ユメクイ
【3】
仕事
【3】
「あら香苗、どこ行くのー?」
間延びした母の声に呼び止められ、香苗はびくりと靴紐を結ぶ手を止めた。
「え……えっと……ともだちんち……」
「あ、そうなの? 最近土日も友達と遊ぶとかなかったから、ちょっと心配だったのよ?」
ふふふ、と上機嫌に笑う母に、本当の事はとても話せそうにない。一人娘として、この心配性な母の性格は十分すぎる程理解していた。
「じゃ、じゃあ……いってきまーす……」
「はいはーい」
いってらっしゃい、と洗濯かごを持ったまま、明るく手を振る母親に、心の中で手を合わせた。
今から人外の上司の元で、アルバイトだ。
焦燥とした一人の人間の背中を見送り、メアはやるせない気持ちのまま夢を咀嚼していた。ドリーは椅子の足2本をギチギチと虐めるようにふんぞり返って座りながら、不機嫌そうにぼやいた。
「なんつー夢だ。『カンニングにバレないようにしたい』とか、シケてる上に低俗とか、クソ程の価値もないな、クソッ」
この前の気の重さなんてすっかり忘れ、棚から適当な漫画を取ってページを開き始めたドリーに、メアはぽそぽそと呟いた。
「私は……その……人間がそういう夢を持ってくれてありがたいよ……君には申し訳ないけど……」
「だからなあ、そういう夢ばっかじゃ困るんだよ! バカ!」
「それももっともだね、ごめんよ、私のエンジェル……」
いつもの沈みきった声で謝罪し、メアはゴーヤとコーヒーを混ぜた原液カルピスのような味がする口の中にえづく。
と、部屋のドアが静かに開いた。
「こんにちはー……」
「女神!」
「なんだ非常食か」
「だからそれやめてください……」
人外二人に対して同じ言葉しか出ない。職員室であるかの如く、簡素な造りのドアをそっと閉め、香苗は部屋を見渡した。簡素な部屋は全くもって、唯一の人間である香苗にすら媚びようとしていない。媚びる気配すら見えない。
「……私が来た時の方が、絶対良かったのに……」
「生憎、あんな機能美を見出せない空間にはいたくねーよ、クソガキ」
人外の上司もといドリーは漫画のページをペラペラとめくる。
「こっちの方がよっぽどいい」
「あー、ソウデスカ……。……そういえば、さっき、ここから誰か出て行きましたけど……」
「ああ、お客さんだよ……」
「え」
香苗は少しだけ、面食らった。何しろ、この部屋と外を繋ぐドアの存在を、自分とこの二人以外はみんな見えないかのように無視していた。まるで自分の妄想か、それこそ夢幻であるかのようなそのドアを、自分以外にも見える人間が普通にいる事が、やたらと妙に思えた。
若干失礼な響きを含んだ、香苗の『え』にも、メアはいつもの調子で返す。
「そうだね、専ら……その、私が好むような夢の人間が……」
メアの口の端に見えた、不気味な青い糸の様な光。すっ、と冷えた自分の背筋に、香苗は改めて、このユメクイという摩訶不思議で奇妙な生き物の存在を認知する。
夢を喰らい糧とする彼らこそ、その奇妙な生き物、ユメクイだ。前にドリーが言っていたように、メアは徳の低い――――不味い夢ばかりを選別して食べるということは、さっきこの部屋を出て行った誰かは、あまり立派な夢ではなかったらしい。
「ユメクイって……人間の夢しか食べられないんですか?」
「はっきりしていれば、別に人間じゃなくていいんだ……ユメクイの夢は食べられないけど。あと、その、明確な夢じゃないと安定したエネルギーを出さないから……そう、大抵は人間の夢を、食べるよ。私も、ドリーも」
「へえ……」
メアとは全身の色合いも、大きさも、態度も、食べ物の好みでさえもまるっと正反対なもう一人のユメクイは、呑気に二冊目の漫画に手を掛けている。
「……で、ドリーさんは、その、なんでしたっけ?」
「亜種……なんだけど。人間で言うと、なんだろう……ええっと、白子? アルビノみたいな、珍しいユメクイだよ」
アルビノが人間の亜種というのも、なんだかおかしな気がするが、例としてはわかりやすく、香苗に口をはさむ気はなかった。
