ユメクイ
非常食
長い時計とのにらめっこも終わった。震える指で迷いに迷った『はい』の返信をして、深呼吸したのがもう随分昔のような気がする。恐ろしく時間が経つのが遅い。遊園地の開園前か、はたまた病院の注射の前か。どんなにゆっくりでも時間は経つ。香苗を追いたてる秒針はゆっくりではあるが止まる事を知らず、カチリ、と4時を告げた。チラチラとした視線を、今日は朝からずっと感じていた。最近感じていた視線の、およそ数倍。当然だ。今まで自分を見る視線は、いじめっ子の蔑みくらいに限られていたが、今では全校生徒が好奇の視線を向ける。視線は雄弁に心情を語るが、口では誰も、何も言ってこなかった。
この視線の中、ずっと教室で時間を待っているのは正直辛い。かといって、すぐに立ち上がって約束の場所で待っている程の期待が、自分の中に見つからない。
思いあぐねていたその時、香苗の視界にいつか見た黄色い光が映った。
一瞬の事に思わず瞬きをすると、視線の森の中に一人だけ異様な存在がいる。黒くて長い髪に、黄色い目の、少し印象が薄い、女子。誰も気付いていない。香苗と目が合うとその女子はニッと笑う。
ギザギザの歯だ。
何か考えてしまう前に立ち上がって、人波を押しのけて身を翻して行ったその女子を追う。小走りする香苗に視線を送る生徒はいるものの、追う様な生徒は誰もいない。翻る黒髪とチラつく黄色い目の光を追って、校舎の最上階、4階の更に上に上がった。
立ち入り禁止と書かれたドアの鍵は開いていて、鎖も壊れていた。
ユメクイの巣にった時と同じで、ふらふらと縋るようにドアノブを回すと、本日の天気が目の前に広がっていた。やたらとドラマティックな演出をする雲だらけの濁った青空の下、薄い顔の女子生徒と小さな子供というちぐはぐな組み合わせが立っていた。
「お前の周りは、女ばっかだな、細谷香苗」
少し高い声は「え」の発音をするまでに男性の低い声に変わっていた。一緒に女子生徒の姿はルービックキューブを回したみたいに、霧を纏って見慣れたドリーの姿になる。
「……それも擬態……ですか」
「昔は俺の擬態した顔に恋する野郎や女の夢も喰ったが、俺の趣味じゃないな、あの味は」
あっけらかんとした顔で、とんでもない事を言う。香苗は言及するのも疲れたようにドアに背中をもたれた。
「あと三十分の命の私に……何の用ですか」
「三十分の命?」
ぴく、とドリーが眉をひそめるのに、香苗は絞り出すような声で言う。
「飛田君と付き合うのは、私の夢ですよ、確かに。アイドルと付き合う、みたいに途方がなさ過ぎて、実感わかないです……。なのにこれからどうなるかも目に見えてるんです」
あのアイドルの彼女になって、その瞬間からどうなるか。今までのお人形はみんなズタボロになった。何とも言えない目で『次はアンタ』と言う捨てられた人形になる。
きっと、自分もそうなる。
「……夢って、重いです」
「重くない、薄っぺらいステーキなんか美味くもなんともねえよ。夢は人間の汚くも美しいスパイスの結晶だ。この校舎の二階だろ? さあ、行きたまえ、シンデレラ」
「魔法使いのおばあさんは、そんなあく……ユメクイじゃありません……」
意地悪に笑うドリーに言って、その足元にいる小さな子供に目が行く。ぴくり、とここまで驚かなかった心臓が跳ねた。
「……メア、さん……?」
未就学児童くらいの痩せた幼児が、ドリーの足元から香苗を見て頷く。げっそりとした顔で、立っているのもやっとな程だろう。
「もうこいつは夢を自分から食う力も残ってない」
「え?」
「今まで雑巾を絞って出てくる汚水を飲んでるような感じだったけどな、もう絞る力が残っていない。そう、誰かが汚水を絞らなきゃ……なあ?」
吐き気がしそうな表現に文句を言う気も吹き飛ばす程、その『誰か』を睨むドリーの目は鋭かった。
「こいつも、お前の夢が叶うと共に消える夢を待ってんだよ」
「そんな……だって……」
「大体、なんだお前の命があと三十分なんて」
ふん、と鼻を鳴らしてドリーは言う。
「夢の為に必要な事なら、どんな辛い事でも乗り切ってみやがれ。他人の夢を犠牲にしろ。ユメクイに喰わせちまえ。それが出来ないなら、お前の夢はマガイモンってヤツだ、カス」
「……マガイモン……ああ、紛い物……」
そう言われて、ちょっと考える。しかしそれも一瞬で、屋上の対面に見える時計が二十分を刻んでいるのが目に入った。とにかく、行かなくては。
「私、時間なんで……」
「おう、行け。さっさと行け、亀女」
屋上のドアを引いて、香苗が視線の森に身を投じていくのを眺め、ドリーはまた鼻を鳴らした。
「行動が遅ぇな、あのグズ女は……お前はここで待ってろ、メア」
「ああ……うん……」
今にも消えそうな顔の子供を一瞥し、ドリーはどこにでもいそうな生徒に姿を変える。香苗が出て行った扉に手を掛け、校舎の中に戻ると、そこら中から匂いがした。
(さて……)
メアが食べられそうな、恋破れた乙女はいそうなものか。噂の全貌の一部でも探ろうとしている野次馬が、3階と一階に集まってきている。みんな素知らぬ顔をしているが、数人の男子の好奇の視線も、多くの女子の嫉妬も予想通りそこにあった。が、おかしい。
「…………?」
香苗の夢がよく香り過ぎるせいだけではない。野次馬の誰も、夢の香りを持っていなかった。人の間を歩きながら、ドリーの背筋を汗が流れる。
(どういう……)
「デブ谷が飛田君の目に留まれるなら、ウチらだって、ねえ?」
女子の会話が耳に入る。聞き返すことも、振り返る事も出来ないが、寒気だけは生々しく感じられた。
「で? どうやって別れさせる?」
「飛田君可哀そうだもんね」
「つか、どうやって取り入ったん? あのクソ女」
これは、予想外だ。
嫉妬ではあるが、思っていたものとは余程違った。恋破れる乙女なんて、一人もいない。意識過剰な夢は破れるどころか、その夢を肥大させるだけである。今のメアでは、きっと絞れない。
「やべえ……」
物影に隠れ、怪しまれない程度に呼吸し、嗅覚を研ぎ澄ます。絶対に叶わなくさせる事が出来る、消えてしまっていい夢なんて。
ひく、とドリーの鼻孔が動いた。香苗の夢に混じった、ひとつの夢の臭い。
「これだ」
予定の5分前であるにも関わらず、そこには飛田陽平がいた。ギクシャクと軋む心臓を抑えて、香苗が階段を下りると、静かすぎる廊下の、プレートの文字も消えた無人の教室の前でスマホを弄っていた飛田が顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「早いね」
「ひ、飛田君こそ……」
少女漫画から飛び出したアイドルか、王子様のような憧れが、目の前にいる。しかも、二人きりで。紙の上の世界のヒロイン達は、どうやってこの心臓を静かにさせていたのだろうか。いつも通り、いやいつも以上にカッコイイと思える王子様は、照れたように話の掴みを探っている。
「この前、細谷さんに教えてもらった本、あれ実写映画化するんだね」
「え、あ、そう……なん……だ」
「面白そうだって、観に行きたいって思って」
「いいんじゃないの……かな?」
「誰と行くかが問題でさ、ねえ、香苗ちゃん」
