碧ちゃんの話
7 小岩井 桜子
1
こんな自分にも欲くらいはある。
美味しいと思えるものを食べたいとか、偶の贅沢とかはその内だ。
とはいえ、自分のそれが余り多数派に属する物ではないこともわかっている。
質の良い物、値段の高い物、簡単には手に入らない希少な物……普通であれば、価値の高い物ほど欲が刺激されるものだろう。そもそも価値がある、というのは人々が欲しがる物という意味だ。
なのに、自分はそういったものに価値を感じる事が出来ない。
質が良い物、であればわかる。長く使えるものであれば安物を買っては捨ててを繰り返すよりは結果安上がりになることもあるだろうし、使い勝手が良い道具を使えば無駄に掛かってしまう時間を節約出来て値段分以上の得をすることもあるだろう。
だが、それは欲……欲しいという欲求の話ではなく、結局はその方が安価だという話だ。
自分には物の価値、良し悪しなどわからないというのも勿論ある。
だがそれ以上に、苦労してまで何かが欲しいとは、どうしても思えないのだ。
価値のある物とは、つまり簡単には手に入らない物という事だ。沢山の代価を……つまり沢山の労働や他に使う分を節約して支払う必要がある物。時間をかけて探し回らねば見つからない物。注文してから手元に届くまで長く待たねばならない物。
そこまでして欲しいのだろうか、と考えれば答えは否だ。
だから自分の場合、価値のある物程欲しいという気持ちにならない。
簡単に手に入る物、同じ金額で沢山手に入る物の方が欲しいという気持ちになれる。
むしろ簡単に手に入るという事は、その物が自分の所に来たいと思ってくれていたのではないかと、そんな気がする。たまたま入った店でたまたま安売りになっていた物などは、それが偶然であろうと必然であろうと、自分にとっては価値のある物だった。
手に入れるのにどれだけ苦労したか、どれだけの金銭を使ったかが価値だと思う人もいるだろう。
自分にとってもっとも価値のある物は、簡単に……つまり自分の所へ来るべくして来た物であり、自分の物である物、だった。
転んでたまたま握り締めた石は、他と何も違わない変哲のない石であっても、何故か捨てるのは躊躇われてポケットへと仕舞った。
親に捨てられた壊れた玩具を、何度も拾って持って帰った。
物心付く前の欲しい物が手に入らないという経験が、手に入らないものはいらない、だが一度手に入ったものは失いたくないという欲求に変わったのだろう。
以前、夜道を歩いている時に、足元が良く見えずに躓いて転んだことがある。
生き物の本能として咄嗟に手をついて身を守りはしたのだけれど、右手は酷く擦り剥いてしばらく使えなくなった。にも関わらず、左手は無傷で、代わりに握り締めていた小銭入れがボロボロになっていた。
自分が受ける筈だった傷を、この小銭入れが代わりに受けてくれたのだろう。
この小銭入れは、100円ショップで買って、もう何年も使っている物だった。
価値だけで言えば100円でしかない。それどころか、擦り切れて指が通る程の穴の開いたこれは、むしろ処分にお金を払わなければいけないゴミでしかないだろう。
それでも、これは自分にとっては何万円もするようなブランド物の財布などよりもずっと価値のある物だった。
だから、その穴が小銭が零れるくらいに大きくなってしまうまで使い続けるだろう。
いや、そうなってもどこかに仕舞い込んで、捨てずに持っているだろう。
これは自分を守ってくれた、自分の物、なのだから。
そんな他人にとってはゴミでしかない、しかし自分にとっては何よりも価値のある物達が、家には沢山仕舞ってあった。
とは言っても、高価な物を身に着けるのは緊張するとか壊しそうで怖いから嫌だという人もいるだろうし、安い物を買って得をしたと思うことにこそ価値を感じるという話もよく聞くし、どんな高価な品よりも誰かから贈られた物や形見の品の方が大切だというのは普通の事だし、何よりも長く使い続けた物こそ自分にとって価値があるのだと思うのは当たり前の事だと思う。
だから、こんなものはあくまで多数派ではないというだけの、普通の物でしかない。
結局のところ、物の価値は、自分で決めるものだと思う。
高価な材料を使い、最高級の技術で作り上げた、世界に一つしかない物でも、それを欲しがる者が誰もいなければそれは何の価値もない物なのだ。
だから、何を欲しがるのか、何を大切にするのか、何にどれだけの対価を支払うのか、は自分で決めるものだ。
自分が納得するか、満足するかという問題でしかないのだから。
美味しいと思えるものを食べたいとか、偶の贅沢とかはその内だ。
とはいえ、自分のそれが余り多数派に属する物ではないこともわかっている。
