碧ちゃんの話
10 小岩井 碧
1
歩きながら、吊られた右腕に目をやる。
ギプスで固められたそこには、骨の髄を侵すような鈍い痛みはあるけれど、痛み止めのせいか気にしなくてはいけないほどではない。
ここまで歩いてくる中でそれなりに衝撃を受けもしたけれど、それで何かあったということもない。
折ってからまだ一日しか経っていないのに、痛み止めが効いているとはいえこの程度しか痛みがないという事は、やはり大した怪我ではなかったのだろう。
気にしなければ忘れる程度の事だ。
真夏の日差しに照らされた全身を覆う汗がギプスの中で蒸れているが、それも特に気になっているわけでもない。
別段困りもしない。
固められて動かしにくい事の方が気になる程度の、有っても大して変わりのない、どうでもいい傷。
まぁ、別に良い。支障があるわけでもない。
ただその思い通りにならない腕が、周囲の迷惑にならないようにだけ気を使いながら歩く。
長期休暇の昼の最中、ではあるけれど、この照り付ける真夏の陽射しに人々は少しでも涼しい場所を求めているのだろう。人通りはそれに相応しい程には多くない。
通りの左右を埋める店々も、この暑い最中に真面目に働く気はないのだろう。積極的に客を迎えようという気概は見えなかった。
混んでいるという程騒々しくもなく、閑散としているという程寂しくもない。目的もなく歩くには──いや部屋に帰ろうとしているのだけれど、帰りたいと思って歩いているのではなく、太陽からの熱に足取り定まらずフラフラとうろつくにはちょうどいい塩梅の街並み。
少々の不自由はあるけれど、特筆すべきことは何もなく、心の中に何かがあるとしても、押し殺せる程度のそれを隠して人は平穏を謳歌している。
世は並べてことも無し。
そうやって生きている全ての人を、そうやってこの世界を作っている全ての人を、とても尊い物だと思う。
そんな取り留めのない事を思いながら、そうやって世界を見て歩く。
みんなが嬉しければ自分も嬉しい。例えそれが、その相手の顔の判別もつかない様な、壊れかけた画面の向こうのことだとしても、その様子を眺めることはとても心躍る事だった。
ふと、足が止まる。意識してのことではない。立ち止まる様な場所ではないし、その理由もない。
何故だろう、と一瞬首を捻ったところで気が付いた。
そう。ちょうどここだった。あの時に足を止めたちょうどその場所。
そう気付いたちょうどその時、その目の前の同じ十字路を、前の時とは逆に横切って、少女がいた。
碧い少女だった。
風を孕んで膨らんだ碧い黒髪。
凛として研ぎ澄まされた横顔が、こちらへは左側を向けて、真っ直ぐに前に向けられている。
あの時から、ずっと忘れられなかった。
ノイズ混じりのこの世界の中で、唯一はっきりとその存在を表す色なのだから。
まだ幼いと言える年齢。肉体年齢だけで言えば、百人いれば百人がまだ子供だと答えるだろう。
その中でも、見る人に拠っては幼女と呼ぶだろう外見。
だというのに、すらりとして立つその姿勢は子供を感じさせない。何も恥じることのないと言わんばかりに前へと進むその歩は、その子供ではない少女の、今までの、そしてこれからの生き様を表している。
空に融け、空そのものだと錯覚させるほどの碧さは、その服装が碧いからだけではない。その研ぎ澄まされた透明感が、風を孕んで膨らんだ碧い黒髪が、空を透けさせているからだけでもない。
手の届かない孤空の紺碧。
窺い知れない深淵の深碧。
遥か彼方、手の届かない場所。届かないとわかっていて、それでも手を伸ばす事こそが尊いのだと、そう教えてくれる眼差し。
昔、とある国では空が落ちて来るのではないかと憂いていたらしい。
空が落ちて来て、潰されるその瞬間。空に手を届かせることが出来るのではないかと。
空が落ちるのはいつなのかと、空に触れることが出来るのはいつになるのだろうかと憂いていたらしい。
そんな事は杞憂に過ぎない。落ちてこないから空なのだ。
引き摺り落とされればそれはもう空ではない。自分と同じところまで落ちてくればそれはもう空ではない。
只人がどれだけ待とうがどれだけ願おうが、そんな事など意にも介さずにただそこに在って堕ちてこないから空なのだ。
この世界に在るのに、手を伸ばせば届きそうに見えるのに、決して手が届く事はない。どれだけ乞い願おうが堕ちて来る事はない。
それを教えてくれる眼差しが、彼女を空の碧に見せているのだろう。
その背後に付き従って、今日もやはり妙さんがいた。
碧ちゃんのそこに居るに相応しく在ろうとしているのだろう。同じ様に真っ直ぐと背筋を伸ばし、真っ直ぐと視線を前へと、自分の主のいる前へと向けている。
そこにそうしているだけで、落ちて来いなどと願わずにそこに居続けることが出来るというそれだけで、自らの存在に一億円くらいの価値はあるともう示せていると、自分などはそう思う。
その少女の視線が、ふっとこちらに向いた。
孤高を感じさせながらも他を気遣う事の出来るその視線が、こちらへと向けられる。
その眼差しが、おや、という様に揺れて、立ち止まり、その体を自分の方へと向けた。
やはり、美人だと思う。
顔立ちが整っているからではない。いや勿論それも理由のひとつではあるのだけれど、その迷いのない凛とした佇まいが否応なしにそう見せているのだろう。
身を翻したことで乱れた髪を、碧ちゃんがふわりと掻き上げた。
一本一本しなやかに膨らんだ碧の黒髪が、空の碧を受けて、眩い真夏の陽射しを受けて、七色に輝いた。
少しだけ首を振って、それだけで整うしなやかな髪を揃えてから、碧ちゃんはあの時とは違い、今日はゆっくりとこちらへと歩いて来た。
その背後で、何か言いたげな顔をしながら妙さんが付き従う。
自分の少し前、斜め四十五度に見下ろす位置で碧ちゃんが歩を止めた。
遠目で見るだけの時は気付かなかったけれど、この距離で顔を合わせると左の眦の下、角度によってはちょうど大きなトンボ眼鏡で隠れる辺りに、小さく黒子があった。