名前を呼ばれた衝撃で、体が凍りつく間に。なんて卑怯な男なのだろう、彼は。甘く、照れた顔で飛田陽平は訊く。
「一緒に観に行かない?」
ぱしぱし、と瞬きする。夢の中にいる事を疑うが、最近は夢みたいなことはいつも現実。きっと今も現実の波間にいるはず。だが、それにしたって彼の顔は現実にしては甘すぎた。
そう、甘すぎた。おかしい。ケーキはいくら甘くても、木に成っているはずがないように。
香苗の沈黙の隙に、飛田は砂糖のような甘さの後押しをする。
「……だから、俺と付き―――――」
「飛田君は、」
沈黙と飛田の言葉を切り裂き、香苗が口を開く。今まで黙っていた口が突然動き始め、飛田の目がふと驚いて陰った。
「飛田君は、カッコイイよ」
「……え、ありがとう……?」
「か、カッコイイじゃすまないくらい、カッコイイよ。こんな言葉じゃ済まないくらい。でも、飛田君くらいにカッコよかったら、そんな風にはいられない」
「え……?」
こんなに騒がれて、褒められて、そんな照れた、純粋な顔でいられる人間が本当にいるのだろうか。
違う。ユメクイが言う言葉通り、人間は汚くも美しい。美しいだけの人間は、いない。そう思うといやに冷たい物が背中を走った気がして、素早く言い訳を探した。
「どういう事だろ……?」
「……ごめん、飛田君。えっと……飛田君はすごく優しいし、なんでもできるし、カッコイイよ。アイドルみたい。で、でも、私は飛田君の彼女だった子達みたいに、全部捧げる事は、できない……守ってくれないアイドルの隣に並ぶ勇気はないよ」
捕えたチャンスの神様が、手の中から離れていく。麗亜達と向き合った時よりも、ずっと重い口を開き、殆どただの空気の様な、かすれた声が流れる。
「ありがとう……でも、ごめんなさい」
「…………」
肩を竦めて、ちょっと俯く香苗の髪を梳き、飛田陽平は小さな声で囁いた。
「勘違いすんなよ、ブス」
あまりにも冷たく、低い声に、一瞬別人の声かと疑う。すぐさま数歩分弾かれたように後ずさった香苗に、飛田はいつもの声で告げる。
「わかった……ごめんね、細谷さん」
「飛田……君……?」
「もう、近づかないよ」
冷水のようなよく響く声の冷たさは、香苗の耳には悪魔の嗤いが混じったように聞こえるが、傍から聞けば傷を負った天使。その途端に、真意が読み取れる。
恋は盲目で、彼は蜘蛛だった。あの甘さはエサでしかない。
「……飛田君、待って……」
手を伸ばしかけると、大げさに怖がって身を引くが、顔はあのユメクイよりも、よっぽど悪魔のようだった。青い顔で、香苗は震えた。
「ひどい……」
「……みんなそう言うんだけど、何?」
一階と三階の野次馬には絶対に聞こえないくらいの小さな声で、飛田陽平は囁く。
「お前らも俺が飽きるまでの一瞬でも、いい夢が見れて嬉しいだろ?」
「だって――――」
「可愛いってお膳立てしてやったのに……俺のオネガイを、俺が悪いみたいに一人断るブスがいると、後に響くからなー。アイドルは人生イージーモードだから、アイドルのままでいなきゃいけねーんだよ、こっちは」
にっこりと、人間の形をした悪魔は綺麗に微笑む。
「ま、そーゆー展望? っつか、そーゆー夢があったら、その為の踏み台も必要だよね♪」
「…………」
踏み台になった夢を、抉る言葉が痛い。数時間後を想像し、震える。
飛田は目を伏せて嗤い、足を退場に向けた。彼はきっと『自意識過剰な地雷女に告白して、こっぴどくフラれた傷心の美少年』になるのだろう。自分は悪役で、明日にはおびただしい正義のヒーローに殺される運命。香苗は唇を噛みしめた。
これが踏み台だというのだろうか――――――
「じゃあ、細谷さん、俺は――――」
「いや、素敵な持論だ」
数歩。飛田が離れかけた所に、聞いたような声が背後の教室から飛び出す。はっとして、香苗も飛田も振り返った。引き戸が静かに少しだけ開き、嗤い交じりの声が賞賛を送る。
「夢には誰かの犠牲が伴う。受験だろうが、恋のバトルだろうが、生贄がある夢の方が、そう、喰いでがあるってもんだ」
ガッ、と引き戸が開くと、そこには一人のユメクイがいた。黄色い目に、ギザギザの歯。指定の学ランを纏った男子生徒に、思わず香苗は泣きそうになった。
「ドリー、さ……」
「なんで……」
「あー、来る前に誰かいないかチェックしてたな、お前。悪い悪い。けどな、俺のステーキを台無しにした罪は重いぞ」
パキン、と物騒な音を立てて手首を鳴らすドリーに、飛田が戸惑った顔で逃げ道を探し、走り出しかける。と、ドリーは思い出したように告げた。
「そうだ。殴る前に面白いもんがある! お前にもちょっと聞かせてやる」
「聞――――……ッ!?」
ドリーが大きく引き戸を開け放つと、なんでもなかったはずのちっぽけな教室に、放送室よろしくといわんばかりの音響機材がずらりと並んでいた。飛田も、香苗も言葉を失った。
「なんで、ここに、こんなものが……」
困惑する飛田に向かって、ドリーが照明の光でギラギラと輝く爪をくねらせ、楽しそうに機材を指し示す。
「おや、こんなところにマイクが? おやぁああ? あんなところにレコーダーが? おやあああああああああ?あんなところに放送機材がぁ?」
「……まさか……お前……」
「ネタバレ禁止だ、クソ野郎」
ごちゃごちゃした機材の電源のひとつを起こした途端、全校に『ファン』という高い音が走った。真っ青な顔の飛田を差し置いて、ドリーが別のマイクを手に取る。
「えー、本日は校内放送をお聞きの皆様に、飛田陽平から細谷香苗への素敵な告白シーンをお送りいたシマス」
唖然とする香苗の隣を、飛田が突っ切り、マイクスタンドを手に取った。金属バットのような持ち方に気付いて、香苗が止める前に、大きく振りかぶる。
嫌な金属音が2階に響き、スタンドを下に避けたドリーの実況が追加される。
「どうも、随分恥ずかしがりの模様デスネ、アイドル様は」
「お前……お前は……ッ!」
血眼になって電源を探すが、さっきドリーが起こしたスイッチがどこにもない。ランプもついていない。
「では、お待ちかねの告白シーンを、お送りシマス。どうぞお聞きクダサイ」
「やめろ!」
また大きく振られたマイクスタンドを、ドリーは手で受け止める。ぴくりとも動かないスタンドに戦慄する飛田を、ドリーは笑いながら、一歩一歩壁に追い詰めて行った。
「お前の言い分ももっともだ。俺のステーキが食いたいって夢にも踏み台が必要でよぉ、それを台無しにする奴って最低だと思わないか? あん?」
「す……っ、お前……!」
「おい、細谷香苗」
名前を呼ばれ、はっとする。まるで、映画みたいな現実の観客みたいになっていた香苗に、ドリーは呆れたように肩を竦めた。
「折角いい事教えてやるって時に、ぼーっとしてんじゃねえよ、亀女」
「いい……事って……」
「おう、」
恐怖と焦りとのごちゃまぜの感情に飲まれ、もはやアイドルの陰もないような土気色になった飛田の顔に向かってドリーは拳を大きく振りかぶった。
「フツーのユメクイじゃなくても、こいつの夢に消しゴムかけるなんて簡単だってな」
香苗が止める間もなく、恐怖の一色に染まった飛田の顔めがけて、風を切り裂く拳が飛んで行った。
――――バキン――――――
