碧ちゃんな話
小岩井 緑
「お兄さんさ、それつらくね?」
緑が不自然に広げた姿勢でキーボードを叩く左手を見ながらそう聞いた。
「両手だったらつらいだろうけどね。片手だからそうでもない」
右手がまだギプスで固められているせいで使えるのは左手だけだから、キーボードの位置は自由に動かせる。正面に置くのに比べれば不自然な位置ではあるが、つらいという程ではなかった。
「あとさ、画面も見づらいんじゃね?」
緑の頭は丁度顎より上あたりにある為、視界の隅に入ってしまうせいで気になると言えば気になるけれど。
「こうすれば楽だから大丈夫」
緑の頭の上に顎を乗せる。
いつもそうだが、ずっと同じ姿勢で頭を支え続けている首と肩が楽になった。
「重いー」
緑はそう文句を言うけれど、振り払おうとはしない。
むしろその声には喜色が含まれていた。
「…でもさ、俺、邪魔かな? 降りた方が良い?」
頭の上に乗った顎を落とさないように、首を僅かだけ捻って視線をこちらに向けながら、緑がそう尋ねた。
いつもやりたいことをやって、しかも相手が嫌がっている時には言われなくてもそれを察知する緑なのに、今日は何故か不安そうにそう聞いてた。
「……いや、邪魔じゃないから。むしろ、この方が右手が楽だし」
ギプスで固められた右手というのは思ったよりも扱いが難しい。
自分の膝の上に直接乗せると、肘が浮いてぶら下がる形になってしまって座りが悪い。だからといって三角巾で釣り続けるというのも邪魔だし、何より首と肩にいらない負担が掛かる。
けれど、それを自分の膝の上に乗った緑の膝の上に乗せると、高さがちょうど合って、おさまりが良かった。
「そっか」
そう言って嬉しそうに笑うと、緑は下から頭を突き上げて、こちらの顎をぐりぐりとしてから、ギプスの上に肘を乗せて手元の携帯ゲームに視線を戻した。
あの日以来、緑は時々この部屋に来るようになっていた。大体週に一、二回くらいだろうか。
どうやら緑はこんなふうに、上がり込めば茶菓子くらいは出してくれる家を何軒か持っているようで、遊び疲れた時などの休憩場所にしているらしい。
馴染みの家を回って餌を貰い歩く半野良の猫みたいなものだな、と少し思う。
緑は他人の気持ちに敏感だけれど、千恵理とは違い、それを相手を不快にさせない、気にならないようにするためではなく、自分のやりたいことを、相手を怒らせない範囲でやるために使う傾向がある。
怒ったり、不快になったりするほどではない。けれどちょっと気になる、程度の事。
ひとつひとつであればまぁいいか、でしかないけれど、それが積み重なると気になって来ることもあるだろう。
それがわかっているから、一度来たらほとぼりが冷める程度の期間を置いて、いると五月蝿いけれど来なければ来ないで寂しい、と思う頃になってからひょっこりとやって来る。
いくつもの家を回るのも、それが理由なのだろう。ある意味、緑なりに気を使った結果とも言えるのかもしれない。
この辺りの要領の良さが人付き合いには必要なのだと思う。そうなりたいとも羨ましいとも思わないけれど。
そして、その怒らせないように自分のやりたいことをやる、の一環としてなのか、この部屋にくるたびにこんな風に膝の上に乗りたがる。
別に乗られてもまだ子供で、その中でも更に小柄な緑では大して重くもないが、自由に動けないのは少し大変ではある。
けれど、邪魔だという程ではないし、どいて欲しいと言えば…いや、言わなくてもどいて欲しいと思う頃に自分から降りてくれるので、まぁいいかと好きなようにさせている。
自分が緑に対して甘いと言うのはわかっていた。
でも、それも仕方ないことだと思う。
緑は、こんな風に色々な人に関わって愛されて、友達がたくさんいて、この世界に良い影響を与えていく存在なのだと思う。
その緑を助けたことで、間接的にこの世界に影響を与えられたことで、少なからず自分がここにいていいんだと思えるようになったのだから。
例え自分が死んでも、緑が生きていてくれさえすれば、自分がこの世界にいたと言う証が残る。
いわば、自分の命よりも大切な存在。きっとそれは、祖父母が孫に向けるのと同じ感情なのだろう。
尤も、そもそも比較対象になっていない。比べるまでもなく、自分の命なんて何の価値もない物だから。
そして、緑の方の事情もわかっている。
緑は父親を知らない。
いや、知ってはいる。あの病院のマジックミラー越しに。