もしかしたら、この不自然に大きな丸眼鏡はこれを隠すためのものなのだろうか。
かわいいのに、隠してしまうのは勿体ないとは思うけれど、何をどう感じてどう思うかは人それぞれだ。他人がどうこう言うことではない。
かわいいのに勿体ないけれど。
そう言えば、緑は碧ちゃんの真似をしている時は、自分の黒子を化粧で消して反対側に書き込んでいたけれど、碧ちゃんをこの距離で見て初めてその理由がわかった。
この少女と同じ目線の高さで彼女を眺めてみたい、と思ったけれど、よく考えて見ればそれは子供扱いだ。
そんなつもりではなくても、そんなことをすれば脛くらいは蹴られても仕方がない、と我慢する。
「手助けが必要かと思いましたが──」
そんな不遜な事を考えているとは気付いていないのだろう。碧ちゃんはそう言って、こちらの右腕へと視線を向けた。
それを追って視線を落とす。
ほんの一瞬前までは気にしていた気がするけれど、碧ちゃんを見つけた瞬間に忘れてしまっていた。そのくらいにどうでもいい傷。
「わたくしに出来る事はなさそうですわね」
既に治療が済んでギプスで固められた状態で出来る事など、どんな名医にもないだろう。
「うん。ありがとう」
そう言うと、碧ちゃんは静かに目を細めた。今度は何に対しての礼かとは聞かない。
自分もそれに笑い返した。
碧ちゃんが喜んでくれたのだから、自分も嬉しい。当たり前の話。
その碧ちゃんの背後で、妙さんが苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
大切なお嬢様に不審人物が声を掛けていることを苦々しく思っているのだろうけれど、それに口は出さない。
主人の会話を、メイドである自分が邪魔をするわけにはいかないということなのだろう。
本人の意志には反するけれど、妙さんは護衛よりもメイドの方が向いていると思う。
メイドとしては、主人の行動を邪魔をしないというのは当然のことなのかも知れないけれど、護衛としては自分のような不審人物を主人に近付けるのは正しい判断ではないだろうから。
そういえば、前に会った時の別れ際に、碧ちゃんは校外学習でしばらくいないという話は教えて貰っていたけれど、今日帰って来るという話は聞いていなかった。
そのことについて視線を向けると、妙さんは何事もないかのように、誤魔化す様にそっぽを向いた。
多分、わざと教えてくれなかったのだろう。
勿論、そもそも教えてくれる義理などないのだから、実際にはいないことを教えてくれただけで充分親切なのだけれど。
「緑を助けていただいたと聞きました。ありがとうございます」
背後の事に気付いていないのかわかった上で気にしていないのか、碧ちゃんがそう言ってこちらを見詰めた。
「あんなでも姉ですから。居なくなってしまっては寂しいですから」
言葉だけでは伝わらない感謝の気持ちを伝えようとしているのだろうか。こちらを真っ直ぐに見詰めている。
緑は碧ちゃんに対して複雑な感情があるようだけれど、碧ちゃんからは純粋に緑の事を大切に思っているのだという事が、その真剣な瞳から見て取れた。
「うん、助けられてよかった」
緑を助けられたことは勿論だけれど、このまっすぐな瞳を曇らせずに済んだ事も嬉しかった。
「そうだ。聞きたいことがあったんだ」
ありがとう、で思い出した。
「答えられるかどうかはわかりませんけれど」
そう言って碧ちゃんは、よく見ていてもわかるかどうか微妙な程に、ほんの微かだけ首を倒した。
多分、何を聞かれるのかという疑問の仕草なのだろう。もしかしたら本人もそうしている事に気付いていないのかもしれない。
「ありがとう、と言った感謝の言葉を受け取ってくれたよね。どうしてだろう、って不思議だったんだ」
普通であれば、そんなことは当たり前のことだ。
けれどあの後、誰に聞いても碧ちゃんにとってそれは普通ではないと言う。であるのならば、何故あの時だけ違ったのか。それがどうしても気になって仕方がなかった。
「ああ……」
そんな事か、という様に碧ちゃんは目を細めた。そんな事を気にするなんて面白い……という様な表情をしてから、不意にそれが怪訝そうに歪んだ。
「どうかした?」
何がそんなに不思議なんだろう。目の前の少女のことなど何も知らない自分には、その表情からだけではわからない。
「あ……いえ」
気を取り直したように、碧ちゃんがこちらへと向き直った。
考えて見れば大したことではなかったということなのだろう。
「大した理由ではありませんわ。あの時、気に掛けてくれた事と気に掛けないでくれた事に対してお礼を言った、とおっしゃいましたわね」
確かに、そう言った。深く考えての言葉ではないし、自分でもどういう意味でそんなことを言ったのかはわかっていないけれど、思い返してみても、間違ったことは言っていないと確信できる言葉だった。
「何もしなかったことに礼を言われたのは初めてだったのと──それから、気に掛けた事と気に掛けなかった事両方に対して、ということは、貴方にとってその加減がちょうど良かった、ということですわよね」
そう……そうだ。
心配してくれたことが嬉しかった。
こちらの意図を汲んで、過剰に手を出さないでくれたことが嬉しかった。
その両方が嬉しかったから、その両方に対して礼を言ったのだ。
「わたくし、他人の都合など考えずに自分がそうと思ったことをする性質ですから……」
そう言ってあの時と同じように。
よくよく観察していても気付かない程に。
動きと言うよりもその気配のみで、その雰囲気のみで──少女は微かに目を細めた。
「自分のしたことがちょうど良かった、と言われたのは初めてでしたの」
ちょうどいい。それだけで、とも思う
いや、勿論言いたいことはわかる。この普通とは言い難い少女にとって、他人と同じということ、それ自体が貴重なのだということは。