呆気ない、短い、骨が砕けるような音を立てて、教室の壁がわずかに崩れた。
至近距離を過ぎた、凶器のような拳の恐怖に、飛田は、ずるずると壁に背を伝わせた。白目を剥いて気絶している飛田も何もかも、さっき言われた言葉まで、全部ひどい夢のようで香苗は涙も伝っていない頬を小さくつねった。
「夢じゃねえよ」
意地悪なユメクイが、機械を弄る。すると、全校のスピーカーから、アイドルだった男の声と自分の声が聞こえてきた。
『早いね』
『ひ、飛田君こそ……』
(ああ――――――――)
現実だったのか、と、香苗はようやく認識した。
屋上まで届いてきた、大きく、醜い夢が消えたエネルギーを口にし、メアはひと呼吸置いた。傲慢と自意識と嫉妬と蔑みに満ちた、酷く不味い夢だった。自分にはちょうどいい。そう思いながら、メアは青い光をまた食べた。
(きっと……エンジェルの計画が上手く行ったんだな……)
流石だ、と心から尊敬し、感謝していると、ようやく意識がはっきりして、周りの物がよく見え、聞こえてくる。そこで、耳を疑った。スピーカーが、香苗の声を流しているのに気付いた時だった。
『ありがとう……でも、ごめんなさい』
掠れるような香苗の声の後に、大きな間があいて――――――
『勘違いすんなよ、ブス』
また耳を疑った。確かに、低い声で言われたその声は、もう一人の男の声だったはず――――なのに、まるでまったくの別人。
『わかった……ごめんね、細谷さん』
『飛田……君……?』
『もう、近づかないよ』
『……飛田君、待って……ひどい……』
『……みんなそう言うんだけど、何? お前らも俺が飽きるまでの一瞬でも、いい夢が見れて嬉しいだろ?』
『だって――――』
スピーカーの声が止まない内に、屋上の扉が開く。悄然とした顔の幽霊のような香苗に、メアが立ち上がる。
「君は……」
『可愛いってお膳立てしてやったのに……俺のオネガイを、俺が悪いみたいに一人断るブスがいると、後に響くからなー。アイドルは人生イージーモードだから、アイドルのままでいなきゃいけねーんだよ、こっちは。ま、そーゆー展望? っつか、そーゆー夢があったら、その為の踏み台も必要だよね♪』
『…………』
『じゃあ、細谷さん、俺は――――』
ブヅッ、と校内放送はそこで途切れた。
校舎では誰もかれもがざわめきを隠せない。屋上にも少し聞こえてくるが、きっとここでない場所よりは静かなはず。
確かに、屋上は静かだった。何のしがらみもない、緩い雲は自分を見下し、嘲るように空を泳ぐ。小さな子供の姿をしたメアが、おそるおそる近づいてきた。
「君は……私は……」
「メアさん……」
自分の中の、偶像が音を立てて崩れる。それと一緒に、ずっと大切に抱いていた夢も、泡のように消えてなくなる。届きかけた夢は、人間を嘲って崖の底に突き落とす。そこには踏み台になった絶望しかなかった。
目を閉じると、自分の体から、するり、と夢が抜けていくのがわかる。驚き、慌てるメアに向かって、香苗は呟いた。
「食べてください」
「え?」
「ドリーさんが言っていたことが本当なら……私の夢はステーキなんでしょう? 飛田君の夢が美味しくなかったなら、お口直しになると思います……」
「だって、君は――――」
「お願いです」
ぐ、と手の甲で目頭を覆うと、夢と一緒に涙が伝った。
「食べてください。夢を。全部。跡形もなく」
息を飲んで、唾を飲んで、嗚咽を飲んで、絶望ごと、全部、と言う。
メアは少しためらった後に、香苗の体から零れる、赤い色を指先ですくった。ドリーの言っていたように、極上の夢の香りがする。メアは息を吐き、大きく呼吸するように夢を吸い込んだ。
夢が口の中に入って来ると、長い間ずっと忘れていた、とびきり上等な夢の味が広がる。恋の味はチョコレートのように甘く、叶わない夢を追う悲しさはカカオのように苦く、青春の憧憬はオレンジのように爽やかで、僅かに酸っぱい。すべての味が絶妙に絡み、誰にも作り出せないひとつの夢を織りなしていた。
気付くと、夢は喉を過ぎ、その場からも消えていた。
溺れて力尽きたように、香苗の体から力が抜け、その場に倒れかける。慌てて支えようとしたメアよりも前に、扉の向こうから別の誰かが現れ、香苗を支えた。
「……んだ、お前かよ。ったく、俺のステーキ喰いやがって」
「あ……ご、ごめん……」
「まあ、俺はまだ足りてるから、許してやる」
ドリーはぼんやりしている香苗を支え、ため息を吐いた。
「あ……どりー……さん」
「俺の言う事を無視しやがって。まあ、メアの方が優先だったから正解だ」
「……ごめん、なさい……」
漂う様な香苗の言葉の合間に、しゃっくりが飛び始める。
「私……私……」
「…………ったく」
壁を背に、一緒に座り込む。香苗が肩にもたれるのも少し不愉快そうな顔をするだけで赦し、ドリーは頬杖をついた。
「人間ってのは、めんどくせえな」
「……そうだね、ドリー……私のエンジェル」
そう言いながらも、ドリーは服が香苗の涙で濡れても、文句を言う事はなかった。
「A組の飛田君、転校するんだって?」
「え、今更ぁ?」
「当たり前っしょ。流石にあれは……ねえ?」
「つか、今まで付き合った子、超カワイソー。あれ、結局飛田君がみんなフッてたってことでしょ? やばくない?」
「いくらイケメンでも、あれは引くわー」
「っつかさぁ、そう思うとB組の原君、イケメンなのに、優しいし、」
「言うてさ、飛田君だってそう言われてたじゃん?」
「結局付き合ってみないとわかんねーの。非リアにはわかんないよね?」
「表出ろよ、オラ」
などなどと。
女の子の会話としては、幾分か物騒で荒っぽいものが廊下の四方八方から聞こえる。黒髪の目立たない女生徒は、先週作った『放送室』がちゃんと消えているか、様子を見てきたところだった。あそこまでしっかりした機材のあるユメクイの巣を作り、しかも全校のスピーカーと繋げるともなると、かなり複雑な工程が必要で、同じように、消すのもひと苦労だった。しかも、頭に血が昇っていたとはいえ、ここまで人通りが多い所に作ってしまったのは失敗だった。そのせいで先週からちらほら現れたり消えたりするあの『放送室』は、飛田の嘘を暴いた『閻魔様の放送室』と、一部ではオカルト扱いされている始末である。
正門よりもずっと人目が少ない西側の門から出て、女生徒は大きく伸びをした。誰もいないのを確認して、ドリーはいつものカジュアルかつロックな服装の青年の姿に戻る。
(結局、あいつもいなかったな)
ふと、歩き出しながら、ドリーはそう思った。
数日間、放課後にはしばしば『放送室』の始末に通っていたが、その間ずっと香苗の姿は見られなかった。今日だってそうだ。艶のあるセミロングの黒髪に、校則通りの制服と、日本人らしい薄い顔立ちに、さえない表情。全部揃っているのをしばらく見ていない。
だからといって、どうというわけではないが――――――
(……帰ったら、考えるか)
運よく今回はなんとか、自分もメアも無事に夢を食べて命を繋ぐことが出来たが、美味い夢を抱き、それを実現する事が難しい現代だ。突発的とはいえ、始めた夢喰い屋をなんとか軌道に乗せないといけない。だが、今までの客は、一カ月と少しで冷やかしが3人と細谷香苗だけだ。このペースだと自分の足で探しまわって、死に物狂いで動かない限り、生きていくのさえ大変そうだ。
