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碧ちゃんの話


7

 それに、千恵理も部屋が見つかればいずれ飽きて、家に来ることもなくなるだろう。そうなれば残りは返したのと同じ事になる。
「えっと、お婆様……これはどうすれば……」
 その困惑した声に視線を向けると、千恵理が封筒から取り出した小切手を手に硬直していた。
「ああ」
 桜子さんは忘れていた、という様に千恵理から小切手を受け取り、差し出した右手に妙さんが乗せた万年筆で何かを書き込んでいく。
「……ま、あんたに預けるならこんなもんだろう」
 何事もないようにそう言うと、それを千恵理へと差し出して見せた。
「……わぁ、一生飲めるぅ」
 それを覗き込んだ千恵理は、嬉しそうというよりはどうしようという口調で呟いた。
 のだけれど、差し出されたそれに手を出そうとはしない。
「もう一度言っておくけれどね、これはこの兄さんの物であって、あんたにやるんじゃない。気持ち良く使って貰う為に相伴にあずかるくらいは良いけれど、あんたの我儘に使うもんじゃないよ」
「それはわかってます、けど。あの……お婆様、こんなのを渡されても困るって言うか……」
 差し出されたままのそれに両手を振って、千恵理は受け取るまいと拒否をした。
「まぁ、小切手なんて渡されても困るってのはそうだろうね。だからちゃんと換金して、口座を作ってやるよ。……妙、頼んだよ」
「かしこまりました」
 妙さんが、桜子さんが差し出した小切手を恭しく受け取った。
「いや、そうじゃなくて……いやそれもそうですけど、こんな額を渡されても困るって言うか、分割とかにして貰うとか……」
「あんた、あたしに孫娘の命を助けて貰った礼を分割で払うなんて、みっともない真似をさせる気かい?」
 桜子さんが真っ直ぐに千恵理を見詰めた。
 別に睨み付けているとかそういう事ではない。ただ真摯に、真っ直ぐに見詰めているだけ。それなのに、それが向けられているわけでもない自分から見ても、空気が張り詰めるのがわかった。
 そのことに目に見えて臆しながら、それでも千恵理は勇気を出すようにして続ける。
「でも、預かるのは私なわけで……」
「関係ないよ。あんたが兄さんの金を預かることになった以上、あんたは兄さんの代理人になったんだ。あんたに渡す事が払いが終わったってことなんだよ」
 だがそれもあっさりと桜子さんに潰されてしまった。まぁ見るからに役者が違う。千恵理では桜子さんの相手は無理なのは見ただけでわかった。
「良い機会だから、あんたも金の管理に慣れときな。人様の金を預かる立場になれば、嫌でも真剣にならなきゃいけないからね。あんたにも良い経験になるだろうよ」
 有無を言わせず……いや、相手の言い分を聞いた上で正論で封じる。話し合った上で決まったことなのだから、無理矢理やらされているのだという言い訳も出来ない。
 随分とスパルタだった。とはいえ、桜子さんの雰囲気からすればさもあろうという感じではある。
 ある意味自分が当事者ではあるけれど、端からそれを見た感想は、受け取るのが自分じゃなくて良かった、だった。
「……はーい」
 言い逃れは出来ないと観念したのだろう。千恵理が微かに頬を膨らませながらもそう答える。
 それを満足そうに眺めていた桜子さんがぱんと手を打った。
「さて、口座が出来るまで時間が掛かるだろうからね。その間、食事にでも行こうか。いつものレストランに……」
 と、そこまで言ってから、桜子さんは一瞬、こちらのギプスに固められた腕に視線を向けた。
「……いや、今日は寿司でもつまむかね」
 多分、こちらに気を使ってくれたのだろう。この腕ではナイフとフォークは使えないが、寿司ならば片手で食べられるし、何ならば手づかみで食べる方が通だと言われたりもする。
「あの、お婆様。通帳は後で貰えればいいので、今日は……」
 これだけやられても、千恵理はまだ儚く抵抗しようとする。
「あたしに恩人への礼をまた後日渡します、なんて無様を晒させる気なのかい?」
「いえ、でもこの格好なので……」
 千恵理はそう言って、下に水着が透けて見えるシャツをつまんで見せた。
「そんな物、どこかで買って行けばいいだろう。どうせいつもの着たきり雀なんだろうし、この機会に恥ずかしくない服くらい買っておきな」
 そう言われて、千恵理はあっさりと黙る。
 まぁ家出して住む場所もまともに決まっていない状態で、服など揃えられるわけもなく、それを置く場所があるわけもない。
 桜子さんはそれを満足そうに眺めてから、こちらへと向き直った。
「兄さんも一緒にどうです?」
 寿司にすると言い直された時点でそう誘われるのはわかっていた。けれど。
「いえ。まだ精密検査の結果も出ていませんし、もうすぐ麻酔も切れる頃なので。今日は家で大人しくしています。ですから、気を使わないで好きな店で、水入らずで楽しんで来て下さい」
 麻酔が切れたからと言って、痛みで動けなくなったりする迷惑をかける事はないとは思う。けれどそれとは別に、桜子さんが行きつけにする様な店では、緊張してしまって味などわかるわけがない。それではただのお金の無駄遣いだし、高級な食材や料理人に対しても申し訳ない。
「そうですか。その腕が理由では無理にとは言えませんね」
 多分、そんなこちらの気持ちなどわかっているのだろう。桜子さんがそう言って笑った。
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