碧ちゃんの話
2
「はい、こってり濃厚味噌の激辛一丁」
水を置きながら注文を繰り返し、女将はそのままカウンターの向こうへと入って行った。
この席からは、遠目ではあるが厨房の中が良く見える。いつもこの席を使う理由のひとつだ。
人が一生懸命に働く姿は凄いと思う。ふわふわしている自分などとは違い、地に足を付けて生きている姿。
そこにも現実感は感じられない。だが、例えば大正や昭和初期の白黒の記録映像は、人の姿も街並みも現代の物とはまるで違う上に、コマ数の違いから動きにも違和感が有ってまるでこの世界ではないように見える。
それでも、そこには人々の生活が息づいているのが確かにわかる。そんな感覚。
「間に合った!」
そんな物思いにふけっていると、入口の扉が開かれる音と同時に威勢の良い声が店内に響いた。
思わず振り向くと、女性が一人、店内に入って来たところだった。
恐らく自分と同年代。この店に来たという事は学生なのだろう。女性には似付かわしくないがっつり系の店だが、女性が来ないわけではない。
カロリーを必要とする体育会系ならば、こういった店の方を好むということも有り得る。
実際、今入って来た彼女も一見ほっそりとした体形に見えるが、その体幹のしっかりとした歩き方を見れば、体を使うことに慣れているということがわかる。
その女性は慣れた足取りで真っ直ぐカウンター席に向かうと、ちょうど女将の正面になる席に腰を下ろした。
厨房を窺えるこの席から見ると、後ろ姿しか見えない位置。
「おばちゃん、いつもの!」
しっかりとしたしなやかな髪が腰まで伸びて、背中全てを覆っている。
その頭の後ろで大きなリボンが、体の動きに合わせてぴょこぴょこと揺れていた。
「ごめんねぇ、ついさっき終わっちゃったんだよ」
その女将の返事を聞いた途端、そのリボンがだらんと力無く垂れ下がった。
「マジですか……」
ついさっき、ということは自分が注文したこってり……は女性が食べるようなメニューではないから、濃厚味噌だろう。
いや、濃厚味噌の時点で女性向けのメニューではないが。
「もうすっかりこってりの胃になってたのに……」
こってりだったらしい。
気落ちした女性はカウンターに突っ伏し、女将は申し訳なさそうにそれを慰めている。
まぁ、考えるまでもない。
「すみません、さっきの注文、変更して貰って良いですか?」
カウンターの向こうの女将に向けて、手を上げた。
別にこれでなければいけないというわけでもない。実際に、さっきまでどちらにするか悩んでいたのだ。
かろうじて美味しいという事がわかる程度でしかない自分よりも、その一杯の為にこれだけ一喜一憂出来る人が食べる方が良いに決まっている。
何よりも、この雰囲気の中で食事をして、呑気に美味しいなどと思える程、図太くはない。
偶の贅沢を楽しみに来たのに、お金を払って美味しく感じられないだろう物を楽しくなく食べるなど本末転倒だ。
それを聞いた瞬間、困ったようだった女将の顔がぱっと明るくなった。
「あっ、はーい! いつもので良いかい?」
「……あ、はい」
偶にしか来ないから油断していたが、どうやら覚えられてしまっていたらしい。
考えてみれば、人の居ない時間を見計らって来ているという事は店内唯一の客ということであり、しかもそれが閉店間際ならその日最後の客ということだ。
訪れる頻度自体は少なくても、それが続けば覚えられてしまっても仕方がない。
「千恵理ちゃん、いつもの大丈夫だよ」
それを聞くなり、カウンターに突っ伏していた女性が勢いよく立ち上がり、こちらに振り向いて頭を下げた。
それに向けてその必要はないと、軽く頭を横に振って見せる。
それよりも、どうしよう。
テーブルに立ててあるメニューを眺めて暫し悩む。
覚えられていたことに動揺して頷いてしまったが、今日は辛い物はやめておこうと思っていたのだが。
少し考え込んで、まぁいいかと思い直した。
今から再度注文の変更をするというのもなんだし、所詮気分だけの問題であって、それで何かが変わるわけでもない。
「こんばんは」
そう声をかけられて視線を上げる。
先程までカウンターにいた筈の女性が、そこに立っていた。
