碧ちゃんの話
5
「……と、こんな感じでありがとう、どういたしまして……で別れただけだから、知り合いとかではないよ」
そう普通に言ったつもりなのに、何故か千恵理が首を捻った。
「手を取って傷を調べて? それでどういたしましてって返事したの? 碧が?」
「いや手は取らなかったし傷もちらっと見たくらいで調べたわけでもないし。返事も正確にはその謝意受け取らせていただきますわ、だったけど」
「ああ、うん。その言い回しは間違いなくあの子だわ。あの碧がねぇ……」
考え込むようにそう言いながら千恵理がビール瓶を手に取り、その残りが少ないのに気付くと自分とこちらのコップに半分ずつ注いだ。
「おばちゃん、ビールもう一本……ううん、二本頂戴」
厨房へとそう声を掛ける。どうやら初めてのビールは気に召したらしい。
「何か、おかしかった?」
「いや、うん、まぁ。通りすがりの相手に話し掛けるって時点でそうそう無い事だけど、怪我をしていたのなら、そういうの見て見ぬふり出来ない子だから、まぁわかる」
千恵理はそう言ってラーメンを啜る。
そういえば、あの時の第一声も『手助けが必要かと思いましたが』だった。
孤高ではあっても冷淡ではない。そう、自分が礼を言ったのも『気に掛けてくれた事』に対して、だった。
千恵理は考え事をするようにゆっくりとラーメンを咀嚼してから飲み込んだ。
「……でもそれでお礼を言われても、あの子なら多分『自分がそうしようと思ったからしただけで礼を言われる理由はない』とかって断るんだよね」
礼を言われる為にやったのではない。
よく知らない通りすがりの勝手な印象だが、あの時のあの雰囲気からすれば、確かにそんなことを言いそうに見えた。
多分、あの少女は他人の事など気にしていない。他人の為に何かをすることはない。
他人などは関係なく、そうしないのは自分ではない。だからそうする。
そういう存在だ。
何故、あの時そうでなかったのかはわからないけれど。
それから千恵理はこちらを見詰めて来て、
「うん、そう。さっきみたいに」
そう言って笑う。
さっき、ということはここに来る前にあの少女に会っていたのだろうか。
いや。自分にとっては孤高の印象しかないあの少女も、千恵理にとってはただの妹で、しかも今日は姉である自分の誕生日なのだ。会っていたとしても普通の事でしかない。
「で、あの子はいっつもそんな感じでとっつきにくいから、友達とかいるのかなって心配だし……」
そう言って、千恵理がじっとこちらを見詰めて来た。
「……何?」
千恵理が何かを言おうと口を開き、言い淀んでそのまま動きを止める。
「はい、また話し中にごめんね」
また話に集中してしまっていたらしい。
料理を持って来た女将の為に、空になっていた椀を除ける。
「まずビールと牛乳。で、こっちがいつもの獄楽十丁目。ご飯の代わりに焼き飯と餃子だけど、そっちはもうちょっと待ってね。それとも御飯も別で持ってくるかい?」
テーブルに丼を置きながらそう聞く女将に首を振って見せた。
「いえ、これで大丈夫です」
獄楽十丁目を注文する時は、いつもご飯。
何故だか本当に細かい注文の仕方まで覚えられてしまっているらしい。
「いやーこってりもそうだけど、こんなのよく食べられるね。あたしが食べたら一口で死んじゃうよ」
それでいいのか。自分の店のメニューだろうに。
そう思って丼を見詰める。
黒い。赤いというよりは黒い。
丼の縁の底までが浅いところはまだ赤いが、中の深いところに行くに従って黒くなる。
尤も、一番深い真ん中には麺があるのである程度以上に黒くなることはないが、その麺の上には一丁目毎に丸ごとの唐辛子が一本、十丁目なので十本乗っている。その上に粉末の唐辛子……なのかそれ以外のナニかなのかはわからないが、これでもかとばかりに掛けられている。
つまり真ん中はまた赤い。
「これに挑戦する人はたまーにいるんだけど、スープまで飲み干すのは兄さんだけだよ」
スープまで飲んでしまうのは体に悪いという事は知っている。飲まない方がいいのだろうな、とは思うのだが体に悪いのがわかった上で味を感じたいからとこれにお金を払っているのだ。当然スープも代金の内だし、何より一番味を感じられるのはこのスープだ。
別に健康でいたいとも思ってはいない。現実感の欠片でも感じられるのなら、体などどうなっても問題ないのだから。
「というか、食べ切られるたびに少しずつ辛くして行ってるんだけど、全然ダメだね」
そう笑いながら去って行く。
そうなのか。いつ食べても慣れてしまう事のない新鮮な辛さだと思っていたのだが。
さて、と丼を引き寄せたところで、千恵理が呆然としか言いようのない表情でそれを見詰めているのに気が付いた。
どうしたのだろう、と考えたところで思い出した。
「約束だから。どうぞ」
そう言って丼を差し出す。
千恵理とは、最初にラーメンを分け合うと約束したのだった。
千恵理は丼からこちらへと視線を移して、
「いやいやいや」
首を振った。
それからもう一度丼に視線を戻し、再びこちらへと向き直って、
「いやいやいやいやいや」
また首を振った。
まぁ、辛い物が苦手と言う人間にとっては仕方のない反応だろう。
「だってこれ、匂いだけで辛いよ?」
いやそこまでではないだろう。
ないと思う。自分にはわからないが、多分。
「後で焼き飯と餃子が来るから、そっちを食べればいい」
嫌いな物を、我慢して無理に食べる事はない。その為に注文したのだから。
「あー、でも……ちょっと興味ある」
怖い物みたさ、というのだろうか。
「じゃあ、まず箸の先を湿らせて舐めてみるくらいで試してみる?」
多分、こってりの脂で口の中に膜が出来て、辛さを感じにくくなっている筈だ。少しくらいなら大丈夫ではないかと思う。
「うー……でも気になるし。よし、女は度胸!」
そう言って、千恵理は箸立てから新しい割り箸を取り出して、差し出された丼にその先端をつけた。
赤く染まったそれを見詰めてごくりと息を飲んでから、舌の先に押し当てる。
その途端に、比喩でも何でもなく文字通り飛び上がった。
「はふ ひ! ひた ひ!」
口を押さえてのたうつ千恵理に、用意しておいて良かったと牛乳を差し出す。
「一気に飲んじゃダメだ。口の中を濯ぐようにして」
こくこくと頷くのを確認してからコップを渡す。それでも千恵理は半分くらいは一気に飲み込んでから、ようやくもごもごと口を動かし始めた。
「にんれん のたへほの じゃら ひ……」
自分でもそう思う。
このくらいでなければ味を感じられない自分でも、我慢しなければ食べられない辛さ。
なんでこんなものを好んで食べようとするのか。理解に苦しむ。
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プロフィール
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- 未田 尚(まだ なお)
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