他人に気を使ったつもりなのに薄情だと言われたり、感謝はするけれどやり過ぎだと言われたり。そう言う事が常なのだろう。
あの時に自分が言われたように、怪我を見て何かする必要は無いと言われれば、例え本人もそう思っていても気に触る人もいると思う。
逆に……
ちらと碧ちゃんの背後を窺う。
妙さんが微妙な顔をしていた。碧ちゃんの、自分がされたちょうど良くなさを思い出しているのだろう。
初対面の人の自殺しようという事情に踏み込んで、しかも一億も出すなど、行き過ぎだと言われることだと思う。
それでも、そうとわかっていても、碧ちゃんはそうするのだろう。それをしないのは自分ではないから、と。
例え自分が傷付いても。傷付けられても。
嫌なことがあれば忘れてしまえばいい。
自分の他人との関わりは、それだった。
嫌なことがあればそれから目を逸らし、ぐるぐる巻きに縛り上げて、心の戸棚の奥深くにしまい込み、そこにも幾重にも鍵をかけてなかったことにする。
それでも時折漏れ出したそれに、壁に頭を打ちつけるのだ。
けれど、碧ちゃんには忘れることが出来ない。
完全記憶というそれは、忘れることが出来ないと言うのは、どれほど辛いことなのだろうか
目を逸らすことぐらいは出来るのだと思う。けれど、それがそこにあると言うこと自体は忘れることが出来ずに、それを一生抱え続けていかなければいけないのだろう。
自分が道を外れた事をすれば、胸を張る事が出来ない間違いを犯せば、それは決して抜ける事のない、自分の背中を刺す針となる。
一つ一つは大した事は無い、無視できる程度の微かな痛みでしかないのかもしれない。けれど、忘れることが……無くなる事がない以上、それは生涯積み上がり続け、いずれ背負い続けることも出来ない巨大な針山となる。
それを背負って、痛みと重さに這いつくばりながら生涯を進まなければいけないと言うのは、どれほど辛いことなのか。嫌な事は全て忘れる、忘れたふりをして生きて来た自分などにはわかりようがない。
だから碧ちゃんはまっすぐ前を見つめているのだろう。
例えほんのわずかでも後悔をするようなことをしてしまえば、道を外れたと思うことがあれば、それは背中に重く圧し掛かる小さな針の一本となるのだから。
たとえそのせいで不利益を被っても、或いは相手から斬りつけられる痛みを与えられたとしても、それはその時ばかりの一時的なものでしかない。
自分で刺した、針のような小さな痛みが一生続くよりは、結果的にずっと楽だとわかりきっているのだから。
勿論、それは間違った自分を許せないと言う気高さがあってのことなのだけれど。
普通の人間ならば、自分が間違いを犯そうが汚れようが気にする事のない、目先の得の方が大切だと思う様な人間ならば、そうではないだろう。
でもそれがわかっていたからといって、それを選ぶことは難しいことだと思う。
この程度なら、少しだけなら。そう言って、その場その場で自分を甘やかすのが人間と言うものなのだから。自分が1番よく知っている。
本当にこの子はすごい子だと思う
その決意を持って今まで生きていられれば、自分もこんな風になれたのだろうかと少しだけ考えて、首を振った。
自分とこの少女とは違う。同じ生き方をしても同じにはなれない。自分はこんなに強くはなれない。
けれど。
その手の届かない孤空の碧を見詰めることは、眩しさに目を細めながらも、憧れることすら出来ないそれを見詰め続けることは、しても許されるのではないかと思う。
妙さんの表情を窺っていたこちらの視線に気付いたのだろう。碧ちゃんがちらりと背後に視線を向けた。
「わたくしも死のうとしている方、全てに口を挟むわけではありませんわ。あれはお金という如何とでも解決出来る問題に、命を捨てるのは無駄だと思っただけです。そんな簡単に解決出来る事ではなく、死ぬことが最大の救いだという場合がある事は、わたくしも知っています」
死が救いかどうかはわからないけれど──恐らく一生病室から出られず、しあわせなままに最後まで在ることが救いだということもあるだろう。
それが早いか遅いかで何も変わる事はないのだというだけだ。
「ですから、そのような方の邪魔をするつもりはありませんわ。例えば──」
そう言って、碧ちゃんは空を見上げた。つられて自分も振り向き気味に空を見上げる。
世界の果てまで突き抜けていそうな碧い空の只中に、月が浮かんでいた。
空を繰り抜いたような白い月。そこだけが違う世界に繋がる穴のような、この透き通る程に碧い空に於いて唯一の異質な存在。
「この月のように、自分がこの世界にいる事自体に違和感を感じているのならば」
確かに、月は夜にこそ出るべきものなのかもしれない。
月とは夜を象徴する物だ。
それが昼の世界に現れるべきではない、いるべき世界を間違っている。そう言われれば確かにその通りだ、と普通に納得してしまうくらい、それは自然な話だった。
「でも、だからこそ、それでもこの世界に留まることを選べるのは、素晴らしい事だと思いますわ」
そう言って、碧ちゃんは月を見上げたまま目を細めた。
眩しいからなのか、笑っているのか。
その表情からだけではわからなかった。
「……でも」
それは確かにその通りだと思う。その昼の世界にとって、月はここにいるべきではない異邦人なのだと言われれば、その通りだと思う。
けれど。
「月は太陽に照らされて無理に光らされているよりも、こうして薄ぼんやりといるのかいないのかわからない、今急にいなくなっても誰も気付かないくらい周囲に溶け込んでいる今の方が、自然でいるように見えるよ」
月だって光りたくて光っているわけではない。月とは、太陽の鏡だ。太陽に照らされて、自分が光っているわけでもないのに望むと望まざるとに関わらず、否が応でも光らされているのだ。
だからこそ月の光は、太陽に直接照らされて輝いているこの空を薄めたような、紙一重で闇に溶け堕ちて行く様な蒼白をしているのだろう。
