碧ちゃんの話
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線路を挟んで並ぶ、ホームの屋根と屋根の隙間から覗く細い空を見上げる。
日の当たらないこの場所でもわかる程に夏の日差しは強烈で、直接刺すような陽射しは感じられないけれど、周囲から押し寄せて来る暑さによる圧迫感が、じりじりと全身を締め付けて来る。
それは一歩隣にずれた日向では、どれ程肌を焦がされる物かと想像させた。
いや、実際にここまで歩いてくる道すがら、それはこの身で体験してきたものだ。
そう思い返して見ると、然程ではなかった気もしないではない。多分、日陰に入ったことで喉元を過ぎたというだけなのだろうけれど。
これだけの思いをした上に時間に加えて電車賃まで払い、切り詰めた食費で作った血液を無料で提供しに行くなど、酔狂としか言いようがない。
だが、どうせ人間の生に意味など無いのだ。
そこに意味を付けるのは自分自身だ。他人から見て意味が無かろうが、収支が合っていなかろうが、その価値を判断するのは自分以外に誰もいない。
数字上では損でしかなくても、それで自分が納得して生きる事が出来るのならば、それこそが無駄ではない生き方ではないのかと思う。自分のやりたいことをやりたいようにやって、死ぬ瞬間にまぁこんなものじゃないかと思えれば、それは納得のいく人生と言えるのではないだろうか。
その基準が通帳の数字だというならば、そう生きるべきだけれど。
一昨日……千恵理が二日酔いになったあの次の日、千恵理は詫びと礼だと、ビールの五百ミリリットル缶の箱を小脇に抱えてやって来た。となればそのまま追い返すわけにもいかずに部屋へ上げ、二人でビールをひとパック開けた後に前日の残りの日本酒と焼酎を取り出し、例によって酔いつぶれた千恵理は次の日……昨日の朝になって平謝りしながら帰って行った。
酔いつぶれはしても二日酔いにならなかったのは、成長なのだと思う。
多分、また今日も来るのだろう。昨日の詫びだと言って。そうなればまた飲むことになるだろうから、酒の抜けた今日の内に献血に行っておかなければいけない。
自分は他人に興味などないし、むしろ一人の方が気楽で良いと思っている。
だが、よく見知った人懐こい野良猫が、入れてくれと玄関前で大人しく待っているのを仕方ないなと思う程度の感性は持っている。
ましてそれが、こちらによく気を使い、邪魔はしないのに自分の何とはない寂寥を埋めてくれる猫なのならば。
多分、少しでも不快な様子を見せれば千恵理がこうしてやって来る事はなくなるだろう。少なくとも、気兼ねなく駄弁って潰れるまで飲むほど気が置けないという事は終わるのだろうと思う。
それはそれで少し寂しい。今現在不快を感じているわけではないのだし、そうなった時にいつでもそうすることが出来るのだから、それを今しなくてはいけないという理由もない。
そもそもそう感じた瞬間に千恵理の方が察するだろうから、本来そんなことを考える必要すらないのだ。
「……小岩井碧──」
背後からその名前が耳に入り、熱でぼうっとしていた意識が覚醒する。
意識しさえすれば、それまで右の耳から左に抜けていた単語が頭の中の網に掛かるようになる。
無意識に背後を窺おうと視線を巡らせようとして、止めた。
本人の知らないところで碧ちゃんの話は聞かないと決めたのだし、そうでなくとも見知らぬ他人の話を盗み聞きなど褒められたことではない。
「どうして私が電車になんて乗らなくてはいけないのですか」
が、一度意識してしまえば、聞くまいとする程どうしても会話が耳に入ってしまう。
聞こえてきたのは、姿を見ていないからわからないけれど、印象からすれば典型的な高慢なお嬢様といった声だった。
「出掛けにお嬢様が、準備が遅いからと運転手をクビにしたからじゃないですか」
続いてそれに答えたのは、声変わりしていないだろうくらいの、若い男の子の声。
それにしても準備が遅いくらいで馘とは、なんとも物騒な話だ。
「クビになったくらいで職務を放棄するなんて、弁財家の使用人に相応しくありません。クビです」
何とも理不尽だった。この調子では、その弁財家とやらには使用人がいなくなってしまうだろうに。
「お嬢様の自業自得です。明日にはほとぼりが冷めて復帰しますから、今日は我慢してください」
本人の前で話してしまっては、ほとぼりが冷めるも何もないのではないだろうか。
「ほとぼりが冷めないと復帰も出来ないなんてクビです」
だが、成程これでわかった。それがこのお嬢様の持ち芸なのだろう。
逆に、そんな扱いをされても転職などせずに復帰するという事は、このお嬢様もそれなりに愛されているのかもしれない。
こういうのも、不意に貰った休暇くらいの感覚なのだろうか。
或いは、ただ諦められているだけかもしれないが。
「そもそも、ハイヤーを呼ぶと言ったのに、小岩井様が電車をご利用なさっていると聞いて乗ってみたいと言ったのはお嬢様ですよ?」
成程、それでこの名前が出て来るのか。
そう思ってよくよく思い返して見れば、そもそも碧ちゃんの名前を知ったのもこの二人の声だった気がする。
