碧ちゃんの話
9
「そう言えば他にもさぁ……」
ひとつだけだった筈では、と思ったが黙って頷いた。
このメイドさんが『お嬢様』の事を嬉しそうに話す姿は、微笑ましくて見ていて飽きない。
話を続けようとメイドさんが声を出しかけたところで、通りの方からワッと歓声が響いた。
何事かと視線をメイドさんからその背後へと移す。歓声の後を追う様に、幾人かの子供たちがこの路地に駆け込んで来るところだった。
追いかけっこでもしているのか、それともこの年頃特有の溢れ出さんばかりに有り余った体力が、子供達を真夜中の猫にしてしまったのかはわからないが、こんな狭い裏路地だというのにまるで草原を駆けているのかの様な勢いだった。
多分、いつもこの辺りで遊んでいる子供達だろう。ひとりひとり見分けてなどいないが、いつも見かけているのである程度の見覚えはある。
何しろ、部屋の窓を開ければ毎日の様に、前の通りではしゃぎ回るその姿が見えるのだから。
ぶつからないようにメイドさんと二人で端に避ける。子供たちはその脇をすり抜けて去って行く。
……と思ったのだが、最後尾を駆けていた子供が二、三歩過ぎたところで立ち止まった。そのまま、トットッと後ろ歩きで戻って来る。
「あれ、妙じゃん?」
くるりと軽やかに振り返り、被った野球帽をくいと直しながらその子供がそう言った。
多分小学生、十歳かその少し上くらいだろう。薄暗い路地裏だというのに生き生きとした表情が見えて、人生を謳歌しているのだろうという事が見て取れた。
「緑さん……」
僅かに眉を顰めながら、メイドさんがそう呟いた。
その表情は、先程までの荒っぽいけれど愛嬌のある、あの表情ではなくなっていた。
「どしたのこんなとこで? ……ああ、デートかぁ。こんなとこでねぇ」
緑と呼ばれたその子はにやりと笑った。
「違います。断じて」
きっぱりと言い切る。まぁその通りなのだけれど。
「だったらさ、オレとデートしようぜ。良いとこ知ってんだ」
「お断りします」
取り付く島もないとはこのことだろう。
「もう少しオレに優しくしてくれても良くない? いっそご主人様ーって呼んでくれてもいいんだぜ?」
余りに冷たくされ過ぎて、多分もうこうなったら当たって砕けろとかそういう気分なのだろう。冗談めかしてそう言う。
「何度も言っておりますが、私は碧お嬢様個人のメイドです。お給金もお嬢様から頂いております。ですから私は小岩井家のメイドではありませんし、ましてやあなたのメイドでもありません。勿論お嬢様にも関わり、私自身お世話になっている小岩井の家の仕事はいたしますし、お嬢様の保護者である桜子様には相応の敬意を払っておりますが、お嬢様のご家族でしかない方にはそれなり以上の対応をするつもりはありません」
わざわざ『家族』という言い方をしたという事は、緑個人に思うところがあるからではない、ということなのだろう。
というか、多分その『家族』には千恵理も含まれるのだと思う。
「これだよ」
緑はこちらに向かって、苦笑して肩をすくめて見せた。
まぁ、そういう人なのだろうな、とは思っていた。
「ま、いいや。オレの好みは守ってあげたくなるような可憐な女の子だし。妙はちょっとキツ過ぎて好みから外れてるし」
だったら放っておいてあげればいいのに。
まぁ、これがこの二人のコミュニケーションなのだろう。これはこれでいいコンビなのかもしれない。
「おっと、オレ、もう行かないと」
そう言う緑の視線を追うと、先に掛けて行っていた筈の子供達が路地の奥の方からこちらを窺っていた。
緑が追いついてこないのを訝しんで待っているらしい。
「妙、今の話は後で聞くからな。その兄ちゃんの事とかさ。兄ちゃんも、また!」
後ろ歩きで駆けながらそう叫ぶと、緑は待っていた子供たちに速足で追いつき、そこからはもうまさに脱兎のごとく走り去って行った。
「……全く、あの人は」
メイドさんが溜息を吐いた。
緑はもういなくなったのだが、彼女はまだ昨日見た、あの澄ました良家のメイド然とした姿のままだった。
