碧ちゃんの話
3
「小岩井……碧」
自分でも気付かずに、その名前が口から出ていた。
意識しさえすれば、それまで右の耳から左に抜けていた単語が頭の中の網に掛かるようになる。
別に自分から調べなどしていないのに、たった半日でフルネームがわかる程度には『碧お嬢様』は有名人だった。
「っと、ご馳走になります。それから、誕生日おめでとうございます」
無意識にその名前を口に出してしまったことに照れを感じて、それを誤魔化す様に大仰に頭を下げてみせた。
自己紹介の名前を聞いて他の人の名前を思い浮かべてしまうなんて、失礼この上ない。
「これはこれはご丁寧に。ありがとうございます」
千恵理は気にしていないのかそれとも気付いていないのか、同じ様に芝居掛かった仕草で丁寧に頭を下げた。
ほっとしながら、差し出されていたビール瓶を受け取り、千恵理へと差し出して返す。
「というわけで、これが人生初のお酒なんです」
注ぎやすいようにコップをこちらに向けながら身を乗り出し、楽しみだという様に千恵理が笑う。前かがみになった胸元でネクタイがぷらぷらと揺れていた。
成程。偶然とはいえそんな場に居合わせるなんて。それは責任重大だ。
「誕生会では飲まなかったの?」
千恵理のコップへとビールを注ぎながらふと頭を過ったそんな疑問が、そのまま口から出る。
「未成年の娘もいたから。仲間外れにして飲むのもアレだし、本人は飲まなくても飲み会に未成年がいたってだけで不味いからねぇ」
考えて見れば当たり前だ。誕生会を開いてくれるのは大抵が同世代だろうし、だとすれば単純に考えて半分が未成年という計算になる。
誕生会などと言う物の経験のない自分の、人付き合いなどという煩わしい物を完全に捨てて来た弊害だろう。
「というわけで、私の誕生日と初めてのお酒に乾杯!」
もしかしたら、勝手に落ち込んだ自分の気を取り直させるためなのだろうか。
千恵理が大袈裟なくらいに大きな声でコップを掲げた。
「乾杯」
だからそんな優しい娘への敬意を込めて、そのコップに軽く自分のコップを打ち付けて音を立てる。
千恵理はそのコップのビールを喉を鳴らして一気に流し込んだ後、息を吐いて
「苦いっ!」
そう言って眉を顰めた。
「でも大人って味がする!」
苦いと言いつつも、その表情は楽しそうだった。
酒など飲まなくても、この娘は大人だと思う。少なくとも、自分などよりもずっと。
それを眺めながら、自分もビールを口に含む。
自分の様な濃い味しか感じられない貧乏舌には、淡麗などと言われてもわからない。このくらい、濃厚なしっかりした味のビールでなくては。
「それで、付かぬことをお聞きしますが……」
その千恵理の改まった口調に、コップに口を付けたまま視線を向けた。
千恵理はどことなく探る様な視線で、こちらを窺っている。
「もしかして、碧の知り合い?」
酒が入ったからか、知り合いの名が出たからか。先程の改まった物から急に、千恵理の口調が砕けた。
だというのに、その様子はどこか少し不安そうで、何となく身構えたような気配がする。
自分の知り合いである、あの少女とどんな関係なのか警戒しているのだろうか、と思ったが恐らく違う。
そうか。
少し前から彼女の態度には不自然さを感じていたのだが、その様子を見て合点がいった。
急にぐいぐいと押し掛けてみたり。
敬語で大人しく距離を取ってみたり。
また距離を詰めて見たり、殊更明るげにふるまってみたり。
こうして態度を変え距離感を変えとしてくるのはきっと、この娘は距離を測っているからなのだろう。
自分が心地良くて不快ではなく、相手が不快ではなく心地良い距離を。
普通であれば、長年の付き合いで自然に育まれていく自然な距離感であり。
普通であれば、長年付き合ってそれが必要になった相手に対して育まれる距離感。
それを、こうして自分で意図して探っている。