触れることも、自分の方を見ることすらしない父親を、緑たちが産まれたその場で娘たちを捨てた──少なくとも、緑はそう思っている──父親の姿を知っている。
自分を認識すらしない父親を一方的に見ているだけというのが、どれほど心の負担になるのか。
他人のことなどどうでもいい自分には想像する事しか出来ないけれど、病院に近付こうとしない緑の態度を見ていれば何となくわかる。
そして同時に、だからこそ父親を求めているのだと言うのも想像がつく。
全く気にしていないのであれば、自分と同じように他人に興味がないのなら、あんなに嫌がることもないのだから。
そんな時に、鳥の刷り込みのように助けてくれた相手に対して父性を感じてしまった。
だから産まれてから今まで一度も感じたことのないそれを埋めようと、子供……赤子の頃からしたくても出来なかったことを、こうやってしているのだろう。
自分は緑をこの世界との紐帯にして、緑は自分を父親の代替にする。
多分、世間ではこれを共依存と言うのだろう。こんなものは健全な関係ではないと言われればその通りだと思う。
でもそれでいいと思う。
それで、緑の心の隙間が今だけでも、少しでも埋まるのならば。
どうせ緑は今こうしていることなど──今まで知らなかったせいで遅れてしまっている親離れが済めば、すっかりと忘れてしまうだろうから。
「俺さぁ、弟が欲しかったんだよね」
多分、そんなことを考えていたことに気付いていたのだろう。緑がぽつりとそんな事を言った。
「妹…」
そう言われて碧ちゃんを思い出す。
「いや、碧はなんかそういうんじゃないっていうか。…アレだしなぁ」
言いたいことはわかる。碧ちゃんがおとなしく妹として可愛がられている姿など想像できない。
「梢もしっかりしてるし、使用人だからって甘えてはくれないしさ」
梢という名前は聞いたことがある。確か桜子さんが言っていたメイドさんだったと思う。
緑が妹の候補にあげると言う事は、かなり子供っぽい人なのだろうか。
「って言うか、そもそも妹じゃなくて弟な。妹はもういいから」
自分からすれば弟でも妹でも変わらず可愛いだろうと思うけれど、緑にとってはどうやらそうでもないらしい。
まぁ実際に妹がいるからこその感想なのだろうし、緑が碧ちゃんに複雑な気持ちを持っていることは知っているけれど。
「ほら、ウチって男の家族がいないじゃん?」
緑はそう言い切った。
それは仕方ないし、そう思い切ってしまった方が精神的に良いのだろうとは思う。
「だからさぁ、おにぃさん、俺の弟になってくんね?」
お兄さんなのか弟なのか。あるいは父親なのか。
緑が相手を嫌な気持ちにさせない程度のわがままを言うのはいつものことだったけれど、今日のは特に突拍子もなかった。むしろ意味がわからなすぎて、どう反応していいのかわからない。
聞いたところによると、小岩井家は完全な女系らしい。桜子さんの代から四代続けて一人も男が産まれていないのだという。
それに加えて父親のこともあって、だから男の家族という物に憧れがあるのだろうとは思う。
それで手近なところで全てを賄ってしまおうというのだろう。
まぁ、その相手に自分が選ばれたというのは、ほんの少しだけ嬉しくはある。
「よっ、と」
緑が膝の上から降りて、自分の横、少し離れたところに正座して座った。
「ほら」
ほらと言われても何のことかわからない。
「膝枕だよ。ほら」
緑はそう言って、自分の膝をポンポンと叩いた。
そう言われてみれば、緑が座ったのは、自分がそのまま横に倒れれば頭が膝に乗るくらいの位置だった。
よくわからない。けれど、緑がそうしたいのならまぁ良いか。
とりあえず呼ばれるまま横になって、緑の膝の上に頭を置く。
緑は嬉しそうに微笑むと、優し気な手つきで、膝の上の頭を撫で始めた。
緑の手は小さい。頭に当たっている範囲など本当に狭い物なのに、そうされていると、何故だかひどく心が落ち着いた。
「本当はさ、こういうの、千恵理が上手いんだよ。小さい頃、よくこうして貰ってさ」
想像してみる。姉であろうとしている千恵理がこうしている姿というのは、実に想像がしやすい。
「俺も若い頃は色々あったし、婆と喧嘩する事もしょっちゅうだったし。そんなで、まぁ、落ち込んでる時とかさ」
今でも充分に幼い緑が若い頃と言うのは少し可笑しかったけれど、本人からしてみれば、数年前でも若い頃なのだろう。
それに、桜子さんに叱られた、ではなく喧嘩したと言うあたりは緑らしい。