流石に気を抜き過ぎたと思ったのだろう。ツンツンとしているのにどこか気安い、あの態度には戻らない。
「……何故私はお嬢様との想い出を貴方に話しているのですか?」
何故と言われても。
ただ思うに、このメイドさんはずっとお嬢様の話を……自慢をしたくて仕方がなかったのだろう。
だが知り合い相手にそれをするのは憚られる。だからと言って『お嬢様』のことを知らない相手にしても仕方がない。
そこに、自分の今後の人生に一切関わることがないであろうに、ただお嬢様のことだけは知っているという、都合のいい相手が現れた。
つまり自分は、王様の秘密を喋りたくて堪らない床屋の前にあいていた、穴だったのだろう。
「……まぁ、良いです。私はこれで行きますが、長々とすみませんでした。では」
メイドさんは、そう言って深々と頭を下げた。
必要以上に丁寧なのは、お嬢様の自慢話をしてしまったことを黙っていてくれというお願いも含めてのことなのだろう。
勿論床屋の穴ではない自分はそんなことを言いふらす気はないし、万が一したとしても、それがこのメイドさんの知人の耳に入るような繋がりもあるとは思えない。
「はい。それでは」
だから自分も、わかりましたという意味も含めて、それに合わせて丁寧に頭を下げた。
しばらくその姿勢のままでいたメイドさんが頭を上げ、踵を返す。
が、何故か立ち去ろうとはせず、そのまま止まった。
どうしたのだろう、と訝しみ始めた頃、
「忘れるところでした。これを」
振り向きざまそう言って、こちらに向かってビニール袋を差し出した。
忘れるも何も、今、どこに仕舞っていたわけでもなく手に持っていた筈……とは言わなかった。多分、何か理由があるのだろう。
受け取り、透明な袋の中身を確認する。
ガーゼに傷用のテープ、薬のチューブ。今、この右腕の傷の手当に使った治療道具だった。
「きちんと自分で手当てしてください。まさか私が毎日して差し上げる訳にもいきませんので。本当は朝と一日二回するべきなのですが、どうせしないでしょうから入浴の後に一日一回、必ずするように」
びっ、と指を突きつけてそう言い放つ。
うん、まぁ自分の事を心配して言ってくれているのだという事はわかっている。
それはありがたいし嬉しい。だが、わざわざそこまでするような傷ではないのだから、手を煩わせる……というかこんなものを貰うのは申し訳ない。
「でも、」
「わかりましたね?」
言い返そうとしたのだが、それを予測していたのだろう。
自分がそう言うよりも早く、ビニール袋を見ていた顔をメイドさんの方へと上げきるよりも早く、その当人にメンチを切って脅された。
鼻先が触れそうな距離で。
「……はい。ありがとうございます」
その圧迫感が余りにも酷すぎて、ただ頷いた。
釈然としない物を感じながらも、礼だけは言っておく。心配して貰ったし、物まで貰ったのだから当然のこと。
その言葉と共に漏れた息が、メイドさんの顔に掛かっていたと思う。彼女のそれもそうだったから。
「よろしい」
満足気に頷くと、姿勢を正してからもう一度、今度は軽く会釈をしてメイドさんは再び踵を返し、歩き出した。
だがすぐに立ち止まり、
「もう一度言っておきますが、お嬢様に近付いたりしないように」
そう言い置いて表通りの方へと向き直り、
「探しても校外学習でしばらくはこの街にいませんから無駄です」
再び振り向いてそう言った。
こちらが頷くのを確認してから、今度こそ去って行く。
わざわざ立ち止まってまで近づくなと言いつつ、にも拘らず親切に予定を教えてくれる。
本当に良い娘だ。
そして最初の印象よりも、随分と可愛い人だった。勿論、素のあの姿も含めて。
あれだけ優しいこの人にあれだけ慕われているのだ。
昨日のあの少女も、昨日ちらと見ただけのあの印象なんかよりもずっと素晴らしい人なのに違いないと、何故かとても嬉しくなった。
ひとつだけだった筈では、と思ったが黙って頷いた。
