碧ちゃんの話
9
「お母さんたちは……しあわせだと、思う?」
恐る恐るといったように千恵理が呟く。
「本当のところは本人たちにしかわからないし、この二人の事は何も知らないからいい加減な事は言えないけど……でも、こうして見ている限りは邪魔しちゃいけないと思うくらいには幸せそうに見えるよ」
人形に母乳を与えようと、胸元をはだけた母親から視線を逸らす為に、背後を向きながら答えた。
「それに、桜子さんも言っていたんだ。他人からしたら不幸だとしか思えなくても、本人たちにとっては幸せということもある、って。それって、こういう幸せってことだろう」
この光景を十年以上も見ていたのなら、桜子さんだけではなく、小岩井の家の人たちの幸福観というものが世間一般とは違うものになってしまうのは当然の事だと思う。
「そっか。私がそう思いたいから、そう見えているだけじゃないんだね」
千恵理が自分と病室とを隔てる壁に手を付きながら、そう呟いた。
素直にそのまま受け止めればいいのに、自分ひとりでは考え過ぎて自分自身すら疑ってしまって、受け入れられないというのはよくある事だ。自分にだって嫌という程覚えがある。
自分のような、人間関係など最初から興味のない人間ならそれでいいだろう。
けれど千恵理たちのような、家族の為に、他人の為にこれ程までに心を砕いている人たちは、それではいけないと思う。
「言えない、っていう気持ちはとてもよくわかるけど、でもやっぱり話をするべきなんじゃないかな」
誰とも、家族ともまともに話などした事のないヤツが自分の事を棚に上げてどの口で言っているんだと思うけれど、他人だからこそ、無責任だからこそ言えて、無責任だからこそ重く受け止め過ぎずに聞けることもあると思う。
「緑が言ってたんだ。双子だってわかる前に決めてた名前を自分が貰って碧ちゃんに新しい名前を付けられたのは、碧ちゃんを自分のおまけみたいにしちゃうことで、でも碧ちゃんの方が優秀で自分の方がおまけなのに、って」
そういう、今まで話せなかった色々な事を。
「あの子、そんなこと考えてたのか」
もう良いよ、という千恵理に促されて窓へと向き直る。
父親が、母乳を飲み終えたらしい人形を抱いて、大真面目にげっぷをさせようと背中を叩いているところだった。
「確かにね、双子だってわかる前にみどりって名前、決まってたの。男でも女でもいいようにって。……でも、それって碧って書いてみどりって読む名前だったんだ」
碧と書いて、みどり。確かに人名の読みとしてはその方が一般的だと思う。
成程、決めていた名前を分けて、読みを姉に、字を妹につけたということなのだろう。
「だから、半分にされたって怒られるなら仕方ないけど、どっちかがおまけとか、そんな事はないの。……確かに、色々と話さなきゃいけないこと、あるみたい」
そう言って微笑むその表情は、最初の時の様な思い詰めた様なものではなくなっていた。
「でも、うん。碧にあなたがいてくれて良かった」
千恵理の言う事はいちいち大袈裟過ぎる。
例え千恵理の思惑通りに自分が碧ちゃんの友達になれたとしても、いや確かにあの孤高そうな碧ちゃんに、友達が増えるというのは良い事だろうとは思う。
けれど、そんなに大袈裟に喜ぶ程、あの大人びた碧ちゃんに年上の友達が出来たからといって、何かが変わるとは思えない。そもそも、その年上だということだって、自分のように時間を無為に浪費してきた自分などよりも、碧ちゃんの方がずっと濃密で積み重ねの多い時間を過ごしてきている筈だ。
何よりも、碧ちゃんと自分の関係は、こちらから一方的に知っているというだけの他人でしかない。
自分は碧ちゃんに何か影響を与えようなどとは思っていない。そもそもあの真っ直ぐな眼差しに、自分ではなくても誰かが影響を与えられるとも思っていない。
あの遥か彼方にいる碧い少女が、今日も真っ直ぐに前を見詰めて背筋を伸ばしてこの世界にいるのだと思うだけで、そして出来るのなら、それを道端ででも偶に見ることができるのであれば、それ以上望むことはないのだから。
やはり千恵理は自分の事を買い被り過ぎている。
そう思うけれど、長年背負った荷物を僅かにでも下ろせたという表情の千恵理に、今ここで言わなければいけないようなことではない。
考えて見れば、千恵理は家の跡取りとして生まれ、姉として育ち、プロレスラーとして生きることで、常に周囲の視線を意識して生きてきたはずだ。
後継者であった頃は桜子さんの、姉である今は碧ちゃんと緑の、そしてプロレスラーとして活動している間は常にファンや関係者から見られている。
周囲に気を遣う千恵理が、周りから自分がどう見えるかを考えていないわけがない。
自分から望んで、或いは自分の意志で受け入れた事とは言え、疲れないはずがない。
その千恵理が、勘違いでしかないとはいえ、少しでも重荷を下ろしたと感じられるのだとしたら、それはとても良い事だと、思う。
だから、今はただ、千恵理の表情が僅かにでも和らいだことを喜ぶことにした。
恐る恐るといったように千恵理が呟く。