「うん、本当に上手いんだよ…だって、おねぇちゃんだからさ」
緑はそう言って嬉しそうに笑った。
普段は千恵理の事を呼び捨てにしている緑だけれど、姉として、本当に慕っているのだろうという事はわかる。弟が欲しいというのも、もしかしたら姉である千恵理に憧れて、そんな風になりたいと思ってのことなのかもしれない。
千恵理が聞けば、きっと喜ぶだろう。
自分がされて嬉しかった事だから、誰かにしてあげたい。
今までその相手がいなかったから──碧ちゃんはアレだし──今こうして、その欲求を満たしているのだろう。
確かに、これは心地良い。
自分の半分程度の年齢の子供にこうされて安らぎを感じているなんて不思議な気持ちだったけれど、安らいでしまうものは仕方がなかった。
「…いいぜ、寝ちゃっても。どうせ今日もろくに寝てないんだろ」
意識が微睡んできた頃、緑が優しくそう囁いた。
別に寝ていないわけではない。
眠くならないから寝ないだけだし、眠くなって布団に入ってからも寝入るまでに時間が掛かるだけだし、寝付いても四時間ほどで目が醒めてしまって、それ以降どれだけ横になって目を閉じていても眠れないから、時間が勿体なくなって起きるだけだ。
けれど最近はよく寝ている方だと思う。
千恵理が酔い潰れて寝てしまえば自分も寝なくてはいけないという気になるし、規則正しい寝息を聞いていれば、眠くなくても気が付けば何となく意識を失っている。
「…でも、寝ちゃうと緑が大変だろう?」
返事をする自分の声が覚束なくなっている事を自分でも感じながら、そう聞いた。
「大丈夫だいじょーぶ。適当なとこで下ろすからさ」
うん、緑ならば自分が大変だと思ったら遠慮なく下ろすだろう。それに逆に安心して、すっと意識が薄れていく。
その間も緑は優しく頭をなで続けてくれて、その手の感触に、霞がかかるようにゆっくりと眠りの闇へと落ちていった。
「良いんだぜ、甘えてくれても」
半ば夢現の中で、緑が囁いた声が聞こえた気がした。
「どうせその内、本当の弟になるんだからさ」
緑が不自然に広げた姿勢でキーボードを叩く左手を見ながらそう聞いた。
「両手だったらつらいだろうけどね。片手だからそうでもない」
右手がまだギプスで固められているせいで使えるのは左手だけだから、キーボードの位置は自由に動かせる。正面に置くのに比べれば不自然な位置ではあるが、つらいという程ではなかった。
「あとさ、画面も見づらいんじゃね?」
緑の頭は丁度顎より上あたりにある為、視界の隅に入ってしまうせいで気になると言えば気になるけれど。
「こうすれば楽だから大丈夫」
緑の頭の上に顎を乗せる。
いつもそうだが、ずっと同じ姿勢で頭を支え続けている首と肩が楽になった。
「重いー」
緑はそう文句を言うけれど、振り払おうとはしない。
むしろその声には喜色が含まれていた。
「…でもさ、俺、邪魔かな? 降りた方が良い?」
頭の上に乗った顎を落とさないように、首を僅かだけ捻って視線をこちらに向けながら、緑がそう尋ねた。
いつもやりたいことをやって、しかも相手が嫌がっている時には言われなくてもそれを察知する緑なのに、今日は何故か不安そうにそう聞いてた。
「……いや、邪魔じゃないから。むしろ、この方が右手が楽だし」
ギプスで固められた右手というのは思ったよりも扱いが難しい。
自分の膝の上に直接乗せると、肘が浮いてぶら下がる形になってしまって座りが悪い。だからといって三角巾で釣り続けるというのも邪魔だし、何より首と肩にいらない負担が掛かる。
けれど、それを自分の膝の上に乗った緑の膝の上に乗せると、高さがちょうど合って、おさまりが良かった。
「そっか」
そう言って嬉しそうに笑うと、緑は下から頭を突き上げて、こちらの顎をぐりぐりとしてから、ギプスの上に肘を乗せて手元の携帯ゲームに視線を戻した。
あの日以来、緑は時々この部屋に来るようになっていた。大体週に一、二回くらいだろうか。
どうやら緑はこんなふうに、上がり込めば茶菓子くらいは出してくれる家を何軒か持っているようで、遊び疲れた時などの休憩場所にしているらしい。
馴染みの家を回って餌を貰い歩く半野良の猫みたいなものだな、と少し思う。
緑は他人の気持ちに敏感だけれど、千恵理とは違い、それを相手を不快にさせない、気にならないようにするためではなく、自分のやりたいことを、相手を怒らせない範囲でやるために使う傾向がある。