別に大した言葉ではない、自分でも考えての発言ではない。ただ見たまま感じたまま、口をついて出ただけの言葉。
なのにそれを聞くと、碧ちゃんはこちらに向き直り、一瞬だけ真剣そうな表情をした後、見てわかる程に目を細めて笑った。
「そうですわね。当の月からしたら、そうなのかもしれませんわね」
そう言って、口角を僅かに上げた。
初めて見る表情だった。
何がそんなに面白いのだろう、と思ったけれど、碧ちゃんのことなど何も知らない自分が知らないだけで、もしかしたら普段はこんな風に笑うのかもしれない。
それから、碧ちゃんは妙さんの方に視線を向けて悪戯気に目を細めて見せた。
「尤も、あの時はどのような理由であっても止めましたけれど。うちの会社所有のビルで飛び降りなどされて、事故物件にされてはビルの価値が下がってしまいますもの」
嘘ではないけれど、本心でもないのだろう。
背後でそれを聞いている妙さんの表情が変わらない事からもわかった。
「そういうわけですから、ありがとうと言っていただいたその理由に納得出来たから受け取ったという、ただそれだけのことですわ」
碧ちゃんはなんでもないことのようにそう言った。
でもだからといって、それだけでこの少女を知る人間全てが驚くような態度を、自分に対して取って見せたということがよくわからない。
この少女に……他人を寄せ付けないのに他人を見捨てられないこの少女に、本心から感謝してお礼を言った人が今までいなかったわけではないだろう。
でも、ひとつ、それでわかったことがある。
ちょうど良い。
ああ、そうか。
そういうことか。
物心付いてからずっと、当たり前過ぎて疑問にすら思わなくなっていたそれが、すっと腑に落ちた。
そう、ちょうど良かったのだ。
きっと、自分にとってこの世界が壊れた画面のように見えているのは、自分の意識の焦点が、自分の見たい物が、この世界ではないからなのだろう。
手の届かない孤空の紺碧。
窺い知れない深淵の深碧。
この世界から、現実から目を逸らした自分の意識の焦点は、自分の理想とする世界へと合わせられていたのだろう。
この世界の、すぐ目の前に見えていて、触れる事も出来る物達があるこことは、掛け離れた遠い場所。
その焦点が合った場所が、たまたまちょうどこの少女がいる場所だった。
だから、それ以外の全ての物は焦点が合わずにぼやけて見えていたのだ。
そう、碧ちゃんが特別なのではない。自分にとって特別なその場所に、ちょうど碧ちゃんがいたという、それはただの偶然でしかない。
けれど、その場所にいる人を、自分が見たいと思っていたその存在を見つけたのは必然。
焦点の合わない壊れた画面のような景色の中で、唯一それだけが鮮やかに見えるものなのだから。
世界で唯一、ぼやけることもなく鮮やかな色彩を放つその人を見詰める。
碧ちゃんは、何がそんなに面白いのかはわからないけれど、口角を上げる笑い方をしていた。
今日、この短い間だけで、この少女の色々な表情を見た。見た目には僅かにしか違わない、興味のない人からすれば誤差でしかないと言うかもしれない、けれど明らかに違う感情の込められた様々な表情。その瞬間瞬間にしか存在しない表情。
これから先、大人びた少女から大人の女性へと成長していく間にも、その時にしか存在しない様々な姿を見せていくのだろう。
いや。今までの、子供から少女へと変わる間も、子供になるまでのその前も、その時にしか存在しない姿を見せていたのだろう。
それより前は仕方なかったにしても、この街に来てからの三年間は、出会ってさえいればそれを見守る機会はあったはずだ。
そのことが無性に惜しい。
碧ちゃんがこの世界に産まれてから今までの、無駄にしてしまった時間が惜しくて仕方がない。
だからせめて、これから先のその全てを見たい。碧ちゃんがこれから見せていくだろうその姿の、何一つとして見逃したくない。
「ああ、成程──」
初めてわかった。
この気持ちがきっと、
「好きです」
そういう感情なのだろう。
言った本人ですら、それが出て来るとは想像もしていなかったその言葉に、碧ちゃんの目が僅かに見開かれた。
これもまた初めての表情だ。
碧ちゃんは、そう見えるだけで吊り目では無い事はわかっていたけれど、こうして見るとむしろ垂れ気味なのかもしれない。
けれどその表情も一瞬のことで──それを見る事が出来たことに胸の奥で喜びを噛みしめて──碧ちゃんは真顔になって、心の奥底の本心を覗き込もうとするような真剣な眼差しで、こちらを見つめ返して来た。
身長差から上を向いたレンズに空の碧が映り、その奥の瞳を碧く染めている。
レンズに映っている分だけ、瞳に映っている分だけ、その空は、普段見上げているものよりも、ほんの少しだけ近く見えた。
その背後で、妙さんが凄い顔をしていた。
気持ちはわかる。今の自分がただの不審者でしかない事は、自分が一番よくわかっている。そんな奴が大切なお嬢様にこの距離まで近づくことに怒りを覚えるのは当然のことだと思う。
今日も妙さんは碧ちゃんの事が大好きらしい。怒らせてしまって申し訳ないと思いつつ、とても微笑ましい。
碧ちゃん越しに、妙さんを含めてその背後に広がる世界を見る。
相変わらず色はないけれど、壊れた画面のような、世界を隔てるかのようなノイズ越しの景色ではなくなっていた。
やはり自分の思い違いでしかなかった。
自分とこの世界とは、自分の思っていた程離れてはいなかった。
だって、自分にとって唯一見えるものは、自分が見たいと思っていた物は、他でもないこの世界にあったのだから。
ギプスで固められたそこには、骨の髄を侵すような鈍い痛みはあるけれど、痛み止めのせいか気にしなくてはいけないほどではない。
ここまで歩いてくる中でそれなりに衝撃を受けもしたけれど、それで何かあったということもない。
