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ユメクイ


ステーキ


 恐怖でしかない。常に三六〇度を見回しながら、香苗は自転車を引きずっていた。麗亜達からいじめを受けていた時よりも、今日は学校に行くのが憂鬱だった。本当は学校にだって行きたくない程の恐怖が骨をしゃぶっていたが、仮病であろうとなんだろうと、病気の気配を少しでも漂わせれば、心配性な母親はすぐに自分を車に放り投げて病院に連行する。一度味わって以来、もう二度としないと心に決めていた。仮に事実を告げても、行き先が内科から精神科になるだけの話だ。
 駐輪場でも、なるべく視線を引かないように身を縮めて動く。ドリーが言っていた匂いとやらを少しでも誤魔化すべく、制汗剤を浴びるように掛けてきた。教室に忍者のように侵入し、ようやく、と息を吐く。流石にユメクイもここまでは追ってこないだろう。
 鞄を机に置いて、顔面を突っ込むように倒れ込む。何をやっていても、気に掛けてくれる友人もいなければ、ちょっかいを出してくるいじめっ子ももういない。黙っていればこのまま授業が始まるまで無我でいるくらい、誰ともなく許されそうな気がする。
「やっ、細谷さん」
「!?」
 許されなかった。
 勢いよく起き上がった香苗に少し驚いた様子の飛田が、そこにいた。いつの間にか朝の雰囲気で騒がしかった教室は、今や別の騒々しさで煩くなっていた。ここ最近、どういうあてつけなのか、とすら思う。
「どうしたの、今日。ぐったりしちゃってさ、何かあった?」
「え、その……な、なんでもない……けど」
 いつもそんな返事しか返せていない気がする。
「いっつもそれだね、細谷さん」
 屈託のない笑顔で、エスパーみたいな事を言う。心の中を見透かされ、更にその根元まで暴かれないか、溺れた香苗の視線は足の付く場所を探していた。こんな風に飛田が誰にでも優しいから、あんなユメクイにまで付け入られているというのに。
 そんな事も、クラス中の視線もそしらず、飛田は誰もいない隣の席に勝手に座ってしまう。心なしかその椅子が『プレミアが付いた』と喜んでいる風にすら思えた。
「もうちょっと俺だって、会話したいんだけど」
 冗談みたいな事を仰っている。会話したいならもっと可愛い女子が、それはもう掃いて捨てる程いるはずなのに。だが期待に応えようがそうでなかろうが、周囲のキツい視線が全身を刺すどころか、もういっそ殴打してくる。二者択一に望みを託し、香苗は口を開いた。
「どうした……のって……私から言わせれば、飛田君もそう……だけど……?」
「え? なんで?」
 笑顔の神様なのだろうか、と思う程、彼の表情は爽やかすぎる笑顔しか知らない。直視したら望遠鏡で覗いた太陽よりも目に悪い気がして、視線は敢えて逸らし気味だ。
「もっと面白い子とか……いるじゃん?」
「え、細谷さん、面白いと思うよ」
「え?」
「そうそう、そういう所。いちいち俺の言う事に、すっごい反応するじゃん」
 会話がここまで続くのが奇跡だというのに。自分のすべてを肯定するような天使がいる。これ以上は心臓がもたないという所に、タイミング良く爆弾を落とす。それが飛田陽平という男だった。爽やかな休日の青空に、隕石が落ちるみたいに――――――
「前も言ったけど、なんか可愛いよな」
 二回目は呆ける余裕を与えない。言葉にならない声はそのまま、香苗の喉の中だけで響く。失礼だなんて考える余裕もなく、俯いてしまう。突然周りから聞こえてきた女子の悲鳴に、飛田が驚いて飛び上がる。時間も音も、すべてどっかに行ってしまって、ちょうど飛び込んできた『オマエラセキニツケー』なんて先生の言葉だって、香苗の耳にはほとんど届いていなかった。ほとんど届かない席にいたのが好を奏していた。が、授業が一時間分終わってから、ようやく頭が回り始める。そして、気付きたくない物も見えてきてしまった。
(……やっばい……)
 クラス中からひしひしと感じる。香苗を睨みつける視線の種類には、大抵冷ややかな視線と嘲りの視線があったのだが、ここまで露骨に嫉妬を感じる日が来るなんて思ってもみなかった。現実になってみると、冷徹で、鋭い。麗亜達に囲まれたあの路地に放り込まれた気さえした。
 そして、確信する。自分はやはり、飛田陽平と関わるべきでない。いくら彼に憧憬したって、いくら自分の意図しない所が彼の目に留まったって、やはり命には代えられない。ノートに向き合って、シャーペンを握って、まだ痺れている手に無理をせがんで、黒板の文字を写しはじめる。
(いけない。舞い上がるな、私……っ!?)
 いきなり、ポケットの中の携帯電話が震えた。先週、『トモダチのうっかり』とやらでトイレに水没させられたせいで、それっきり代替機を使っている。親と一緒に模造紙の作業をしたクラスメイトと同じ委員会の知り合いくらいしか電話番号もアドレスも知らないはずなのに、誰だ。日本史の先生が黒板を向いた時に、おそるおそる見えない角度で確認する。
 さて相手は。内容は。心臓が口から飛び出さなかった事を神様に感謝したくなる――――――そんなものだった。



