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碧ちゃんの話


11

「兄さんは、本当に欲がありませんね」
 そんな口には出さないこちらの心の中を読み取ったのだろう。桜子さんが微笑みながらそう言った。
「努力と見返りが合わないから面倒臭いというだけですよ」
 今日食べる物にも困っているというのであればともかく、少なくとも命の心配がいらない程度、しかもたまには贅沢が出来る程度の生活は出来ている。
 それ以上は必要ない。ましてそれを手に入れる為、維持する為に努力をしなければならないのであれば猶更だ。
「でしょうねぇ」
 そう言って、桜子さんは病室のドアの方に目をやった。
 曾孫たちが出て行った方向に。
「……しあわせなんて人それぞれ違うものです。他人からしたら幸せではない……むしろ不幸だとしか思えなくても、本人たちにとっては幸せだということもあります。私が決める事じゃありません。だから、あの子には……あの子達には自由に生きて欲しいのですよ」
 その横顔を見ながら、この視線を隠さなければ、少なくとも緑の態度はもう少し違う物になるだろうに、と何となく思った。
「でも、プロレスラーになるのは反対したんですよね?」
「しあわせとは別に、可愛い曾孫が殴る蹴るされるのを喜ぶ婆はいませんよ」
 それは、確かに間違いない。
 千恵理の試合ではないけれど、テレビでプロレスの中継を見たことはある。
 技の多彩さ、それを正面から受け止める頑強さ、そして何度倒れても立ち上がる心の強さに感心出来るのは、それがレスラーと言う名の他人だからだ。それでも時折、あれは本当に大丈夫なのかと眉を顰めるような場面もあるのに、それが自分の大切な人だった時にはどれだけ心が苦しくなるのだろうか、と想像してみる。
「何よりも、そんな大変な事を生業にしようというんです。こんな婆に反対されただけで諦めるようなら、最初から務まるわけがありません」
 ああ、成程。そちらが本命なのだろう。これも桜子さんのスパルタの内なのだ。
 反対されてもやり遂げて見せるだけの覚悟を持てと。どれだけつらくても、反対を押し切ってまで始めた事なのだから途中でやめないという覚悟を決めろと。
「尤も、説得もなにも全部飛ばしていきなり家出するとは思いませんでしたけれどね」
 それは、まぁ。
 多分、それも碧ちゃんに後継者を譲るための行動だったのだろう。
 先程の二人の様子を見れば、桜子さんが千恵理を育てることにどれだけ心血を注いでいたのか想像出来る。それを自分の身で受けて来た千恵理には、そのくらいしなければ許してもらえないと思ったのだろう。
 尤も、この桜子さんであれば、誠心誠意説得すればそこまでしなくても許してくれただろうとは思うけれど。多分、桜子さんが本心を見せな過ぎたことが、千恵理にそう思わせてしまったのだろう。
「全く、誰に似たのやら」
 桜子さんはそう溜息を吐くけれど、その表情は呆れたようでも怒っているようでもない。
「貴女にだと思いますよ」
 だから、その言葉に思った事をそのまま返した。
「緑は碧ちゃんが貴女に似ていると言っていましたけれど、でも貴女と同じ経験をして貴女と同じ年齢になった時に貴女に一番似ているのは、千恵理だと思います」
 千恵理が人里で人々に囲まれて咲く染井吉野だとすれば、桜子さんは人里離れた深山の岸壁に咲く山桜だろう。美しくしかし慎ましく、過酷な急斜面にしかししっかりと根を下ろして咲く、齢を重ねた桜。それに憧れる者がいたとしても遠くから眺めるばかりでその麓にすら辿り着く事の出来ない、高嶺の花。
 しかしそれだけ違って見えても、それは桜という同じ種の中の物。
 最初の印象からすれば確かに碧ちゃんの方に似ているように見えたけれど、こうして短いながらも言葉を交わしてみれば、その本質は千恵理の方に似ているのだとすぐにわかる。
 桜子さんは意外な事を言われた、という様に暫し言葉に詰まったけれど、やがて眦を下げた。
「ええ、そうですね。夢を追って家を出たところも、それでも捨て切れずにいるところも……あたしにそっくりです」
 そう言って笑う表情は、今までで一番千恵理に似ていた。
「ですが、私と同じになんてさせやしません。可愛い曾孫なんです。あの子には自由に生きて貰います。同じ経験なんて、何があってもさせやしませんとも」
 桜子さんは、事なかれで生きている自分などには想像もつかない様な過酷な経験をしてきたのだろうという事はわかる。今日、この場に来たのが桜子さん一人だけだということからも推測できる。
「……とは言いましてもね、一番可愛いのは碧ですよ。本人が望んだのだとしても、自分の為に使うべき時間を家の為に使って、あたしの今までとこれからを継いでくれるのは碧ですから。そこは間違えちゃいけません」
 自分の為に何かをしてくれた相手に、それ以外の相手以上の物を返すのは当然の事だ。それをせずに同じ物しか返さないのでは、所謂平等の不平等というものになってしまう。何故それを自分に言うのかはわからないけれど、多分それを口に出して他人に伝える事で、自分の中のその認識を新たにしようということなのだろう。
「そういうわけですから、家に入る事、結婚する事が女のしあわせだなんて言うつもりはありません。千恵理だけでなく、三人ともです。私もしませんでしたしね」
 なんでもないようにさらりと言われた言葉を、そのまま聞き流した。
 思わず漏らしてしまったのならば聞かなかったことにした方がいいだろうし、わざと言ったのならば桜子さんの方から話を続けるだろう。
 だが、それに反して桜子さんはそれ以上何も言わなかった。
 なんの反応もしなかったこちらに対して、ただ優し気に微笑んだだけで。
「ですがあの子たちのしあわせとは別に、あたしのしあわせとして玄孫が見たいのですよ。緑は年頃になったら変わるかもしれませんが、碧はあの調子ですし」
 緑は、短い付き合いからの印象だけではあるが、異性よりも女の子の方に興味があるように見える。
 ただしそれが恋愛対象としてなのか、ただ単純に可愛い物が好きだというだけなのかはわからない。このくらいの年頃ならば、異性に隔意を持つのも珍しくはないだろうし、第二次性徴が来ればどういう方向かはともかく何某か変化があるのも間違いない。
 だが、碧ちゃんのあの孤高さはそういう物ではないだろう。恐らく、生まれ持った本質のような物。
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未田 尚(まだ なお)
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