折ってからまだ一日しか経っていないのに、痛み止めが効いているとはいえこの程度しか痛みがないという事は、やはり大した怪我ではなかったのだろう。
気にしなければ忘れる程度の事だ。
真夏の日差しに照らされた全身を覆う汗がギプスの中で蒸れているが、それも特に気になっているわけでもない。
別段困りもしない。
固められて動かしにくい事の方が気になる程度の、有っても大して変わりのない、どうでもいい傷。
まぁ、別に良い。支障があるわけでもない。
ただその思い通りにならない腕が、周囲の迷惑にならないようにだけ気を使いながら歩く。
長期休暇の昼の最中、ではあるけれど、この照り付ける真夏の陽射しに人々は少しでも涼しい場所を求めているのだろう。人通りはそれに相応しい程には多くない。
通りの左右を埋める店々も、この暑い最中に真面目に働く気はないのだろう。積極的に客を迎えようという気概は見えなかった。
混んでいるという程騒々しくもなく、閑散としているという程寂しくもない。目的もなく歩くには──いや部屋に帰ろうとしているのだけれど、帰りたいと思って歩いているのではなく、太陽からの熱に足取り定まらずフラフラとうろつくにはちょうどいい塩梅の街並み。
少々の不自由はあるけれど、特筆すべきことは何もなく、心の中に何かがあるとしても、押し殺せる程度のそれを隠して人は平穏を謳歌している。
世は並べてことも無し。
そうやって生きている全ての人を、そうやってこの世界を作っている全ての人を、とても尊い物だと思う。
そんな取り留めのない事を思いながら、そうやって世界を見て歩く。
みんなが嬉しければ自分も嬉しい。例えそれが、その相手の顔の判別もつかない様な、壊れかけた画面の向こうのことだとしても、その様子を眺めることはとても心躍る事だった。
ふと、足が止まる。意識してのことではない。立ち止まる様な場所ではないし、その理由もない。
何故だろう、と一瞬首を捻ったところで気が付いた。
そう。ちょうどここだった。あの時に足を止めたちょうどその場所。
そう気付いたちょうどその時、その目の前の同じ十字路を、前の時とは逆に横切って、少女がいた。
碧い少女だった。
風を孕んで膨らんだ碧い黒髪。
凛として研ぎ澄まされた横顔が、こちらへは左側を向けて、真っ直ぐに前に向けられている。
あの時から、ずっと忘れられなかった。
ノイズ混じりのこの世界の中で、唯一はっきりとその存在を表す色なのだから。
まだ幼いと言える年齢。肉体年齢だけで言えば、百人いれば百人がまだ子供だと答えるだろう。
その中でも、見る人に拠っては幼女と呼ぶだろう外見。
だというのに、すらりとして立つその姿勢は子供を感じさせない。何も恥じることのないと言わんばかりに前へと進むその歩は、その子供ではない少女の、今までの、そしてこれからの生き様を表している。
空に融け、空そのものだと錯覚させるほどの碧さは、その服装が碧いからだけではない。その研ぎ澄まされた透明感が、風を孕んで膨らんだ碧い黒髪が、空を透けさせているからだけでもない。
手の届かない孤空の紺碧。
窺い知れない深淵の深碧。
遥か彼方、手の届かない場所。届かないとわかっていて、それでも手を伸ばす事こそが尊いのだと、そう教えてくれる眼差し。
昔、とある国では空が落ちて来るのではないかと憂いていたらしい。
空が落ちて来て、潰されるその瞬間。空に手を届かせることが出来るのではないかと。
空が落ちるのはいつなのかと、空に触れることが出来るのはいつになるのだろうかと憂いていたらしい。
そんな事は杞憂に過ぎない。落ちてこないから空なのだ。
引き摺り落とされればそれはもう空ではない。自分と同じところまで落ちてくればそれはもう空ではない。
只人がどれだけ待とうがどれだけ願おうが、そんな事など意にも介さずにただそこに在って堕ちてこないから空なのだ。
この世界に在るのに、手を伸ばせば届きそうに見えるのに、決して手が届く事はない。どれだけ乞い願おうが堕ちて来る事はない。
それを教えてくれる眼差しが、彼女を空の碧に見せているのだろう。
その背後に付き従って、今日もやはり妙さんがいた。
碧ちゃんのそこに居るに相応しく在ろうとしているのだろう。同じ様に真っ直ぐと背筋を伸ばし、真っ直ぐと視線を前へと、自分の主のいる前へと向けている。
そこにそうしているだけで、落ちて来いなどと願わずにそこに居続けることが出来るというそれだけで、自らの存在に一億円くらいの価値はあるともう示せていると、自分などはそう思う。
その少女の視線が、ふっとこちらに向いた。
孤高を感じさせながらも他を気遣う事の出来るその視線が、こちらへと向けられる。
その眼差しが、おや、という様に揺れて、立ち止まり、その体を自分の方へと向けた。
やはり、美人だと思う。
顔立ちが整っているからではない。いや勿論それも理由のひとつではあるのだけれど、その迷いのない凛とした佇まいが否応なしにそう見せているのだろう。
身を翻したことで乱れた髪を、碧ちゃんがふわりと掻き上げた。
一本一本しなやかに膨らんだ碧の黒髪が、空の碧を受けて、眩い真夏の陽射しを受けて、七色に輝いた。
少しだけ首を振って、それだけで整うしなやかな髪を揃えてから、碧ちゃんはあの時とは違い、今日はゆっくりとこちらへと歩いて来た。
その背後で、何か言いたげな顔をしながら妙さんが付き従う。
自分の少し前、斜め四十五度に見下ろす位置で碧ちゃんが歩を止めた。
遠目で見るだけの時は気付かなかったけれど、この距離で顔を合わせると左の眦の下、角度によってはちょうど大きなトンボ眼鏡で隠れる辺りに、小さく黒子があった。
もしかしたら、この不自然に大きな丸眼鏡はこれを隠すためのものなのだろうか。
かわいいのに、隠してしまうのは勿体ないとは思うけれど、何をどう感じてどう思うかは人それぞれだ。他人がどうこう言うことではない。
かわいいのに勿体ないけれど。
