碧ちゃんの話
10
「尤も、手に取りすらしないとは思いませんでしたけれどね」
お陰で驚く顔が見られませんでしたよ、と桜子さんはそう言って笑った。
「でも、もしも……例えば、家族を助けて貰ったせいで目が曇っていて、相手を見誤っていたらどうしたんですか?」
この世界に完全、などと言うものはない。
どれだけ自信があったとしても、どこかでなにかを失敗していたり、なにかを見落としていたりするのは珍しい事ではない。
実際、桜子さん本人も手に取りすらしないとは思わなかったと言っているし、何よりも自分は自制をしたわけではない。
治療費は受け取っているし、現金ではなく小切手で渡されるような金額を持つのは嫌だっただけだ。
自分は桜子さんが思っているような、高尚な人間ではない。ただ大金を持ち慣れない小心者だったというだけの事。
違う経緯をたどりながらも偶然同じ結果になったというだけで、桜子さんの見る目が間違っていたのは変わりない。自分の目を信じてこんなことをしていれば、いつか払えないような金額を書かれることになる可能性は決して低くない。
一度の間違いで全てを失う様な事をするのは、危険が過ぎる。
意地の悪いその質問に、桜子さんは何でもない事だという様に笑った。
「曾孫の命の値段に糸目をつける気はないと言いましたでしょう? その時は、一生かけてでも返しましたとも。この老い先短い婆の命であの子の命が買えるなら安い物ですよ。なにより、自分で決めた行動の責任は自分で背負う物ですから」
真っ直ぐに向けられた視線を見れば、その言葉が本心なのだとわかる。
ああ、この人は何よりも自分に一番厳しく、そして本当に曾孫たちを愛しているんだな、とそれだけで実感することができた。
本人が覚悟した上でしていることなのであれば、自分が何かを言う理由はない。
「ところで、千恵理が今買いに行っている服の事なのですけれどね」
桜子さんの着たきり雀という言葉で気が付いたのだが、確かに千恵理はいつも同じ服を着ていた気がする。同じ服を何着も持っているのかな、とそれまでは特に考えもせずにいたのだけれど、千恵理の事情を考えればその方が確かに納得がいく。
「ああは言いましたけれど、あの子の服を見てくれる相手なんて、多分兄さんしかいないでしょう。ですので、兄さんに見せる為の服、ということであの中から出させて貰っても良いでしょうか?」
いや、千恵理のような華やかな美人が着飾れば、すれ違う誰もが振り向くだろう。
とはいえ、あのお金を千恵理の為に使う……つまり小岩井の家に返すというのはこちらとしても助かる話だ。
「はい、勿論」
だから、特に考えもせずに頷いた。
千恵理のための物ではない、という事になっている金を千恵理の為に使うには、そう言った口実が必要になる。
桜子さんは、銀行で千恵理の名義だと言えばわかるようにしてある、と言った。
つまりここに来る前から、少なくとも可能性のひとつとしてこの結果……あのお金を千恵理に預ける事になるとわかっていたということになる。
多分、桜子さんはこの状況を利用したのだろう。
桜子さんは独り暮らしをしている可愛い曾孫に仕送りと言うか、お小遣いをあげたいと思っていたのだと思う。だが、今までのやりとりを見れば、桜子さんは家出という手段を使ってまで独り立ちした千恵理に仕送りをするのは本人の為にならないと思っているのだろうし、家出をした千恵理は桜子さんからの仕送りを受け取らないだろう。
だから、今回のこれは都合が良かったのだ。
千恵理に直接渡す仕送りではなく、第三者である自分に渡す金に、千恵理の分を上乗せするという形で受け取らざるを得なくしたのだ。
千恵理の物ではないと釘を刺したのは、千恵理が断れないようにするためと、そのお金に甘えてしまわないようにだろう。千恵理の性格からすれば、それはないだろうとわかっているのだろうけれど。
「では、服は兄さんからのプレゼントだと伝えておきます」
そう言って、桜子さんは悪戯っぽく笑った。その表情は緑に似ている。
自分でお金を出したわけでも選んだわけですらないのに、自分からのプレゼントだと言われるのは居心地が悪い気がする。だが、自分が間に挟まる事でお互いに面と向かい合えない家族の間を取り持つ事が出来るのならば、自分のそんな気持ちなどはどうでもいい事だ。
それに恐らくこれも、千恵理の為という理由で使わせることによって、自分にあのお金を使う事への忌避感を無くさせて、使い易いようにしよう、という気使いなのだろうと思う。
転んでもただでは起きない、ではないが、想定している筈もない事故からここまで自分の思い通りの結果を引き出す事が出来る手腕は、流石と言うしかない。
上流と呼ばれる地位の人はみなこんな感じなのだろう。自分はそんな世界とは関係ないことに、ほっと胸を撫で降ろした。
お陰で驚く顔が見られませんでしたよ、と桜子さんはそう言って笑った。
