碧ちゃんの話
2
「ただいま」
玄関のドアを開け、声を掛ける。
一人暮らしの部屋に、別に返事を期待しているわけではない。誰かに向かって告げたわけでもない。ただ長年の習慣、身に付いた意味のない癖の様な物だ。
「……おかえりぃ」
だが、今日だけはその限りではなかった。弱々しく掠れた、今にも消えそうではあるが、しかし確実に帰りを迎えようという意思の込められた声が返って来た。
出迎えようとしているのだろうか。千恵理は布団に腕をついて、よろよろと起き上がろうとしている。
「良いから寝てろ」
大丈夫か、とは聞かない。見ればわかるし、見ればわかる事を聞いて、つらい時に無駄に声を出させようというのは嫌がらせに近いだろう。
心配していると伝えたいのならば、他に出来る事などいくらでもある。
「ごめんねぇ、私が調子に乗り過ぎたばかりに……」
やはりそれだけでしかない動きが相当つらかったのだろう。千恵理は申し訳なさそうな顔をしながらも、そのまま横になった。
上着とネクタイは外してシャツ一枚で、頭のリボンも外して髪を首の辺りで結わえ、左肩から前へと垂らしている。
垂らしている、というか、身動きするのもつらいからと頼まれて自分がしてやったのだ。
寝る時は、髪はこうするのが一番楽らしい。というより、こうしないと体の下敷きになった髪が頭を引っ張ってしまって痛いらしい。そうでなくても髪が痛みそうだ。
昨日……一昨日のあの少女の太股にまでかかる長さには負けるが、千恵理の髪も充分に長い。いや、身長差を考えれば同じくらいなのだろうか。
それだけの長さなのに、艶やかに美しく保たれている。昨日今日と見た限りでは丁寧に扱っているようには見えなかったが、手入れも苦労しているのに違いない。
その髪や体を、家族でも恋人でもない、昨日会ったばかりの男に触られるのは嫌なのに決まっている。決まっているが、そんなことを言っていられる状態ではないのだろう。
見ただけでもわかる。
「初めて飲んだ奴がこうなったなら、それは一緒にいた奴の監督責任だよ」
そこまでにさせてしまったのは、一緒に飲んでいた自分だ。
だから、介抱するくらいの責任を取るのは当たり前だ。
言い訳をするのならば、千恵理はこうなるまで殆ど変化がなかった。顔が赤くなるでもなく、行動が変わるでもなく──随分とはしゃいでいるなとは思ったが、それは飲み始める前から変わっていない。
昨日、女将の好意に甘え続けているわけにもいかないと、定食屋を出たのはいつもの閉店の時間から、一時間程しての事だった。
と言っても、最後の辺りは女将も席に座って飲んだり話したりしていたので、商売なのか場所を提供して千恵理の誕生会に参加しただけなのかわからない状態だったが。
店を出てさあお開き、となったのだが、流石に夜道を見目麗しい若いの女性をひとりで帰らせるわけにもいかない。
だから家まで送る、と言ったのだが、千恵理はまだ飲み足りなかったらしく、コンビニで酒を買って近くの公園で飲むと言い出したのだ。
流石に女性を夜の街に放置するわけにもいかない。
しかもあの定食屋の近くの公園といえば、少ないながらも遊具もある児童公園だ。のみならず、立地を見れば隣接した神社の敷地……というか境内の一部なのだろう。
そんなところに酔っ払いを放置するわけにもいかない。
それで……というか仕方なく、家に連れて来たのだ。
あの時は冷静なつもりでいたのだが、今考えれば相応に酔っていたのだろう。
その日初めて会った相手、それも年頃の女性を家に連れ込むなど、夜の街に放り出すことの次くらいには不味いことだ。
とはいえ、それが理解出来るくらいに酔いが醒めたからといって、この状態……目が覚めた時にはもっと酷かったのだが、それを放り出すわけにもいかない。
仕方なく、自力で帰れる程度に回復するまで寝かせておくことにしたのだ。
とりあえず起き上がれる程、回復していないのはわかった。
まずは流しに行って洗い物をする。昨晩飲むときに使った食器、ではない。今買って来た、蓋とストロー付のコップだ。
中性洗剤で厳重に洗い、しっかりと濯ぐ。それを布巾で拭いた後、一緒に買って来たスポーツドリンクを入れる。
「ほら、とにかく何か飲んだ方が良い」
そう言って目の前にコップを置き、ストローを口まで持って行く。
家を出る前に水は飲ませたのだが、やはりこういう時はただの水よりも吸収の早いスポーツドリンクの方が良い。その時に飲むのにも難儀しているのを見て、コップも必要だと思ったのだ。
本当はストローを吸うのもつらいだろうから、薬呑でもあれば良かったのだが、流石に普通の食料品店には置いていなかった。
「……このワンちゃん、可愛い」
目の前のコップに描かれた犬のキャラクターを見て、千恵理が弱々しく微笑んだ。
物が物だけにどうしても子供向けが中心になる。人前で使うわけでもなし、このくらいならば別に恥ずかしがる必要もないだろう、と買った物だ。
「この子、なんだか私に似てるね」
そう言って視線だけでこちらを見た。
そうだったか、と千恵理の脇からそのイラストを覗き込んだ。そう言われてよくよく見てみると、ぴんと立った耳と人懐こそうな表情が、今は外しているがリボンを付けた千恵理に似ている気もする。
「ね?」
視線だけでこちらを向き、そう言って笑う。
「いいからちゃんと飲んでろ」
値段と大きさと、なによりも寝ている状態で飲みやすい、ストローの飲み口を水面より下に持って来られる形状を選んだ結果、これになったのだ。
他意はない。筈だ。
玄関のドアを開け、声を掛ける。