そう言えば、緑は碧ちゃんの真似をしている時は、自分の黒子を化粧で消して反対側に書き込んでいたけれど、碧ちゃんをこの距離で見て初めてその理由がわかった。
この少女と同じ目線の高さで彼女を眺めてみたい、と思ったけれど、よく考えて見ればそれは子供扱いだ。
そんなつもりではなくても、そんなことをすれば脛くらいは蹴られても仕方がない、と我慢する。
「手助けが必要かと思いましたが──」
そんな不遜な事を考えているとは気付いていないのだろう。碧ちゃんはそう言って、こちらの右腕へと視線を向けた。
それを追って視線を落とす。
ほんの一瞬前までは気にしていた気がするけれど、碧ちゃんを見つけた瞬間に忘れてしまっていた。そのくらいにどうでもいい傷。
「わたくしに出来る事はなさそうですわね」
既に治療が済んでギプスで固められた状態で出来る事など、どんな名医にもないだろう。
「うん。ありがとう」
そう言うと、碧ちゃんは静かに目を細めた。今度は何に対しての礼かとは聞かない。
自分もそれに笑い返した。
碧ちゃんが喜んでくれたのだから、自分も嬉しい。当たり前の話。
その碧ちゃんの背後で、妙さんが苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
大切なお嬢様に不審人物が声を掛けていることを苦々しく思っているのだろうけれど、それに口は出さない。
主人の会話を、メイドである自分が邪魔をするわけにはいかないということなのだろう。
本人の意志には反するけれど、妙さんは護衛よりもメイドの方が向いていると思う。
メイドとしては、主人の行動を邪魔をしないというのは当然のことなのかも知れないけれど、護衛としては自分のような不審人物を主人に近付けるのは正しい判断ではないだろうから。
そういえば、前に会った時の別れ際に、碧ちゃんは校外学習でしばらくいないという話は教えて貰っていたけれど、今日帰って来るという話は聞いていなかった。
そのことについて視線を向けると、妙さんは何事もないかのように、誤魔化す様にそっぽを向いた。
多分、わざと教えてくれなかったのだろう。
勿論、そもそも教えてくれる義理などないのだから、実際にはいないことを教えてくれただけで充分親切なのだけれど。
「緑を助けていただいたと聞きました。ありがとうございます」
背後の事に気付いていないのかわかった上で気にしていないのか、碧ちゃんがそう言ってこちらを見詰めた。
「あんなでも姉ですから。居なくなってしまっては寂しいですから」
言葉だけでは伝わらない感謝の気持ちを伝えようとしているのだろうか。こちらを真っ直ぐに見詰めている。
緑は碧ちゃんに対して複雑な感情があるようだけれど、碧ちゃんからは純粋に緑の事を大切に思っているのだという事が、その真剣な瞳から見て取れた。
「うん、助けられてよかった」
緑を助けられたことは勿論だけれど、このまっすぐな瞳を曇らせずに済んだ事も嬉しかった。
「そうだ。聞きたいことがあったんだ」
ありがとう、で思い出した。
「答えられるかどうかはわかりませんけれど」
そう言って碧ちゃんは、よく見ていてもわかるかどうか微妙な程に、ほんの微かだけ首を倒した。
多分、何を聞かれるのかという疑問の仕草なのだろう。もしかしたら本人もそうしている事に気付いていないのかもしれない。
「ありがとう、と言った感謝の言葉を受け取ってくれたよね。どうしてだろう、って不思議だったんだ」
普通であれば、そんなことは当たり前のことだ。
けれどあの後、誰に聞いても碧ちゃんにとってそれは普通ではないと言う。であるのならば、何故あの時だけ違ったのか。それがどうしても気になって仕方がなかった。
「ああ……」
そんな事か、という様に碧ちゃんは目を細めた。そんな事を気にするなんて面白い……という様な表情をしてから、不意にそれが怪訝そうに歪んだ。
「どうかした?」
何がそんなに不思議なんだろう。目の前の少女のことなど何も知らない自分には、その表情からだけではわからない。
「あ……いえ」
気を取り直したように、碧ちゃんがこちらへと向き直った。
考えて見れば大したことではなかったということなのだろう。
「大した理由ではありませんわ。あの時、気に掛けてくれた事と気に掛けないでくれた事に対してお礼を言った、とおっしゃいましたわね」
確かに、そう言った。深く考えての言葉ではないし、自分でもどういう意味でそんなことを言ったのかはわかっていないけれど、思い返してみても、間違ったことは言っていないと確信できる言葉だった。
「何もしなかったことに礼を言われたのは初めてだったのと──それから、気に掛けた事と気に掛けなかった事両方に対して、ということは、貴方にとってその加減がちょうど良かった、ということですわよね」
そう……そうだ。
心配してくれたことが嬉しかった。
こちらの意図を汲んで、過剰に手を出さないでくれたことが嬉しかった。
その両方が嬉しかったから、その両方に対して礼を言ったのだ。
「わたくし、他人の都合など考えずに自分がそうと思ったことをする性質ですから……」
そう言ってあの時と同じように。
よくよく観察していても気付かない程に。
動きと言うよりもその気配のみで、その雰囲気のみで──少女は微かに目を細めた。
「自分のしたことがちょうど良かった、と言われたのは初めてでしたの」
ちょうどいい。それだけで、とも思う
いや、勿論言いたいことはわかる。この普通とは言い難い少女にとって、他人と同じということ、それ自体が貴重なのだということは。
他人に気を使ったつもりなのに薄情だと言われたり、感謝はするけれどやり過ぎだと言われたり。そう言う事が常なのだろう。
あの時に自分が言われたように、怪我を見て何かする必要は無いと言われれば、例え本人もそう思っていても気に触る人もいると思う。
逆に……
ちらと碧ちゃんの背後を窺う。