「でも、もしも……例えば、家族を助けて貰ったせいで目が曇っていて、相手を見誤っていたらどうしたんですか?」
この世界に完全、などと言うものはない。
どれだけ自信があったとしても、どこかでなにかを失敗していたり、なにかを見落としていたりするのは珍しい事ではない。
実際、桜子さん本人も手に取りすらしないとは思わなかったと言っているし、何よりも自分は自制をしたわけではない。
治療費は受け取っているし、現金ではなく小切手で渡されるような金額を持つのは嫌だっただけだ。
自分は桜子さんが思っているような、高尚な人間ではない。ただ大金を持ち慣れない小心者だったというだけの事。
違う経緯をたどりながらも偶然同じ結果になったというだけで、桜子さんの見る目が間違っていたのは変わりない。自分の目を信じてこんなことをしていれば、いつか払えないような金額を書かれることになる可能性は決して低くない。
一度の間違いで全てを失う様な事をするのは、危険が過ぎる。
意地の悪いその質問に、桜子さんは何でもない事だという様に笑った。
「曾孫の命の値段に糸目をつける気はないと言いましたでしょう? その時は、一生かけてでも返しましたとも。この老い先短い婆の命であの子の命が買えるなら安い物ですよ。なにより、自分で決めた行動の責任は自分で背負う物ですから」
真っ直ぐに向けられた視線を見れば、その言葉が本心なのだとわかる。
ああ、この人は何よりも自分に一番厳しく、そして本当に曾孫たちを愛しているんだな、とそれだけで実感することができた。
本人が覚悟した上でしていることなのであれば、自分が何かを言う理由はない。
「ところで、千恵理が今買いに行っている服の事なのですけれどね」
桜子さんの着たきり雀という言葉で気が付いたのだが、確かに千恵理はいつも同じ服を着ていた気がする。同じ服を何着も持っているのかな、とそれまでは特に考えもせずにいたのだけれど、千恵理の事情を考えればその方が確かに納得がいく。
「ああは言いましたけれど、あの子の服を見てくれる相手なんて、多分兄さんしかいないでしょう。ですので、兄さんに見せる為の服、ということであの中から出させて貰っても良いでしょうか?」
いや、千恵理のような華やかな美人が着飾れば、すれ違う誰もが振り向くだろう。
とはいえ、あのお金を千恵理の為に使う……つまり小岩井の家に返すというのはこちらとしても助かる話だ。
「はい、勿論」
だから、特に考えもせずに頷いた。
千恵理のための物ではない、という事になっている金を千恵理の為に使うには、そう言った口実が必要になる。
桜子さんは、銀行で千恵理の名義だと言えばわかるようにしてある、と言った。
つまりここに来る前から、少なくとも可能性のひとつとしてこの結果……あのお金を千恵理に預ける事になるとわかっていたということになる。
多分、桜子さんはこの状況を利用したのだろう。
桜子さんは独り暮らしをしている可愛い曾孫に仕送りと言うか、お小遣いをあげたいと思っていたのだと思う。だが、今までのやりとりを見れば、桜子さんは家出という手段を使ってまで独り立ちした千恵理に仕送りをするのは本人の為にならないと思っているのだろうし、家出をした千恵理は桜子さんからの仕送りを受け取らないだろう。
だから、今回のこれは都合が良かったのだ。
千恵理に直接渡す仕送りではなく、第三者である自分に渡す金に、千恵理の分を上乗せするという形で受け取らざるを得なくしたのだ。
千恵理の物ではないと釘を刺したのは、千恵理が断れないようにするためと、そのお金に甘えてしまわないようにだろう。千恵理の性格からすれば、それはないだろうとわかっているのだろうけれど。
「では、服は兄さんからのプレゼントだと伝えておきます」
そう言って、桜子さんは悪戯っぽく笑った。その表情は緑に似ている。
自分でお金を出したわけでも選んだわけですらないのに、自分からのプレゼントだと言われるのは居心地が悪い気がする。だが、自分が間に挟まる事でお互いに面と向かい合えない家族の間を取り持つ事が出来るのならば、自分のそんな気持ちなどはどうでもいい事だ。
それに恐らくこれも、千恵理の為という理由で使わせることによって、自分にあのお金を使う事への忌避感を無くさせて、使い易いようにしよう、という気使いなのだろうと思う。
転んでもただでは起きない、ではないが、想定している筈もない事故からここまで自分の思い通りの結果を引き出す事が出来る手腕は、流石と言うしかない。
上流と呼ばれる地位の人はみなこんな感じなのだろう。自分はそんな世界とは関係ないことに、ほっと胸を撫で降ろした。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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