「亜種、っていっても、夢を食べる点では同じだよ……私とは全然違うけれど……」
「私は、あまりわからないんですけど……いまだに……」
「ええっと、彼は夢が叶ったエネルギーを食べるのだけれど」
それは知っている。麗亜に向かい合った時、ドリーは香苗の夢を食べた。叶ったエネルギーを。
飛田陽平と縁が切れた時、メアは香苗の夢を食べた。消えゆくそのエネルギーを。
「香苗、私の女神、木になっている果物を考えてくれ」
「え? はい」
香苗の頭にぱっと浮かんだのは、綺麗なオレンジだった。
「普通のユメクイは、本当に雑食だ。花でも、芽でも、成った果実でもなんでもいい。木に生えているものを直に取って喰らう。しかし、亜種のユメクイは、成った果実の、本当に熟した一瞬、実を結んで木から落ちてきたものを、受け止め、食べる。そんなものだと考えてくれ……」
「……それって、むちゃくちゃ、ものすごく難しくないですか?」
「私の及ばない頭の出したたとえだから、間が抜けていると思うだろうけど……お、おそらく、当たらずとも遠からずだと思う……夢が叶うその瞬間、私のエンジェルは……狙って生き延びる高尚なユメクイだ。私は待たずに夢の花を、芽を、青い実を刈り取らなければいけない、愚かで非情な存在だよ……」
「いや、そこまで卑下しなくても……」
「香苗……私の女神は、本当に優しい……」
「そ、そういうのじゃなくてですね……」
「お前らも暇だな。頭の悪い会話しかできねえのかよ」
「や、そういうドリーさんは、漫画読んでるだけじゃないですか……」
「ああ?」
じろり、と目つきの悪いユメクイから睨まれ、香苗は慌てて目を逸らした。
ユメクイが人間に擬態している生き物だということも、いまだに変な感じがする。目の前にいるユメクイは、二人とも人間にしか見えない。
ドリーは頬杖をついて不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ま、確かに暇だ。細谷香苗を含めて、一カ月そこらでここに来た人間は、たったの五人だぞ。さっきの奴で六人……しかもみんな、メアの餌だ」
「ああ……ごめんよ、私のエンジェル……」
「……よく六分の一で、体もちますね……」
「お前の夢は、それなりにでかかったからな」
「それに、エネルギー効率は彼ら亜種の方がいいんだ……」
「へえ……」
よくわからない生き物について、よくわからない知識が一方的に増えていく。
「よし、打開策だ。細谷香苗、仮にもここで働くつもりなら、外を出回って夢のありそうな奴を一匹や二匹捕まえて、ここに呼んで来い」
「え、嫌ですよ……」
漫画から目をそらさずに淡々と言うドリーの言いぐさに香苗は眉間に皺を寄せた。思わず口を突いて出た拒否の台詞に、ドリーが傲慢そうな目を向ける。
「どういう事だ、バイトのJK」
「だって、外に行ったらまた誰かにいじめられそうな気がして」
「ああ……香苗、私の女神……その発想にはおこがましいと思うかもしれないが、どうしようもない親近感を覚えてしまうよ……」
「メアの言う通りだ。被害妄想ごっこしてる場合か、お前は」
「レベルが高い皮肉を言いますね……」
「ああ、私のエンジェル……君の皮肉や嫌味は天下一品だよ」
「や、メアさんも相当ですけどね?」
「失礼かと思うが、私の女神。それについては否定させてもらいたい……私は卑小さと下劣さと愚かさ以外では永遠に、私のエンジェルに勝る事はできない……絶対に……」
「何があなたをそこまで卑屈にさせるんですか」
「私は元々こういう性格で……それに私の感じ得ることは事実であり、私はありのままの事実を受け入れて、世界の支障として最小限に生きるべく……」
「オイ、」
苛立ったドリーの声が聞こえ、二人が会話するのを止めた時だった。勢いよく開いたドアが、二人の背後に全速力で向かってきた。
「もうちょっと、俺の為になる事をしろ」
傲慢な声がなんとか聞き取れた、と思った時には、駅前自転車置き場の地面が眼前に広がっていた。