「本当のところは本人たちにしかわからないし、この二人の事は何も知らないからいい加減な事は言えないけど……でも、こうして見ている限りは邪魔しちゃいけないと思うくらいには幸せそうに見えるよ」
人形に母乳を与えようと、胸元をはだけた母親から視線を逸らす為に、背後を向きながら答えた。
「それに、桜子さんも言っていたんだ。他人からしたら不幸だとしか思えなくても、本人たちにとっては幸せということもある、って。それって、こういう幸せってことだろう」
この光景を十年以上も見ていたのなら、桜子さんだけではなく、小岩井の家の人たちの幸福観というものが世間一般とは違うものになってしまうのは当然の事だと思う。
「そっか。私がそう思いたいから、そう見えているだけじゃないんだね」
千恵理が自分と病室とを隔てる壁に手を付きながら、そう呟いた。
素直にそのまま受け止めればいいのに、自分ひとりでは考え過ぎて自分自身すら疑ってしまって、受け入れられないというのはよくある事だ。自分にだって嫌という程覚えがある。
自分のような、人間関係など最初から興味のない人間ならそれでいいだろう。
けれど千恵理たちのような、家族の為に、他人の為にこれ程までに心を砕いている人たちは、それではいけないと思う。
「言えない、っていう気持ちはとてもよくわかるけど、でもやっぱり話をするべきなんじゃないかな」
誰とも、家族ともまともに話などした事のないヤツが自分の事を棚に上げてどの口で言っているんだと思うけれど、他人だからこそ、無責任だからこそ言えて、無責任だからこそ重く受け止め過ぎずに聞けることもあると思う。
「緑が言ってたんだ。双子だってわかる前に決めてた名前を自分が貰って碧ちゃんに新しい名前を付けられたのは、碧ちゃんを自分のおまけみたいにしちゃうことで、でも碧ちゃんの方が優秀で自分の方がおまけなのに、って」
そういう、今まで話せなかった色々な事を。
「あの子、そんなこと考えてたのか」
もう良いよ、という千恵理に促されて窓へと向き直る。
父親が、母乳を飲み終えたらしい人形を抱いて、大真面目にげっぷをさせようと背中を叩いているところだった。
「確かにね、双子だってわかる前にみどりって名前、決まってたの。男でも女でもいいようにって。……でも、それって碧って書いてみどりって読む名前だったんだ」
碧と書いて、みどり。確かに人名の読みとしてはその方が一般的だと思う。
成程、決めていた名前を分けて、読みを姉に、字を妹につけたということなのだろう。
「だから、半分にされたって怒られるなら仕方ないけど、どっちかがおまけとか、そんな事はないの。……確かに、色々と話さなきゃいけないこと、あるみたい」
そう言って微笑むその表情は、最初の時の様な思い詰めた様なものではなくなっていた。
「でも、うん。碧にあなたがいてくれて良かった」
千恵理の言う事はいちいち大袈裟過ぎる。
例え千恵理の思惑通りに自分が碧ちゃんの友達になれたとしても、いや確かにあの孤高そうな碧ちゃんに、友達が増えるというのは良い事だろうとは思う。
けれど、そんなに大袈裟に喜ぶ程、あの大人びた碧ちゃんに年上の友達が出来たからといって、何かが変わるとは思えない。そもそも、その年上だということだって、自分のように時間を無為に浪費してきた自分などよりも、碧ちゃんの方がずっと濃密で積み重ねの多い時間を過ごしてきている筈だ。
何よりも、碧ちゃんと自分の関係は、こちらから一方的に知っているというだけの他人でしかない。
自分は碧ちゃんに何か影響を与えようなどとは思っていない。そもそもあの真っ直ぐな眼差しに、自分ではなくても誰かが影響を与えられるとも思っていない。
あの遥か彼方にいる碧い少女が、今日も真っ直ぐに前を見詰めて背筋を伸ばしてこの世界にいるのだと思うだけで、そして出来るのなら、それを道端ででも偶に見ることができるのであれば、それ以上望むことはないのだから。
やはり千恵理は自分の事を買い被り過ぎている。
そう思うけれど、長年背負った荷物を僅かにでも下ろせたという表情の千恵理に、今ここで言わなければいけないようなことではない。
考えて見れば、千恵理は家の跡取りとして生まれ、姉として育ち、プロレスラーとして生きることで、常に周囲の視線を意識して生きてきたはずだ。
後継者であった頃は桜子さんの、姉である今は碧ちゃんと緑の、そしてプロレスラーとして活動している間は常にファンや関係者から見られている。
周囲に気を遣う千恵理が、周りから自分がどう見えるかを考えていないわけがない。
自分から望んで、或いは自分の意志で受け入れた事とは言え、疲れないはずがない。
その千恵理が、勘違いでしかないとはいえ、少しでも重荷を下ろしたと感じられるのだとしたら、それはとても良い事だと、思う。
だから、今はただ、千恵理の表情が僅かにでも和らいだことを喜ぶことにした。
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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