日の当たらないこの場所でもわかる程に夏の日差しは強烈で、直接刺すような陽射しは感じられないけれど、周囲から押し寄せて来る暑さによる圧迫感が、じりじりと全身を締め付けて来る。
それは一歩隣にずれた日向では、どれ程肌を焦がされる物かと想像させた。
いや、実際にここまで歩いてくる道すがら、それはこの身で体験してきたものだ。
そう思い返して見ると、然程ではなかった気もしないではない。多分、日陰に入ったことで喉元を過ぎたというだけなのだろうけれど。
これだけの思いをした上に時間に加えて電車賃まで払い、切り詰めた食費で作った血液を無料で提供しに行くなど、酔狂としか言いようがない。
だが、どうせ人間の生に意味など無いのだ。
そこに意味を付けるのは自分自身だ。他人から見て意味が無かろうが、収支が合っていなかろうが、その価値を判断するのは自分以外に誰もいない。
数字上では損でしかなくても、それで自分が納得して生きる事が出来るのならば、それこそが無駄ではない生き方ではないのかと思う。自分のやりたいことをやりたいようにやって、死ぬ瞬間にまぁこんなものじゃないかと思えれば、それは納得のいく人生と言えるのではないだろうか。
その基準が通帳の数字だというならば、そう生きるべきだけれど。
一昨日……千恵理が二日酔いになったあの次の日、千恵理は詫びと礼だと、ビールの五百ミリリットル缶の箱を小脇に抱えてやって来た。となればそのまま追い返すわけにもいかずに部屋へ上げ、二人でビールをひとパック開けた後に前日の残りの日本酒と焼酎を取り出し、例によって酔いつぶれた千恵理は次の日……昨日の朝になって平謝りしながら帰って行った。
酔いつぶれはしても二日酔いにならなかったのは、成長なのだと思う。
多分、また今日も来るのだろう。昨日の詫びだと言って。そうなればまた飲むことになるだろうから、酒の抜けた今日の内に献血に行っておかなければいけない。
自分は他人に興味などないし、むしろ一人の方が気楽で良いと思っている。
だが、よく見知った人懐こい野良猫が、入れてくれと玄関前で大人しく待っているのを仕方ないなと思う程度の感性は持っている。
ましてそれが、こちらによく気を使い、邪魔はしないのに自分の何とはない寂寥を埋めてくれる猫なのならば。
多分、少しでも不快な様子を見せれば千恵理がこうしてやって来る事はなくなるだろう。少なくとも、気兼ねなく駄弁って潰れるまで飲むほど気が置けないという事は終わるのだろうと思う。
それはそれで少し寂しい。今現在不快を感じているわけではないのだし、そうなった時にいつでもそうすることが出来るのだから、それを今しなくてはいけないという理由もない。
そもそもそう感じた瞬間に千恵理の方が察するだろうから、本来そんなことを考える必要すらないのだ。
「……小岩井碧──」
背後からその名前が耳に入り、熱でぼうっとしていた意識が覚醒する。
意識しさえすれば、それまで右の耳から左に抜けていた単語が頭の中の網に掛かるようになる。
無意識に背後を窺おうと視線を巡らせようとして、止めた。
本人の知らないところで碧ちゃんの話は聞かないと決めたのだし、そうでなくとも見知らぬ他人の話を盗み聞きなど褒められたことではない。
「どうして私が電車になんて乗らなくてはいけないのですか」
が、一度意識してしまえば、聞くまいとする程どうしても会話が耳に入ってしまう。
聞こえてきたのは、姿を見ていないからわからないけれど、印象からすれば典型的な高慢なお嬢様といった声だった。
「出掛けにお嬢様が、準備が遅いからと運転手をクビにしたからじゃないですか」
続いてそれに答えたのは、声変わりしていないだろうくらいの、若い男の子の声。
それにしても準備が遅いくらいで馘とは、なんとも物騒な話だ。
「クビになったくらいで職務を放棄するなんて、弁財家の使用人に相応しくありません。クビです」
何とも理不尽だった。この調子では、その弁財家とやらには使用人がいなくなってしまうだろうに。
「お嬢様の自業自得です。明日にはほとぼりが冷めて復帰しますから、今日は我慢してください」
本人の前で話してしまっては、ほとぼりが冷めるも何もないのではないだろうか。
「ほとぼりが冷めないと復帰も出来ないなんてクビです」
だが、成程これでわかった。それがこのお嬢様の持ち芸なのだろう。
逆に、そんな扱いをされても転職などせずに復帰するという事は、このお嬢様もそれなりに愛されているのかもしれない。
こういうのも、不意に貰った休暇くらいの感覚なのだろうか。
或いは、ただ諦められているだけかもしれないが。
「そもそも、ハイヤーを呼ぶと言ったのに、小岩井様が電車をご利用なさっていると聞いて乗ってみたいと言ったのはお嬢様ですよ?」
成程、それでこの名前が出て来るのか。
そう思ってよくよく思い返して見れば、そもそも碧ちゃんの名前を知ったのもこの二人の声だった気がする。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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