通行人がいなくて幸いだった。柱の陰にある扉からひっくり返って飛び出してきた女子高生と巨大な男は、狭いスペースに悲痛な音を立てて転がった。
「あああああ……すまない、私の女神……!」
メアは自分の片腕の下敷きになっていた香苗に気付くや否や、姿勢を正して跪いた。凄まじい謝罪が飛んでくる前に、香苗もふらふらと起き上がって、片手でそれを制する。
「……ユメクイって、魔法使いなんですか……?」
「え、ええ? いや、魔法使いではない……けれど……」
「なんなんですか、あの動く扉はっ! ジ●リのどこぞの動く城であんなシーン観ましたよ! いい勝負ですよ!」
「私たちが作った空間は……夢は……私たちが自在に操れるから……」
「……私から言わせてもらえば、魔法みたいなもんですよ……」
服についた埃を払いながら、香苗は肩を落とした。
「ドリーさんの言う通り、仕事しますか……」
「いいのかい?」
「今戻っても、火に油ですよ」
簡単に見つかる気がしないが、あの空間であのユメクイに睨まれているよりはいい。
「こうなったら、ドリーさんが参ったって言うくらいに、素敵な夢を見つけましょう!」
「ああ……私の女神……初めて会った時よりも更に神々しい……私は女神の隣に並べる程の存在ではないから、せめて君の二十歩後ろから……」
「メアさん、」
「なんだい、私の女神?」
「私の隣から離れないでください」
「それは……私にはとても身に余るから……」
「お願いですから」
「それが君の願いと云うのなら……しかし、」
「一生のお願いですから……!」
「お先に失礼します」
暗くちょっと澱んだ声で、十年間お決まりの言葉を言っても、残っている誰もがパソコンや書類と向かい合っていて誰も彼の言葉なんか聞いていない。残業しない事は悪い事、とでも言いたげな数人が一瞥してくるのと目が合えば、聞かれていなかった方がましかとすら思え、そそくさと彼はオフィスを出て行った。
会社から出て、早歩きの五十歩。彼こと剣崎益生は大きなため息を吐いた。スマホに来たメールは、何回見ても文面を変えることはない。思えば十年、あの会社に勤めてきた。新卒の頃の情熱の炎が跡形もなく消えて、早十年。ようやく見えた微かな希望の炎も、さっきのメールで失墜した。街中のショーウィンドウは、行き先の見えそうな不景気な顔と生え際を映す。
(そんなもんだな)
誰も期待なんかしていなかった。自分でさえも、自分に期待していなかった。
信号で足を止め、明滅する青を眺める。来世はその場にいて光るだけで、誰もが足を止めて注目する、信号機になりたい――――くだらない事を思って、またため息を吐いた。
その幾分か後ろから、二人分の影が張り付いているのも知らずに。
「で、メアさん、あの人ですか?」
「そうだね」
メアがストーカーになるのを阻止してから二時間。一番人が集まりそうな街中で、香苗はメア直伝の技術を身につけた、立派なストーカーになっていた。
「香苗……私の女神……差し出がましいようだが、もう少し歩調を緩めないと、気付かれる……と思う」
「ハイ……」
歩調を緩め、香苗は自問した。
何故、こんな街中で、自分は三十代のサラリーマンと思しき男性のストーカーをしているのだろうか。
男が横断歩道で止まったのを機に、香苗は猫背の大男に向かって、囁くように言った。
「本当にあの人、美味しい夢を持ってるんですか」
「私は大概愚かであるけど、その、間違いないはずだよ……」
「で、もうひとつ質問ですが、どうやってあの人をあの巣に引っ張り込むんですか?」
「私は大概愚かであるから…………見当もつかないよ……」
「そこをなんとかしてくださいよ。ユメクイですよねえ……?」
「香苗、私の女神、申し訳ないが……ユメクイは魔法使いではないんだ……」
心苦しそうに言うメアに向かって、それ以上の事は言えなかった。信号が青になり、目的の男は思い悩んだ表情のまま、早歩きを再開させる。香苗もメアも、尾行する足を進めた。
「普段はどうやって、ああいう人達を捕まえるんですか」