駅前の、ユメクイの餌となる人間にしか見えないドアと看板を睨みつけながら、ドリーは鼻を鳴らした。これからの苦労を考えると、気が重い。気と一緒に重いドアを開け、小さく呟いた。
「帰ったぞ、メア。あの『放送室』は――――――」
そこまで言って、ドリーは部屋の異変に気付いた。いつぞやの過剰装飾から脱却してなお、少しアンティーク風味な家具の趣味。本棚に並んだ、わけのわからない雑学書と生物書と小説の山。この空間が、誰に媚を売っているか、ドリーにはすぐわかった。
何か言う前に、相手の方が早く、ドリーが帰ってきたのに気付く。
「ドリーさん!」
「おかえり、私のエンジェル……」
窓際のテーブルで談笑していたらしい、ソファから立ち上がった香苗とメアに、ドリーは眉間に深々と皺を刻んだ。
「どういう、事だ、お前ら。今すぐ十文字以内で答えろ」
「じゅ、じゅう!? え、ええっと……そのぅ……」
メアが大きい体を縮こまらせて困っている間に、香苗が立ち上がって、言う。
「お礼に、来たんです」
「はあ?」
確かに十文字に収まっていたが、満足のいく答えにはなっていなかったらしい。ドリーは表情をますます訝しげにゆがめる。
「どういう事だ、そいつは」
「二人のおかげで、私、二回も救われました。飛田君の事も、麗亜の事も……ちょっとでもお礼がしたくって……」
「どうしてもって言うなら、夢で返せ。もっとも、お前にはもう俺を満足させるような夢はないみたいだがな」
ひく、と鼻に神経を集中させても、もう香苗からは、ステーキのような上質な夢の香りはおろか、食欲をそそる香りは一切しない。
「食い物も出さない人間に興味はない。礼なんかどうでもいい。邪魔だからさっさと帰れ」
「ドリー、その……私の女神にだって色々と思い巡らせたところが……」
「このちんちくりんな色ボケが女神だっつーなら、イワシの頭だって神になれるぞ、バカ」
「誰がイワシの頭ですかっ……ちゃんと聞いてくださいよ、私だって……そ、そう、メアさんの言う通り、思い巡らせたところがあるんですから」
「素晴らしい……香苗、私の女神……」
「ほー? 言ってみろ」
乱暴に椅子に腰かけ、横柄な態度で目の前にいられると、用意していた台詞があらかた溶けてしまって困った。目を泳がせながら、香苗はぽそぽそと呟いた。
「……こ、ここで二人の……お手伝いをしようかと……」
「ああ?」
「人間相手の……その、お仕事? ですし……やっぱり、私みたいな、ちゃんとした……人間? がいた方が、捗るんじゃないかな……ってその……迷惑だったら、貯金で何か御馳走します……から。あ、でも普通に人間の食べ物も……いけるんですか……?」
ここ一週間、体調を崩し、自宅で養生している間、ずっと考えていたアイディアは、メアの前で言った時はとにかく感動して喜んでくれたから、実際にいい考えだと思えたが、いざ贔屓目のないドリーの前に出すと、一秒に一本くらいの割合で増えていく眉間の皺の前に、あまりにも儚いこのアイディアは今にも吹き飛ばされそうだ。
自信なく、最後は適当に出来そうなことを付け足し、ちらりとドリーの顔色を伺う。青くも赤くも白くもない、眉間に皺が寄っているだけで、何を考えているかも読めない表情は、いっそひと目で怒っているとわかるくらいの方がいいと思ってしまうものだ。
「あのな、お前みたいなただの人間が、ここで何をするってんだ。アホか」
「ざっ、雑用……でも……」
「雑用? そりゃまた随分ご立派だな。まあ、そんなご立派なお仕事はどこでも出来る。さっさとどっか行っちまえ。ユメクイはお前が考えているようなファンシーな連中じゃねえんだよ」
「どの口がファンシーなんて言うんですか……」
「あん?」
「いやっ、その……」
「わかったらとっとと帰れ。俺は夢探しに忙しいんだ、この暇人」
「…………すみません」
小さな謝罪もまったく聞こえていないように、ドリーはのそのそと階段に向かう。
「ど、ドリー……私のエンジェル……」
「いいんです、私が図々しいだけでした……」
床に置きっぱなしにしていた鞄を取って、香苗はメアに笑いかけた。無理やりすぎる笑顔に、メアの表情は暗くなる一方だ。
「ありがとうございます」
「ああ……すまない……香苗、私の女神……」
「それやめてくださいよ……」
香苗はそう言ってから、もうここに来ることもないと気付いて、やたらと沈んだ。
先週までは、金輪際関わりたくない、なんて思っていたユメクイに対して、なんて変わり身の早い心なのだと痛感する。しかし、現実では手が届きそうで手が届かない『夢』というものに対して、当の人間以上に、これほどまでに熱心な彼らは―――――彼らは―――――
ドアノブに手をかけ、香苗はメアに手を振った。
「じゃあ、これで」
「また……その……夢を抱いたら……」
名残惜しそうに、思いついた言葉を選んでは言うメアに微笑みかけ、香苗は背を向けた。
(あーあ……)
ちっぽけな勇気も手に入れたはずなのに。
(もっと、知りたかったな―――――――)
あなた達の事―――――
その次の瞬間、何が起こったか、ちょっとわからなかった。
気が付くと世界はひっくり返っていて、目の前にあったはずのドアノブが、天井に吊るされている電灯に早変わりした。視界に対する暴力じみた衝撃と一緒に、こちらは暴力そのものと言える衝撃が、香苗の背中を襲った。
「いった……!?」
「ドリー!?」
メアの絶叫に、ぱしぱしと明滅する世界の隙間から、真っ黒なユメクイを見つける事が出来た。やたらと足が長く見えるドリーとメアのアングルに、自分がひっくり返っているとようやく理解した。肩辺りの痛みもズキズキとやってきて、突き飛ばされた、という答えをなんとか導き出す。ふらふらしながら起き上がると、ドリーが屈んで視線を合わせてきた。
その顔は、先週までの綱渡りみたいな危うさを思い出させる、悪魔の笑顔。
「……マグロだ」
「は……い……?」
「今の段階では全然食えそうにないが、美味そうな匂いがするじゃねえか……溢れる好奇心が染みた渇望なのに、新しい物を求める心意気の新鮮さ。先を見据える展望。甘い……奉仕? わかんねえな。とにかく! 先週のお前をステーキに例えるなら、今のお前は極上のマグロの稚魚だ……」
ぐちっとした舌が下品に覗くドリーの口に、香苗は自分の浅はかさを必死になって後悔した。ドリーはさっきまで香苗が座っていたソファにふんぞりかえり、偉そうに言う。
「細谷香苗、朗報だ。バイトとしてお前を雇ってやる」
「え……」
「……まさか……」
メアが怖々と、香苗が聞きたくなかった続きを煽る。にこやかな黒い笑みで、ドリーは告げた。
「そう……俺とメアの非常食としてな! はははははははは! 立派な中トロになれ!」
「は……はぁあああ!? そんな役職聞いたことありませんよ!」
「ああん? 何度も言うが、別にお前に害はないだろうが!」
「そういう問題じゃありませんよぉおおお!」
「そもそもお前が先に、手伝いたいとかぬかしてたろうが!」
「そうですけど……そうですけどぉ!」
「…………あはは……」