妙さんが微妙な顔をしていた。碧ちゃんの、自分がされたちょうど良くなさを思い出しているのだろう。
初対面の人の自殺しようという事情に踏み込んで、しかも一億も出すなど、行き過ぎだと言われることだと思う。
それでも、そうとわかっていても、碧ちゃんはそうするのだろう。それをしないのは自分ではないから、と。
例え自分が傷付いても。傷付けられても。
嫌なことがあれば忘れてしまえばいい。
自分の他人との関わりは、それだった。
嫌なことがあればそれから目を逸らし、ぐるぐる巻きに縛り上げて、心の戸棚の奥深くにしまい込み、そこにも幾重にも鍵をかけてなかったことにする。
それでも時折漏れ出したそれに、壁に頭を打ちつけるのだ。
けれど、碧ちゃんには忘れることが出来ない。
完全記憶というそれは、忘れることが出来ないと言うのは、どれほど辛いことなのだろうか
目を逸らすことぐらいは出来るのだと思う。けれど、それがそこにあると言うこと自体は忘れることが出来ずに、それを一生抱え続けていかなければいけないのだろう。
自分が道を外れた事をすれば、胸を張る事が出来ない間違いを犯せば、それは決して抜ける事のない、自分の背中を刺す針となる。
一つ一つは大した事は無い、無視できる程度の微かな痛みでしかないのかもしれない。けれど、忘れることが……無くなる事がない以上、それは生涯積み上がり続け、いずれ背負い続けることも出来ない巨大な針山となる。
それを背負って、痛みと重さに這いつくばりながら生涯を進まなければいけないと言うのは、どれほど辛いことなのか。嫌な事は全て忘れる、忘れたふりをして生きて来た自分などにはわかりようがない。
だから碧ちゃんはまっすぐ前を見つめているのだろう。
例えほんのわずかでも後悔をするようなことをしてしまえば、道を外れたと思うことがあれば、それは背中に重く圧し掛かる小さな針の一本となるのだから。
たとえそのせいで不利益を被っても、或いは相手から斬りつけられる痛みを与えられたとしても、それはその時ばかりの一時的なものでしかない。
自分で刺した、針のような小さな痛みが一生続くよりは、結果的にずっと楽だとわかりきっているのだから。
勿論、それは間違った自分を許せないと言う気高さがあってのことなのだけれど。
普通の人間ならば、自分が間違いを犯そうが汚れようが気にする事のない、目先の得の方が大切だと思う様な人間ならば、そうではないだろう。
でもそれがわかっていたからといって、それを選ぶことは難しいことだと思う。
この程度なら、少しだけなら。そう言って、その場その場で自分を甘やかすのが人間と言うものなのだから。自分が1番よく知っている。
本当にこの子はすごい子だと思う
その決意を持って今まで生きていられれば、自分もこんな風になれたのだろうかと少しだけ考えて、首を振った。
自分とこの少女とは違う。同じ生き方をしても同じにはなれない。自分はこんなに強くはなれない。
けれど。
その手の届かない孤空の碧を見詰めることは、眩しさに目を細めながらも、憧れることすら出来ないそれを見詰め続けることは、しても許されるのではないかと思う。
妙さんの表情を窺っていたこちらの視線に気付いたのだろう。碧ちゃんがちらりと背後に視線を向けた。
「わたくしも死のうとしている方、全てに口を挟むわけではありませんわ。あれはお金という如何とでも解決出来る問題に、命を捨てるのは無駄だと思っただけです。そんな簡単に解決出来る事ではなく、死ぬことが最大の救いだという場合がある事は、わたくしも知っています」
死が救いかどうかはわからないけれど──恐らく一生病室から出られず、しあわせなままに最後まで在ることが救いだということもあるだろう。
それが早いか遅いかで何も変わる事はないのだというだけだ。
「ですから、そのような方の邪魔をするつもりはありませんわ。例えば──」
そう言って、碧ちゃんは空を見上げた。つられて自分も振り向き気味に空を見上げる。
世界の果てまで突き抜けていそうな碧い空の只中に、月が浮かんでいた。
空を繰り抜いたような白い月。そこだけが違う世界に繋がる穴のような、この透き通る程に碧い空に於いて唯一の異質な存在。
「この月のように、自分がこの世界にいる事自体に違和感を感じているのならば」
確かに、月は夜にこそ出るべきものなのかもしれない。
月とは夜を象徴する物だ。
それが昼の世界に現れるべきではない、いるべき世界を間違っている。そう言われれば確かにその通りだ、と普通に納得してしまうくらい、それは自然な話だった。
「でも、だからこそ、それでもこの世界に留まることを選べるのは、素晴らしい事だと思いますわ」
そう言って、碧ちゃんは月を見上げたまま目を細めた。
眩しいからなのか、笑っているのか。
その表情からだけではわからなかった。
「……でも」
それは確かにその通りだと思う。その昼の世界にとって、月はここにいるべきではない異邦人なのだと言われれば、その通りだと思う。
けれど。
「月は太陽に照らされて無理に光らされているよりも、こうして薄ぼんやりといるのかいないのかわからない、今急にいなくなっても誰も気付かないくらい周囲に溶け込んでいる今の方が、自然でいるように見えるよ」
月だって光りたくて光っているわけではない。月とは、太陽の鏡だ。太陽に照らされて、自分が光っているわけでもないのに望むと望まざるとに関わらず、否が応でも光らされているのだ。
だからこそ月の光は、太陽に直接照らされて輝いているこの空を薄めたような、紙一重で闇に溶け堕ちて行く様な蒼白をしているのだろう。
別に大した言葉ではない、自分でも考えての発言ではない。ただ見たまま感じたまま、口をついて出ただけの言葉。
なのにそれを聞くと、碧ちゃんはこちらに向き直り、一瞬だけ真剣そうな表情をした後、見てわかる程に目を細めて笑った。