「私は、すれ違えば食べられるから……私のエンジェルの方が、得意のはずなのだけれど……」
「肝心な時に……っ!」
今頃あの部屋で呑気に漫画でも読んでいるのだろう。そう思うと、自分たちがドリーの為に奔走している事の馬鹿馬鹿しさが、ニンジンを目の前に吊り下げられた馬の如く加速した。
そもそも人を呼び止めるという能力が、香苗にもメアにも欠如している。『こんにちは。夢を持っていますね? あなたの夢を叶えますので、どうぞついてきてください』という正直な文面を少しでも口にしたら最後、誰だって裸足で逃げ出していくに違いないだろう。
対人についてのいろはを必死になって思い起こそうとしている香苗に向かって、今度はメアが耳打ちした。
「あの……香苗、私の女神」
「はい、なんですか……何かいい案でも?」
「い、いい案ではなくて、申し訳ないのだけど……報告した方が、いいと思って。報告、連絡、相談は基本だと、知り合いに教わったからね……」
「そうですね。それで、内容は?」
「私達の目的が、その、死にそうなんだが……」
「…………は!?」
街中で、細く高い、驚愕の声をあげて前方注目。メアの言う通りだった。さっきまでの香苗以上にぼんやりした例の男は、赤信号すら見えていないのか、完全に無視して渡りかけていた。
「私はどうすれば……助けようかどうしようか……」
「ホウレンソウしてる場合じゃないでしょう! 助けましょうよ!?」
「その後のアフターケアが……」
メアが『ソウ』のくだりを展開している間に、大型のトラックが横断歩道のある角に差し掛かる。
「どうとでもしますから! 人命第一!」
「それなら―――――」
香苗の悲鳴とは対極的に、メアはさっと手をひと振りした。
ドリーが前に、ドス黒い霧のようなものを纏って、服も見た目も変えた。あの時と同じ様に、メアの手は一瞬、白い霧のようなものを纏った。それは薄く濁って、横断歩道の白い所と同じ白さになる。
「ほら、」
我に返って、トラックのクラクションが飛んできそうな現状を思い出し、香苗は横断歩道に目を走らせた。しかし、そこにはまっすぐ起立した赤信号と、シマシマの横断歩道が横たわっている、何の変哲もない交差点しかない。男の姿は影も形もなかった。
信号は青になり、安っぽい音で『故郷の空』を流す。人の波は何も気にせずに、横断歩道を行く。数人、ちらほらと周りを見回す通行人がいて、さっきの男の存在が消えたのでは、という香苗の不安を少しだけ晴らした。
「……何やったんですか……?」
ドリーやメアと一緒にいる機会が多くなって、こういう人智の及ばない事には慣れたと思っていたが、まだまだ自分が甘かった。理解が到底追いつかないような事が起こると、決まって香苗の脳は認識するのを面倒くさがるが、そんな場合ではない。
小声で問い詰めると、メアはあたふたと視線を泳がせて弁解した。
「え、えっと、交差点の地下にユメクイの巣を作って……横断歩道に入口を一瞬開いて、落としたのだけれど……悪かったのなら、申し訳ない。駄目だったかい、女神?」
「なんかもう……」
彼らの事は、ニアイコール魔法使いということにした。
言葉にすらないもやもやを持て余しながらも、香苗とメアは例の横断歩道まで進んだ。横断歩道は何の変哲もない普通の白線の集合で、ここにユメクイの巣が広がっているなんて思えない。
「どうやって、あの人に会うんですか?」
「入口を適当に開いて繋げばいいよ……どこがいいかい?」
「入りやすければどこでも」
一般的な会話にはどもりが目立つくせに、メアはユメクイの関わる事には自信があるのか、すいすいと答える。香苗は眉間に皺を寄せて、きょろきょろと人目がない所を探した。少なくとも、大男と女子高生がいっぺんにいなくなってもわからないような所。
すぐ傍の不透明な銀行の自動ドアが目につき、香苗は頷いた。
「出来るなら、あの自動ドアを」
「お安い御用だよ、香苗、私の女神……」
「でも、私達以外は大丈夫なんですか? 巣に入りませんよね? そもそも、私にとって安全ですよね?」