ドリーの強情さはずっと前から、香苗の流されやすさはちょっと前から知っているメアには、その先が手に取るようにわかった。
(……これから大変そうだなあ……)
ぎゃあぎゃあと騒いでいる二人を暴風圏外から眺め、メアは香苗の時給とシフトについて考え始めていた。
この視線の中、ずっと教室で時間を待っているのは正直辛い。かといって、すぐに立ち上がって約束の場所で待っている程の期待が、自分の中に見つからない。
思いあぐねていたその時、香苗の視界にいつか見た黄色い光が映った。
一瞬の事に思わず瞬きをすると、視線の森の中に一人だけ異様な存在がいる。黒くて長い髪に、黄色い目の、少し印象が薄い、女子。誰も気付いていない。香苗と目が合うとその女子はニッと笑う。
ギザギザの歯だ。
何か考えてしまう前に立ち上がって、人波を押しのけて身を翻して行ったその女子を追う。小走りする香苗に視線を送る生徒はいるものの、追う様な生徒は誰もいない。翻る黒髪とチラつく黄色い目の光を追って、校舎の最上階、4階の更に上に上がった。
立ち入り禁止と書かれたドアの鍵は開いていて、鎖も壊れていた。
ユメクイの巣にった時と同じで、ふらふらと縋るようにドアノブを回すと、本日の天気が目の前に広がっていた。やたらとドラマティックな演出をする雲だらけの濁った青空の下、薄い顔の女子生徒と小さな子供というちぐはぐな組み合わせが立っていた。
「お前の周りは、女ばっかだな、細谷香苗」
少し高い声は「え」の発音をするまでに男性の低い声に変わっていた。一緒に女子生徒の姿はルービックキューブを回したみたいに、霧を纏って見慣れたドリーの姿になる。
「……それも擬態……ですか」
「昔は俺の擬態した顔に恋する野郎や女の夢も喰ったが、俺の趣味じゃないな、あの味は」
あっけらかんとした顔で、とんでもない事を言う。香苗は言及するのも疲れたようにドアに背中をもたれた。
「あと三十分の命の私に……何の用ですか」
「三十分の命?」
ぴく、とドリーが眉をひそめるのに、香苗は絞り出すような声で言う。
「飛田君と付き合うのは、私の夢ですよ、確かに。アイドルと付き合う、みたいに途方がなさ過ぎて、実感わかないです……。なのにこれからどうなるかも目に見えてるんです」
あのアイドルの彼女になって、その瞬間からどうなるか。今までのお人形はみんなズタボロになった。何とも言えない目で『次はアンタ』と言う捨てられた人形になる。
きっと、自分もそうなる。
「……夢って、重いです」
「重くない、薄っぺらいステーキなんか美味くもなんともねえよ。夢は人間の汚くも美しいスパイスの結晶だ。この校舎の二階だろ? さあ、行きたまえ、シンデレラ」
「魔法使いのおばあさんは、そんなあく……ユメクイじゃありません……」
意地悪に笑うドリーに言って、その足元にいる小さな子供に目が行く。ぴくり、とここまで驚かなかった心臓が跳ねた。
「……メア、さん……?」
未就学児童くらいの痩せた幼児が、ドリーの足元から香苗を見て頷く。げっそりとした顔で、立っているのもやっとな程だろう。
「もうこいつは夢を自分から食う力も残ってない」
「え?」
「今まで雑巾を絞って出てくる汚水を飲んでるような感じだったけどな、もう絞る力が残っていない。そう、誰かが汚水を絞らなきゃ……なあ?」
吐き気がしそうな表現に文句を言う気も吹き飛ばす程、その『誰か』を睨むドリーの目は鋭かった。
「こいつも、お前の夢が叶うと共に消える夢を待ってんだよ」
「そんな……だって……」
「大体、なんだお前の命があと三十分なんて」
ふん、と鼻を鳴らしてドリーは言う。
「夢の為に必要な事なら、どんな辛い事でも乗り切ってみやがれ。他人の夢を犠牲にしろ。ユメクイに喰わせちまえ。それが出来ないなら、お前の夢はマガイモンってヤツだ、カス」
「……マガイモン……ああ、紛い物……」
そう言われて、ちょっと考える。しかしそれも一瞬で、屋上の対面に見える時計が二十分を刻んでいるのが目に入った。とにかく、行かなくては。
「私、時間なんで……」
「おう、行け。さっさと行け、亀女」
屋上のドアを引いて、香苗が視線の森に身を投じていくのを眺め、ドリーはまた鼻を鳴らした。
「行動が遅ぇな、あのグズ女は……お前はここで待ってろ、メア」
「ああ……うん……」
今にも消えそうな顔の子供を一瞥し、ドリーはどこにでもいそうな生徒に姿を変える。香苗が出て行った扉に手を掛け、校舎の中に戻ると、そこら中から匂いがした。
(さて……)
メアが食べられそうな、恋破れた乙女はいそうなものか。噂の全貌の一部でも探ろうとしている野次馬が、3階と一階に集まってきている。みんな素知らぬ顔をしているが、数人の男子の好奇の視線も、多くの女子の嫉妬も予想通りそこにあった。が、おかしい。
「…………?」
香苗の夢がよく香り過ぎるせいだけではない。野次馬の誰も、夢の香りを持っていなかった。人の間を歩きながら、ドリーの背筋を汗が流れる。
(どういう……)
「デブ谷が飛田君の目に留まれるなら、ウチらだって、ねえ?」
女子の会話が耳に入る。聞き返すことも、振り返る事も出来ないが、寒気だけは生々しく感じられた。
「で? どうやって別れさせる?」
「飛田君可哀そうだもんね」
「つか、どうやって取り入ったん? あのクソ女」
これは、予想外だ。
嫉妬ではあるが、思っていたものとは余程違った。恋破れる乙女なんて、一人もいない。意識過剰な夢は破れるどころか、その夢を肥大させるだけである。今のメアでは、きっと絞れない。
「やべえ……」
物影に隠れ、怪しまれない程度に呼吸し、嗅覚を研ぎ澄ます。絶対に叶わなくさせる事が出来る、消えてしまっていい夢なんて。
ひく、とドリーの鼻孔が動いた。香苗の夢に混じった、ひとつの夢の臭い。
「これだ」
予定の5分前であるにも関わらず、そこには飛田陽平がいた。ギクシャクと軋む心臓を抑えて、香苗が階段を下りると、静かすぎる廊下の、プレートの文字も消えた無人の教室の前でスマホを弄っていた飛田が顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「早いね」
「ひ、飛田君こそ……」
少女漫画から飛び出したアイドルか、王子様のような憧れが、目の前にいる。しかも、二人きりで。紙の上の世界のヒロイン達は、どうやってこの心臓を静かにさせていたのだろうか。いつも通り、いやいつも以上にカッコイイと思える王子様は、照れたように話の掴みを探っている。
「この前、細谷さんに教えてもらった本、あれ実写映画化するんだね」
「え、あ、そう……なん……だ」
「面白そうだって、観に行きたいって思って」
「いいんじゃないの……かな?」
「誰と行くかが問題でさ、ねえ、香苗ちゃん」
名前を呼ばれた衝撃で、体が凍りつく間に。なんて卑怯な男なのだろう、彼は。甘く、照れた顔で飛田陽平は訊く。
「一緒に観に行かない?」
ぱしぱし、と瞬きする。夢の中にいる事を疑うが、最近は夢みたいなことはいつも現実。きっと今も現実の波間にいるはず。だが、それにしたって彼の顔は現実にしては甘すぎた。
そう、甘すぎた。おかしい。ケーキはいくら甘くても、木に成っているはずがないように。
