね? ありがとうございました。えっと……わ、たしは……その、細谷香苗って言います。よ、よろしくおねがいします……?」
「何をだよ」
自分が一番思っていたツッコミが見事に右から飛んできて、少しだけイラッとした。メアは大人しく香苗の言葉に耳を傾け、落ち着かなさそうな体の震えを必死に止めながら体を起こす。改めて立たれると、本当に大きい。香苗のクラスメイトの誰よりも。2mはないだろうが、180cmは楽に越えそうだ。一般的な男性よりも少し小柄なドリーと、特大サイズの亡霊の様なこの男が一緒にいる所は、ちょっと想像が出来ない。
「私は……メア……だ。その……ユメクイ……なのだけど……」
「知ってる」
「ああ、申し訳ない……」
また香苗の右から意地悪な言葉が飛んで、メアは口を閉ざした。香苗の口調を真似たかのような切れ切れの言葉だが、穏やかで優しげな声音は香苗を少し落ち着かせた。ドリーの傲慢なそれとは正反対だ。そう思い、ちら、とドリーを睨むように見る。
「ドリーさん……いつもメアさんに対してもそんな感じなんですか?」
「ああ?」
「いや……そういう口調っていうか……喧嘩売ってるような感じが……」
「会って一週間も経ってないようなお前に言われたくねえよ、タコ」
「た……っ!」
「んな事より、夢の話だ!」
物言いたげな香苗を無視して、ドリーは一番足がしっかりしていそうな椅子にどっかりと座った。悪人然とした様子に呆れながら、香苗もしぶしぶと椅子に腰かける。この巣の中で余計な事をしたら、どんな目に合うか想像したくもない。メアは香苗と少し距離をおいた場所に立っていた。大きい体を少しでもと縮めているのは、いっそ滑稽だ。
ドリーは鼻を少しひくつかせて、にやにや笑っている。相も変わらずギザギザの歯が、口の端から忘れるな、とでも言いたげに主張をしていた。
「お前の夢、言ってみろ。この前のジジイの格好の時よりも簡単に、ササッと叶えてやる」
「あのですね……こ、この際だから言いますけど……ご、ご遠慮させていただきます……って……」
唾を飲んで、意を決した言葉だったのに、ドリーは全く意に介さず、どうしたもんか、などとメアに話しかけている。少しだけ勢いのついている勇気に苛立ちのばねを加えて、香苗は少し大きめの声で追撃する。
「ど……っ、ドリーさん! あの!」
「ああ? うっせぇな」
「私、この夢、叶えて貰わなくっていいんです!」
「はあ?」
本気で理解できない、という高飛車な声に、少し怯みながらも、ドリーから目を逸らしてごにょごにょと呟く。
「その……か、叶ってもしょうがないんですよ……。叶ったら、私、その……だ、駄目なんです。こんなの叶っちゃいけない夢なんですって!」
「んな食いたくないような夢なんか、そんな匂いしねえよ、バーカ」
いちいち悪態を吐くタイミングが上手い。ドリーは空気の香りを吸って、うっとりと声音を和らげる。
「お前から漂う、このとろけるような若い奴特有の新鮮な香り……身が引き締まった最高の肉だ。それに、叶わないとわかっているのに望みを捨てきれない塩辛さ……エッジの効いた高級なスパイス。こんな美味そうな夢が目の前にあって、お前はどうだ?」
ぺろり、という舌の音に、旺盛な食欲の赴くまま想像を巡らせていた香苗ははっとした。
「こんなに腹が減った時に最高のステーキが目の前で音を立ててるんだぜ? ……食うしかないだろ、このカス」
一気に冷たく、鋭くなった視線にぞっとする。彼にとっては、そうなのだ。ドリーの手元にはありもしないはずのナイフとフォークが握られている気がした。
「こんなギブ&ギブはないだろ? 俺はお前の夢を叶えて腹いっぱい。超ハッピー。お前も夢が叶って幸せいっぱい。超ハッピー。何も悪い事は言ってないだろ? 血の巡りが悪い頭でちょっとでも考えてみろ」
確かに悪い話ではない、はずなのに香苗の全身が警鐘を鳴らしていた。もはや理屈や御託を並べている暇ではない。いい話にはどこか落とし穴があるはずだ。香苗の目は必死になって部屋の逃げ道を探した。こんな所にいていいはずがない。こんな――――悪魔みたいなユメクイの巣になんて。
「お前の夢は、なんだ?」
非常にシンプルな質問を投げかけただけなのに、ふいを突かれた気がして椅子から転げ落ちそうになった。