怒ったり、不快になったりするほどではない。けれどちょっと気になる、程度の事。
ひとつひとつであればまぁいいか、でしかないけれど、それが積み重なると気になって来ることもあるだろう。
それがわかっているから、一度来たらほとぼりが冷める程度の期間を置いて、いると五月蝿いけれど来なければ来ないで寂しい、と思う頃になってからひょっこりとやって来る。
いくつもの家を回るのも、それが理由なのだろう。ある意味、緑なりに気を使った結果とも言えるのかもしれない。
この辺りの要領の良さが人付き合いには必要なのだと思う。そうなりたいとも羨ましいとも思わないけれど。
そして、その怒らせないように自分のやりたいことをやる、の一環としてなのか、この部屋にくるたびにこんな風に膝の上に乗りたがる。
別に乗られてもまだ子供で、その中でも更に小柄な緑では大して重くもないが、自由に動けないのは少し大変ではある。
けれど、邪魔だという程ではないし、どいて欲しいと言えば…いや、言わなくてもどいて欲しいと思う頃に自分から降りてくれるので、まぁいいかと好きなようにさせている。
自分が緑に対して甘いと言うのはわかっていた。
でも、それも仕方ないことだと思う。
緑は、こんな風に色々な人に関わって愛されて、友達がたくさんいて、この世界に良い影響を与えていく存在なのだと思う。
その緑を助けたことで、間接的にこの世界に影響を与えられたことで、少なからず自分がここにいていいんだと思えるようになったのだから。
例え自分が死んでも、緑が生きていてくれさえすれば、自分がこの世界にいたと言う証が残る。
いわば、自分の命よりも大切な存在。きっとそれは、祖父母が孫に向けるのと同じ感情なのだろう。
尤も、そもそも比較対象になっていない。比べるまでもなく、自分の命なんて何の価値もない物だから。
そして、緑の方の事情もわかっている。
緑は父親を知らない。
いや、知ってはいる。あの病院のマジックミラー越しに。
触れることも、自分の方を見ることすらしない父親を、緑たちが産まれたその場で娘たちを捨てた──少なくとも、緑はそう思っている──父親の姿を知っている。
自分を認識すらしない父親を一方的に見ているだけというのが、どれほど心の負担になるのか。
他人のことなどどうでもいい自分には想像する事しか出来ないけれど、病院に近付こうとしない緑の態度を見ていれば何となくわかる。
そして同時に、だからこそ父親を求めているのだと言うのも想像がつく。
全く気にしていないのであれば、自分と同じように他人に興味がないのなら、あんなに嫌がることもないのだから。
そんな時に、鳥の刷り込みのように助けてくれた相手に対して父性を感じてしまった。
だから産まれてから今まで一度も感じたことのないそれを埋めようと、子供……赤子の頃からしたくても出来なかったことを、こうやってしているのだろう。
自分は緑をこの世界との紐帯にして、緑は自分を父親の代替にする。
多分、世間ではこれを共依存と言うのだろう。こんなものは健全な関係ではないと言われればその通りだと思う。
でもそれでいいと思う。
それで、緑の心の隙間が今だけでも、少しでも埋まるのならば。
どうせ緑は今こうしていることなど──今まで知らなかったせいで遅れてしまっている親離れが済めば、すっかりと忘れてしまうだろうから。
「俺さぁ、弟が欲しかったんだよね」
多分、そんなことを考えていたことに気付いていたのだろう。緑がぽつりとそんな事を言った。
「妹…」
そう言われて碧ちゃんを思い出す。
「いや、碧はなんかそういうんじゃないっていうか。…アレだしなぁ」
言いたいことはわかる。碧ちゃんがおとなしく妹として可愛がられている姿など想像できない。
「梢もしっかりしてるし、使用人だからって甘えてはくれないしさ」
梢という名前は聞いたことがある。確か桜子さんが言っていたメイドさんだったと思う。
緑が妹の候補にあげると言う事は、かなり子供っぽい人なのだろうか。
「って言うか、そもそも妹じゃなくて弟な。妹はもういいから」
自分からすれば弟でも妹でも変わらず可愛いだろうと思うけれど、緑にとってはどうやらそうでもないらしい。
まぁ実際に妹がいるからこその感想なのだろうし、緑が碧ちゃんに複雑な気持ちを持っていることは知っているけれど。
「ほら、ウチって男の家族がいないじゃん?」
緑はそう言い切った。