このメイドさんが『お嬢様』の事を嬉しそうに話す姿は、微笑ましくて見ていて飽きない。
話を続けようとメイドさんが声を出しかけたところで、通りの方からワッと歓声が響いた。
何事かと視線をメイドさんからその背後へと移す。歓声の後を追う様に、幾人かの子供たちがこの路地に駆け込んで来るところだった。
追いかけっこでもしているのか、それともこの年頃特有の溢れ出さんばかりに有り余った体力が、子供達を真夜中の猫にしてしまったのかはわからないが、こんな狭い裏路地だというのにまるで草原を駆けているのかの様な勢いだった。
多分、いつもこの辺りで遊んでいる子供達だろう。ひとりひとり見分けてなどいないが、いつも見かけているのである程度の見覚えはある。
何しろ、部屋の窓を開ければ毎日の様に、前の通りではしゃぎ回るその姿が見えるのだから。
ぶつからないようにメイドさんと二人で端に避ける。子供たちはその脇をすり抜けて去って行く。
……と思ったのだが、最後尾を駆けていた子供が二、三歩過ぎたところで立ち止まった。そのまま、トットッと後ろ歩きで戻って来る。
「あれ、妙じゃん?」
くるりと軽やかに振り返り、被った野球帽をくいと直しながらその子供がそう言った。
多分小学生、十歳かその少し上くらいだろう。薄暗い路地裏だというのに生き生きとした表情が見えて、人生を謳歌しているのだろうという事が見て取れた。
「緑さん……」
僅かに眉を顰めながら、メイドさんがそう呟いた。
その表情は、先程までの荒っぽいけれど愛嬌のある、あの表情ではなくなっていた。
「どしたのこんなとこで? ……ああ、デートかぁ。こんなとこでねぇ」
緑と呼ばれたその子はにやりと笑った。
「違います。断じて」
きっぱりと言い切る。まぁその通りなのだけれど。
「だったらさ、オレとデートしようぜ。良いとこ知ってんだ」
「お断りします」
取り付く島もないとはこのことだろう。
「もう少しオレに優しくしてくれても良くない? いっそご主人様ーって呼んでくれてもいいんだぜ?」
余りに冷たくされ過ぎて、多分もうこうなったら当たって砕けろとかそういう気分なのだろう。冗談めかしてそう言う。
「何度も言っておりますが、私は碧お嬢様個人のメイドです。お給金もお嬢様から頂いております。ですから私は小岩井家のメイドではありませんし、ましてやあなたのメイドでもありません。勿論お嬢様にも関わり、私自身お世話になっている小岩井の家の仕事はいたしますし、お嬢様の保護者である桜子様には相応の敬意を払っておりますが、お嬢様のご家族でしかない方にはそれなり以上の対応をするつもりはありません」
わざわざ『家族』という言い方をしたという事は、緑個人に思うところがあるからではない、ということなのだろう。
というか、多分その『家族』には千恵理も含まれるのだと思う。
「これだよ」
緑はこちらに向かって、苦笑して肩をすくめて見せた。
まぁ、そういう人なのだろうな、とは思っていた。
「ま、いいや。オレの好みは守ってあげたくなるような可憐な女の子だし。妙はちょっとキツ過ぎて好みから外れてるし」
だったら放っておいてあげればいいのに。
まぁ、これがこの二人のコミュニケーションなのだろう。これはこれでいいコンビなのかもしれない。
「おっと、オレ、もう行かないと」
そう言う緑の視線を追うと、先に掛けて行っていた筈の子供達が路地の奥の方からこちらを窺っていた。
緑が追いついてこないのを訝しんで待っているらしい。
「妙、今の話は後で聞くからな。その兄ちゃんの事とかさ。兄ちゃんも、また!」
後ろ歩きで駆けながらそう叫ぶと、緑は待っていた子供たちに速足で追いつき、そこからはもうまさに脱兎のごとく走り去って行った。
「……全く、あの人は」
メイドさんが溜息を吐いた。
緑はもういなくなったのだが、彼女はまだ昨日見た、あの澄ました良家のメイド然とした姿のままだった。
流石に気を抜き過ぎたと思ったのだろう。ツンツンとしているのにどこか気安い、あの態度には戻らない。
