碧ちゃんの話
8 小岩井 緑
1
昔、まだ本当に幼い子供だった頃、絵を描いたことがある。広告紙の裏と鉛筆だけを使った、元より家にある物だけを使った、拙い絵。
壊れた画面越しの視界の中で、自分の頭の中にだけある……あると思っている鮮やかな光景を現わしたかったから。
すぐに描かなくなった。
下手だったからというのもある。物心ついてすぐくらいの子供が上手に描こうとも思わずに描きなぐった絵が上手い筈もない。自分には、現したい物を表現できるだけの才能がないなんてことは直ぐにわかった。
すぐに描くための物がなくなったからというのもある。移動販売に頼らなければならない様な過疎の町に、広告を入れるような店は多くない。絵をかく為だけの絵の具どころか紙を買う金もなかった。
だが一番の理由は、描いた絵は壊れた画面の向こう側にあるから、だった。
上手い下手ではない。才能の有る無しでもない。
頭の中にある筈の光景は、絵という物質にした瞬間に現実という、画面の向こうの物になってしまうから。
どんなにすばらしい絵が描けたとしても、それを見る自分にはそれが自分の頭の中にある物を表現出来ているのか、わからないから。
音楽は、割と性に合っていたのだと思う。小学校のリコーダーから始まって、中学校では吹奏楽部に入るくらいには。
学問として学ぶのではなく、ただ自分の内の発露として騒音を鳴らしていただけの自分には正確な事はわからないけれど、多分音という物が聴覚ではなく感情に作用するものだという事が、その理由のひとつなのだろうと思う。
単純に、視覚よりも聴覚のノイズの方が少なかったからというだけの理由なのかもしれないけれど。
だがそれも、高校に入学したのと同時にやめた。義務教育である中学の部活と違って、高校の部活は無料ではない。楽器などという高価な物を扱うなら、相応に持ち出しが必要になる。勿論それは音楽に限らず、道具や大掛かりな施設の必要なところは皆そうなのだろうけれど。
それを無理してやる……金銭的な負担を掛けてまでやる様な情熱は無かったというのが一番の理由だった。
だから、字を書いた。絵と同じ、広告紙の裏に、鉛筆で。
絵は一枚の紙にひとつの場面しか描けないけれど、字ならばいくらでも詰め込める。間違えたなら消せばいい。
絵で頭の中の光景を可能な限り現したいのであれば、きちんとした絵の具や紙を買わなければならないけれど、字であれば精々ノートを買うくらいで良い。
何よりも、現実感のない画面越しであろうと字は字だ。読むのに支障さえなければノイズがあっても変わりはない。
そして字によって光景が描き出される場所は現実ではなく、壊れた画面を経由しない自分の頭の中だ。
だから字であれば色褪せずにノイズに邪魔されずに、描きたい物を自由に描く事が出来た。
けれど、自分の頭の中の光景と他人の頭の中の光景は違う。同じ字を見ても、思い描く光景は違う。
碧い空、と字で書いても、その碧色は、その光景は百人いれば百通り、微妙に違う。
同じ光景などひとつとしてない。
百聞は一見に如かず。百の言葉で説明をしても、自分が見ているのと同じ光景を他人に見せるのは不可能だ。
でも、それで良いと思う。
同じ字を見て違う光景を思い描くのは、違う人間だからだ。違う人生を生きて、違う景色を見て、違う思い出を積み重ねて来た、違う人間だからだ。
違う、というのは素晴らしい事だと思う。違うからこそ他人を尊重できるのだし、違うからこそ他人を気遣えるのだし、違うからこそ学ぶ事が出来るのだ。
色褪せた画面越しに見る景色にだって、その中に住む人にだって、そこに感動がないわけではない。感傷がないわけではない。
現実感がない、違う世界のようだというだけで。
だから、他人が自分とは違う景色を見てくれるのは、とても素晴らしい事だと思う。
とはいえ結局のところ、究極的に言ってしまえば、自分の字を見た他人がどう思おうと、自分を見た他人がどう思おうと、どうでもいいだけなのだと思う。
自分は、ただ、自分の頭の中にしかないこの光景を、現実感のないこの現実の中に現したい。
自分が生きている筈のこの現実の中に実在させたい。
ただそれだけなのだから。
壊れた画面越しの視界の中で、自分の頭の中にだけある……あると思っている鮮やかな光景を現わしたかったから。
すぐに描かなくなった。