件名:飛田陽平

本文:メアド教えてもらったw
登録よろしく^□^
あと、明日の放課後の4時半空いてる?暇だったら東校舎2階に来てほしいんだけどさ!いいかな??



 どうも飛田陽平は奇跡を起こすのが得意技のようである。
 最早その先のノートは取れない。内容を睨みつけているだけで、携帯そのものがタイムマシンになる。それほど、周りの時間が飛ぶように過ぎた。普通の女子なら金切り声をあげて街中を飛び回って喜べるほどだろう。どんなに人気なスーパーアイドルのチケットよりも、いっそ価値がある。だが、同じ価値分の金塊並みに、重い。このメールに返信してしまったら最後、数多の女子の生霊にとり殺されても仕方がないという宣言も同じだ。飛田陽平の元彼女という座を射止めてしまった哀れにも不登校になった生徒の一人を思い出し、震えあがる。
 このメールは、濃縮還元された『幸運』そのものなのだ。人生何回分かの幸運が全部詰まっていて、それを手にしたら最後、飛田陽平の隣という席を持つという以外ではすべての面において不幸にみまわれるのだ。もうどこぞのユメクイの事なんて、頭の端っこにだっていない。
 気付けば、今日という日は終わっていた。下校の鐘が響く中、香苗は呆然としたまま立ち上がった。夢のチケットは、今も手の中にある。そろそろ携帯の電池が1を示す頃だろう。
 返すか。
 返すまいか。
 それが問題だ。香苗のシェイクスピアがぐるぐると頭を歩き回る。
「そーかそーか」
 外の生徒の声以外何も聞こえなかった教室に、びっくりする程響く声が聞こえた。男子の声、というわけで無条件に反射し、香苗はそこでようやく、世界の色が赤く変わっていたことに気付いた。黒板の前の教卓に座る一人の男子生徒の顔に――――香苗の頭から消えていたユメクイの話題が、マシンガンを持って飛び込んできた。
「ど……ドリー……さん…………」
 香苗が蚊の鳴くような声をようやく絞り出すと、学ラン姿のユメクイは教卓から降りた。
「素晴らしい。まるで俺の為にあつらえられた、最高のステーキだ。ああ」
 乾いたセリフは、明らかに怒っている。学校指定の学ランに身を包んだ男子生徒の姿が、ドス黒い霧を纏ってグレーのパーカーに黒い革のジャケットというカジュアルかつロックな服装に早変わりする。まるで魔法みたいな現象だったが、声を上げる余裕すらない。ギザギザの歯を収納する口は、不機嫌そうに歪んでいた。
「じゃあ、話は早い。言いたい事はわかるな?」
「……ナンデココニ……」
「この辺りじゃ一番強くて、特徴的な匂いだぜ? お前の夢」
「そんなあ……」
 だくだくと背中に冷や汗が湧いてくる。何ccかけたかもわからない制汗剤は、二重の意味で無駄だったらしい。
「俺でもここに来るまでにわかるくらい、学校中の噂の的だ。ナントカ君という高嶺の美少年とのお付き合いとは、なんとも健気で利己的であるにも関わらず、青少年らしい夢。悪くないどころか、お前にしては上出来だろうな!」
「や、やめてください……実際に文章にされるともう……」
 へとへとだ。今日一日だけでどれだけ精神力を使ったか、考えたくもない。ここ最近驚きすぎて、いつ心臓麻痺で死ぬか、カウントダウンがそろそろ始まるのではないかなどというくだらない考えを押し込み、香苗は口を開きかけた。
 だが、ドリーの人差し指が香苗の口に『黙れ』と添えられる。何故か異様なくらいツヤツヤに磨かれた彼の爪に映る香苗の顔は、青とも赤とも付かないなんとも奇妙な色をしていた。
「明日が期限だって噂だが、本当か?」
「へ? め、メール……ですか? なんでそんなことまで……」
「この学校の中で、お前のメールについて知らない奴なんていないだろうな」
「最悪……ですね……」
「で、どうなんだ?」
「……そうですけど、なんなんですか」
 ドリーの人差し指を押しのけて、香苗は黄色い目を弱々しく睨んだ。悪態を吐かずに考え込むドリーの横顔に、本当に黙っていればどんなに男前か、少し語ってやりたくなった。
「お前の夢を食いたいのは、やまやまだ」
「はた迷惑なそれは何度も聞きました」
「残念だが、野暮用があってな。俺じゃなくって、メアの件だ」
「メアさん?」
「おう」
 野暮用宣言に、あと一日の猶予を見出して、少しほっとする一方、ぶっきらぼうながらも焦ったような表情を見せるドリーに、香苗は詰め寄った。
「なにか、あったんですか?」
「なけりゃ来ねえよ、こんな所」
「じゃあ何しに来たんですか」
「夢探しだ」
「……ゆっ……夢探……っ……」
 言葉だけ聞くと大層ファンシーなドリーの台詞に、香苗は頬の内側を噛んで軽い笑いの発作を堪えた。背中を見せたドリーはありがたい事に気付かないでいてくれた。
「俺の次はメアだ。この前のガキの夢じゃ、到底あいつの空腹を補えなかった」