香苗の沈黙の隙に、飛田は砂糖のような甘さの後押しをする。
「……だから、俺と付き―――――」
「飛田君は、」
沈黙と飛田の言葉を切り裂き、香苗が口を開く。今まで黙っていた口が突然動き始め、飛田の目がふと驚いて陰った。
「飛田君は、カッコイイよ」
「……え、ありがとう……?」
「か、カッコイイじゃすまないくらい、カッコイイよ。こんな言葉じゃ済まないくらい。でも、飛田君くらいにカッコよかったら、そんな風にはいられない」
「え……?」
こんなに騒がれて、褒められて、そんな照れた、純粋な顔でいられる人間が本当にいるのだろうか。
違う。ユメクイが言う言葉通り、人間は汚くも美しい。美しいだけの人間は、いない。そう思うといやに冷たい物が背中を走った気がして、素早く言い訳を探した。
「どういう事だろ……?」
「……ごめん、飛田君。えっと……飛田君はすごく優しいし、なんでもできるし、カッコイイよ。アイドルみたい。で、でも、私は飛田君の彼女だった子達みたいに、全部捧げる事は、できない……守ってくれないアイドルの隣に並ぶ勇気はないよ」
捕えたチャンスの神様が、手の中から離れていく。麗亜達と向き合った時よりも、ずっと重い口を開き、殆どただの空気の様な、かすれた声が流れる。
「ありがとう……でも、ごめんなさい」
「…………」
肩を竦めて、ちょっと俯く香苗の髪を梳き、飛田陽平は小さな声で囁いた。
「勘違いすんなよ、ブス」
あまりにも冷たく、低い声に、一瞬別人の声かと疑う。すぐさま数歩分弾かれたように後ずさった香苗に、飛田はいつもの声で告げる。
「わかった……ごめんね、細谷さん」
「飛田……君……?」
「もう、近づかないよ」
冷水のようなよく響く声の冷たさは、香苗の耳には悪魔の嗤いが混じったように聞こえるが、傍から聞けば傷を負った天使。その途端に、真意が読み取れる。
恋は盲目で、彼は蜘蛛だった。あの甘さはエサでしかない。
「……飛田君、待って……」
手を伸ばしかけると、大げさに怖がって身を引くが、顔はあのユメクイよりも、よっぽど悪魔のようだった。青い顔で、香苗は震えた。
「ひどい……」
「……みんなそう言うんだけど、何?」
一階と三階の野次馬には絶対に聞こえないくらいの小さな声で、飛田陽平は囁く。
「お前らも俺が飽きるまでの一瞬でも、いい夢が見れて嬉しいだろ?」
「だって――――」
「可愛いってお膳立てしてやったのに……俺のオネガイを、俺が悪いみたいに一人断るブスがいると、後に響くからなー。アイドルは人生イージーモードだから、アイドルのままでいなきゃいけねーんだよ、こっちは」
にっこりと、人間の形をした悪魔は綺麗に微笑む。
「ま、そーゆー展望? っつか、そーゆー夢があったら、その為の踏み台も必要だよね♪」
「…………」
踏み台になった夢を、抉る言葉が痛い。数時間後を想像し、震える。
飛田は目を伏せて嗤い、足を退場に向けた。彼はきっと『自意識過剰な地雷女に告白して、こっぴどくフラれた傷心の美少年』になるのだろう。自分は悪役で、明日にはおびただしい正義のヒーローに殺される運命。香苗は唇を噛みしめた。
これが踏み台だというのだろうか――――――
「じゃあ、細谷さん、俺は――――」
「いや、素敵な持論だ」
数歩。飛田が離れかけた所に、聞いたような声が背後の教室から飛び出す。はっとして、香苗も飛田も振り返った。引き戸が静かに少しだけ開き、嗤い交じりの声が賞賛を送る。
「夢には誰かの犠牲が伴う。受験だろうが、恋のバトルだろうが、生贄がある夢の方が、そう、喰いでがあるってもんだ」
ガッ、と引き戸が開くと、そこには一人のユメクイがいた。黄色い目に、ギザギザの歯。指定の学ランを纏った男子生徒に、思わず香苗は泣きそうになった。
「ドリー、さ……」
「なんで……」
「あー、来る前に誰かいないかチェックしてたな、お前。悪い悪い。けどな、俺のステーキを台無しにした罪は重いぞ」
パキン、と物騒な音を立てて手首を鳴らすドリーに、飛田が戸惑った顔で逃げ道を探し、走り出しかける。と、ドリーは思い出したように告げた。
「そうだ。殴る前に面白いもんがある! お前にもちょっと聞かせてやる」
「聞――――……ッ!?」
ドリーが大きく引き戸を開け放つと、なんでもなかったはずのちっぽけな教室に、放送室よろしくといわんばかりの音響機材がずらりと並んでいた。飛田も、香苗も言葉を失った。
「なんで、ここに、こんなものが……」
困惑する飛田に向かって、ドリーが照明の光でギラギラと輝く爪をくねらせ、楽しそうに機材を指し示す。
「おや、こんなところにマイクが? おやぁああ? あんなところにレコーダーが? おやあああああああああ?あんなところに放送機材がぁ?」
「……まさか……お前……」
「ネタバレ禁止だ、クソ野郎」
ごちゃごちゃした機材の電源のひとつを起こした途端、全校に『ファン』という高い音が走った。真っ青な顔の飛田を差し置いて、ドリーが別のマイクを手に取る。
「えー、本日は校内放送をお聞きの皆様に、飛田陽平から細谷香苗への素敵な告白シーンをお送りいたシマス」
唖然とする香苗の隣を、飛田が突っ切り、マイクスタンドを手に取った。金属バットのような持ち方に気付いて、香苗が止める前に、大きく振りかぶる。
嫌な金属音が2階に響き、スタンドを下に避けたドリーの実況が追加される。
「どうも、随分恥ずかしがりの模様デスネ、アイドル様は」
「お前……お前は……ッ!」
血眼になって電源を探すが、さっきドリーが起こしたスイッチがどこにもない。ランプもついていない。
「では、お待ちかねの告白シーンを、お送りシマス。どうぞお聞きクダサイ」
「やめろ!」
また大きく振られたマイクスタンドを、ドリーは手で受け止める。ぴくりとも動かないスタンドに戦慄する飛田を、ドリーは笑いながら、一歩一歩壁に追い詰めて行った。
「お前の言い分ももっともだ。俺のステーキが食いたいって夢にも踏み台が必要でよぉ、それを台無しにする奴って最低だと思わないか? あん?」
「す……っ、お前……!」
「おい、細谷香苗」
名前を呼ばれ、はっとする。まるで、映画みたいな現実の観客みたいになっていた香苗に、ドリーは呆れたように肩を竦めた。
「折角いい事教えてやるって時に、ぼーっとしてんじゃねえよ、亀女」
「いい……事って……」
「おう、」
恐怖と焦りとのごちゃまぜの感情に飲まれ、もはやアイドルの陰もないような土気色になった飛田の顔に向かってドリーは拳を大きく振りかぶった。
「フツーのユメクイじゃなくても、こいつの夢に消しゴムかけるなんて簡単だってな」
香苗が止める間もなく、恐怖の一色に染まった飛田の顔めがけて、風を切り裂く拳が飛んで行った。
――――バキン――――――
呆気ない、短い、骨が砕けるような音を立てて、教室の壁がわずかに崩れた。
至近距離を過ぎた、凶器のような拳の恐怖に、飛田は、ずるずると壁に背を伝わせた。白目を剥いて気絶している飛田も何もかも、さっき言われた言葉まで、全部ひどい夢のようで香苗は涙も伝っていない頬を小さくつねった。
「夢じゃねえよ」
意地悪なユメクイが、機械を弄る。すると、全校のスピーカーから、アイドルだった男の声と自分の声が聞こえてきた。