「い、いいです。いいですって……ご遠慮させてください。ほ、ほほ……他のステーキを探してくださいって……叶ったら、私……全部パーに……」
「はあ? 何も捨てずに叶う夢に価値なんてねーよ、バーカ。夢っていう認識が甘いな、お前は!」
びくびくと震える足で香苗が椅子から立ち上がると、ドリーは後ろの壁を拳で強く叩いた。香苗がびくり、と竦むのを余所に、ひび割れた壁から室内がどんどん薄暗くなる。出来上がった部屋は格子がついた窓に、石の壁。裸電球の煩い明かりに蛾が必死に求愛しては焼かれる――――紛う事なき、牢獄だった。
「ひっ……!」
「俺の言いたい事はわかるな? 細谷香苗」
初めて彼に呼ばれた名前が、蜘蛛の巣の糸のように自分を縛り上げる。夢、という甘すぎる罠にはまった自分を呪うのも忘れる。泣きそうになった。いや、知らない内にすでに香苗の目には涙が溜まっていた。
「面倒だけどな、わからないと叶えようがない。いやあ、悪いよなあ、俺も思う……ってわけで、もう一度だけ訊く。お前のその夢、言ってみろ」
涙を舐めそうな至近距離で、蛇みたいな黄色い目が尋問する。もう、声も出ない―――――そんな香苗の運命は、強烈な転倒音に妨害された。
「だあ!?」
電池が切れた人形のように倒れたメアを目視した一瞬後に、香苗は脊髄反射で牢獄の扉みたいなドアに飛びついた。祈るようにドアノブを回すと、それは祈りに応えて道を許す。
「おい、メア! ……ってゴルァ! 細谷香な―――――」
え、と呪詛みたいな自分の名前を言われる前に、勢いよくドアを閉め、全速力で駅に向かう。足が勝手に走ってくれている間に鞄を漁って定期券を取り出して、駅員が視認できないくらいの速さで見せる。奇跡みたいに来ていた電車に乗り込み、椅子の陰にしゃがみ、隠れるようにしてなんとか呼吸する。親切なサラリーマンが、大丈夫か、などと心配してくれているようだったが、あんな恐怖体験直後の状態では、とても感謝できそうにない。
(じ……自転車買わないと……)
三駅分、これから学校を卒業するまでは自転車通学をしなければと思うと、呑気なことに、また痩せられそう、だなんて思った。
カサカサに干からびかけたメアの手の甲を見て、ドリーはずっと黙っていた。目眩と共に倒れてから一時間経った今も、メアはうわ言のように「申し訳ない」またはそれに準じる謝罪の言葉を、それを垂れ流すレコーダーであるかのように唱えていた。
「うるせえ。黙れ」
苛立ちの糸が切れたドリーに切り捨てられるように言われ、メアは殊更申し訳なさそうに目を閉じた。
「ごめんよ……私のエンジェル……」
「早く言えってあれほど言ったろ」
乱暴に言いながら、今の自分どころか香苗の夢を食べる前の自分の状態よりも悪そうなメアの具合に、ドリーは表情を曇らせていた。
「君に……心配はかけたくなくって……」
「アホか。おかげであいつに逃げられたんだぞ」
「ああ……本当にすまない……」
真っ赤な目からぼろぼろと涙を流しながら、巨大な青年は体を文字通り縮めた。エネルギーの消費が小さそうな五歳くらいの少年の姿になると、少しだけ落ち着いたようだった。
「にしても、あの女どもの夢で足りなかったのか……」
「……そう、大きなものはなかったからね……」
その言葉に納得すると同時に、気付かなかった自分を、ドリーは小さく罵った。
「だから細谷香苗の夢にも、反応出来なかったんだな」
ドリーの質問に、メアは沈黙して肯定する。この前のドリーと同じように、鼻はユメクイとしての機能を失った。強い香りだった香苗の夢にも、今日は反応出来ない程に。
「仕方ねえな……」
自分の事はひとまず後回しだ。服のサイズを調節するメアの襟首を掴み、肩に乗せると、ドリーはドアを開け放った。
「夢、探しに行くぞ」
「ぁ……ありが……とう……」
幼児を肩に乗せて夜の街を歩き回る男。メアは職務質問されませんように、と苦く願うくらいの夢しか抱けなかった。
平和だ。いつになく、平和だ。
その平和は、次の瞬間にぶち壊された。
「細谷さん、今日、嬉しそうだね」
「いっ!?」
もう下校時刻だというのに、このタイミングで。