「そんなに、切羽詰ってるんですか?」
「俺はもうある程度空腹に慣れてるが、あいつは違う。しかも、限界まで一人でなんとかしようとしていたからな、クソ。っつーわけで、細谷香苗」
「は、はい?」
 いちいちフルネームで呼ばれて落ち着かない。廊下に出て辺りを見回し、ドリーが尋ねる。
「お前、夢がある奴に心当たりはないか?」
「え、夢?」
「とりあえず、まあ、なんでもいい。殺人衝動がある奴でも、楽して満点取りたい奴でも。学校ってそうだろ? 夢渦巻く場所だとか、知り合いが言ってたぞ」
「夢って……確か風紀委員長が東大に入って人の為になる研究がした――――」
「あー、ダメカスダメ」
 香苗が最後まで言う前にドリーが罵りをさりげなく含ませて否定する。
「メアは、そういう夢は喰わない」
「え、そういう夢って?」
「ユメクイにとって、そういう自分を高めたり、人の為になったり、いわば徳の高い夢っつーのは、最高の御馳走だ。むしろ今度俺に紹介しろ」
「じゃあ、メアさんにだって……」
「亜種の俺と違って、あいつは夢そのものか、消失したエネルギーを喰う」
 罵りを混ぜた時と同じくらい、さりげない、あっさりしたひと言で、知っていた事でもあった。しかし、ドリーに改めて言われた途端、微かな寒気が香苗の肌を舐める。
 面倒くさそうに、ドリーは言う。
「あいつに喰われた夢は二度と叶う事はない。人間の夢を挫き、絶望を与えるのが、本来のユメクイだ。あいつはそれが嫌で仕方ねえんだよ。人間の夢を挫きたくないんだとよ」
 ドリーは呆れたように言うが、香苗の想像の中のメアの姿にはちょうどいい天使の輪っかと真っ白な翼が生えていた。
「あれ……ってことは、飢え死にしちゃいませんか?」
「だからクッソ不味い徳の低い夢を喰うんだよ、カス」
「徳の低い夢……?」
「そうだ。お前みたいな高級ステーキなんか、もっての外だ。だからゴミみたいな味の、ゲスな夢を持ってる奴を紹介しろ。でっかい物欲でもいい。学年一位を呪い、羨む万年2位の秀才クンでもいい。早く、しろ」
「そんな、無茶な……」
「使えねえな」
 チッと舌打ちをするドリーに、彼がどんなに無茶を言っているのか問いただしたくなったが、それこそ無理に決まっている。
「臭いで探すには限度がある上、今の状況のメアは出歩かせたくないってのに……」
「ご、ごめんなさいって……」
「仕方ね……」
「…………ドリーさ……っ!?」
 ぐるんっ、と急に振り返ったドリーの顔に、すっとまた背筋が寒くなった。
「お前の夢だ。そうだ」
「ひっ!?」
「細谷香苗、お前の夢が叶えば、それに伴って恋破れた周りの女どもの夢も喰える! そいつをメアに喰わせて、俺はお前の夢を喰う……最高だ……一石二鳥だ……!」
「あ、あのう……」
 自分のビジョンに酔い始めているドリーに、香苗は少し逸れていたはずの話題が戻ってきているのをひしひしと感じた。
「私、あの、叶えなくっていいですって……」
「バーカ、俺がやるまでもねえよ。期日は明日だ。明日になればどうあがいてもお前の夢は、ほぼ確実に叶う。お前がどうあがいても、無理だ!」
「そんな悪人笑顔で言われても!」
「お前は夢が叶って、俺もメアも夢にありつけて、何が問題なんだ? ああ?」
 がしっ、とドリーの手入れされた爪付きの両手が、香苗の肩を捕える。この数日で同種の恐怖に出会った回数は、もう数えきれない。
「細谷香苗……どうすればいいか、わかってるな……?」
 勇気もとっくの昔にガス欠だ。涙交じりにこくこくこくと全力で頷くと、ドリーはスッキリにこやかな笑顔で手を離す。
「……交渉成立だ」
 (なにが……交渉……)
 これで交渉だと言えるのならば、世の中の脅迫は全部交渉と言っていいのだろう。その場にへたり込む香苗を余所に、ドリーは服を学ランに戻し、廊下を闊歩していく。
「夢が叶うってのはいいもんだな、細谷香苗!」
「……ハイソウデスネ……」
 全身全霊の皮肉を込めた香苗の言葉も、ドリーは悪魔じみた笑い声で返して、さっさと行ってしまった。ユメクイという生き物は、現れるのも、いなくなるのも唐突だ。
 ふらふらと立ち上がり、鞄を背負って、香苗はポケットに手を突っ込んだ。電池が1になってしまった携帯のメールを開けば、暗記してしまった文章が夢じゃない、と主張する。
 飛田陽平という文字も、明日の放課後の文字も、夢じゃない。
 (確かに、夢が叶うのは嬉しい……けど)
 ドリーも言っていた。
『はあ? 何も捨てずに叶う夢に価値なんてねーよ、バーカ。夢っていう認識が甘いな、お前は!』
 その通りだ。
 ひとつの夢が叶うと、その裏で別の夢が散ったり、背負わなければいけないリスクが生まれたりする。果たしてその夢は、そうまでして叶えたい夢か、という疑問に、香苗はただ唇を噛むだけだった。