質の良い物、値段の高い物、簡単には手に入らない希少な物……普通であれば、価値の高い物ほど欲が刺激されるものだろう。そもそも価値がある、というのは人々が欲しがる物という意味だ。
なのに、自分はそういったものに価値を感じる事が出来ない。
質が良い物、であればわかる。長く使えるものであれば安物を買っては捨ててを繰り返すよりは結果安上がりになることもあるだろうし、使い勝手が良い道具を使えば無駄に掛かってしまう時間を節約出来て値段分以上の得をすることもあるだろう。
だが、それは欲……欲しいという欲求の話ではなく、結局はその方が安価だという話だ。
自分には物の価値、良し悪しなどわからないというのも勿論ある。
だがそれ以上に、苦労してまで何かが欲しいとは、どうしても思えないのだ。
価値のある物とは、つまり簡単には手に入らない物という事だ。沢山の代価を……つまり沢山の労働や他に使う分を節約して支払う必要がある物。時間をかけて探し回らねば見つからない物。注文してから手元に届くまで長く待たねばならない物。
そこまでして欲しいのだろうか、と考えれば答えは否だ。
だから自分の場合、価値のある物程欲しいという気持ちにならない。
簡単に手に入る物、同じ金額で沢山手に入る物の方が欲しいという気持ちになれる。
むしろ簡単に手に入るという事は、その物が自分の所に来たいと思ってくれていたのではないかと、そんな気がする。たまたま入った店でたまたま安売りになっていた物などは、それが偶然であろうと必然であろうと、自分にとっては価値のある物だった。
手に入れるのにどれだけ苦労したか、どれだけの金銭を使ったかが価値だと思う人もいるだろう。
自分にとってもっとも価値のある物は、簡単に……つまり自分の所へ来るべくして来た物であり、自分の物である物、だった。
転んでたまたま握り締めた石は、他と何も違わない変哲のない石であっても、何故か捨てるのは躊躇われてポケットへと仕舞った。
親に捨てられた壊れた玩具を、何度も拾って持って帰った。
物心付く前の欲しい物が手に入らないという経験が、手に入らないものはいらない、だが一度手に入ったものは失いたくないという欲求に変わったのだろう。
以前、夜道を歩いている時に、足元が良く見えずに躓いて転んだことがある。
生き物の本能として咄嗟に手をついて身を守りはしたのだけれど、右手は酷く擦り剥いてしばらく使えなくなった。にも関わらず、左手は無傷で、代わりに握り締めていた小銭入れがボロボロになっていた。
自分が受ける筈だった傷を、この小銭入れが代わりに受けてくれたのだろう。
この小銭入れは、100円ショップで買って、もう何年も使っている物だった。
価値だけで言えば100円でしかない。それどころか、擦り切れて指が通る程の穴の開いたこれは、むしろ処分にお金を払わなければいけないゴミでしかないだろう。
それでも、これは自分にとっては何万円もするようなブランド物の財布などよりもずっと価値のある物だった。
だから、その穴が小銭が零れるくらいに大きくなってしまうまで使い続けるだろう。
いや、そうなってもどこかに仕舞い込んで、捨てずに持っているだろう。
これは自分を守ってくれた、自分の物、なのだから。
そんな他人にとってはゴミでしかない、しかし自分にとっては何よりも価値のある物達が、家には沢山仕舞ってあった。
とは言っても、高価な物を身に着けるのは緊張するとか壊しそうで怖いから嫌だという人もいるだろうし、安い物を買って得をしたと思うことにこそ価値を感じるという話もよく聞くし、どんな高価な品よりも誰かから贈られた物や形見の品の方が大切だというのは普通の事だし、何よりも長く使い続けた物こそ自分にとって価値があるのだと思うのは当たり前の事だと思う。
だから、こんなものはあくまで多数派ではないというだけの、普通の物でしかない。
結局のところ、物の価値は、自分で決めるものだと思う。
高価な材料を使い、最高級の技術で作り上げた、世界に一つしかない物でも、それを欲しがる者が誰もいなければそれは何の価値もない物なのだ。
だから、何を欲しがるのか、何を大切にするのか、何にどれだけの対価を支払うのか、は自分で決めるものだ。
自分が納得するか、満足するかという問題でしかないのだから。
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プロフィール
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- 未田 尚(まだ なお)
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- にゃー
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