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碧ちゃんの話

2 小岩井 千恵理
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 一日の食費が二百円などという生活をしていても、偶の贅沢くらいはする。
 別にお金がなくてそんな生活をしているわけではない。
 いや、お金がないこと自体は間違いのない事実だが、そこまでしなければならない程追い込まれているわけではない。
 美味しい、ということはわかる。が、それはこれは美味しい物だと感じるという知識と思考であって、そこに現実感はない。
 ただ単に美味しい物を食べても感動などは特に感じられないから、余分なお金を使ってまで食べたいと思えないだけだ。
 それでも一時期は、本当においしい物を食べれば現実感というものを感じられるのではないかと、料理に凝ってみたりもした。
 だがそれでわかったのは、美味しい物よりも、刺激が強い物……つまり味の濃い物の方が、感覚を覆う様に隔てた薄皮を少しでも押し込んで、味と言う物を感じさせてくれるというどうしようもない事実だった。
 それがわかった時、美味しい物を食べる為に努力するということを止めてしまった。
 元よりある程度を越えた繊細な味を理解出来るような舌を持っているわけでもない。
 わかりやすく言えば、美味しい物とすごく美味しい物で、違う感情を抱けない貧乏舌なのだ。
 とは言っても、美味しいというそれ自体に何も感じられなくても、美味しい物を食べていると思う事には心が動く。不味い物を食べていると思うことには気持ちが沈む。
 だから、最低限これは美味しい物だと思える物を食べるようにはしている。
 その最低限美味しいと思える中で、最も効率が良いのが大凡二百円という数字だった。
 使う金額の範囲が狭いので、毎日の食べる物はどうしても同じ物ばかりになる。が、同じ物を食べていても飽きたりはしない。味を見ているのではなく、美味しい物を食べているのだと思う感情を見ているのだから。
 そんなだから偶の贅沢の基準とは、より美味しい物ではなく、より味が濃く少しでも現実感を感じられるもの、だった。
 『味山亭』と書かれた暖簾を潜り、月に二、三度、常連とはとても言えない程度にしか訪れない定食屋に入る。
 この店は、自分も含めた近所の大学の学生を客層にした、安くて程々に美味くてわかりやすい味の店だ。
 所謂、チープでジャンクな店である。
 女性受けなど仕様がないが、貧乏できちんとした味などわからない自分にとっては誂え向きの店と言える。
「らっしゃい」
 少し腹の出た中年の、いかにも飲食店の女将と言う容貌の女性が読んでいた雑誌を置いて、そう声を上げた。
 それに軽く頭を下げて、ここに来る時にはいつも使う隅のテーブル席へと腰を下ろす。
 これが混雑時であれば一人でテーブル席を占拠するのは遠慮するところだが、夕食の客が捌けた後の閉店前の店内には他の客はおらず、気を使う必要はない。
 この店に来るのはいつもこの時間だった。いやこの店に限ったことではないが、好き好んで人混みの中で落ち着かずに食事をする趣味はない。だから外食するのはいつも他の客の居ない時間、夜であれば当然閉店間際だった。
 さて、と考える。今日は何にしようか。
 定食屋ではあるが、自分がこの店に来た時に注文するのは、大抵ラーメンだった。御飯物も勿論美味しいのだが、他ではこの味は味わえない、というのはラーメンのスープだ。
 他の物であればテイクアウトなり惣菜なりでそれなりの物を味わう事が出来る。材料にお金をかければ、自分でそれなりの物を作る事も出来る。
 自分にとってはそれで十分に贅沢だし、それで十分に美味しい物を食べているのだと自分を誤魔化す事も出来る。
 だがスープはテイクアウトは出来ない。そして一人で食べる為に、一からスープを作っていたのでは外食した方が安い。
 だから市販の物に手を咥えてみたのだが、どうしてもこの味に近くはならない。少なくとも、この味が出せるなら店にはいかなくていい、と思える味にはどうしてもならない。
 必要以上にしょっぱい物を美味しいとは言わない。味が濃い物、が最低限且つ改造のスタート地点である為、市販のスープをベースにしては、美味しいに収まる範囲で塩味を抑えて味を濃くするという時点でかなり難しい要求なのだ。
 だから今日もラーメンにする、と言うところまでは決まっている。
 問題は、どのラーメンにするかだ。
 候補は二つ。
 ひとつはこの店の看板でもある濃厚味噌ラーメンに、背脂をこれでもかと親の仇でもあるかのように入れた、こってり濃厚味噌ラーメン。
 表面に浮いた脂が蓋の役割をして、いつまでも冷めずに食べられるという成人病が怖くて食べられるかという極まったメニューだ。
 もうひとつは獄楽ラーメンの十丁目。
 とにかく辛い。只管辛い。これだけ辛ければ、否が応でも五感を刺激してくれる。
 ただ問題は、辛いというのは味覚ではなく痛覚であるという事。味覚を感じる為に偶の贅沢に来たのに、痛覚を刺激したいのならば壁に頭でも打ちつけている方が安上がりではないかという疑問がどうしても払えないのだ。
 少し悩んで、決めた。
「……すみません」
 ちょうど水を持って来た女将に声を掛ける。
 実際には、悩んだという程の時間ではない。この店に来るたびに毎回同じ自問をしているのだ。効率的にもなる。
「こってり濃厚味噌を」
 そもそも今日ここに来たのは、昼のあの事があったからだ。
 なんとなく、今日をこのまま終わらせてしまうのは勿体ない気がしたから。
 その前に何かをして、今日と言う日をほんの少し、長くしたかったから。
 流石に乾いた血は拭い落としたけれど、まだ付いたままの右手の傷に視線を落とす。
 だから、他でもない痛覚であの時の事を上書きしてしまうのは、なんとなく抵抗が有ったのだ。
「激辛で」
 だから、ほんのり感じる程度の辛さに抑えておこう。
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未田 尚(まだ なお)
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