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碧ちゃんの話


11

 不意にごぉと鳴った風が周囲のブルーシートをバタバタと震わせた。
 山の際にあるこの町では天気が変わるのはよくある事だが、逆に山に遮られてこんな強い風が吹く事はあまりない。
 珍しいな、と何気なく空を見上げたところでカンッという乾いた硬い音が聞こえて、自然と視線がそちらへと向いた。
 建設中のビルの骨組みの、五階程の高さに何かが浮いていた。細い棒状の何か……ブルーシートがない高層部分の、直接当たる陽射しにきらりと光る銀色のもの。
 それが鉄パイプで、浮いているのではなく自由落下が始まったところなのだ、と理解するより早く足が動いていた。
 それがその下あたりに緑がいるからだ、という事に思い至ったのも、その落下の軌跡では間違いなく緑に当たる、ということを理解したのも、その後だった。
 頭を上にあげて鉄パイプの位置を確認する姿勢をとる時間も惜しんで、呆と見上げて無駄にした時間に見た物を思い返す。
 鉄パイプは、真っ直ぐにではなく、緩やかな放物線を描いて落ちて来ていた。
 先程の軽い金属音は、台か何かに乗っていた鉄パイプが落ちて、足場の縁にあたって跳ねた音なのだろう。
 僅かに縦方向の回転をしているようだが、それは回転ではなく空気抵抗によって、尤も抵抗を受けにくい姿勢……縦に、垂直になろうとしてるのだと、蹴り出した足が軸足を追い越す前に何となく理解した。
 空気抵抗を無くして微かにでも勢いを増した運動エネルギーを、全てその下にいる緑に突き立つために使える態勢になるのだと。
 一番確実なのは自分の体を盾にして守る事なのかもしれないが、あの高さからの落下では自分の体など貫いてしまうに違いない。それでも少しでも緑の体に突き立つ長さを短くできるのならばいいが、ほぼ間違いなく被害者を増やすだけの結果に終わる。
 それ以前に、自分の走る速さでは、体全体を緑の上に覆いかぶせようとしても間に合わない。頭ひとつ入れられるかも危ういだろう。
 勿論手で受け止める事など出来る筈もない。まして両手を伸ばした不安定な姿勢では間に合わないだろうから片方でということになるが、そんなものは論外だ。奇跡が起きて掴むことが出来たとしても勢いを殺す事などは出来るわけがなく、盾として防ごうにも、片手……それが両手であっても弾かれるか体でそうした時以上に貫かれて、勢いを僅かに弱められるかもしれない、程度で結局は緑に突き刺さるだろう。
 一歩目の足が地面に付く前にそんなことが脳裏を駆ける。
 死の瞬間に見える走馬灯という物は、過去の経験から確実となった死を逃れる方法がないかを探す為のものだというが、まともな経験などない自分の過去にそんなものを見つけることができる筈もなく、その分の演算能力を過去ではなく未来に使う。
 鉄パイプの現在地、落ちて来る速度、その落下地点、回転、緑と自分との距離、自分の走る速度……
 五階程の高さでは十五m程、自由落下で二秒かからない──くらいの事は知っていたが、そんな細かい計算が出来る程正確な数字がわかっている筈もなく、その時間もない。あくまで感覚からの目算を付ける事しか出来ないし、全てが正確にわかってるわけではない状態での正しい計算、よりはその方が間違いは少ないだろうと思う。
 それは一つのラプラス式未来予知。などと言えば大仰に聞こえるが、誰もが、例えば投げられたボールを受け取る時に無意識に使う当たり前の物でしかない。
 二歩目を踏み出す。蹴り足は左足。これで左が前になった状態で、届くのはもう一歩、右が前になった状態でになる筈だ。
 最後の一歩が丁度良い位置になる様に、左足が踏み込む位置を合わせる。
 いきなり駆け寄られて驚いた表情をしていた緑が、何かに気付いた様に体を前へと傾けた。
 自分が駆け寄っている事と、頭上でした金属音とを関連付けて考える事が出来たのだろう。その上で、頭上を確認するのでもなく、立ち上がるのでもなく、咄嗟に避けることを優先することが出来る。それも、自分へと向かってくる相手の方向が一番安全だと判断が出来る。
 聡い子だった。けれど、既に勢いが付いている自分とは違い、その動きは間に合う速さではない。傾けるだけでいい上半身だけは避けられたとしても、それを支える軸として残った下半身は避けられない。良くて半身不随、重要な内臓が傷つけば、結局は死ぬことになる。
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未田 尚(まだ なお)
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