右手にビールの大瓶、逆の手にコップを二つ持っている。
「ありがとうございます。さっき、譲ってくれたんですよね?」
質問というよりは確認する口調だった。あのタイミングでは、そうとしか思えないのは当然だが。
「いや、急に違う物が食べたくなっただけだから」
そう答えて、もう一度首を横に振る。
嘘ではない。そのまま食べても美味しくないだろうと思ったから、違うものが食べたくなったのだ。
それを聞いて、その女性は何故かくすくすと笑った。
「だとしても助かったのは間違いないので、ありがとうございます。あ、ここ失礼しますね」
そう言うと、こちらの返事も聞かずに向かいの席に腰を下ろした。
コップを二つ持っているという事は、礼のつもりで来たのだろう。
聞かれれば当然断るつもりだから、無理にでも礼をするつもりであればそうするしかないという判断は正しい。
だから、その態度にも不快感は無かった。
入って来た時は大学生かと思ったが、間違いだったらしい。
正面から顔を見て、わかった。同じくらいの年齢、むしろ恐らくは年下だろうに、この地に足を付けた雰囲気は、多分社会人だ。
何となくで学費の安さ以外に取り柄のない三流大学にいる自分などとは全く違う。
「私、今日が二十歳の誕生日なんですよ。だから誕生日の締めはここのこってりってずっと決めてて、何日も前から楽しみにしてたんです。……仲間が開いてくれた誕生会が長引いて、この時間になっちゃいましたけど」
そう言いながらコップをこちらへと差し出し、受け取る前から問答無用で注いでいく。
「だから、今日食べられなかったら今年一年引き摺るところでした」
それは流石に大袈裟だろうが、そこまで楽しみにしていたのなら、明日の目覚めが悪いくらいは普通にあるだろう。
それならば猶更、譲った甲斐があったという物だ。
「私、小岩井千恵理って言います」
そう言って、その女性はこちらに向かってもう一度頭を下げた。
水を置きながら注文を繰り返し、女将はそのままカウンターの向こうへと入って行った。
この席からは、遠目ではあるが厨房の中が良く見える。いつもこの席を使う理由のひとつだ。
人が一生懸命に働く姿は凄いと思う。ふわふわしている自分などとは違い、地に足を付けて生きている姿。
そこにも現実感は感じられない。だが、例えば大正や昭和初期の白黒の記録映像は、人の姿も街並みも現代の物とはまるで違う上に、コマ数の違いから動きにも違和感が有ってまるでこの世界ではないように見える。
それでも、そこには人々の生活が息づいているのが確かにわかる。そんな感覚。
「間に合った!」
そんな物思いにふけっていると、入口の扉が開かれる音と同時に威勢の良い声が店内に響いた。
思わず振り向くと、女性が一人、店内に入って来たところだった。
恐らく自分と同年代。この店に来たという事は学生なのだろう。女性には似付かわしくないがっつり系の店だが、女性が来ないわけではない。
カロリーを必要とする体育会系ならば、こういった店の方を好むということも有り得る。
実際、今入って来た彼女も一見ほっそりとした体形に見えるが、その体幹のしっかりとした歩き方を見れば、体を使うことに慣れているということがわかる。
その女性は慣れた足取りで真っ直ぐカウンター席に向かうと、ちょうど女将の正面になる席に腰を下ろした。
厨房を窺えるこの席から見ると、後ろ姿しか見えない位置。
「おばちゃん、いつもの!」
しっかりとしたしなやかな髪が腰まで伸びて、背中全てを覆っている。
その頭の後ろで大きなリボンが、体の動きに合わせてぴょこぴょこと揺れていた。
「ごめんねぇ、ついさっき終わっちゃったんだよ」
その女将の返事を聞いた途端、そのリボンがだらんと力無く垂れ下がった。
「マジですか……」
ついさっき、ということは自分が注文したこってり……は女性が食べるようなメニューではないから、濃厚味噌だろう。
いや、濃厚味噌の時点で女性向けのメニューではないが。
「もうすっかりこってりの胃になってたのに……」
こってりだったらしい。
気落ちした女性はカウンターに突っ伏し、女将は申し訳なさそうにそれを慰めている。