「そうですわね。当の月からしたら、そうなのかもしれませんわね」
そう言って、口角を僅かに上げた。
初めて見る表情だった。
何がそんなに面白いのだろう、と思ったけれど、碧ちゃんのことなど何も知らない自分が知らないだけで、もしかしたら普段はこんな風に笑うのかもしれない。
それから、碧ちゃんは妙さんの方に視線を向けて悪戯気に目を細めて見せた。
「尤も、あの時はどのような理由であっても止めましたけれど。うちの会社所有のビルで飛び降りなどされて、事故物件にされてはビルの価値が下がってしまいますもの」
嘘ではないけれど、本心でもないのだろう。
背後でそれを聞いている妙さんの表情が変わらない事からもわかった。
「そういうわけですから、ありがとうと言っていただいたその理由に納得出来たから受け取ったという、ただそれだけのことですわ」
碧ちゃんはなんでもないことのようにそう言った。
でもだからといって、それだけでこの少女を知る人間全てが驚くような態度を、自分に対して取って見せたということがよくわからない。
この少女に……他人を寄せ付けないのに他人を見捨てられないこの少女に、本心から感謝してお礼を言った人が今までいなかったわけではないだろう。
でも、ひとつ、それでわかったことがある。
ちょうど良い。
ああ、そうか。
そういうことか。
物心付いてからずっと、当たり前過ぎて疑問にすら思わなくなっていたそれが、すっと腑に落ちた。
そう、ちょうど良かったのだ。
きっと、自分にとってこの世界が壊れた画面のように見えているのは、自分の意識の焦点が、自分の見たい物が、この世界ではないからなのだろう。
手の届かない孤空の紺碧。
窺い知れない深淵の深碧。
この世界から、現実から目を逸らした自分の意識の焦点は、自分の理想とする世界へと合わせられていたのだろう。
この世界の、すぐ目の前に見えていて、触れる事も出来る物達があるこことは、掛け離れた遠い場所。
その焦点が合った場所が、たまたまちょうどこの少女がいる場所だった。
だから、それ以外の全ての物は焦点が合わずにぼやけて見えていたのだ。
そう、碧ちゃんが特別なのではない。自分にとって特別なその場所に、ちょうど碧ちゃんがいたという、それはただの偶然でしかない。
けれど、その場所にいる人を、自分が見たいと思っていたその存在を見つけたのは必然。
焦点の合わない壊れた画面のような景色の中で、唯一それだけが鮮やかに見えるものなのだから。
世界で唯一、ぼやけることもなく鮮やかな色彩を放つその人を見詰める。
碧ちゃんは、何がそんなに面白いのかはわからないけれど、口角を上げる笑い方をしていた。
今日、この短い間だけで、この少女の色々な表情を見た。見た目には僅かにしか違わない、興味のない人からすれば誤差でしかないと言うかもしれない、けれど明らかに違う感情の込められた様々な表情。その瞬間瞬間にしか存在しない表情。
これから先、大人びた少女から大人の女性へと成長していく間にも、その時にしか存在しない様々な姿を見せていくのだろう。
いや。今までの、子供から少女へと変わる間も、子供になるまでのその前も、その時にしか存在しない姿を見せていたのだろう。
それより前は仕方なかったにしても、この街に来てからの三年間は、出会ってさえいればそれを見守る機会はあったはずだ。
そのことが無性に惜しい。
碧ちゃんがこの世界に産まれてから今までの、無駄にしてしまった時間が惜しくて仕方がない。
だからせめて、これから先のその全てを見たい。碧ちゃんがこれから見せていくだろうその姿の、何一つとして見逃したくない。
「ああ、成程──」
初めてわかった。
この気持ちがきっと、
「好きです」
そういう感情なのだろう。
言った本人ですら、それが出て来るとは想像もしていなかったその言葉に、碧ちゃんの目が僅かに見開かれた。
これもまた初めての表情だ。
碧ちゃんは、そう見えるだけで吊り目では無い事はわかっていたけれど、こうして見るとむしろ垂れ気味なのかもしれない。
けれどその表情も一瞬のことで──それを見る事が出来たことに胸の奥で喜びを噛みしめて──碧ちゃんは真顔になって、心の奥底の本心を覗き込もうとするような真剣な眼差しで、こちらを見つめ返して来た。
身長差から上を向いたレンズに空の碧が映り、その奥の瞳を碧く染めている。
レンズに映っている分だけ、瞳に映っている分だけ、その空は、普段見上げているものよりも、ほんの少しだけ近く見えた。
その背後で、妙さんが凄い顔をしていた。
気持ちはわかる。今の自分がただの不審者でしかない事は、自分が一番よくわかっている。そんな奴が大切なお嬢様にこの距離まで近づくことに怒りを覚えるのは当然のことだと思う。
今日も妙さんは碧ちゃんの事が大好きらしい。怒らせてしまって申し訳ないと思いつつ、とても微笑ましい。
碧ちゃん越しに、妙さんを含めてその背後に広がる世界を見る。
相変わらず色はないけれど、壊れた画面のような、世界を隔てるかのようなノイズ越しの景色ではなくなっていた。
やはり自分の思い違いでしかなかった。
自分とこの世界とは、自分の思っていた程離れてはいなかった。
だって、自分にとって唯一見えるものは、自分が見たいと思っていた物は、他でもないこの世界にあったのだから。
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プロフィール
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- 未田 尚(まだ なお)
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- にゃー
- お仕事募集ちう。
- 文章を書く関係ならなんでも。
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