「……何故私はお嬢様との想い出を貴方に話しているのですか?」
何故と言われても。
ただ思うに、このメイドさんはずっとお嬢様の話を……自慢をしたくて仕方がなかったのだろう。
だが知り合い相手にそれをするのは憚られる。だからと言って『お嬢様』のことを知らない相手にしても仕方がない。
そこに、自分の今後の人生に一切関わることがないであろうに、ただお嬢様のことだけは知っているという、都合のいい相手が現れた。
つまり自分は、王様の秘密を喋りたくて堪らない床屋の前にあいていた、穴だったのだろう。
「……まぁ、良いです。私はこれで行きますが、長々とすみませんでした。では」
メイドさんは、そう言って深々と頭を下げた。
必要以上に丁寧なのは、お嬢様の自慢話をしてしまったことを黙っていてくれというお願いも含めてのことなのだろう。
勿論床屋の穴ではない自分はそんなことを言いふらす気はないし、万が一したとしても、それがこのメイドさんの知人の耳に入るような繋がりもあるとは思えない。
「はい。それでは」
だから自分も、わかりましたという意味も含めて、それに合わせて丁寧に頭を下げた。
しばらくその姿勢のままでいたメイドさんが頭を上げ、踵を返す。
が、何故か立ち去ろうとはせず、そのまま止まった。
どうしたのだろう、と訝しみ始めた頃、
「忘れるところでした。これを」
振り向きざまそう言って、こちらに向かってビニール袋を差し出した。
忘れるも何も、今、どこに仕舞っていたわけでもなく手に持っていた筈……とは言わなかった。多分、何か理由があるのだろう。
受け取り、透明な袋の中身を確認する。
ガーゼに傷用のテープ、薬のチューブ。今、この右腕の傷の手当に使った治療道具だった。
「きちんと自分で手当てしてください。まさか私が毎日して差し上げる訳にもいきませんので。本当は朝と一日二回するべきなのですが、どうせしないでしょうから入浴の後に一日一回、必ずするように」
びっ、と指を突きつけてそう言い放つ。
うん、まぁ自分の事を心配して言ってくれているのだという事はわかっている。
それはありがたいし嬉しい。だが、わざわざそこまでするような傷ではないのだから、手を煩わせる……というかこんなものを貰うのは申し訳ない。
「でも、」
「わかりましたね?」
言い返そうとしたのだが、それを予測していたのだろう。
自分がそう言うよりも早く、ビニール袋を見ていた顔をメイドさんの方へと上げきるよりも早く、その当人にメンチを切って脅された。
鼻先が触れそうな距離で。
「……はい。ありがとうございます」
その圧迫感が余りにも酷すぎて、ただ頷いた。
釈然としない物を感じながらも、礼だけは言っておく。心配して貰ったし、物まで貰ったのだから当然のこと。
その言葉と共に漏れた息が、メイドさんの顔に掛かっていたと思う。彼女のそれもそうだったから。
「よろしい」
満足気に頷くと、姿勢を正してからもう一度、今度は軽く会釈をしてメイドさんは再び踵を返し、歩き出した。
だがすぐに立ち止まり、
「もう一度言っておきますが、お嬢様に近付いたりしないように」
そう言い置いて表通りの方へと向き直り、
「探しても校外学習でしばらくはこの街にいませんから無駄です」
再び振り向いてそう言った。
こちらが頷くのを確認してから、今度こそ去って行く。
わざわざ立ち止まってまで近づくなと言いつつ、にも拘らず親切に予定を教えてくれる。
本当に良い娘だ。
そして最初の印象よりも、随分と可愛い人だった。勿論、素のあの姿も含めて。
あれだけ優しいこの人にあれだけ慕われているのだ。
昨日のあの少女も、昨日ちらと見ただけのあの印象なんかよりもずっと素晴らしい人なのに違いないと、何故かとても嬉しくなった。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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