『早いね』
『ひ、飛田君こそ……』
(ああ――――――――)
現実だったのか、と、香苗はようやく認識した。
屋上まで届いてきた、大きく、醜い夢が消えたエネルギーを口にし、メアはひと呼吸置いた。傲慢と自意識と嫉妬と蔑みに満ちた、酷く不味い夢だった。自分にはちょうどいい。そう思いながら、メアは青い光をまた食べた。
(きっと……エンジェルの計画が上手く行ったんだな……)
流石だ、と心から尊敬し、感謝していると、ようやく意識がはっきりして、周りの物がよく見え、聞こえてくる。そこで、耳を疑った。スピーカーが、香苗の声を流しているのに気付いた時だった。
『ありがとう……でも、ごめんなさい』
掠れるような香苗の声の後に、大きな間があいて――――――
『勘違いすんなよ、ブス』
また耳を疑った。確かに、低い声で言われたその声は、もう一人の男の声だったはず――――なのに、まるでまったくの別人。
『わかった……ごめんね、細谷さん』
『飛田……君……?』
『もう、近づかないよ』
『……飛田君、待って……ひどい……』
『……みんなそう言うんだけど、何? お前らも俺が飽きるまでの一瞬でも、いい夢が見れて嬉しいだろ?』
『だって――――』
スピーカーの声が止まない内に、屋上の扉が開く。悄然とした顔の幽霊のような香苗に、メアが立ち上がる。
「君は……」
『可愛いってお膳立てしてやったのに……俺のオネガイを、俺が悪いみたいに一人断るブスがいると、後に響くからなー。アイドルは人生イージーモードだから、アイドルのままでいなきゃいけねーんだよ、こっちは。ま、そーゆー展望? っつか、そーゆー夢があったら、その為の踏み台も必要だよね♪』
『…………』
『じゃあ、細谷さん、俺は――――』
ブヅッ、と校内放送はそこで途切れた。
校舎では誰もかれもがざわめきを隠せない。屋上にも少し聞こえてくるが、きっとここでない場所よりは静かなはず。
確かに、屋上は静かだった。何のしがらみもない、緩い雲は自分を見下し、嘲るように空を泳ぐ。小さな子供の姿をしたメアが、おそるおそる近づいてきた。
「君は……私は……」
「メアさん……」
自分の中の、偶像が音を立てて崩れる。それと一緒に、ずっと大切に抱いていた夢も、泡のように消えてなくなる。届きかけた夢は、人間を嘲って崖の底に突き落とす。そこには踏み台になった絶望しかなかった。
目を閉じると、自分の体から、するり、と夢が抜けていくのがわかる。驚き、慌てるメアに向かって、香苗は呟いた。
「食べてください」
「え?」
「ドリーさんが言っていたことが本当なら……私の夢はステーキなんでしょう? 飛田君の夢が美味しくなかったなら、お口直しになると思います……」
「だって、君は――――」
「お願いです」
ぐ、と手の甲で目頭を覆うと、夢と一緒に涙が伝った。
「食べてください。夢を。全部。跡形もなく」
息を飲んで、唾を飲んで、嗚咽を飲んで、絶望ごと、全部、と言う。
メアは少しためらった後に、香苗の体から零れる、赤い色を指先ですくった。ドリーの言っていたように、極上の夢の香りがする。メアは息を吐き、大きく呼吸するように夢を吸い込んだ。
夢が口の中に入って来ると、長い間ずっと忘れていた、とびきり上等な夢の味が広がる。恋の味はチョコレートのように甘く、叶わない夢を追う悲しさはカカオのように苦く、青春の憧憬はオレンジのように爽やかで、僅かに酸っぱい。すべての味が絶妙に絡み、誰にも作り出せないひとつの夢を織りなしていた。
気付くと、夢は喉を過ぎ、その場からも消えていた。
溺れて力尽きたように、香苗の体から力が抜け、その場に倒れかける。慌てて支えようとしたメアよりも前に、扉の向こうから別の誰かが現れ、香苗を支えた。
「……んだ、お前かよ。ったく、俺のステーキ喰いやがって」
「あ……ご、ごめん……」
「まあ、俺はまだ足りてるから、許してやる」
ドリーはぼんやりしている香苗を支え、ため息を吐いた。
「あ……どりー……さん」
「俺の言う事を無視しやがって。まあ、メアの方が優先だったから正解だ」
「……ごめん、なさい……」
漂う様な香苗の言葉の合間に、しゃっくりが飛び始める。
「私……私……」
「…………ったく」
壁を背に、一緒に座り込む。香苗が肩にもたれるのも少し不愉快そうな顔をするだけで赦し、ドリーは頬杖をついた。
「人間ってのは、めんどくせえな」
「……そうだね、ドリー……私のエンジェル」
そう言いながらも、ドリーは服が香苗の涙で濡れても、文句を言う事はなかった。
「A組の飛田君、転校するんだって?」
「え、今更ぁ?」
「当たり前っしょ。流石にあれは……ねえ?」
「つか、今まで付き合った子、超カワイソー。あれ、結局飛田君がみんなフッてたってことでしょ? やばくない?」
「いくらイケメンでも、あれは引くわー」
「っつかさぁ、そう思うとB組の原君、イケメンなのに、優しいし、」
「言うてさ、飛田君だってそう言われてたじゃん?」
「結局付き合ってみないとわかんねーの。非リアにはわかんないよね?」
「表出ろよ、オラ」
などなどと。
女の子の会話としては、幾分か物騒で荒っぽいものが廊下の四方八方から聞こえる。黒髪の目立たない女生徒は、先週作った『放送室』がちゃんと消えているか、様子を見てきたところだった。あそこまでしっかりした機材のあるユメクイの巣を作り、しかも全校のスピーカーと繋げるともなると、かなり複雑な工程が必要で、同じように、消すのもひと苦労だった。しかも、頭に血が昇っていたとはいえ、ここまで人通りが多い所に作ってしまったのは失敗だった。そのせいで先週からちらほら現れたり消えたりするあの『放送室』は、飛田の嘘を暴いた『閻魔様の放送室』と、一部ではオカルト扱いされている始末である。
正門よりもずっと人目が少ない西側の門から出て、女生徒は大きく伸びをした。誰もいないのを確認して、ドリーはいつものカジュアルかつロックな服装の青年の姿に戻る。
(結局、あいつもいなかったな)
ふと、歩き出しながら、ドリーはそう思った。
数日間、放課後にはしばしば『放送室』の始末に通っていたが、その間ずっと香苗の姿は見られなかった。今日だってそうだ。艶のあるセミロングの黒髪に、校則通りの制服と、日本人らしい薄い顔立ちに、さえない表情。全部揃っているのをしばらく見ていない。
だからといって、どうというわけではないが――――――
(……帰ったら、考えるか)
運よく今回はなんとか、自分もメアも無事に夢を食べて命を繋ぐことが出来たが、美味い夢を抱き、それを実現する事が難しい現代だ。突発的とはいえ、始めた夢喰い屋をなんとか軌道に乗せないといけない。だが、今までの客は、一カ月と少しで冷やかしが3人と細谷香苗だけだ。このペースだと自分の足で探しまわって、死に物狂いで動かない限り、生きていくのさえ大変そうだ。
駅前の、ユメクイの餌となる人間にしか見えないドアと看板を睨みつけながら、ドリーは鼻を鳴らした。これからの苦労を考えると、気が重い。気と一緒に重いドアを開け、小さく呟いた。
「帰ったぞ、メア。あの『放送室』は――――――」