下手だったからというのもある。物心ついてすぐくらいの子供が上手に描こうとも思わずに描きなぐった絵が上手い筈もない。自分には、現したい物を表現できるだけの才能がないなんてことは直ぐにわかった。
すぐに描くための物がなくなったからというのもある。移動販売に頼らなければならない様な過疎の町に、広告を入れるような店は多くない。絵をかく為だけの絵の具どころか紙を買う金もなかった。
だが一番の理由は、描いた絵は壊れた画面の向こう側にあるから、だった。
上手い下手ではない。才能の有る無しでもない。
頭の中にある筈の光景は、絵という物質にした瞬間に現実という、画面の向こうの物になってしまうから。
どんなにすばらしい絵が描けたとしても、それを見る自分にはそれが自分の頭の中にある物を表現出来ているのか、わからないから。
音楽は、割と性に合っていたのだと思う。小学校のリコーダーから始まって、中学校では吹奏楽部に入るくらいには。
学問として学ぶのではなく、ただ自分の内の発露として騒音を鳴らしていただけの自分には正確な事はわからないけれど、多分音という物が聴覚ではなく感情に作用するものだという事が、その理由のひとつなのだろうと思う。
単純に、視覚よりも聴覚のノイズの方が少なかったからというだけの理由なのかもしれないけれど。
だがそれも、高校に入学したのと同時にやめた。義務教育である中学の部活と違って、高校の部活は無料ではない。楽器などという高価な物を扱うなら、相応に持ち出しが必要になる。勿論それは音楽に限らず、道具や大掛かりな施設の必要なところは皆そうなのだろうけれど。
それを無理してやる……金銭的な負担を掛けてまでやる様な情熱は無かったというのが一番の理由だった。
だから、字を書いた。絵と同じ、広告紙の裏に、鉛筆で。
絵は一枚の紙にひとつの場面しか描けないけれど、字ならばいくらでも詰め込める。間違えたなら消せばいい。
絵で頭の中の光景を可能な限り現したいのであれば、きちんとした絵の具や紙を買わなければならないけれど、字であれば精々ノートを買うくらいで良い。
何よりも、現実感のない画面越しであろうと字は字だ。読むのに支障さえなければノイズがあっても変わりはない。
そして字によって光景が描き出される場所は現実ではなく、壊れた画面を経由しない自分の頭の中だ。
だから字であれば色褪せずにノイズに邪魔されずに、描きたい物を自由に描く事が出来た。
けれど、自分の頭の中の光景と他人の頭の中の光景は違う。同じ字を見ても、思い描く光景は違う。
碧い空、と字で書いても、その碧色は、その光景は百人いれば百通り、微妙に違う。
同じ光景などひとつとしてない。
百聞は一見に如かず。百の言葉で説明をしても、自分が見ているのと同じ光景を他人に見せるのは不可能だ。
でも、それで良いと思う。
同じ字を見て違う光景を思い描くのは、違う人間だからだ。違う人生を生きて、違う景色を見て、違う思い出を積み重ねて来た、違う人間だからだ。
違う、というのは素晴らしい事だと思う。違うからこそ他人を尊重できるのだし、違うからこそ他人を気遣えるのだし、違うからこそ学ぶ事が出来るのだ。
色褪せた画面越しに見る景色にだって、その中に住む人にだって、そこに感動がないわけではない。感傷がないわけではない。
現実感がない、違う世界のようだというだけで。
だから、他人が自分とは違う景色を見てくれるのは、とても素晴らしい事だと思う。
とはいえ結局のところ、究極的に言ってしまえば、自分の字を見た他人がどう思おうと、自分を見た他人がどう思おうと、どうでもいいだけなのだと思う。
自分は、ただ、自分の頭の中にしかないこの光景を、現実感のないこの現実の中に現したい。
自分が生きている筈のこの現実の中に実在させたい。
ただそれだけなのだから。
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プロフィール
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- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
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