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碧ちゃんの話


6

「それはまた、どうしてですか?」
 然程驚いた様子もなく、桜子さんがそう聞く。
「今、とてもいい気分なんです」
 緑はとてもいい娘だ。いつも一緒に遊んでいる友達が沢山いて、こうして心配してくれる家族がいる。
 その命を助ける事が出来た。画面越しに見ているだけだった世界に影響を与える事が出来た。きっとこれからも、沢山の人に囲まれて沢山の人に影響を与えて、世界をどんどん広くしていくだろう。
 自分にとっては液晶の画面に指を触れて映像を揺らした程度のことだけれど、それがこの世界には僅かな揺らめきとなって、波及していくだろう。
 少なくとも、現実の世界に対してこんな気持ちになったのは初めてだった。
「だから、それは受け取れません」
 それで充分だからなのか、受け取る事でお金が目的だったことになってしまうからなのか、それともお金で売ってしまうのが嫌だからなのか。そこまでは自分にもわからない。
「……これは、あくまで貴方に与えた損失の補填と、していただいたことに対するお礼です。決して貴方の尊厳を買い取ろうとするものではないのですよ? これを受け取るのは当然のことですし、それで貴方がどうなるということもありません」
 桜子さんはそう言うし、自分でもわかっている。けれど。
「あくまで、気分の問題なので」
 再び、首を振った。
「良い気分で、お金まで手に入る、では駄目なのですか?」
「そう思えるのなら、最初から貰っています」
 お金で手に入らない物を、どれ程の金額であってもお金で売るのは、損でしかない。
 どれだけ欲しいと思っても、もう二度と買い戻す事は出来ないのだから。
「難儀なお人ですね」
 桜子さんは、そう言って目を細めた。その表情は碧ちゃんによく似ている。
「自分でもそう思います」
 だから、そう言って笑い返した。
 その大きさならば、中身は多分小切手だろう。だとすれば、受け取りだけして使わないというのが、桜子さんに出費をさせずに顔も立てる一番いい解決方法なのだと思う。
 いつもならば、波風を立てないようにそうしていただろう。
 緑を助ける事で、ほんの僅かでもこの世界に影響を与えられたことが、現実感の風のようなものだけでも感じられたことが、最初から受け取らない、という子供っぽい我儘を呼んでしまったのだと思う。
「わかりました。こちらも礼だと言って相手の嫌がる事をする程恥知らずでもありません。……とはいえ、恩人に礼をしないわけにも、一度出した物を収める訳にもいきませんので……」
 そう言って桜子さんは視線を隣の千恵理へと巡らせた。
「あんた、この兄さんの所にお邪魔する時は、手土産に酒や肴くらいは持って行ってるんだろう?」
 難しい話になって油断していたところに急に話を振られて、千恵理が狼狽える。
「え。あ、うん、それくらいは……」
 詫びだとビールの箱を抱えて来て以来、千恵理は来るたびに酒なりつまみなり食材なり、何かしら持って来ていた。気を使う必要はないと言っても、自分の飲む分だと言われれば断る事も出来ない。
 自分で飲みたい酒を用意したりしてはいるものの、基本的には千恵理が持って来た酒を飲みながら自分が作った料理を肴にする、というのがいつものことになっていた。
「これからはそれで買いな。それ以外でも、兄さんの為になる物ならそこから出して良いよ」
 その言葉を受けて、妙さんが封筒を差し出す先をこちらから千恵理へと変える。
 千恵理はそれを見て一瞬戸惑った表情を見せたけれど、すぐに気を取り直して桜子さんの方へと向き直った。
「私は家を出たのですし、家からのお金は……」
 毅然とした態度でそう言おうとして、
「家出したからといって、妹の命の恩人に家の代表として礼をするのも嫌だなんて薄情者になっちまったのかい?」
 桜子さんにそう遮られて、黙った。
「さっきから言ってるように、これは兄さんの金であって、あんたにやるんじゃない。こうでもしないとこの兄さんが受け取ってくれないってのは、付き合いの長いあんたの方が良くわかっているだろう?」
 付き合いが長いといっても、ほんの数日でしかないけれど。
 千恵理は悩むように、というよりは決まり切った答えを選びたくなくて困った様に天井を仰いていたけれど、仕方ないという様に息を吐いた。
「……お預かりします」
 そう言って嫌そうな顔を隠さずに、封筒を受け取った。
 それを満足そうに見ていた桜子さんがこちらへと向き直る。
「兄さんも、それでいいですね? この娘の持って行っていた物の出所が、この娘から私になるだけです。それすら駄目だとは言いやしませんね?」
「はい」
 頷いた。こちらの為に費やされる額が変わらないのであれば、小岩井の家の内部でのお金の動きは自分が口を出す事ではない。
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未田 尚(まだ なお)
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