「取りつけてきたぞ」
 降り始めた雨の音に今までの人生―――もとい、ユメクイ生を馳せていたメアの耳に、傲慢そうなドリーの声が届く。昨夜は案の定警察に出会って、疲れ果ててしまった。起きて目を擦るメアを一瞥し、ドリーは買ってきた素麺をビニール袋から出した。
「ありがとう……私のエンジェル……あの……大変悪いのだけれど……私がこんなことを訊くのはおこがましいと思うだろうけど……」
「なんだ」
「取りつけるって……何を、だい?」
「契約だ。明日まで、もつか?」
「……多分」
 何の契約なのか、と訊いた所で、愚かな自分には理解が追い付かない。いつも通り、そんな自虐的な事を虚ろな頭で考えながら、茹でてすらいない素麺を受け取って、パリパリと齧った。徳の高い夢を思い出させるような美味しい食べ物を、メアは極力食べたがらない。対極的に、ドリーは美味しそうなカラアゲを同じ袋から取り出し、ギザギザの歯で食べる。
「明日の夕方、俺にもお前にも餌が落ちてくる。それまで気合いでなんとかしろ」
「落ちて……くるって……」
「細谷香苗の夢が叶う」
 ぐちゃ、とカラアゲを噛み潰すと、ドリーの歯の隙間を肉汁が埋めた。
「あいつと同じ夢を持っていた奴は大勢いる。そいつらの夢を喰っちまえばいいんだよ。天才的だ」
「そう……流石はドリー……私のエンジェルだ。頭脳明晰で、聡明で……なんと称えればいいのか、私には語彙が足りないよ……」
「だろうな」
 がつがつとカラアゲを食べて、ゴミをビニール袋に纏める。
「明日までちゃんと、生きておけよ」
「わかっているよ……君の……ためなら……」
 そう言って、掛けていた毛布を引き寄せて朦朧とする意識を持て余す。
「俺の為っつーなら、その辺の夢でも適当に喰えばいいんだ」
 吐き捨てるように言って、ドリーは階段に座り込む。メアはぶるっと幼い首を振った。
「私には、出来ないよ……ドリー」
 自分の為に誰かの夢を奪うだなんて。
「出来ないよ……私の……エンジェル……」
 瀕死寸前の意識は、眠気のような何かと共に飛んで行った。


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プロフィール

プロフィール画像
奏 Euph
割となんでもやる、活動的な魚類。
狐狸・二ノ宮翼・塵芥・ラピなど、名前がたくさんあります。
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