ロッカーからナイロン製のケースに入ったギターを出しながら、絶世のイケメンこと飛田陽平が顔を合わせてくる。
「何かあった?」
「いや、なんでもない……ケド」
「そう? 細谷さんの事だから、図書館に面白い本でも入ったかなって」
周囲の視線が、無関心と畏怖から嫉妬に変わる。だが、目の前の美少年はそれを中和するのに十分な顔と声をしていた。
「この前紹介してくれた本、読んだけど。難しくってさ」
「え、あ、ご、ごめんなさい……」
「だからさ、その代わり、また新しい本教えてって」
「へ?」
「な? 待ってるからさ」
純粋培養された笑顔の爽やかさに、香苗が丸ごと溺れる。どこからか悲鳴が聞こえてくるようだったが、この嵐の様なハートの海の中では無音に等しい。
「う、うん……よ、用意して……おく……絶対っ」
「マジ? サンキューな! じゃ、また」
飛田がバンドのメンバーに呼ばれて、にこやかに手を振って行ってしまっても、余韻だけで残りの一日が何もせずとも天国にいるかの如く幸せになれそうなものだった。まるで少女漫画の王子様。
(飛田君……すごい……)
幸せだ。いつになく、幸せだ。
その幸せは、次の瞬間にぶち壊された。信じていたのに、幸せは裸足で逃げていく。校門の端っこに立ち、香苗の視界の隅っこに映った男は、校舎2階の窓にいた香苗と目が合うと、悪魔の如くニヤリ、と笑った。絶対に逃がさない、というような、さっきの飛田とは真逆の、香苗を地獄に突き落とす笑み。
背筋が寒くなった。天国の気分もあっという間に吹き飛び、現実離れした現実という地獄に引き戻す。
不幸だ。いつになく、不幸だ。
残念なことに、この不幸はいくら待ってもぶち壊される事なく、その場にとどまっていた。それに、実際にいくらでも待っているわけにはいかない。不幸に落とされた途端、周囲の嫉妬の視線が痛く突き刺さる。飛田と会話したリスクだけが納豆のネバネバの如く、しつこく香苗の体に残っていた。
香苗が校舎から出てくると、随分長い間待っていたらしく、悪魔のような人相の彼は黄色い目を細めて不機嫌そうに声をかけてきた。
「おい」
「『おい』、じゃないです、私」
「お前の名前、知らねーんだよ。恩を仇で返す気か。このイマドキクソ女子高生が。メア呼んで、お前の夢、根こそぎ食わせるぞ? 観念しろ」
「……細谷香苗です」
言われた通り観念してそうぼやくと、ドリーは満足そうに頷いた。香苗と自分と取り囲んでいる奇異なものを見る視線などお構いなし、といった模様だった。当然香苗にそんな羞恥プレイに耐える心意気はない。すっとドリーの隣を通り過ぎ、校門を足早に抜ける。
「おい、勝手に行くな、カス」
「あのですね、感謝してます。この前の件は。助けてくださり、本当ありがとうございます。私もちょっとですが勇気を持って、これから頑張って生きられそうです。このご恩は一生忘れません。本当にありがとうございました」
「うっせえ」
「いいじゃないですか、これで!」
「何勝手に解釈してんだ。俺が欲しいもんは、お前のそんなペラッペラの感謝のお言葉じゃないからな、このボケ」
早口の棒読みで解放してくれるとは思わなかったが、実際にその通りだと彼の粘着質を改めて実感させられた。
このユメクイという生き物は、自分の夢を叶えて食べるまで、諦める気配がまるでない。願いを叶えてもらうなんてちょっと聞いた限りありがたい限りかもしれないが、このユメクイは自分の果てしない努力を要求している。
飛田陽平と近づく。
健気だが純粋で、届きそうもないというドリーが好みそうな夢の心当たりはこれしかない。万が一この夢が叶っても、その先は知れている。麗亜達の脅威がほぼなくなったとはいえ、彼と手を繋げたとして、自分が釣り合うはずもなく、視線だけで射殺され、これからの人生への保証もなくなるかもしれない。リスクが高すぎる。
香苗は首を振った。
「いいじゃないですか……私、ちょっと頑張って夢を叶えたじゃないですか……」
「アホか、お前は。ビビンバでもチャーハンでも、石窯に残ったおこげが一番美味いだろうが」
「や、わかりますけど……」
微かに共感してしまった自分を責め、手で目頭を覆う。
(なんで……こんな……)
「ほら、着いたぞ」
「……あ」
三日前の金曜日の事なのに、もうかなり昔の事みたいに感じる。