自然に出来上がったものではなく、お互いに合う距離感を自分の意志で作り上げようとする、技術としての人間付き合い。
それを、たまたまここに居合わせただけの自分なんかに使ってくれる。
すぐに別れてもう二度と会わない、会ったとしても言葉など交わす事もなく精々会釈くらいはするかもしれない、程度でしかない自分にそれをしてくれる。
自分であれば、そんな面倒な事をしようとはしない。
にこにこ笑って、適当に話を合わせて、良い顔をして、相手を不機嫌にさせてトラブルが起きたりなどしないようにだけ気を付けて。別れた瞬間に相手の顔も覚えていない。
この娘は、優しい娘なのだろう。
恐らく今の砕けた口調も距離を測る一貫。少しでも不快を見せれば、すぐに適切であろう距離まで開けられるように。
「えっと……」
そこまで考えて、聞かれた事へと意識を戻した。
小岩井碧……あの少女の知り合いか、という質問。やはり、その名前を呟いてしまったのを聞かれていたらしい。
どう答えようかと少しだけ悩む。姓と、年齢からすれば、千恵理は恐らく。
「あ、うん。私、碧の姉なの」
やっぱりそうか。そう思って見れば、顔立ちが似ている気がする。
あと数年すれば、あの少女もこんな風に……
は、ならないな。頭の中で首を振った。
顔立ちは間違いなく似ている。姉妹と言われて何の違和感もない。確かにあと数年すれば、こんな顔立ちになるだろうことは容易に想像出来る。
だが表情が、心の中から顔へと滲み出る物が違い過ぎる。
あの少女が碧だとすれば、この娘は赤だろう。
それも燃えるような激しい紅ではなく、柔らかく淡い、桃色気味た優しい赤。
いや、それよりももっと優しい……
そう。これは桜色。
あの少女が手の届かない紺碧だとすれば、この娘は手が届くが手を伸ばすのに躊躇する桜色。
それなのに、躊躇するこちらの掌に向こうから舞い降りて来てくれる、優しい桜色。
自分でも気付かずに、その名前が口から出ていた。
意識しさえすれば、それまで右の耳から左に抜けていた単語が頭の中の網に掛かるようになる。
別に自分から調べなどしていないのに、たった半日でフルネームがわかる程度には『碧お嬢様』は有名人だった。
「っと、ご馳走になります。それから、誕生日おめでとうございます」
無意識にその名前を口に出してしまったことに照れを感じて、それを誤魔化す様に大仰に頭を下げてみせた。
自己紹介の名前を聞いて他の人の名前を思い浮かべてしまうなんて、失礼この上ない。
「これはこれはご丁寧に。ありがとうございます」
千恵理は気にしていないのかそれとも気付いていないのか、同じ様に芝居掛かった仕草で丁寧に頭を下げた。
ほっとしながら、差し出されていたビール瓶を受け取り、千恵理へと差し出して返す。
「というわけで、これが人生初のお酒なんです」
注ぎやすいようにコップをこちらに向けながら身を乗り出し、楽しみだという様に千恵理が笑う。前かがみになった胸元でネクタイがぷらぷらと揺れていた。
成程。偶然とはいえそんな場に居合わせるなんて。それは責任重大だ。
「誕生会では飲まなかったの?」
千恵理のコップへとビールを注ぎながらふと頭を過ったそんな疑問が、そのまま口から出る。
「未成年の娘もいたから。仲間外れにして飲むのもアレだし、本人は飲まなくても飲み会に未成年がいたってだけで不味いからねぇ」
考えて見れば当たり前だ。誕生会を開いてくれるのは大抵が同世代だろうし、だとすれば単純に考えて半分が未成年という計算になる。
誕生会などと言う物の経験のない自分の、人付き合いなどという煩わしい物を完全に捨てて来た弊害だろう。
「というわけで、私の誕生日と初めてのお酒に乾杯!」
もしかしたら、勝手に落ち込んだ自分の気を取り直させるためなのだろうか。
千恵理が大袈裟なくらいに大きな声でコップを掲げた。
「乾杯」
だからそんな優しい娘への敬意を込めて、そのコップに軽く自分のコップを打ち付けて音を立てる。