まぁ、考えるまでもない。
「すみません、さっきの注文、変更して貰って良いですか?」
カウンターの向こうの女将に向けて、手を上げた。
別にこれでなければいけないというわけでもない。実際に、さっきまでどちらにするか悩んでいたのだ。
かろうじて美味しいという事がわかる程度でしかない自分よりも、その一杯の為にこれだけ一喜一憂出来る人が食べる方が良いに決まっている。
何よりも、この雰囲気の中で食事をして、呑気に美味しいなどと思える程、図太くはない。
偶の贅沢を楽しみに来たのに、お金を払って美味しく感じられないだろう物を楽しくなく食べるなど本末転倒だ。
それを聞いた瞬間、困ったようだった女将の顔がぱっと明るくなった。
「あっ、はーい! いつもので良いかい?」
「……あ、はい」
偶にしか来ないから油断していたが、どうやら覚えられてしまっていたらしい。
考えてみれば、人の居ない時間を見計らって来ているという事は店内唯一の客ということであり、しかもそれが閉店間際ならその日最後の客ということだ。
訪れる頻度自体は少なくても、それが続けば覚えられてしまっても仕方がない。
「千恵理ちゃん、いつもの大丈夫だよ」
それを聞くなり、カウンターに突っ伏していた女性が勢いよく立ち上がり、こちらに振り向いて頭を下げた。
それに向けてその必要はないと、軽く頭を横に振って見せる。
それよりも、どうしよう。
テーブルに立ててあるメニューを眺めて暫し悩む。
覚えられていたことに動揺して頷いてしまったが、今日は辛い物はやめておこうと思っていたのだが。
少し考え込んで、まぁいいかと思い直した。
今から再度注文の変更をするというのもなんだし、所詮気分だけの問題であって、それで何かが変わるわけでもない。
「こんばんは」
そう声をかけられて視線を上げる。
先程までカウンターにいた筈の女性が、そこに立っていた。
右手にビールの大瓶、逆の手にコップを二つ持っている。
「ありがとうございます。さっき、譲ってくれたんですよね?」
質問というよりは確認する口調だった。あのタイミングでは、そうとしか思えないのは当然だが。
「いや、急に違う物が食べたくなっただけだから」
そう答えて、もう一度首を横に振る。
嘘ではない。そのまま食べても美味しくないだろうと思ったから、違うものが食べたくなったのだ。
それを聞いて、その女性は何故かくすくすと笑った。
「だとしても助かったのは間違いないので、ありがとうございます。あ、ここ失礼しますね」
そう言うと、こちらの返事も聞かずに向かいの席に腰を下ろした。
コップを二つ持っているという事は、礼のつもりで来たのだろう。
聞かれれば当然断るつもりだから、無理にでも礼をするつもりであればそうするしかないという判断は正しい。
だから、その態度にも不快感は無かった。
入って来た時は大学生かと思ったが、間違いだったらしい。
正面から顔を見て、わかった。同じくらいの年齢、むしろ恐らくは年下だろうに、この地に足を付けた雰囲気は、多分社会人だ。
何となくで学費の安さ以外に取り柄のない三流大学にいる自分などとは全く違う。
「私、今日が二十歳の誕生日なんですよ。だから誕生日の締めはここのこってりってずっと決めてて、何日も前から楽しみにしてたんです。……仲間が開いてくれた誕生会が長引いて、この時間になっちゃいましたけど」
そう言いながらコップをこちらへと差し出し、受け取る前から問答無用で注いでいく。
「だから、今日食べられなかったら今年一年引き摺るところでした」
それは流石に大袈裟だろうが、そこまで楽しみにしていたのなら、明日の目覚めが悪いくらいは普通にあるだろう。
それならば猶更、譲った甲斐があったという物だ。
「私、小岩井千恵理って言います」
そう言って、その女性はこちらに向かってもう一度頭を下げた。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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