ドリーと香苗の前にたたずむ、駅の柱に寄生するみたいにあるその扉は、あの時と変わらない。看板の文字も、窓に貼られた謳い文句も。浪漫な感じを漂わせる『夢喰い屋』の文字も。
ドリーが扉を開けて入るのにつられ、香苗は何も考えずに入ってしまった。昔の食欲はある程度収まったが、幼い頃からの好奇心はいまだに健在で、こういう時には少し恨む。ドアを抜けると、あの自分好みを絵に描いたような空間が広がっているのを思い出したのも、足を運ぶ原因だったのかもしれない。
だが、内装はガラッと変わっていた。
シックで洋風な香りがしていたはずの室内は、ランプも、置かれている本も、壁紙も、何もかもが変わっていた。香苗は呆然として、室内を見回す。
椅子や机、カウンターや窓、本棚の位置は変わらないものの、濃い茶色の椅子は全部その辺の安い家具屋で揃いそうなものになっている。机やカウンターもそうだった。香苗の興味を惹いた本棚の本も、漫画や名前も知らない誰かの画集や、読めないタイトルの本に様変わりしていた。
「……あの……模様替えでもしたんですか……?」
恐る恐るドリーに訊くと、彼はニヤニヤと笑い、椅子にどっかりと腰かけながら言う。
「この室内は、『夢喰い屋』をするにあたって、メアと俺が作った特別な場所だ。入った人間が安心して夢を詳しく話すように、そいつの趣味をなぞった部屋になる。ゴスロリ女でも連れて来れば、真っ黒な部屋に真っ赤なソファやら蜘蛛の巣模様の窓に、ステンドグラスのある部屋。カジノディーラーでも連れて来れば、本棚はスロット、テーブルはビリヤード台にでもなるだろうな。ま、今日はその必要がないから、俺とメアが普段過ごしている状態になっている」
「……じゃあ、私が見た部屋は」
「お前の趣味全開の部屋。まあ、夢だ」
意地悪全開の笑顔で、ドリーが言う。自分の心をこじ開けられていた事を知り、香苗の表情が真っ赤になって引き攣った。
「……最低……ですね……」
「はあ? 合理的と言え」
ゴキブリホイホイならぬ、人間ホイホイか、とツッコミを入れたくなるようなシステムのこの空間を自慢げに言うドリーに、香苗はため息を吐いた。
実際、この曰く合理的な部屋は、ユメクイでないと作り出せない。人智(少なくとも香苗の)が及ばない力が使われ、作られた空間である。そう思うと途端にこの部屋がまさに人間ホイホイのような危険な場所に思えて、香苗は全身が少しむずがゆくなるのを感じた。
「……そもそも、この前も訊いたと思うんですけど、どういう場所なんですかここって……」
「人間の夢を感知して、引き寄せる場所だ」
「は?」
「蜘蛛が餌の為に巣をつくるだろ? ああいうもんだ。つまり、ユメクイの巣」
「……巣……っ」
ゴキブリホイホイではないが、ニアピン賞にはなれそうだ。
「明確な夢がない限り、あの扉だって見えないし、この場所は人間にはわからない。……一度認識しちまった、お前みたいなのは別だけどな」
「じゃあ、ドリーさん達の餌を惹きつける場所って事ですか」
「主に、メアのな」
「メアさんの?」
そんな疑問詞を口に出した時だった。奥の階段から大きめの物音が聞こえ、香苗の肩を跳ねさせた。
「噂をすれば、だな」
ドリーがぼやく通り、足をもつれさせ、階段で転んだのは真っ白な髪の背が高い男だった。数日前に会った時と同じように、泣き腫らしたような真っ赤な目を忙しなくキョロキョロさせている。あ、あ、とどもりながら、香苗に視線をぶつけては逸らす、を繰り返している。
「き、君は……」
「初めまし……て……?」
助けを求めるように香苗がドリーに視線を向けても、まるっきり知らんぷりを決め込まれている。この女子高生恐怖症であるかのような男と自分が、会話をすることが出来ると思っているのだろうか。無茶な、と思いながらもメアも自分の恩人であるのを思い出した。せめてお礼は言わないと。
ぎこちない笑顔を向けて、香苗は小さく距離を取って挨拶の言葉を選んだ。
「め、メアさん……ですよね? この前は助けて……? まあ、助けてくださったん……ですよね? ありがとうございました。えっと……わ、たしは……その、細谷香苗って言います。よ、よろしくおねがいします……?」
「何をだよ」