それは仕方ないし、そう思い切ってしまった方が精神的に良いのだろうとは思う。
「だからさぁ、おにぃさん、俺の弟になってくんね?」
お兄さんなのか弟なのか。あるいは父親なのか。
緑が相手を嫌な気持ちにさせない程度のわがままを言うのはいつものことだったけれど、今日のは特に突拍子もなかった。むしろ意味がわからなすぎて、どう反応していいのかわからない。
聞いたところによると、小岩井家は完全な女系らしい。桜子さんの代から四代続けて一人も男が産まれていないのだという。
それに加えて父親のこともあって、だから男の家族という物に憧れがあるのだろうとは思う。
それで手近なところで全てを賄ってしまおうというのだろう。
まぁ、その相手に自分が選ばれたというのは、ほんの少しだけ嬉しくはある。
「よっ、と」
緑が膝の上から降りて、自分の横、少し離れたところに正座して座った。
「ほら」
ほらと言われても何のことかわからない。
「膝枕だよ。ほら」
緑はそう言って、自分の膝をポンポンと叩いた。
そう言われてみれば、緑が座ったのは、自分がそのまま横に倒れれば頭が膝に乗るくらいの位置だった。
よくわからない。けれど、緑がそうしたいのならまぁ良いか。
とりあえず呼ばれるまま横になって、緑の膝の上に頭を置く。
緑は嬉しそうに微笑むと、優し気な手つきで、膝の上の頭を撫で始めた。
緑の手は小さい。頭に当たっている範囲など本当に狭い物なのに、そうされていると、何故だかひどく心が落ち着いた。
「本当はさ、こういうの、千恵理が上手いんだよ。小さい頃、よくこうして貰ってさ」
想像してみる。姉であろうとしている千恵理がこうしている姿というのは、実に想像がしやすい。
「俺も若い頃は色々あったし、婆と喧嘩する事もしょっちゅうだったし。そんなで、まぁ、落ち込んでる時とかさ」
今でも充分に幼い緑が若い頃と言うのは少し可笑しかったけれど、本人からしてみれば、数年前でも若い頃なのだろう。
それに、桜子さんに叱られた、ではなく喧嘩したと言うあたりは緑らしい。
「うん、本当に上手いんだよ…だって、おねぇちゃんだからさ」
緑はそう言って嬉しそうに笑った。
普段は千恵理の事を呼び捨てにしている緑だけれど、姉として、本当に慕っているのだろうという事はわかる。弟が欲しいというのも、もしかしたら姉である千恵理に憧れて、そんな風になりたいと思ってのことなのかもしれない。
千恵理が聞けば、きっと喜ぶだろう。
自分がされて嬉しかった事だから、誰かにしてあげたい。
今までその相手がいなかったから──碧ちゃんはアレだし──今こうして、その欲求を満たしているのだろう。
確かに、これは心地良い。
自分の半分程度の年齢の子供にこうされて安らぎを感じているなんて不思議な気持ちだったけれど、安らいでしまうものは仕方がなかった。
「…いいぜ、寝ちゃっても。どうせ今日もろくに寝てないんだろ」
意識が微睡んできた頃、緑が優しくそう囁いた。
別に寝ていないわけではない。
眠くならないから寝ないだけだし、眠くなって布団に入ってからも寝入るまでに時間が掛かるだけだし、寝付いても四時間ほどで目が醒めてしまって、それ以降どれだけ横になって目を閉じていても眠れないから、時間が勿体なくなって起きるだけだ。
けれど最近はよく寝ている方だと思う。
千恵理が酔い潰れて寝てしまえば自分も寝なくてはいけないという気になるし、規則正しい寝息を聞いていれば、眠くなくても気が付けば何となく意識を失っている。
「…でも、寝ちゃうと緑が大変だろう?」
返事をする自分の声が覚束なくなっている事を自分でも感じながら、そう聞いた。
「大丈夫だいじょーぶ。適当なとこで下ろすからさ」
うん、緑ならば自分が大変だと思ったら遠慮なく下ろすだろう。それに逆に安心して、すっと意識が薄れていく。
その間も緑は優しく頭をなで続けてくれて、その手の感触に、霞がかかるようにゆっくりと眠りの闇へと落ちていった。
「良いんだぜ、甘えてくれても」
半ば夢現の中で、緑が囁いた声が聞こえた気がした。
「どうせその内、本当の弟になるんだからさ」
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プロフィール
- 名前
- 未田 尚(まだ なお)
- 通称
- にゃー
- お仕事募集ちう。
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