千恵理はそのコップのビールを喉を鳴らして一気に流し込んだ後、息を吐いて
「苦いっ!」
そう言って眉を顰めた。
「でも大人って味がする!」
苦いと言いつつも、その表情は楽しそうだった。
酒など飲まなくても、この娘は大人だと思う。少なくとも、自分などよりもずっと。
それを眺めながら、自分もビールを口に含む。
自分の様な濃い味しか感じられない貧乏舌には、淡麗などと言われてもわからない。このくらい、濃厚なしっかりした味のビールでなくては。
「それで、付かぬことをお聞きしますが……」
その千恵理の改まった口調に、コップに口を付けたまま視線を向けた。
千恵理はどことなく探る様な視線で、こちらを窺っている。
「もしかして、碧の知り合い?」
酒が入ったからか、知り合いの名が出たからか。先程の改まった物から急に、千恵理の口調が砕けた。
だというのに、その様子はどこか少し不安そうで、何となく身構えたような気配がする。
自分の知り合いである、あの少女とどんな関係なのか警戒しているのだろうか、と思ったが恐らく違う。
そうか。
少し前から彼女の態度には不自然さを感じていたのだが、その様子を見て合点がいった。
急にぐいぐいと押し掛けてみたり。
敬語で大人しく距離を取ってみたり。
また距離を詰めて見たり、殊更明るげにふるまってみたり。
こうして態度を変え距離感を変えとしてくるのはきっと、この娘は距離を測っているからなのだろう。
自分が心地良くて不快ではなく、相手が不快ではなく心地良い距離を。
普通であれば、長年の付き合いで自然に育まれていく自然な距離感であり。
普通であれば、長年付き合ってそれが必要になった相手に対して育まれる距離感。
それを、こうして自分で意図して探っている。
自然に出来上がったものではなく、お互いに合う距離感を自分の意志で作り上げようとする、技術としての人間付き合い。
それを、たまたまここに居合わせただけの自分なんかに使ってくれる。
すぐに別れてもう二度と会わない、会ったとしても言葉など交わす事もなく精々会釈くらいはするかもしれない、程度でしかない自分にそれをしてくれる。
自分であれば、そんな面倒な事をしようとはしない。
にこにこ笑って、適当に話を合わせて、良い顔をして、相手を不機嫌にさせてトラブルが起きたりなどしないようにだけ気を付けて。別れた瞬間に相手の顔も覚えていない。
この娘は、優しい娘なのだろう。
恐らく今の砕けた口調も距離を測る一貫。少しでも不快を見せれば、すぐに適切であろう距離まで開けられるように。
「えっと……」
そこまで考えて、聞かれた事へと意識を戻した。
小岩井碧……あの少女の知り合いか、という質問。やはり、その名前を呟いてしまったのを聞かれていたらしい。
どう答えようかと少しだけ悩む。姓と、年齢からすれば、千恵理は恐らく。
「あ、うん。私、碧の姉なの」
やっぱりそうか。そう思って見れば、顔立ちが似ている気がする。
あと数年すれば、あの少女もこんな風に……
は、ならないな。頭の中で首を振った。
顔立ちは間違いなく似ている。姉妹と言われて何の違和感もない。確かにあと数年すれば、こんな顔立ちになるだろうことは容易に想像出来る。
だが表情が、心の中から顔へと滲み出る物が違い過ぎる。
あの少女が碧だとすれば、この娘は赤だろう。
それも燃えるような激しい紅ではなく、柔らかく淡い、桃色気味た優しい赤。
いや、それよりももっと優しい……
そう。これは桜色。
あの少女が手の届かない紺碧だとすれば、この娘は手が届くが手を伸ばすのに躊躇する桜色。
それなのに、躊躇するこちらの掌に向こうから舞い降りて来てくれる、優しい桜色。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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