自分が一番思っていたツッコミが見事に右から飛んできて、少しだけイラッとした。メアは大人しく香苗の言葉に耳を傾け、落ち着かなさそうな体の震えを必死に止めながら体を起こす。改めて立たれると、本当に大きい。香苗のクラスメイトの誰よりも。2mはないだろうが、180cmは楽に越えそうだ。一般的な男性よりも少し小柄なドリーと、特大サイズの亡霊の様なこの男が一緒にいる所は、ちょっと想像が出来ない。
「私は……メア……だ。その……ユメクイ……なのだけど……」
「知ってる」
「ああ、申し訳ない……」
また香苗の右から意地悪な言葉が飛んで、メアは口を閉ざした。香苗の口調を真似たかのような切れ切れの言葉だが、穏やかで優しげな声音は香苗を少し落ち着かせた。ドリーの傲慢なそれとは正反対だ。そう思い、ちら、とドリーを睨むように見る。
「ドリーさん……いつもメアさんに対してもそんな感じなんですか?」
「ああ?」
「いや……そういう口調っていうか……喧嘩売ってるような感じが……」
「会って一週間も経ってないようなお前に言われたくねえよ、タコ」
「た……っ!」
「んな事より、夢の話だ!」
物言いたげな香苗を無視して、ドリーは一番足がしっかりしていそうな椅子にどっかりと座った。悪人然とした様子に呆れながら、香苗もしぶしぶと椅子に腰かける。この巣の中で余計な事をしたら、どんな目に合うか想像したくもない。メアは香苗と少し距離をおいた場所に立っていた。大きい体を少しでもと縮めているのは、いっそ滑稽だ。
ドリーは鼻を少しひくつかせて、にやにや笑っている。相も変わらずギザギザの歯が、口の端から忘れるな、とでも言いたげに主張をしていた。
「お前の夢、言ってみろ。この前のジジイの格好の時よりも簡単に、ササッと叶えてやる」
「あのですね……こ、この際だから言いますけど……ご、ご遠慮させていただきます……って……」
唾を飲んで、意を決した言葉だったのに、ドリーは全く意に介さず、どうしたもんか、などとメアに話しかけている。少しだけ勢いのついている勇気に苛立ちのばねを加えて、香苗は少し大きめの声で追撃する。
「ど……っ、ドリーさん! あの!」
「ああ? うっせぇな」
「私、この夢、叶えて貰わなくっていいんです!」
「はあ?」
本気で理解できない、という高飛車な声に、少し怯みながらも、ドリーから目を逸らしてごにょごにょと呟く。
「その……か、叶ってもしょうがないんですよ……。叶ったら、私、その……だ、駄目なんです。こんなの叶っちゃいけない夢なんですって!」
「んな食いたくないような夢なんか、そんな匂いしねえよ、バーカ」
いちいち悪態を吐くタイミングが上手い。ドリーは空気の香りを吸って、うっとりと声音を和らげる。
「お前から漂う、このとろけるような若い奴特有の新鮮な香り……身が引き締まった最高の肉だ。それに、叶わないとわかっているのに望みを捨てきれない塩辛さ……エッジの効いた高級なスパイス。こんな美味そうな夢が目の前にあって、お前はどうだ?」
ぺろり、という舌の音に、旺盛な食欲の赴くまま想像を巡らせていた香苗ははっとした。
「こんなに腹が減った時に最高のステーキが目の前で音を立ててるんだぜ? ……食うしかないだろ、このカス」
一気に冷たく、鋭くなった視線にぞっとする。彼にとっては、そうなのだ。ドリーの手元にはありもしないはずのナイフとフォークが握られている気がした。
「こんなギブ&ギブはないだろ? 俺はお前の夢を叶えて腹いっぱい。超ハッピー。お前も夢が叶って幸せいっぱい。超ハッピー。何も悪い事は言ってないだろ? 血の巡りが悪い頭でちょっとでも考えてみろ」
確かに悪い話ではない、はずなのに香苗の全身が警鐘を鳴らしていた。もはや理屈や御託を並べている暇ではない。いい話にはどこか落とし穴があるはずだ。香苗の目は必死になって部屋の逃げ道を探した。こんな所にいていいはずがない。こんな――――悪魔みたいなユメクイの巣になんて。
「お前の夢は、なんだ?」
非常にシンプルな質問を投げかけただけなのに、ふいを突かれた気がして椅子から転げ落ちそうになった。
「い、いいです。いいですって……ご遠慮させてください。ほ、ほほ……他のステーキを探してくださいって……叶ったら、私……全部パーに……」