一人暮らしの部屋に、別に返事を期待しているわけではない。誰かに向かって告げたわけでもない。ただ長年の習慣、身に付いた意味のない癖の様な物だ。
「……おかえりぃ」
だが、今日だけはその限りではなかった。弱々しく掠れた、今にも消えそうではあるが、しかし確実に帰りを迎えようという意思の込められた声が返って来た。
出迎えようとしているのだろうか。千恵理は布団に腕をついて、よろよろと起き上がろうとしている。
「良いから寝てろ」
大丈夫か、とは聞かない。見ればわかるし、見ればわかる事を聞いて、つらい時に無駄に声を出させようというのは嫌がらせに近いだろう。
心配していると伝えたいのならば、他に出来る事などいくらでもある。
「ごめんねぇ、私が調子に乗り過ぎたばかりに……」
やはりそれだけでしかない動きが相当つらかったのだろう。千恵理は申し訳なさそうな顔をしながらも、そのまま横になった。
上着とネクタイは外してシャツ一枚で、頭のリボンも外して髪を首の辺りで結わえ、左肩から前へと垂らしている。
垂らしている、というか、身動きするのもつらいからと頼まれて自分がしてやったのだ。
寝る時は、髪はこうするのが一番楽らしい。というより、こうしないと体の下敷きになった髪が頭を引っ張ってしまって痛いらしい。そうでなくても髪が痛みそうだ。
昨日……一昨日のあの少女の太股にまでかかる長さには負けるが、千恵理の髪も充分に長い。いや、身長差を考えれば同じくらいなのだろうか。
それだけの長さなのに、艶やかに美しく保たれている。昨日今日と見た限りでは丁寧に扱っているようには見えなかったが、手入れも苦労しているのに違いない。
その髪や体を、家族でも恋人でもない、昨日会ったばかりの男に触られるのは嫌なのに決まっている。決まっているが、そんなことを言っていられる状態ではないのだろう。
見ただけでもわかる。
「初めて飲んだ奴がこうなったなら、それは一緒にいた奴の監督責任だよ」
そこまでにさせてしまったのは、一緒に飲んでいた自分だ。
だから、介抱するくらいの責任を取るのは当たり前だ。
言い訳をするのならば、千恵理はこうなるまで殆ど変化がなかった。顔が赤くなるでもなく、行動が変わるでもなく──随分とはしゃいでいるなとは思ったが、それは飲み始める前から変わっていない。
昨日、女将の好意に甘え続けているわけにもいかないと、定食屋を出たのはいつもの閉店の時間から、一時間程しての事だった。
と言っても、最後の辺りは女将も席に座って飲んだり話したりしていたので、商売なのか場所を提供して千恵理の誕生会に参加しただけなのかわからない状態だったが。
店を出てさあお開き、となったのだが、流石に夜道を見目麗しい若いの女性をひとりで帰らせるわけにもいかない。
だから家まで送る、と言ったのだが、千恵理はまだ飲み足りなかったらしく、コンビニで酒を買って近くの公園で飲むと言い出したのだ。
流石に女性を夜の街に放置するわけにもいかない。
しかもあの定食屋の近くの公園といえば、少ないながらも遊具もある児童公園だ。のみならず、立地を見れば隣接した神社の敷地……というか境内の一部なのだろう。
そんなところに酔っ払いを放置するわけにもいかない。
それで……というか仕方なく、家に連れて来たのだ。
あの時は冷静なつもりでいたのだが、今考えれば相応に酔っていたのだろう。
その日初めて会った相手、それも年頃の女性を家に連れ込むなど、夜の街に放り出すことの次くらいには不味いことだ。
とはいえ、それが理解出来るくらいに酔いが醒めたからといって、この状態……目が覚めた時にはもっと酷かったのだが、それを放り出すわけにもいかない。
仕方なく、自力で帰れる程度に回復するまで寝かせておくことにしたのだ。
とりあえず起き上がれる程、回復していないのはわかった。
まずは流しに行って洗い物をする。昨晩飲むときに使った食器、ではない。今買って来た、蓋とストロー付のコップだ。
中性洗剤で厳重に洗い、しっかりと濯ぐ。それを布巾で拭いた後、一緒に買って来たスポーツドリンクを入れる。
「ほら、とにかく何か飲んだ方が良い」
そう言って目の前にコップを置き、ストローを口まで持って行く。
家を出る前に水は飲ませたのだが、やはりこういう時はただの水よりも吸収の早いスポーツドリンクの方が良い。その時に飲むのにも難儀しているのを見て、コップも必要だと思ったのだ。
本当はストローを吸うのもつらいだろうから、薬呑でもあれば良かったのだが、流石に普通の食料品店には置いていなかった。
「……このワンちゃん、可愛い」
目の前のコップに描かれた犬のキャラクターを見て、千恵理が弱々しく微笑んだ。
物が物だけにどうしても子供向けが中心になる。人前で使うわけでもなし、このくらいならば別に恥ずかしがる必要もないだろう、と買った物だ。
「この子、なんだか私に似てるね」
そう言って視線だけでこちらを見た。
そうだったか、と千恵理の脇からそのイラストを覗き込んだ。そう言われてよくよく見てみると、ぴんと立った耳と人懐こそうな表情が、今は外しているがリボンを付けた千恵理に似ている気もする。
「ね?」
視線だけでこちらを向き、そう言って笑う。
「いいからちゃんと飲んでろ」
値段と大きさと、なによりも寝ている状態で飲みやすい、ストローの飲み口を水面より下に持って来られる形状を選んだ結果、これになったのだ。
他意はない。筈だ。
20/84
- アクセス数

- ページビュー数

プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
連絡は「お問合せ」まで。
携帯用QRコード