そこまで言って、ドリーは部屋の異変に気付いた。いつぞやの過剰装飾から脱却してなお、少しアンティーク風味な家具の趣味。本棚に並んだ、わけのわからない雑学書と生物書と小説の山。この空間が、誰に媚を売っているか、ドリーにはすぐわかった。
何か言う前に、相手の方が早く、ドリーが帰ってきたのに気付く。
「ドリーさん!」
「おかえり、私のエンジェル……」
窓際のテーブルで談笑していたらしい、ソファから立ち上がった香苗とメアに、ドリーは眉間に深々と皺を刻んだ。
「どういう、事だ、お前ら。今すぐ十文字以内で答えろ」
「じゅ、じゅう!? え、ええっと……そのぅ……」
メアが大きい体を縮こまらせて困っている間に、香苗が立ち上がって、言う。
「お礼に、来たんです」
「はあ?」
確かに十文字に収まっていたが、満足のいく答えにはなっていなかったらしい。ドリーは表情をますます訝しげにゆがめる。
「どういう事だ、そいつは」
「二人のおかげで、私、二回も救われました。飛田君の事も、麗亜の事も……ちょっとでもお礼がしたくって……」
「どうしてもって言うなら、夢で返せ。もっとも、お前にはもう俺を満足させるような夢はないみたいだがな」
ひく、と鼻に神経を集中させても、もう香苗からは、ステーキのような上質な夢の香りはおろか、食欲をそそる香りは一切しない。
「食い物も出さない人間に興味はない。礼なんかどうでもいい。邪魔だからさっさと帰れ」
「ドリー、その……私の女神にだって色々と思い巡らせたところが……」
「このちんちくりんな色ボケが女神だっつーなら、イワシの頭だって神になれるぞ、バカ」
「誰がイワシの頭ですかっ……ちゃんと聞いてくださいよ、私だって……そ、そう、メアさんの言う通り、思い巡らせたところがあるんですから」
「素晴らしい……香苗、私の女神……」
「ほー? 言ってみろ」
乱暴に椅子に腰かけ、横柄な態度で目の前にいられると、用意していた台詞があらかた溶けてしまって困った。目を泳がせながら、香苗はぽそぽそと呟いた。
「……こ、ここで二人の……お手伝いをしようかと……」
「ああ?」
「人間相手の……その、お仕事? ですし……やっぱり、私みたいな、ちゃんとした……人間? がいた方が、捗るんじゃないかな……ってその……迷惑だったら、貯金で何か御馳走します……から。あ、でも普通に人間の食べ物も……いけるんですか……?」
ここ一週間、体調を崩し、自宅で養生している間、ずっと考えていたアイディアは、メアの前で言った時はとにかく感動して喜んでくれたから、実際にいい考えだと思えたが、いざ贔屓目のないドリーの前に出すと、一秒に一本くらいの割合で増えていく眉間の皺の前に、あまりにも儚いこのアイディアは今にも吹き飛ばされそうだ。
自信なく、最後は適当に出来そうなことを付け足し、ちらりとドリーの顔色を伺う。青くも赤くも白くもない、眉間に皺が寄っているだけで、何を考えているかも読めない表情は、いっそひと目で怒っているとわかるくらいの方がいいと思ってしまうものだ。
「あのな、お前みたいなただの人間が、ここで何をするってんだ。アホか」
「ざっ、雑用……でも……」
「雑用? そりゃまた随分ご立派だな。まあ、そんなご立派なお仕事はどこでも出来る。さっさとどっか行っちまえ。ユメクイはお前が考えているようなファンシーな連中じゃねえんだよ」
「どの口がファンシーなんて言うんですか……」
「あん?」
「いやっ、その……」
「わかったらとっとと帰れ。俺は夢探しに忙しいんだ、この暇人」
「…………すみません」
小さな謝罪もまったく聞こえていないように、ドリーはのそのそと階段に向かう。
「ど、ドリー……私のエンジェル……」
「いいんです、私が図々しいだけでした……」
床に置きっぱなしにしていた鞄を取って、香苗はメアに笑いかけた。無理やりすぎる笑顔に、メアの表情は暗くなる一方だ。
「ありがとうございます」
「ああ……すまない……香苗、私の女神……」
「それやめてくださいよ……」
香苗はそう言ってから、もうここに来ることもないと気付いて、やたらと沈んだ。
先週までは、金輪際関わりたくない、なんて思っていたユメクイに対して、なんて変わり身の早い心なのだと痛感する。しかし、現実では手が届きそうで手が届かない『夢』というものに対して、当の人間以上に、これほどまでに熱心な彼らは―――――彼らは―――――
ドアノブに手をかけ、香苗はメアに手を振った。
「じゃあ、これで」
「また……その……夢を抱いたら……」
名残惜しそうに、思いついた言葉を選んでは言うメアに微笑みかけ、香苗は背を向けた。
(あーあ……)
ちっぽけな勇気も手に入れたはずなのに。
(もっと、知りたかったな―――――――)
あなた達の事―――――
その次の瞬間、何が起こったか、ちょっとわからなかった。
気が付くと世界はひっくり返っていて、目の前にあったはずのドアノブが、天井に吊るされている電灯に早変わりした。視界に対する暴力じみた衝撃と一緒に、こちらは暴力そのものと言える衝撃が、香苗の背中を襲った。
「いった……!?」
「ドリー!?」
メアの絶叫に、ぱしぱしと明滅する世界の隙間から、真っ黒なユメクイを見つける事が出来た。やたらと足が長く見えるドリーとメアのアングルに、自分がひっくり返っているとようやく理解した。肩辺りの痛みもズキズキとやってきて、突き飛ばされた、という答えをなんとか導き出す。ふらふらしながら起き上がると、ドリーが屈んで視線を合わせてきた。
その顔は、先週までの綱渡りみたいな危うさを思い出させる、悪魔の笑顔。
「……マグロだ」
「は……い……?」
「今の段階では全然食えそうにないが、美味そうな匂いがするじゃねえか……溢れる好奇心が染みた渇望なのに、新しい物を求める心意気の新鮮さ。先を見据える展望。甘い……奉仕? わかんねえな。とにかく! 先週のお前をステーキに例えるなら、今のお前は極上のマグロの稚魚だ……」
ぐちっとした舌が下品に覗くドリーの口に、香苗は自分の浅はかさを必死になって後悔した。ドリーはさっきまで香苗が座っていたソファにふんぞりかえり、偉そうに言う。
「細谷香苗、朗報だ。バイトとしてお前を雇ってやる」
「え……」
「……まさか……」
メアが怖々と、香苗が聞きたくなかった続きを煽る。にこやかな黒い笑みで、ドリーは告げた。
「そう……俺とメアの非常食としてな! はははははははは! 立派な中トロになれ!」
「は……はぁあああ!? そんな役職聞いたことありませんよ!」
「ああん? 何度も言うが、別にお前に害はないだろうが!」
「そういう問題じゃありませんよぉおおお!」
「そもそもお前が先に、手伝いたいとかぬかしてたろうが!」
「そうですけど……そうですけどぉ!」
「…………あはは……」
ドリーの強情さはずっと前から、香苗の流されやすさはちょっと前から知っているメアには、その先が手に取るようにわかった。
(……これから大変そうだなあ……)
ぎゃあぎゃあと騒いでいる二人を暴風圏外から眺め、メアは香苗の時給とシフトについて考え始めていた。
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