「はあ? 何も捨てずに叶う夢に価値なんてねーよ、バーカ。夢っていう認識が甘いな、お前は!」
びくびくと震える足で香苗が椅子から立ち上がると、ドリーは後ろの壁を拳で強く叩いた。香苗がびくり、と竦むのを余所に、ひび割れた壁から室内がどんどん薄暗くなる。出来上がった部屋は格子がついた窓に、石の壁。裸電球の煩い明かりに蛾が必死に求愛しては焼かれる――――紛う事なき、牢獄だった。
「ひっ……!」
「俺の言いたい事はわかるな? 細谷香苗」
初めて彼に呼ばれた名前が、蜘蛛の巣の糸のように自分を縛り上げる。夢、という甘すぎる罠にはまった自分を呪うのも忘れる。泣きそうになった。いや、知らない内にすでに香苗の目には涙が溜まっていた。
「面倒だけどな、わからないと叶えようがない。いやあ、悪いよなあ、俺も思う……ってわけで、もう一度だけ訊く。お前のその夢、言ってみろ」
涙を舐めそうな至近距離で、蛇みたいな黄色い目が尋問する。もう、声も出ない―――――そんな香苗の運命は、強烈な転倒音に妨害された。
「だあ!?」
電池が切れた人形のように倒れたメアを目視した一瞬後に、香苗は脊髄反射で牢獄の扉みたいなドアに飛びついた。祈るようにドアノブを回すと、それは祈りに応えて道を許す。
「おい、メア! ……ってゴルァ! 細谷香な―――――」
え、と呪詛みたいな自分の名前を言われる前に、勢いよくドアを閉め、全速力で駅に向かう。足が勝手に走ってくれている間に鞄を漁って定期券を取り出して、駅員が視認できないくらいの速さで見せる。奇跡みたいに来ていた電車に乗り込み、椅子の陰にしゃがみ、隠れるようにしてなんとか呼吸する。親切なサラリーマンが、大丈夫か、などと心配してくれているようだったが、あんな恐怖体験直後の状態では、とても感謝できそうにない。
(じ……自転車買わないと……)
三駅分、これから学校を卒業するまでは自転車通学をしなければと思うと、呑気なことに、また痩せられそう、だなんて思った。
カサカサに干からびかけたメアの手の甲を見て、ドリーはずっと黙っていた。目眩と共に倒れてから一時間経った今も、メアはうわ言のように「申し訳ない」またはそれに準じる謝罪の言葉を、それを垂れ流すレコーダーであるかのように唱えていた。
「うるせえ。黙れ」
苛立ちの糸が切れたドリーに切り捨てられるように言われ、メアは殊更申し訳なさそうに目を閉じた。
「ごめんよ……私のエンジェル……」
「早く言えってあれほど言ったろ」
乱暴に言いながら、今の自分どころか香苗の夢を食べる前の自分の状態よりも悪そうなメアの具合に、ドリーは表情を曇らせていた。
「君に……心配はかけたくなくって……」
「アホか。おかげであいつに逃げられたんだぞ」
「ああ……本当にすまない……」
真っ赤な目からぼろぼろと涙を流しながら、巨大な青年は体を文字通り縮めた。エネルギーの消費が小さそうな五歳くらいの少年の姿になると、少しだけ落ち着いたようだった。
「にしても、あの女どもの夢で足りなかったのか……」
「……そう、大きなものはなかったからね……」
その言葉に納得すると同時に、気付かなかった自分を、ドリーは小さく罵った。
「だから細谷香苗の夢にも、反応出来なかったんだな」
ドリーの質問に、メアは沈黙して肯定する。この前のドリーと同じように、鼻はユメクイとしての機能を失った。強い香りだった香苗の夢にも、今日は反応出来ない程に。
「仕方ねえな……」
自分の事はひとまず後回しだ。服のサイズを調節するメアの襟首を掴み、肩に乗せると、ドリーはドアを開け放った。
「夢、探しに行くぞ」
「ぁ……ありが……とう……」
幼児を肩に乗せて夜の街を歩き回る男。メアは職務質問されませんように、と苦く願うくらいの夢しか抱けなかった。
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- 奏 Euph
- 割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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