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碧ちゃんの話


4

「話し中ごめんね。まずこってり濃厚味噌の辛くない奴ね」
 話に集中していて声を掛けられるまで気付かなかった。
 いつの間にか女将がテーブルの脇にまで来ていて、その手に持った丼を千恵理の前に置くところだった。
「来た!」
 それに気付いた千恵理が目を輝かせながらヘアゴムを取り出すと、口に咥えた。
 次いで髪を頭の後ろ……丁度リボンの下あたりで纏め、咥えたゴムで縛り上げる。
 そういった店ではない為、丼から具が溢れるような豪快な盛りというわけではないが、それでももやし炒めが山盛りになっているボリュームのあるラーメンだ。
 華奢と言うわけではないが、髪をポニーテールに纏め上げることでより細身に見える女性の前にあるのは、なかなか目立つ対比だと思う。
「兄さんはすまないけど、もう少し待ってておくれ」
 続けて取り皿らしい椀を置きながら、女将がこちらに向かって頭を下げた。
 注文を変更した時には、既に調理を始めていたのだ。これが先に来るのは言われるまでもない、当たり前のことだ。
 割りばしを割りながら、千恵理が厨房へ戻っていくその女将の背中に目をやった。
「おばちゃんったら、私が辛いの苦手なの知ってて、いつもああして揶揄うんだから」
 いや。今のは恐らくそういうことではなく。激辛にする前に間に合ったという意味だろう。
「さ、料理は来た時が一番美味しい時! 話は食べながらにしよう」
 そう言って、食べるのかと思いきや椀を取ってラーメンをそちらに移し始めた。
 表面の脂のせいでいつまでも冷めずに温度は相当なものだ。こうして冷ましてから食べるのだろうか。
 注文の内容はともかく、そういうところは女性らしいのか……と思ったが、続けてもやしを移し、レンゲでスープを移し、二枚あったチャーシューの一枚を入れたところで、
「どうぞ」
 その椀をこちらへと差し出して来た。
「え? でも……」
 楽しみにしていたんだよな? と視線を向けると、
「譲って貰っておいて、ひとりで食べて美味しいって思える程図太くないんで」
 千恵理はそう言って、人懐こい微笑みを浮かべた。
 その気持ちはよくわかる。
 成程、そうか。礼をしたかっただけならビールを置いて元の席に戻ればいいのにと思っていたが、この為だったのか。
「それに一人で食べるより二人の方が美味しいし。で、そっちのもちょっと貰ったら、それでお相子ってことで」
 それも別に欲しくて言っているのではないだろう。こちらが気を遣わずに食べられるようにという気遣い。
 そもそも、こちらが何を注文したのかも知らないだろうに。
「そういうことなら有難く」
 自分ならば、これを食べて貰わなければ自分も美味しく食べる事は出来ないだろう。だとしたら、貰わない方が失礼だ。
 だから素直に差し出された椀を受け取って、厨房の女将に向かって手を上げた。
「すみません、追加で焼き飯と餃子、……それと牛乳ありますか?」
 牛乳はメニューにはないが、それを使った料理はある。少なくとも店内には置いてある筈だ。
「はいよっ」
 調理の手を止めずに、厨房から女将が答えた。どうやら大丈夫らしい。
 というか、あんなメニューを置いている店だ。この反応を見ても、よくある事なのだろう。
「牛乳?」
 千恵理が首を傾げる。それはそうだろう。この注文の中で牛乳は場違い過ぎる。
「多分、必要になるから」
 必要にならなければ普通に飲めばいい。
「んー? ……じゃまぁ。いただきますっ!」
 千恵理は一瞬頭を捻ったが、気にする事でもないと思ったのだろう。パンッ、と手を叩いて元気良く叫んだ。
「いただきます」
 合わせて自分も頭を下げる。
 千恵理が先ず、レンゲでスープを掬ってひとくち啜った。
「んー! 生きてるって感じする!」
 わかる。
 このラーメンは表面に浮いた脂の層が厚すぎて、最初の一掬いはスープが殆ど入らない。ほぼスープの風味がするだけの脂だ。
 生きる為のエネルギーを取っているというのが味からだけでわかる。
 生きる為のエネルギーが、逆に体に悪いというのも皮肉な話だが。
 続けて千恵理が箸で麺を引き上げたのを見てから、自分も椀にレンゲを入れた。多分千恵理が意識してそうしてくれたのだろう、椀の中でも薄いながら脂が層を作っている。
 それを掬い上げ、口に含む。
 生きているという感じがする。もしかしたら健康を害する毒物の摂取に生命の危機を感じた肉体が、生きたいと主張しているのではないかと思わないでもないが。
 続けて割り箸を取る。
 どうしようか……と少し悩んだが、箸を左手で持つ。傷は痛むという程ではないが突っ張るのは確かだし、別に右手で持たなくてはいけない理由もない。
「それで碧の話だけど……」
 二口三口、ラーメンを堪能してから千恵理が話を戻した。
 知り合いか、か。
 想像してみる。
 あの孤高をしか感じられない少女と知り合いで、すれ違えば挨拶くらいは交わして、何ならば二三、会話をしたりする。
 幾ら考えて見ても、全くもって想像がつかない。
「別に知り合いというわけではなくて……道ですれ違って、二言三言会話しただけ」
 そう。ただそれだけ。
 ただそれだけの、実際に起こったことだというのに想像もつかないというだけのこと。
 それが、あのたった数分に過ぎない短い時間の、しかし胸打つ程の鮮烈な碧が、自分の中に刻み込まれている。
 似た顔立ちの、しかし真逆の相手とはこうして当たり前みたいに話しているのに。
「会話したの? 通りすがりで? 碧と?」
 つるんと口に含んだ麺を啜り上げてから、一拍遅れてようやく理解したという様に千恵理が目を見開いた。
「え、碧と? 通りすがりで?」
 余程驚いたのか、千恵理が語彙を失って同じ言葉を繰り返す。
「と言っても、この傷に気が付いて……」
 と右腕の傷を示す。
「え? 傷? ちょっと待って」
 それを見た千恵理が身を乗り出し、手を伸ばしてこちらの右腕を取った。
 そのまま傷に触れないよう、自分の体を動かして調べ始める。
「……うわ本当だ。怪我人の動きじゃないから気付かなかった」
 怪我人などとは大げさ過ぎる。こんなものは怪我なんて大袈裟な物ではなく、ただの傷だ。
「結構深そうだし、本当は保護テープくらい貼っておいた方が良いんだろうけど……」
 そう言って、ちらりと上目遣いでこちらの様子を窺う。
「……でも血は止まってるみたいだし、瘡蓋にもなってるし。まぁこのくらいになってたら下手に何かしない方がいいかな」
 こちらの様子からそうするべきだと思ったのだろう。千恵理は少し躊躇しながらも、そのまま手を離した。
「あんまり右手は使わないように気を付ければ大丈夫だと思う。うん、利き腕じゃない方で良かった。その手でお箸持ったら、多分かなり痛いよ」
 本当は右が利き腕なのだが、別に訂正することでもない。
「うん。ありがとう」
 それでも心配そうにする千恵理に、そう礼を言った。
 相手が何かをしてくれたら、礼を言う。常識以上でも以下でもない。
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未田 尚(まだ なお)
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