「ああ、私の女神に害が及ぶなんて、私自身が許せないよ……。そして、誰かが来ないかと心配なら、入口をすぐに塞げばいい……と、思う」
最後だけちょっと自信なさげに付け足すのに一抹の不安を覚えたが、香苗が躊躇する前に、メアは手を振って白い霧を出す。霧は香苗とメアと自動ドアをうっすらと包み込んだ。
「じゃあ、彼の事は君に任せてもいいのかい……? 私の女神……」
「いざとなったら、メアさんの魔法を頼りにしていますから」
「わ、私のこれは魔法ではないのだけれど……君達人間で言えばエネルギーを使って足を動かしているくらいの説明で済む事かと推察されていて……」
「魔法です」
少なくとも、一般常識のある人間にとっては。これ以上メアにうんちくをたれられる前に、香苗はすっと開いた自動ドアに身を預けた。
開いたドアに、どうにも奇妙な、なんとも言い難い感覚が走った――――わけではない。実際にあの駅の柱にある『夢喰い屋』と同じようなもので、銀行のドアは当たり前のように、メアが作った巣に二人を運んだ。
足を踏み入れると、とても銀行とは思えないような、ただ広いだけの白い部屋に、メアと、香苗と、その男はいた。四角く、白い壁に囲まれたその広い部屋は、数時間いたら気がおかしくなりそうな場所、と思える程に現実離れしていて、香苗は少し身震いした。
そんな香苗以上に身震いしているのが、件の男である。サラリーマンが持っていそうな、ありふれたビジネスバッグを白い床に取り落していて、ふいに現れた香苗とメアを、きょとんと見つめている。少し白髪が入った髪の毛も、ひげ剃りの跡のある顎も、黒縁の眼鏡も、灰色のスーツも、どこからどこまでもありふれていて、特徴なんかどこにもなくって、すぐに記憶のどこかに消えてしまいそうな、そんな男だった。
「私は……俺は」
言葉の出し方にすら迷っている風に、男の方から口を開いた。
「夢を見ているのかい?」
「あ、えっとー」
もっともな質問がきた。このもっともな質問に対しての答えも、香苗は用意していなかった。男の安否を心配し過ぎた、とちょっと後悔しながら、ぐるぐると思考を纏める。
夢だ、と答えてしまっては話が進まない。逆に夢でない、と答えてしまっては更なる説明に困る。真正直に『あなたの持っている夢を、ユメクイという生き物が食べたがっています。上司なんです。なので私達と一緒に行って、食べられてください』と言ってはいそうですかなどと言える人間なんて、何十億人中の一握りだっていないだろう。
「わた、わ……私、細谷って言います」
「は?」
「ちょっと用事があって無理やり……その、呼び止めてしまって、すみません。あの、轢かれそうでしたし……」
申し訳程度に最後のひと言を付け足すと、男は目をぱしぱしさせて、思い出す。
「……ぁああ! 俺は……もしかして君達は―――――」
「その、ごめんなさ――――」
男の目の焦点が自分に定まり、香苗の姿勢が固まった。だが、反射的に怒られると思った香苗の思考とは裏腹に、彼の目は輝く。
「――――やった……」
「……え?」
長年のいじめられ歴が培った怒号に備えた反射は、おそるおそるその緊張を解いた。瞑っていた目を開くと、十歳若返ったかのような、生気に満ちた目と目が合った。
「こんな幸運……なんて……」
「……女神、彼は何を……」
「えっとぉ……」
「命を救ってもらったようで、こんな頼みをするのもなんだが……すまないけれど、」
目の前にもう一人、メアがいる。今にも跪きそうなその男に、香苗は二度目の反射的思考をした。だが、彼は、喜ばしい事に跪かなかった。が、身をかがめ、香苗の目を瞬かせる言葉を吐き出す。
「俺に、君たちのマジックを、教えてくれ……」
「…………はぃ?」
香苗の素っ頓狂な声にも、男の願い事にも、メアは傍らでひたすらおろおろするのが仕事であるかのようだった。
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